上杉周作

「タンポポ丘・アンネの家・任天堂」に置いてきたもの

この記事は、ぼくの自分語りです。しかもクソ長いので、延々と続く壮大なマスターベーションです。エモい文章を毛嫌いする方は、今すぐページを閉じてください。この先に、 仕事や人生に役立つ情報は落ちてません。

「そもそもアンタは誰だ」と思った方向けに、簡単な自己紹介を貼っておきます。NHK・Eテレ「ニッポンのジレンマ・2016年元日スペシャル」に出演したときのものです。

上杉周作 プロフィール

「88年生まれということは、30歳を目前にしてこんな自己満記事を書いているのか」と思われるかもしれませんが、弁解の余地もございません。


第一章・タンポポ丘に置いてきたもの

2014年の夏。アメリカから一時帰国していたぼくは、フ◯ッキン・ホットな昼下がりに、弱冷房の効いた電車を2時間乗り継いで、千葉県佐倉市にある臼井駅を訪れた。

この街は、去年の紅白に初出場したBump of Chickenのメンバーの故郷であり、ぼくにとっての聖地である。ぼくは中学1年から親の都合でアメリカに引っ越したのだけれど、すぐさま中二病を発症し、当時流行っていたバンプのFlash動画をきっかけに彼らの曲を聞くようになった。

もう時効だと思うので白状するが、当時、バンプの「ロストマン」という曲の出来の悪すぎるFlash動画を作って、ネットにアップしたことがある。ちなみにこの曲は、ボーカルの藤原氏が作詞に9ヶ月かけたらしい。

たった560文字、ツイートにして4個分にすぎない文章にもそれだけの時間をかけていたことに、当時のぼくは感銘を受けた。いまでもブログの筆が進まないときは、たまに歌詞を読み返したりしている。

「湖の見えるタンポポ丘」

臼井は想像していた以上に田舎で、そこら中の家が庭づくりに精を出していた。駅の近くには、ヒット曲「天体観測」の歌い出しにあった「フミキリ」があり、

同じくヒット曲「車輪の唄」の歌詞にあった「線路沿いの下り坂」が伸びていた。

熱心なバンプ信者はゆかりの場所をいろいろと回るらしいが、ぼくの目的地はただひとつ。それは「くだらない唄」「続・くだらない唄」という、彼らのインディーズ時代の曲に出てくる「湖の見えるタンポポ丘」という場所だった。

実際の名前は「宿内公園」で、「湖」とは佐倉市に広がる「印旛沼」のことである。

丘の上から湖を向いて撮った写真がこちら。子連れのママが二人、近くのベンチに座りながらぼくを不審者のように見ていたので、記念の自撮りができなかったことが悔やまれる。

13年も憧れていたタンポポ丘には、駅から徒歩10分であっさりと着いてしまった。そしてタンポポ丘に、タンポポは咲いていなかった。

「輝かしいどうのこうの」

「湖の見える タンポポ丘の 桜の木の下で」から始まる、「続・くだらない唄」という曲が、バンプの中ではいちばん好きだった。なかなか難しいギターソロも、一生懸命練習した。(歌詞/iTunes)

特に好きだったのが、田舎出身の「僕」が、都会に出てきたときのことを振り返るフレーズ

ここで手にした「輝かしいどうのこうの」に
それよりも輝かしい あの日が
見事に壊されていくようで 怖くって
何度も確かめてみる

見知らぬ価値観を、「これは輝かしいものだ」と押し付けられて疲弊してしまうことなんて、まあ誰にでもある。ぼくの場合だと、

ごく普通の横浜の公立小学校に行き、習い事もほぼゼロ。
→ アメリカでも指折りの裕福な地域にある、既得権益層のぬるま湯と化した中学と高校に進学。
→ アメリカでも指折りの貧乏な地域にある、学問・権威至上主義のインテリ大学に進学。
→ 起業・技術至上主義のシリコンバレーにあるベンチャーに就職。
→ 拝金・権力至上主義の東京のIT業界で就活、失敗。
→ シリコンバレーにある教育企業に就職 (いまココ)。

と渡り鳥のように移動しながら、次々と襲い来る「輝かしいどうのこうの」が、「それよりも輝かしい あの日」を幾度となく壊していった。

ぼくは意識高い系のブロガーとして、「輝かしいどうのこうの」の押し付けを生業としているが、その奥底にあるのは、ぼくの「輝かしい あの日」を壊した人たちへの復讐の念かもしれない。

「半分ジョークでセッティング」

湖の見える タンポポ丘の 桜の木の下で
手頃なヒモと 手頃な台を 都合良く見つけた
半分ジョークでセッティングして そこに立ってみた時
マンガみたいな量の 涙が溢れてきた

この歌詞を聞いたとき、「半分ジョークで」とは50%本気だったのか、10%本気だったのか、それとも90%本気だったのか、とても気になった。ぼくも「半分ジョークで」そんな考えを持ったとき、実は10%本気だったこともあるし、90%本気だったこともある。

90%のときの話はしないが、10%本気だったときの多くは、誰かが決めた価値観に押しつぶされそうな夜が、来る日も来る日も続いたときだ。消えたいと思う頃には、自分が持っていた小さな自信も、たいてい消えている。

先ほどの話の続きになるけど、誰かが決めた物差しで自分が測られるのには耐えられない。

でも、それから逃げて、自分にとって都合のいい物差しを見つけたとしても、その物差しが自分よりも似合う人はたくさんいる。

昔はそういう人たちの存在を知らなかったけれど、いまはSNSのタイムラインに乗って、ぼくの前に顔を出す。SNSから離れても、そういう人たちはぼくの頭から離れてくれない。

