ぼくは無宗教で、聖書に関する知識も全然ない。先に同じ著者が書いた「旧約聖書を知っていますか」を読んだ上で、この本を読んでみた。
"得した"気分になった。
読みやすさ、おもしろさは「旧約聖書を〜」のほうが断然上だ。聖書、特に新約聖書自体がもともとおもしろい読み物ではないし、「(神の存在、イエスが神の子であることを)信じる人」が読めばこその書だからだ。それでも著者が必死に書いてくれている情熱をひしひしと感じられたので、最後まで読めた。
イエスの生誕日が実は西暦元年ではないというのは「へぇ〜」と思った。
なお西暦はイエスの誕生を元年として定められた、とされているが、イエスの本当の誕生は西暦前五年か六年らしい。ヘロデス大王の死が西暦前四年なのだから、元年の誕生はこのエピソードを信ずる限り矛盾している。
イエスが馬小屋で生まれたというのはぼくが幼い頃にどこかで習ったけど、それが住民登録のために出かけて宿がとれなかったためだったというのも「へぇ〜」だ。
その頃のユダヤ地方は、古代最強の国家ローマの支配下にあった
<中略>
ローマ皇帝アウグストゥスの命により支配下の住民全部に対して登録の義務が課せられた。登録は本籍地でおこなうこと…。ヨセフはナザレに暮していたが、本籍はエルサレム郊外のベツレヘムだったらしい。住民登録のため身重のマリアを連れてベツレヘムへ行ったが、町は同じような目的の旅人たちでいっぱい、泊まる宿がない。仕方なしに家畜小屋のすみを借りて一夜の宿とする。そこでマリアがイエスをもうけた。生まれた赤児は布にくるまれ、飼い葉桶に寝かせられた。
このように豆知識的なことをいろいろ教えてくれる。特に美術品(ミケランジェロの作品など)を鑑賞するのに知っておいたほうがいいような知識が、この本で知れる。
でも…それよりも…この本を読んでよかったなあと深く感じたのは以下の2つ。
1.奇蹟が起きるロジックとその意味
まず1について。
奇蹟は100%信じれば起きる。100%でなければ起きない。起きないのは信仰が薄いからというロジックが成り立つ。これを著者が以下のようにわかりやすく書いてくれている。
ガリラヤ湖で起きた有名な奇跡について
奇跡の概要:弟子たちは湖上の舟にいる。イエスは湖上を歩く。弟子は「わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください。」と言う。イエスが「来なさい」と言うので弟子は途中まで水の上を歩くも、沈みかけてしまいイエスが手を差し伸べて「信仰の薄い者よ。なぜ疑ったのか」と言った。
<前略>だから、と私は思うのだが、イエスを本当に心から信じているならば…つまり自然の法則よりもイエスのほうを強く信じているならば、今でも私たちは水の上を歩けるのかもしれない。嘘だと思うのなら、あなた自身で実験してみたらいかがだろうか。
「馬鹿も休み休み言えよ。水の上を歩くなんて、できっこないよなあ」
百人中百人が疑いを持つだろう。千人中千人が信じられないだろう。だから沈むのである。あははは。おわかりだろうか。詭弁かもしれないが、もし一点の曇りもない、完全な信仰があれば、奇蹟は起きる。奇蹟の起きないこと自体が信仰の不足であり、奇蹟を書き示すのは私たちに対する永遠の踏み絵であると、そういう考えかたも成り立つだろう。
「あなた、信じられますか」
と問いかけているのである。疑うのは、それだけ信仰が薄いから、と、そういうロジックがつぎに待っているわけである。まったくの話、今でもイエスはあなたを水辺に連れて行って言うかもしれない。
「歩いてごらんなさいよ。絶対歩けますから。私が保証しますよ」
「本当かなあ」
「本当ですとも」
ところが、現実にはだれもそれを信じられない。だから沈むのである。
「よし、信じてやる。信じればきっと歩けるんだな」
でも…残念でした。いくら気張ってみてもあなたは信じることができないじゃないですか。ほら、ほら、そうでしょ?
