日光街道・幸手宿(2)宿場町南、旧右馬之助町
まとめサイト等で画像を勝手に使用している人達に対しては、今後それなりの処置を取らせて頂きます。
【埼玉県幸手市 東武日光線・幸手駅】
幸手(さって)市の中心街は江戸時代に整備された「日光道中」六番目の宿場町である「幸手宿」を基盤に構成されています。
この地は古くから利根川舟運や古道・鎌倉街道などが通じており陣屋町としても栄えていたそうですが、江戸時代に宿駅・幸手宿が整備されてからは交通の要衝として発展、城下町併設の宇都宮宿などを除けば日光街道では三番目の規模を誇る大きな宿場町として繁栄を誇ったと伝えられています。
江戸時代の幸手宿は南から「右馬之助町」「久喜町」「仲町」「荒宿」の四町で構成されており、当時の戸数は962軒、人口3937人、本陣一軒、脇本陣一軒、旅籠27件と伝えられている。
江戸時代の幸手宿 宿場町の北には町の中が見えないクランク道が設けられ、宿場の外郭は水路で囲まれていた模様。
※クリックすると地図が拡大します
今回の幸手宿編は南から北の方角(江戸から日光東照宮方向)へ歩きながら町の様子をご案内させて頂きます。
日光街道「杉戸宿」を出発し、日光御成街道との分岐点「幸手追分」から更に街道を北へ進むと間もなく幸手の市街地に辿り着きます。
この付近は江戸時代の幸手宿の区域外でありますが、昔の日光街道(日光道中)沿いには古い商家などの建物が点在しております。
日光街道(日光道中)
これは農家の納屋でしょうか、表通りを離れた裏通りなどにも昔ながらの建物が散在しているようです。
カントリーハウス風のトタン住居には屋根猫の姿を確認できます。
幸手市南町 日光街道の旧道と新道の分岐点です
街道を南から北へ
街道を北へ進むと倉松川に架かる志手橋に差し掛かります。 ここが幸手宿の南端で、この川より北側が昔の幸手宿となります。
幸手宿南端付近 旧右馬之助町
近年までは「助町」という町名であったと思われますが、現在では旧町名は無くなり幸手宿区域は全て幸手市中町となってしまった。
なかなか渋い外壁の建物ですね
幸手宿の南には旧右馬之助町の御鎮守様である神明神社が鎮座 昔はこの場所に高札場があったとの事です。
神明神社の向かいには「明治天皇行在所跡」の石碑があります
幸手市中二丁目には近年古民家カフェ「上庄かふぇ」として再生を遂げた旧岸本家の建物があります。 ※国登録有形文化財
醤油醸造業を営んだ岸本家の建物は江戸時代末期の建築と伝えられている。
当方も幸手宿の散策後カフェにて休憩させていただきました。
建物は大がかりな曳屋工事にて基礎から改修されたそうです。
内装に不満はあるが、こうして古い商家が再利用されるのは喜ばしい事である。
※許可を得て撮影しております
上庄カフェから駅前通りを越えると街道沿いに立ち並ぶ商店風景が姿を現し始めます。
余話ですが当方、幸手には知人が数名いたので実はよく訪れていた町なのですが、市街地をこうして散策するのは初めてです。
昭和12年(1937)の建築である小島商店 お隣(左手)にも古い商店が存在していましたが最近の火災によって焼失してしまいました。
鰻の寝床などと称される古い町特有の敷地形状
幸手宿 旧右馬之助町(助町) この付近の商店街は助町商店会かと思われます。
街道沿いに立ち並ぶ商店群を裏手から見る 既存建物は少なくなってきていますが昔の敷地形状はそのままです。
埼玉県にての土地下落率ワースト1位や欠陥行政など不名誉な烙印を押され続けている幸手市ですが、その結果として駅前や宿場町を中心とする市街地の都市計画は頓挫していると聞きます。
それゆえに古い街並みがよく残されているという事になるのですが・・・懐かしさを求めたまに訪れる私のような部外者にとっては複雑な心境であります。
ちなみに駅から程近い場所にあるこの更地は約53坪で780万円とのこと
街道筋の横道です 区画整理も行われていない幸手宿には無数の横道や路地が残っています
数奇屋風の意匠を取り入れた立派な木造建築があります。
裏道にあたる細い街路や路地などは古地図の外郭水路とほぼ一致する
幸手宿を北へと歩を進めます 大正時代と思われる幸手宿の古写真と比較してみると道幅は昔から変わらないようです。
幸手宿跡
旧右馬之助町と旧久喜町との町境付近でしょうか、ここにも大きな平入り配置系商家の姿があります。
米穀や味噌などを扱っていたと云われる平井家の建物は大正11年(1922)の建築 かなり存在感のある建物ですよね
軒の出は控え目ですが戸袋下の石壁と破風の銅板がポイント
日光街道・幸手宿(3)へ続く
日光街道「杉戸宿」の記事はこちらから
日光街道「杉戸宿」を歩く(1)~(6)