いっぽうで、他人と自分を比べないようにすれば、過去の自分と今の自分を比べてしまう。過去の自分に対して顔向けできないときは、情けなくて泣きたくなる。

しまいには、「自分を悪く見せる物差しも、良く見せる物差しも、過去の自分も捨てて、今のありのままの自分を愛するべき」って価値観を、誰かがぼくに押し付ける。正しい考え方だと分かっていても、押し付けられたら心には響かない。

PCソフトオタク時代

タンポポ丘を下りながら、当時は中二病をこじらせて、バンプオタクからPCソフトオタクに進化してしまったことを思い出した。

当時は「アプリ」という概念は無かったが、Windowsで動く無料の「ソフト」はネットのいたるところで配布されており、それらを片っ端からダウンロードするのが趣味だった。オタクは集めたがる生き物なのだ。

なかでも、2ちゃんねる専用ブラウザは種類が多様で、ぜんぶ試した記憶がある。2ちゃんねるは直接見ると使いにくいが、どれかひとつ専用ブラウザを使うと見やすくなる。超多機能なものもあれば、シンプルで軽いものもあった。

当時主流だったのはJaneというブラウザだった。それの改良版を作った開発者がいて、彼が2ちゃんに「改良版の名前は何にしようかな」と書き込んでいたので、「Jane Styleでいいんじゃね」と書き込んだこともある。もちろん匿名で。するとそれが採用された。後日知ったが、作者はぼくより3つ年上で、2009年にJane Styleの開発業を法人化したらしい。たぶん、ぼくの書き込みは覚えていないだろう。

何百回もソフトをダウンロードするにつれ、ソフトに対する情熱もぼくにインストールされていった (我ながら痛いセリフだ)。当時中学生だった著名ブロガー・イケダハヤトさんが連載を持っていたPCソフト雑誌「ネットランナー」も、アメリカまで取り寄せて購読していた。

自分でプログラミングしてなにか開発することも試みたけど、頭が悪すぎて一度も上手くいかなかった。けれども諦めきれず、情報系の大学に進学し、いまは仕事でコードを書いている。

プログラミング教育が最近流行っているようだけれど、ぼくのように何度か挫折する生徒は多いだろう。そこでめげない生徒を増やすためには、プログラミングを教えるよりも先に、ITに対する情熱を育むことが大切になってくると思う (我ながら意識の高いセリフだ)。

アダルトPCソフトオタク時代

中二病はなかなか治らず、ぼくはPCソフトオタクから、アダルトPCソフトオタクに進化してしまった。いわゆる、「エロゲー」というやつである。同世代にエロゲーにハマった人は多いだろうが、ぼくのように、アメリカの青春時代をエロゲーで棒に振った帰国子女はあまり知らない。

プレイしたソフトはほとんど覚えてないのだけれど、「君が望む永遠」「家族計画」「クロスチャンネル」は完全クリアした。それぞれのゲームには5~7人の彼女候補が用意されており、1回のプレイごとに主人公は1人としか結ばれないため、完全クリアするには何度もプレイしなくてはならない。

画像元: Amazon.co.jp

上記の3作は名作と評されていて、なかでも「君が望む永遠」には、「進撃の巨人」の作者の諫山氏(1歳年上)もインタビューで言及している

アージュっていう会社の「君が望む永遠」という名作ゲームにはまったんですね。その後のラノベとかいろんなものに影響を与えた作品なんですけど。

この3作の良かった点はいろいろあるが、ぼくが感心したのはシナリオライターの文章力だった。当時のエロゲーのプレイ時間の9割は、ライトノベルや官能小説のような文章を読むのに費やすのだが、この3作の文章にはいかがわしい意味以外でも引き込まれた。いずれも、業界では有名なライターさんが手がけていたらしい。

文章のクオリティーは、売れ筋の小説のほうが高いかもしれない。だが、ぼくは学校の教科書で使われたもの以外に、小説を一切読まないで育った。つまり、エロゲーで小説童貞を捨てたのである。

日本の学校には小6までしか行かず、活字だけの本を読む習慣が無かったぼくの貧相な日本語力は、2ちゃんねるとエロゲーが礎となっている。

これは結構なコンプレックスで、たまに賢い人が「私は本をたくさん読む子だった」とか言うのを聞くと、「自分は下等な人間なのか。ゲスの極みオタクなのか」と落ち込んでいたものだ。最近になってやっと、「本以外本じゃないの」という固定概念は捨てることができたけれど。

東京!一人暮らしだモナ

2ちゃんねる発のプチ小説といえば、当時は「電車男」が有名だったが、ぼくは「東京!一人暮らしだモナ」というシリーズの大ファンだった。

2ちゃんねるのマスコット「モナー」が、社会人になり上京して一人暮らしをするという話で、アスキーアートを使って表現された。モナーに彼女ができたり、同じアパートの住人と一悶着あったりと、笑いあり涙ありの物語だった。2ちゃんねるに張り付いて、2年くらいは毎日読み続けた記憶がある。

アメリカで冴えない高校生をやっていたぼくは、「日本の大学に進学したら、モナーみたく東京で一人暮らしするんだ」と夢を描いたが、アメリカの大学に進学したので叶わなかった。大学を卒業したあともシリコンバレーに直行してしまったし、仕事をやめて日本でニートをしていたときも、横浜に実家があったのでそこに寄生してしまった。