こんなふうに考えてみると、このガリラヤ湖上のエピソードはなかなか興味深い側面を持っている。
信者さんたちの反感を買うのでは?とこっちがヒヤヒヤする表現だ。だからこそ、ぼくはここに著者の覚悟を感じた。反感を買ってでもなるべく伝わりやすい表現をするという覚悟を。
そして、なぜそのような奇蹟のエピソードが必要なのかということがこちら。
「だから俺、キリスト教が厭なんだよな。なんで水が葡萄酒に変るんだよ。なんで死んだ者が生き返るんだよ。水の上なんか歩けるわけがないだろ」
そんな声が聞こえてくるような気がする。聞こえる以上にそう思っている人は多いだろう。
私も若い頃はそうだった。私は科学を信ずる少年であったから、科学少年の眼には聖書は眉唾ものに見えたのである。
だが、今は少しちがう。奇蹟は聖書に記された通りには起こらなかったろうけれど、
ーそんなことは、さして重要ではないー
と思っている。少なくとも奇蹟への疑問を根拠にして聖書そのものを否定するほど、それは本質的な問題ではない、と現在の私は考えている。
大切なのは、原因がなんであれ人々に奇蹟を信じさせるような偉大なイエスが実在していたことのほうである。
<中略>
奇蹟のエピソードは一つの比喩であり、イエスの偉大さを大衆に伝えるためには、こうした伝達方法が適していた、ということだろう。事実の報告だけが伝達の手段ではあるまい。小説でしか伝えられない真実というものが現代でもあるではないか。
福音書とは、イエスの言行を伝え、教義を説き、そしてもう一つ"イエスが神の子である"ことを説得するものである。奇蹟の記述は、この最後の目的に直結している。
この部分は目からウロコって感じだ。なるほど、そもそも新約聖書はイエスが書いたものではない。イエスの死後に布教するために書かれてものだ。最終目的は「説得」だ。だから「説得」しやすく書かれるわけだ。なるほど…
続いて2つめ。キリスト教とユダヤ教の違いについて。とってもわかりやすく書いてくれている。
イエス・キリストとユダヤ教の関係は少々ややこしい。イエスの教えであるキリスト教は、たしかにユダヤ教を母体としているが、その一方でユダヤ教に対する強烈な批判でもあった。キリスト教の教典となっている旧約聖書と、ユダヤ教の教典ナタクとは内容的によく似ているけれど、キリスト教の考えでは、旧約聖書は神との古い契約であり、新約聖書はその名の通り神との新しい契約なのである。古い契約はおおいに改めなければならない。
<中略>
教義史的に見れば、このエピソードはイエスの説く神が旧約の時代のようにユダヤ人にだけ手をさし伸べるものではなく、広く、平等に、すべての人々に及ぶものであることを示しており、画期的な意味を持つものであった。旧約とちがって、新約は万民のものなのである。
だからユダヤ人だけじゃなくて全世界、全人種に広まったんですね。
ちなみに広めたのはイエスではなくて、パウロという人。イエスの死後に、イエスの弟子でもなかったパウロががんばって広めてくれたそうだ。ここらへんのこともこの本にしっかり書かれている。
☆ ☆ ☆
この本はキリスト教だけでなく、宗教がどういうものかを教えてくれる、すごくありがたい本だと思う。冒頭でも書いたとおり、おもしろくて一気読みできるような本ではなかったけれど、読んで損はないと思う。
著者自身、最後のほうで本音を書いてくれている。
くり返して言うことだが、私は信仰を持たない。だから二つのエッセイを執筆するに当たって、信仰の問題にはできるだけ触れず、知識の提供をのみ心がけた。
とはいえ聖書は言うまでものなく信仰の書である。聖書を扱いながら信仰の問題を避けるというのは、根源的な矛盾をはらんでいる。旧約聖書のほうはイスラエルの建国史と読める部分もあるから、まだしもやりようがあるけれど、新約聖書は徹頭徹尾信仰と結びついている。私としては、信仰を持つかたがたの気持ちをことさらに刺激したくはなかったが、現実には、逆撫でにした部分もあるだろう。
ーどうしたものかなー
執筆を断念しかけたときも、ないではなかった。結果については読者諸賢の判断を俟つよりほかにない。
そりゃそうだと思った。生半可な気持ちじゃこんな本書けない。
とりあえず聖書やキリスト教のことを知りたい方、とりあえず宗教について知りたい方、とりあえずなんでもいいから人生を楽しむための知識を増やした方。
この本オススメ!
キリスト教関連の美術品に興味がある方は特にオススメ!
あと、ヨーロッパ旅行をされる予定の方、キリスト教に関連した場所がたくさんあるので、読んでおいて損はないと思う。
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