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球場から畑へ 元巨人中継ぎエースが亡き妻と歩む“農業の道”

日刊ゲンダイ 2月14日(日)9時26分配信

「農業に従事して7年以上が経ちますが、ここまで苦労ばかり。やっぱり大変ですよ。農業は」

 苦笑いを浮かべながらこう話すのが巨人、日本ハムなどで活躍した河野博文さん(53)。現在、群馬県高崎市で農作物の栽培委託、販売を行う異色の元プロ野球選手である。

 現役時代は「北京原人に似ている」ことから“げんちゃん”の名で親しまれた。84年にドラフト1位で日本ハム入り。1年目から一軍で活躍すると、00年に引退するまでの16年間、先発、中継ぎとしてマウンドに立ち続けた。

 そんな実績ある投手が農業の道に足を踏み入れたのは引退から9年後、09年のことだった。

「引退後は建設会社勤務を経て、独立リーグの群馬ダイヤモンドペガサスでコーチをやったのですが、その契約が切れた時に知人から『やらないか』と誘われて。最初は迷いましたけど、興味もあった。それで70代後半のおばあちゃんが一人でやっている群馬の玉ねぎ農家で修行させてもらうことになったのです」

 農業とはまったくの無縁だった河野さん。やってみると、想像以上の「過酷な労働」が待ち受けていた。

 3反(約900坪)ほどあった畑の種まきや収穫は全て手作業。野球選手として体を鍛えていたとはいえ、腰を曲げながらの重労働は辛い。午前5時から延々と地味な作業が続く日もあったため、「種まきの最初の頃は下ばかり見ていた。前を見ると、広大な畑の作業にやる気が失せてしまうので(苦笑)」

 貯金を切り崩しながら無給だった2年間の修行を乗り切り独立すると、次なる“壁”は「販路」の問題だった。

「農業分野はまだ規制が多く、自分の作った玉ねぎや、農家に委託して作ったものを自由に売ることができない。だから、最初は販路がなくて赤字続き。自分の扱った計20トンの玉ねぎを全部廃棄しなければならないこともあった。あの時は泣くに泣けなかった」

 それでもめげずに農業に携わり続けたのは、08年に41歳の若さでこの世を去った妻・広子さんへの思いがあった。

■天国の妻が見守ってくれている

「農業をやる前の04年から妻は乳がんと闘っていたのに、いつも私のやりたいことを静かに後押ししてくれた。そんな妻が天国から見守っていると思うと…諦められなかった」

 亡き妻への思いと努力は少しずつ報われた。

 失敗を重ねながらも地道に販売ルートを拡大、近隣農家と連携した結果、河野さんの扱う“げんちゃん玉ねぎ”は「化学肥料を使わない安心たまねぎ」として地元で徐々に人気になった。今では生産量が毎年伸び続け、昨年は農業を始めた12年(60トン)の約3倍となる170トンに到達。都内大手スーパーでも購入できる販路も築いた。その一方、オリジナル玉ねぎを使った料理を提供する居酒屋を地元にオープンさせるなど、着実に事業を成長させている。

「TPP合意で日本には今後、安い野菜や果物が入ってくる。日本の農家は厳しさを増しますが、いいものを作れば必ず消費者は買ってくれる。私の挑戦は始まったばかりですけど、来年からはオリジナルの長ネギも販売する予定。将来的には、こうした野菜で世界進出したい。高齢化が進む日本の農業の発展につながりますし、何より闘病中に大したことができなかった妻への恩返しにもなりますからね」

▽こうの・ひろふみ 1962年4月、高知県生まれ。明徳高、駒沢大を経て84年ドラフト1位で日本ハムに入団。95年オフに巨人に移籍し、00年にロッテで1年間プレーした後に現役引退。09年から農業に従事。13年に株式会社げんちゃん設立。現在に至る。プロ通算成績は462試合54勝72敗15セーブ、防御率3・93。身長172センチ。左投げ左打ち。

最終更新:2月14日(日)9時26分

日刊ゲンダイ

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