その後シリコンバレーに戻り、アラサーを迎えるにつれ、モナーみたいな独身時代を過ごせなかったのが心残りだった。

でも、東京で一人暮らしをするというぼくの夢は、意外な、そして理想とはいえない形で叶った。

2015年の12月。日本で末期癌と闘っていた母がもう長くないとのことだったので、ぼくは長期休暇をとって帰国した。

母が入院していた東京の病院は、横浜の実家から電車で1時間かかる距離だった。12月下旬に母の状態が悪化したのだが、病院に泊まるのはNGだったので、ぼくは近くにひとりで宿を取ることにした。

日本で物議を醸しているAirBnBで、ぼくは病院近くのアパートの一部屋を見つけた。ホストは隣の部屋に住んでいたので、いかにも一人暮らしのような感じだった。建物も部屋も「東京!一人暮らしだモナ」に出てきたものとソックリで、病院通いでノイローゼ気味だったぼくを、その小さな部屋は癒やしてくれた。

母は年明けに亡くなった

人生初の東京一人暮らしは、けっきょく2週間続いた。たぶん、これが最後になると思う。


第二章・アンネの家に置いてきたもの

タンポポ丘から10ヶ月後の、2015年の春。シリコンバレーのQuora社で働いていたときの同僚の結婚式が、エーゲ海に浮かぶギリシャのサントリーニ島で行われたので、リゾート気分で参加してきた。

結婚式のちょうど1ヶ月後、ギリシャはデフォルト危機に陥った。たぶん、ぼくが行ったせいだ。

その半年前にスウェーデン・イタリア・ドイツに行ったばかりだが、せっかくなので、結婚式のあとに一週間かけて、チェコ・スイス・オランダ・ベルギー・フランスにも羽を伸ばしてきた。その直前に彼女と別れていたので、名目上は傷心旅行だった。

チェコでは、ネットで知り合ったプログラマーの友人にプラハを案内してもらい、

スイスでは、大学の後輩にチューリッヒのGoogleオフィスを案内してもらい、

オランダでは、ネットで知り合った日本の友人が留学していたロッテルダムを訪れ、

ベルギーでは、ブリュッセルの楽器博物館に行き (ぼくはトランペット・ユーフォニアム・ギター・ベース・ドラムができる)、

フランスでは、友人とチャリでパリ市内を回った。

アムステルダム

オランダでは、ロッテルダム以外にアムステルダムも訪れた。

同性婚・売春・大麻が合法であるオランダ最大の街は、昼と夜で正反対の顔を持っている。昼は美術館と博物館を回り、夜は飾り窓地区でセックスショーを見て、人生観をアップグレードしてきた。ちなみに一人旅だったが、下半身がまったく乗り気にならなかったので売春はしていない。

アムステルダムに寄った第一の理由は、2015年から日本国籍者がオランダで労働許可無く就労できるようになったからである。ビザのハードルが米・加・豪や欧州他国より低くなり、しかもオランダは英語が通じるため、これから日本人の移住者が増えるだろう。だから、オランダでもっとも栄えているアムステルダムを見ておきたかったのだ。

路上の音楽家にも日本文化?が浸透していた。

第二の理由は、ぼくは「さよならを待つふたりのために」という小説を2014年に読んで感動したのだが、物語の中盤の舞台がアムステルダムだったからだ。ちなみにこの本は「きっと、星のせいじゃない。」という名で映画化もされており、ぼくの母校があるピッツバーグ市が序盤のロケ地になった。

アンネの家

小説では、主人公たちが市内にあるアンネ・フランクの家を訪れるシーンがある。だが、そのことをぼくはすっかり忘れていた。最後の日、しかも閉館時間の2時間前に思い出し、冷たい雨にうたれながら1時間並んだ末、ぎりぎりでアンネ宅にあがらせてもらえた。

順路は、父オットー・フランクが持っていた会社の倉庫と事務所からはじまる。事務所の従業員が協力者となり、隠れ家の食料を調達していたのだが、ナチス襲撃の際には協力者たちも逮捕されてしまった。

アンネの話とは関係ないが、ネットで読んだ興味深い話がある。大戦が起こる100年近く前から、アムステルダム市は住民基本台帳に以下の情報を記載し、常にアップデートしていたらしい。

名前・生年月日・配偶者の有無・住所・両親の情報・仕事・宗教・以前の住所・死亡年月日(死者用)

そう、住民票には「宗教」の情報も入力されていたのだ。おそらく「ついでに宗教のことも聞いておいたらいいんじゃね?」的なノリだったのだろう。

そして台帳は、街を占拠したナチスの手に落ちたとたん、デスノートと化した。

当時のアムステルダムには約8万人のユダヤ人が住んでいたが、そのほとんどが住民票のデータを元にナチスに発見され、強制収容所に送り込まれたのである。8万人中、7万人近いユダヤ人が命を落とした。

もし住民票に「宗教」欄が無ければ、どれくらいのユダヤ人が生き延びられたのかは分からない。最近は日本でも個人情報の流出が話題になるが、戦時中にはそれが生死を分けるかもしれないのだ。

