ちょっと前に「それが正確な事実ではないことは知ってるけれど中心に近すぎて軽々と口に出来ない」みたいな問題が発生して、しかもネット上の有識者の機微に触れるテーマらしく、厳密に言うと正しくない情報を前提に言及されてるのを見かけては微妙な顔をする、てことを繰り返してました。
まぁ仕事モードの自分が頑張るべき領域で、プライベートな自分はひたすら口噤むのが正解なんですけれど。でももにょる。王様の耳はロバの耳ー!て言いたい。Twitterでシェアされたのが回ってくると変な顔になる。あと、自分も専門領域外で、フォロワーの多い方が発言すると正しい気がしてしまうので、他人事じゃない(なにあれハロー効果?)
仕事の息抜きタイミングで、その件について興味本位でGoogle検索したら「厳密には正しくない情報を元に憶測混じりで書いた結果、明らかに間違った内容になった」記事が検索上位に来ていてまた微妙な顔になりまして。
将来的にそれが正しい情報として残っても困るなと相談したところ、同僚が「間違ってる情報ならGoogleのアルゴリズムが自然判別してそのうち検索結果は下がる」みたいなことを言い出した。
こうしてブログ書いてる自分も「なるほどそれも正しいかな」と一瞬頷きかけたんですが、いや待て本当にそうだろうか、と。Googleのアルゴリズムさんだって能力には限界がある。神様じゃないんだから。
だってあれって、集合知的に多量の情報を分析した上で検索結果として表示しているイメージなので、多量の情報の方が間違っていたら間違ったまま表示されるんじゃ的な不安が。間違ってる情報は次第に検索順が落ちていって、検索上位の情報は正しいものばかり、が望ましいけれど、でも、皆が欲しい情報が正しいかどうかって、その保証はないですし。学校で使う歴史の教科書だって毎年改訂されて、学説の有力多数派でひっくり返ったりするんですから、ネットならさもありなんです。
そうは言いつつ結局、コストかけて早急に是正しないといけないほどの誤認じゃないし、当面様子見、という経過観察ぽい結論に落ち着いたんですけどね。いかに検索結果の1頁目といえど、他に表示されている内容と照らし合わせて見れば辻褄合わないのはわかるし(多分)。時間が解決してくれるだろうと言う時間薬に頼ることにしたわけです。時間薬偉大。
でもきっと、ネットの海の藻屑な自分ですらそういった経験をするのであれば、ネットに漂ってる情報にはいくらでもそうした正しくなさってあるんだろうなと思いもする。実際不利益被るならすぐさま訂正・反論するにしても、コスト的に見合わないなら放置したくなりますし。
こう、「正しさ」という話になると毎回思い出す本があって、瀧本哲史先生の『武器としての決断思考』なのですが、
その中で、あくまで議論としてですが、「正しさ」とは、1「主張に根拠があって」、2「根拠が反論にさらされていて」、3「根拠が反論に耐えたものである」と書かれてるんですね。
そしてそれはあくまでも議論によって得られた「今の最善解」でしかないとも述べられてる。だって人間限られた情報や枠組みで考えてしまうものだからして、新たな情報が出てくる可能性がある以上、未来永劫絶対的な解というのはあり得ない。
ネット情報の正しさについて考えるとき、この本に書かれた正しさを思い出すのです。
ネット空間で話題になる事柄について、「主張に根拠がある」は満たしたとして、次いで、ホットな話題なら「根拠が反論にさらされる」ことが起こり得たとしても(いや大概は「"主張"が反論にさらされている」だけかも)、「根拠が反論に耐えたものである」検証って難しいんじゃないかと。
ネット空間て、とてもとても情報が流動するの早いですし。検証する頃には、もうみんな次の情報の嵐に巻き込まれて、前のことなんて忘れさっている気がする。むしろ飽きて忌避される。皆がメディアに情報の正しさを求めているとも限らなくて、喜怒哀楽を呼び起こすような、エンターテイメント性が優先されることだって少なくはないのですし。正しさを必要としているのは当事者ばかりなり、みたいな状況ってあると思うのですね。
そうして、検証されれば間違いは証明されたかもしれないけれど、「暫定・正しい情報」がそのまま、データベース性に優れたあの「魔法の箱」に残ってしまう。そういうことって結構あり得るんじゃと。でも当事者のとってはもうコントロールしようのない広がりを見せていて、諦める選択肢しかない、みたいな。
大体、Googleの検索結果にコンテンツを乗せるのが上手い人と、そこに乗せるコンテンツについて、十分な知識を持つ専門家であることが毎回イコールになるとは思えませんし。そもそも、現実世界で物事の中心となっているはずの専門家が、ネット世界でまで正しさを確保しようと動ける時間があるのか、てのもあります。そうじゃないとライターや記者っていないいもんねと。
そう考えつつも、自分の専門外領域ではやっぱり検索上位やフォロワーの多い方が正しい気がしてしまう謎の病にかかってしまうわけですが。ついでに、自分だってもしかしたら「暫定・正しい情報」を塵のように生み出して、ネットの海を汚しているのかもしれないのですけれど。でも元々は正しさ自体、自分の立ち位置で意味が変わってしまうあやふやなものなのだから、そんな深刻に悩む類のことでもないのかもしれない。
そんなことをふと考える麗らかなある休日のお話でした。