世界の伝記、アンネの日記

3階に上ると、有名な「動く本棚」があった。その本棚の裏には隠れ家へと繋がる扉があり、アンネを含む8人が暮らしていた部屋を見ることができる。

By Bungle (Own work) CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons

当時の潜伏者たちのように息を殺し、扉をくぐってフランク一家の居間に抜ける。目に入ってきた隠れ家の光景は、なんだかとても懐かしく感じた。

そういえば、まだ小学生になりたてのころ、学研まんがの「世界の伝記: アンネ・フランク」を読んでいたのを思い出した。アンネの生涯を、小さい子どもにでも分かるように漫画で解説してくれる本だ。

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「世界の伝記」シリーズは全40巻を読破し、アインシュタインやエジソン、ライト兄弟に憧れたものだ。

だが、20年前のぼくに最もインパクトが強かったのは、ヘレン・ケラーとこのアンネ・フランクの伝記だった。ヘレン・ケラーの見えない・聞こえない・話せないという三重苦は、子供心に衝撃だったのは覚えている。いっぽうで、アンネ・フランクはなぜ印象深かったのか、なかなか思い出せない。

やっぱり、最後にアンネが亡くなってしまうのが、悲しかったからだろうか?

あ!これ進研ゼミでやったやつだ!

画像はベネッセのサイトより。

アンネのかわりに思い出したのは、当時購読していたベネッセ・進研ゼミの通信講座「チャレンジ」だった。

学校は嫌いだったし、本を読む子ではなかったけれど、学研まんが「世界の伝記」シリーズのように、漫画で勉強を教えてくれる教材は好きだった。進研ゼミの教材も、イラストが中心だったので気に入っていた。ぼくの学習スタイルは視覚型らしい。

ここで、当時の進研ゼミの仕組みを説明しておこう。

まず、毎月「チャレンジ◯年生」という冊子の教材が届く。内容はあくまで学校で学ぶことの反復で、お受験向けではない。教材を読みながら練習問題を解き、最後に「赤ペン先生の問題」というテストを受け、投函して添削してもらう。ちなみに現在は、これらを支給されたタブレットでやるらしい。

そんな進研ゼミは好きだったが、ひとつ問題があった。

親が「同学年の教材をやっても仕方がない」と言うので、わが家では2年上の内容を購読していた。2年生のときには「チャレンジ4年生」をやり、3年生のときには「チャレンジ5年生」をやる。

ただ、算数など「積み重ねの科目」ならまだしも、それ以外の「暗記科目」においては、家庭内で飛び級してもあまり役に立たない。学校では4年生の社会=地理、チャレンジでは6年生の社会=日本史といったぐあいに、同時にこなす科目が増えるだけだ。「あ!これ進研ゼミでやったやつだ!」と、テストでドヤ顔することもできない。

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6年生になるころには流石にキツくなってきたので、そのときに2年上の「チャレンジ中学2年生」の購読を中止した。でも、教材そのものは好きだったので、同学年の「チャレンジ6年生」を再度購読することにした。4年生のときに使っていた「チャレンジ6年生」も捨ててはいなかったけど、「新しいやつが欲しい」とぼくはゴネたらしい。

2度めのチャレンジ

翌週、2年ぶり2度めの「チャレンジ6年生・4月号」が届いた。さっそく、2年前(97年)のと今回(99年)のを比べてみる。するとまっ先に、教材の見栄えが2年前よりも良くなっていることに気づいた。全体的にデザインがイケてるのだ。

当時の教材が手元にないので説明しにくいが、まずフォントが変わった。たとえば、97年版の歴史の教材は古臭い明朝体を使っていたのだが、99年版の歴史の教材はとても綺麗なゴシック体だった。さらに、99年版は全体的に文字に影がついていたりと、当時にしては視覚効果をふんだんに使っていたようだ。

いつのまにか毎月、「99年版の教材は、97年版の教材と、デザインがどう変わったのか」ということだけを、12歳なりに研究するようになった。ぼくはフォントやレイアウト、色彩の虜になった。当時はパソコンをほとんど使えなかったので、色鉛筆を使って文字組みを手描きで練習していた。

教材自体は、結局ほとんどやらなかった。「お金を無駄にしてごめんなさい」と、母に謝った記憶がある。

けれども、デザインは好きになった。その8年後、ぼくは大学でデザインをかじるようになり、卒業後はシリコンバレーでデザイナーとして就職した。

意外と、お金は無駄にならなかったのかもしれない。

デザイナーとして働いていたとき、ぼくの部屋のドアに貼っていたフォントのポスター。いつも部屋に引きこもっていたぼくとは対照的に、「Hi!」の二文字がやかましかった。

時に、西暦2015年

後から知ったことだが、日本の90年代はDTP(デスクトップパブリッシング、パソコンで出版物のデザインをする作業)が広まった時期だったらしい。

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新世紀エヴァンゲリオンのアニメの冒頭で、「時に、西暦2015年」という見出しに使われた「マティス」というフォントがある。それを作ったフォントメーカーの創業者は、当時の様子を次のように語った

柴田:「そもそも弊社の創業当時(1993年)は、MacによるDTPの黎明期でした。それまであらゆる紙媒体の文字は、主に写植というアナログな製版技術で印刷されていて、これがMac1台で完結できる時代に切り替わろうとしていたんですね。しかし日本語は英語と違って文字数がケタ違いに多いし、字組みにも漢字と平仮名の絶妙なバランスを要します。フォント開発には膨大な時間がかかるので、従来の歴史ある写植メーカーさんたちも、一気にDTPへ参入というわけにはいかなかったんです」

この記事によると、「日本のデザイナーたちがDTPを導入し始めた90年代前半、(Macで出版用に)使える日本語フォントはごく限られていた」らしい。

だが、90年代後半になると、使えるフォントの数も増えてきたようである。エヴァの「マティス」フォントもそんな時流に乗って生まれた作品だ。

「チャレンジ6年生」のフォントが97年から99年にかけて綺麗になったことの裏には、このように「使えるフォントの数が増えた」という時代的背景があったのかもしれない。

大人になってから、子供時代の謎が解けたりすることは誰にでもある。そのたびに、迷宮入りの事件を解決した名探偵になった気がするのは自分だけだろうか。たぶん、コナンと金田一の読みすぎなのだろう。

ペーターの部屋

時に、西暦2015年。

次が、隠れ家最後の部屋だ。きしむ階段を登りながら、入り口のポスターに書いてあった「アンネの日記」の言葉を思い出す。

このいまわしい戦争もいつかは終わるでしょう。いつかきっと、私たちがユダヤ人ではなく、一個の人間となれる日がくるはずです。

わたしたちが、ただのオランダ人や、ただのイギリス人になれるわけはありません。いつもユダヤ人ではあるのです。でも、その時には、ユダヤ人でありたいと願うことでしょう。

2段落めの言葉は、日本で日本人として生まれ、アメリカの移民となったぼくに突き刺さった。

アンネの日記は、この記事の執筆時点で未だに読めていないけど、いつか読みたいと思う。ぼくが多く影響を受けている池上彰さんも、著書「世界を変えた10冊の本」でまっさきに「アンネの日記」をあげている。パレスチナ問題に大きな影響を与えたからとのことらしい。

そしてついに、ぼくは最後の部屋にたどり着いた。

そこはペーターの部屋だった。アンネはいっとき彼と恋に落ち、よくここで二人で過ごしていたらしい。彼も、戦争を生き延びることはできなかった。

ふと、子どものころ読んだ「世界の伝記: アンネ・フランク」で、ペーターとアンネがふたりでいたシーンが蘇った。同時に、なぜ「世界の伝記」シリーズのなかで、アンネの話がもっとも印象深かったのかも思い出した。

ぼくもアンネとペーターのように、好きな人とひとつ屋根の下、儚くとも幸せな恋をしてみたかったのだ。ただ、それだけのことだった。

アナウンスが流れて、閉館の時間がやってきた。幼稚だった昔の自分にあきれながら、あこがれの家を後にする。

アムステルダムの冷たい雨はまだ止まない。でもなんだか、ついさっきよりも少しだけ、外の空気が暖かくなったような気がした。


第三章・任天堂に置いてきたもの

アンネの家から7ヶ月後の、2016年の年明け。母の葬式の翌日、ぼくは朝一の飛行機で関空に飛び、バスと電車を3時間乗り継いで和歌山の田舎に向かった。身体を悪くして母の最期に立ち会えなかった、母方の祖父母に会うために。

80半ばの祖父母は、ぼくが元日に出演したテレビ番組を、深夜放送なのにもかかわらず観てくれていた。NHKだから、和歌山のド田舎でも映るのだ。母はそのとき昏睡状態で、放映直後に亡くなったのだけれど、祖父母が母の代わりに観てくれていたと知って、ほんの少し気が楽になった。

次の日の朝、ぼくは和歌山を後にして、今度は大阪に住む父方の祖父母を訪ねた。大阪でしばらく過ごした後は神戸に寄って友人に会い、夜に京都に向かった。最終の新幹線で横浜に戻らなければならなかったので、スーツケース片手に走り回ったのを覚えている。

京都での用事はふたつあった。まず、京都に住む友だち夫婦に先月、あたらしい家族の一員が加わったので、その一家を訪ねに行くこと。子ども好きのぼくとしては、「いつ赤ちゃんを抱っこするか?今でしょ!」という下心があった。その子が大きくなってからでは遅いのだ。

そしてもうひとつは、京都に本社がある任天堂を見に行くため。もちろん中には入れないが、小さいころから最も憧れていた会社だったので、建物だけでもひと目みたかったのだ。京都には何度も訪れていたけど、任天堂がある方角には足を踏み入れたことがなかった。

友だち一家に遅れる旨を伝え、京都駅から烏丸線に乗り十条駅に向かう。この烏丸線だが、18歳で初めて京都に一人旅で来た時は、「烏丸」を「とりまる」と読んでいた。よく見たら漢字が違う。正しくは「からすま」である。日本の固有名詞は、ぼくのような海外勢にはもぅマヂ無理だ。

任天堂教

十条駅から歩いて約10分。夢にまで見て、ついでにGoogleのストリートビューでも見た、任天堂の新社屋に到着した。

シリコンバレー在住歴5年で、その間日本に情報を発信し続けてきたぼくは、かなりの数の日本人を現地で案内した。ぼくが勤務してる会社のオフィスに加え、友人がいるアップル、グーグル、フェイスブックなどを案内してきた。

シリコンバレーの現地企業を案内してあげた人のなかでは時折、オフィスビルを見たとたん、涙を流しそうになるくらい感動する人がいる。案内する側のぼくには、それがどんな気持ちなのか見当もつかなかった。

けれどもNintendoと書かれた看板が視界に入った時、ちょっぴりその気持ちが分かった気がする。

ぼくは無宗教者だ。でも、任天堂の本社を前にしたとき、信仰深い人が聖地を訪れるときに感じるだろう気持ちを — たとえその1%くらいにすぎなくとも — 感じたのだ。

2008年に急逝したアメリカの作家・David Foster Wallaceは、「これは水です」という名スピーチでこう語った。

日々の暮らしの中に無神論というものは存在しません。みんな何かを崇拝して生きています。我々に与えられた唯一の選択は、何を崇拝するかです。神やら神秘的対象 — 例えばキリストやアラー、ヤハウェやウィッカの女神、四諦あるいは不可侵の信条 — を信じる一つの理由は、大体他のものは全て我々を食い尽くすからです。お金やモノを崇拝し、そこに生きる意味を見いだそうとすれば、いつまで経っても満足することはありません。これは事実です。自分のカラダや美しさ、性的魅力を追い求めれば、自分の醜さに苦しみ、死神がやってくる前に何度も心の死を経験することでしょう。

(中略) 権力を崇拝すれば、我々は脆弱を恐れ、いつまでも、さらなる権力を欲するでしょう。知性を崇拝すれば、知的に見られることでかえって自分の無能さを自覚し、自分はまがい物だと感じ、いつかそれがバレるのではないかと怯えて生きることとなります。

いじめられていた小学生時代や、渡米直後で苦しかった中1のころ、任天堂のゲームがぼくの世界のすべてであり、ぼくを救ってくれた存在だった。母と最期の1ヶ月を過ごしたときも、彼女を少しでも元気づけようと病室にWii Uとマリオメーカーを持ち込んで、看護師さんたちに怒られたりした。

上記のスピーチの内容とは少しずれるけど、ぼくにとって宗教にもっとも近いものは何かと答えるとしたら、それは任天堂だと思う。

マリオカートの思い出

小学生のころはひたすら任天堂のゲームをプレイしていた。マリオのゲームは全ソフト10周くらいクリアしたし、ポケモンにいたっては、当時流行っていたポケモン漫画「ポケスペ」で、主人公たちが使っていたパーティを再現したりした。

なかでも特殊なハマり方をしたのは、スーファミ版のマリオカートだった。このことは2年半前に英語で書いたのだが、日本語には訳していなかったので、この機会にグダグダと語らせてもらおう。

サンフランシスコ近郊の路線図を、スーファミ版のマリオカート風に描いたもの。画像ソース

初代のマリオカートでは、7人のCPUを相手に5つのコースでレースをし、総合点で1位を競う「グランプリモード」がある。ぼくは8歳だったのだけど、毎回1位を取れるようになると、さすがに飽きてきた。だから少し考えて、以下のような遊び方を編み出した。

まず、初代版のグランプリモードでは、7人のCPUの速度はあらかじめ決まっていることに気づいた。「速いCPU」は全5コースで上位になるし、「遅いCPU」は全5コースで下位になる。

理由はこうだ。

それぞれのコースで1位になれば9ポイント、2位は6ポイント、3位は3ポイント、4位は1ポイント、残りは0ポイントとなる。もし仮に全員のCPUが同じ速度だった場合、どのCPUも毎回のレースで平均2.3ポイントを取る計算になる (確率論でいう、「期待値」である)。

つまり、ぼくは毎回3位でゴールして3ポイントを取り続ければ、かなりの確率で総合1位をとれるのだ。

しかし、「速いCPU」と「遅いCPU」がいる場合、速いCPUは毎回上位にランクインする。つまり、総合1位になるためには、ぼくも毎回1位か2位をとらなくてはいけない。

「速いCPU」と「遅いCPU」がいるのは、ゲームの難易度を上げるための仕掛けなのだ。

それに気づいたぼくは、ひたすら「速いCPU」をアイテムで妨害し、「遅いCPU」に勝たせようとした。5レース終了後、CPUのスコアがもっとも均一になるようにする遊びを編み出したのだ。

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数学的に言うと、それは標準偏差をゼロにすることだ (注: 偏差値と標準偏差は違う)。そのころ学校では掛け算を終えて割り算に入る時期だったが、ぼくは「算数おもしろ大辞典」という本の「偏差値なんて気にするな」という項を参考に、標準偏差の計算に必要な平方根などを必死に勉強した。

練習の末、ぼくはCPU7人の5レース後のポイントをほぼ同じにできるようになった。しかも、ぼくが総合1位を取りながら。

8歳のぼくは、ゲームの中で共産主義の社会を創り、そこの独裁者として君臨した。デスノートの夜神月もびっくりである。

いまのぼくは小さな政府論者だが、たまにブログなどで格差問題について語ったりしている。「三つ子の魂百まで」なのかもしれない。

岩田社長、ありがとう

新社屋から数分歩くと、旧社屋に到着する。

任天堂に来た理由はもうひとつあった。半年前に亡くなった故・岩田前社長を追悼するためだ。もともと岩田社長を尊敬していたというのもあるけど、それよりも彼は母と同い年で、ふたりとも癌で亡くなっているということが他人事に思えなかったのだ。

スティーブ・ジョブズが亡くなった日の夜、ぼくは彼がよく通っていたシリコンバレーのアップルストアを訪れた。だから夏に岩田社長の訃報を聞いたときは、彼が毎日通っていた任天堂本社に行こうと決めていた。まさか、その2日前に母の葬式をするとは思ってもいなかったけれど。

DSが発売された直後で、まだWiiが発売される前の2005年春。ゲーム開発者向けの世界的なカンファレンスで、岩田社長はこう自己紹介した。

On my business card, I’m a corporate president.
In my mind, I’m a game developer.
But in my heart, I’m a gamer.

私の名刺には社長と書いていますが、
頭の中はゲーム開発者です。
そして、心はゲーマーです。

岩田社長のこの名言は、彼を讃えるべく引用されることが多いけど、ぼくの捉え方は少し違う。

誰だって、名刺に書いてある役職名は、何歳になっても変えることができる。でも頭の中、というか「考え方」は、20代の終わりくらいまでに形成されるものだと思う。

そして、スティーブ・ジョブズは有名な卒業スピーチで「心や直感は、自分が本当は何をしたいのかもう知っているはず」と言ったけど、心が自我を持つようになるのは、10代の終わりくらいまでだと思う。

近ごろ、生涯学習という言葉が流行っている。それは否定しないけれど、とはいえ若いころにしか学べないことのほうが多いのではないか。3年半前から、ぼくが子ども向けの教育ベンチャーで働いているのも、そう思っているからだ。

10代・20代で道を間違えたら、そのあといくら出世しても、「私の名刺には◯と書いています」としか言えなくなるのではないか。人生を巻き戻して、自分にない「心」と「頭の中」を拾ってくることなんて出来やしない。

まだ20代のぼくには説得力は無いだろうが、そう信じているからこそ、いまを必死で頑張れている。

そんなぼくも昔は、「人生なんていつでもリセットできる」と思っていた。皮肉にも、そう思うようになった理由のひとつは、リセット機能がある任天堂のゲームだった。

マリオは死んでも生き返る。でも人生は、残りが1機しかないマリオなのだ。

残り1機の人生の半ばで、母や岩田社長はあの世に行ってしまった。

もし二人が天国で鉢合わせることがあれば、母のことだから、たぶん何度も丁寧に、ぼくを楽しませてくれたお礼を言うのだろう。

そして「脳トレ」や「Wiiフィット」を生んだ岩田社長のことだから、母はゲーム音痴だけど、「このゲームならあなたでも楽しめますから、一緒にどうですか」と誘ってくれることだろう。

最後に、岩田社長のことをもっと知りたいという方は、ほぼ日刊イトイ新聞の「岩田聡さんのコンテンツ。」や、4Gamerの「ゲーマーはもっと経営者を目指すべき!」の追悼企画をご覧になってほしい。


終章・誰かが憧れた世界

アンネの家から1ヶ月前の、2015年の春。シリコンバレーで4年ほど交流があり、仲の良かった日本人の友だちが、癌で亡くなった。まだ30代という若さだった。

1ヶ月後に行ったヨーロッパ旅行は、名目上は失恋がゆえの傷心旅行だったけれど、本当はこの友だちを失い、何をやる気にもなれなくて決行したのだ。

葬式は、アップルの本社があり、彼女が愛した街・クパチーノから、運転してすぐのところで行われた。シリコンバレーらしく雲ひとつない空を見上げると、いつも笑っていた彼女の声が聞こえる気がした。

彼女が亡くなる2ヶ月半前くらいに、ぼくは彼女を自宅に招き、料理をごちそうしてあげた。彼女は食欲不振だったのだけど、癌ではなく自律神経失調症だと思い込んでいた。でも、ぼくの料理はとても美味しそうに食べてくれた。

その数日後、彼女からお礼と一緒にこんなメッセージがとどいた。

ここブックマークしておいて。穴場のパン屋。ナパとか北の方に行くなら是非寄って欲しい、いつか!
http://www.yelp.com/biz/m-h-bread-and-butter-san-anselmo

フライドエッグサンドを食べたんだけど美味しかったー!アジア人にはまだあまり知られてないかも。3回行ったけど、私だけだったわ。

このメッセージのやり取りを境に連絡が取れなくなり、二度と会うことが無いまま彼女は亡くなってしまった。

M.H.Bread and Butterという名のこのパン屋は、ぼくの家からは車で1時間以上かかり、しかも今は車が無いのでまだ行けていない。でも、必ず行かないといけないと思っている。彼女が、いつかもう一度行ってみたいと言っていた場所なのだから。

「愛しい空っぽを抱きしめて」 — Bump of Chicken, “Happy”の歌詞より

この記事は、ぼくが子どものころ憧れていた場所に、アラサーになってから行ってみて、思い出したことをそのまま書いた記事である。ほかにも憧れていた場所に行った経験は何度かあるけど、さすがに長過ぎるので、「タンポポ丘・アンネの家・任天堂」だけに絞って書いた。

小学生のころに手塚治虫の「アドルフに告ぐ」を読んで以来、憧れていた街・ベルリン。2014年9月撮影。

誰かが憧れていた場所、もう一度行ってみたいと思う場所に行くと、その人が手にしたであろう幸せを感じることができる。

その「誰か」は、この記事に書いたような「子どものころの自分自身」でも、上に書いた「亡くなった親しい人」でも、一方的に尊敬している人でもいい。

一方的に尊敬している人といえば、こんな話がある。

ぼくの大学の2年先輩で、ぼくと同じく在学中にアップルでエンジニアインターンをしていたFrankさんという方がいる。彼はインターン中、スティーブ・ジョブズが以下のように語っていたのを聞いたらしい

I wish I could be a fly on the wall in 100 years to see what technology is like.

100年後の世界のハエにでも生まれ変わって、そのときテクノロジーがどんなふうに進化しているか見てみたいものだ。

(“fly on the wall”とは英語で「傍観者」という意味にもなるが、そのまま「壁にとまっているハエ」という解釈もできる。)

われわれがこれから目にするテクノロジーのなかには、ジョブズが憧れていたものもあるだろう。任天堂が次に出すゲームのなかには、岩田社長が憧れていたものもあるだろう。ヨーロッパはテロや難民に悩まされているが、アムステルダムの街でぼくが過ごした穏やかなひとときは、アンネ・フランクが憧れていた世界なのだろう。

自分の人生が空っぽに感じることはしょっちゅうある。しかしどんなに空っぽでも、誰かが憧れていた世界を見ることはできるし、誰かが行ってみたいと思った場所に行くこともできる。

それを意識するかしないか、幸せだと感じるか感じないかは人それぞれだ。ただ、幸せだと感じることができれば、空っぽな人生も少しは楽しめるのかな、と思う。

読んでくださり、ありがとうございました。


追記

高橋がなり

ぼくの日本語力は2ちゃんとエロゲーの影響を受けていると書いたが、ひとつ忘れていたのが、アダルトビデオメーカー「ソフト・オン・デマンド」の代表取締役を務めた高橋がなり氏のブログだった。読者からの質問に答えるQ&Aブログで、2004年秋から2005年春まで毎日更新され、あわせて200記事すべてに目を通したと思う。

もっとも鮮明に覚えているのは、「子どもに『私をなぜ生んだの?』と聞かれたら、どう答える?」という記事だ。

まず、読者の質問から (一部略)。

がなりさんには、お子さんがいらっしゃるようですが、そのお子さんに、将来「私をなぜ産んだの?」と聞かれたらどうお答えになりますか?

何故、そのような質問をさせてもらったかといいますと、今から10年以上前、私が高校生だった頃の話になるのですが、国語の授業中に、先生がなにかの雑談の途中で、「子供を産んだ理由を答えられない親は、親としての資格が無い」と言っておられたのです。

どのような話の流れから、この言葉が出てきたのかは全く覚えていないのですが、10年以上経った今でも、何故か心のどこかに引っ掛かっていて取れないのです。

当時高校生だったこともあり、そんなに重く考えてはいなかったのですが、歳を重ねるにつれ、自分ならどう答えるだろう、と考えるようになりました。残念ながら、その先生はすでにお亡くなりになり、直接お聞きすることは出来なくなってしまいました。

私の周囲の人達に聞くと、「子供が好きだから」「大人になれば分かる」「できちゃったんだから仕方が無い」「自分の老後の面倒を見てもらう為」等々色んな意見がありましたが、どれもいまいちで思春期の子供が納得できるような答えを言ってくれた人はいません。私の両親も明確な答えを言ってはくれませんでした。

私には、子供はいません。これから先も作らないかも知れません。ただ、いつか子供ができた時、親として少しでも納得できる答えを言ってあげたいと思うのです。

そして、高橋さんの答え (一部略)。

この質問は、聞かれる人によって答えが変わります。子どもに聞かれたら「パパとママが幸せになるために」って答えます。「オマエがいるだけで、パパとママは幸せなんだもん」というのが、子どもにとってもいい答えじゃないのかなと思います。それは、すごいプレッシャーかもしれないけど、生きがいにもなると思います。

そして、あなたに対しては、「人生、チャラにして死にたいから」と答えます。僕は、30代ぐらいまで、知らないうちに債権だらけの人生でした。親や親戚や上司など、周りの人間に、「育てていただいた」という借りだらけの人生だったんです。「これまでいただいたものに利子をつけて返す」ために、僕が親にもらった愛情を、自分の子どもに、つまり、親のかわいい孫に、同じように与えてあげる。それが僕の考えです。

また今、一生懸命、税金を払っているのは、国に対する借りを返すためです。そして、SODの社員を雇っているのは、かつての上司たちに対する借りを返すためです。僕にとって、借りたものを、何倍にもして返すことが気持ちいいんです。

さらに、僕の息子が20歳になったら、「こんな楽しい人生、オレ一代で終わらせたらもったいないから、お前を生んだんだ」と答えると思います。これから社会に出る子に対して、「人生は面白い」というメッセージを送りたいと思います。

子どもを作ることに対しては様々な意見があるだろう。だが、高橋さんの言葉は当時16歳だったぼくに響いたし、独身アラサーになってしまった今も、頭の片隅に入れておくようにしている。

司馬遼太郎

「誰かが憧れた世界」つながりで、司馬遼太郎の子ども向けの随筆「二十一世紀に生きる君たちへ」より。

私がもっていなくて、君たちだけが持っている大きなものがある。未来というものである。

私の人生は、すでに持ち時間が少ない。例えば、二十一世紀というものを見ることができないにちがいない。

君たちは、ちがう。

二十一世紀をたっぷり見ることができるばかりか、そのかがやかしいにない手でもある。

もし、「未来」という街角で、私が君たちを呼び止めることができたら、どんなにいいだろう。

「田中くん、ちょっとうかがいますが、あなたが今歩いている、二十一世紀とは、どんな世の中でしょう。」

そのように質問して、君たちに教えてもらいたいのだが、ただ残念にも、その「未来」という街角には、私はもういない。

ソーシャルメディア

ツイッターでこの記事をシェアしてくださった方の多くから「想像以上にエモかった」とのコメントをいただきました。喜ぶべきかどうか分かりません。

あたらしいブログ記事を書きました。こういうタイプの記事は書くのが最初で最後になるかもしれません。

Posted by Shu Uesugi on Saturday, February 6, 2016

上杉周作 · 英語ページ · shu@chibicode.com · @chibicode · CC BY-SA · Photos by Leah Moriyama