読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Abstract Life

「あなたの記憶にひらめきを」

雑記ブログってなんだ?キャラクター、文体、考え方についての一考察

Idea Idea-自己紹介 Idea-教養

みなさんこんにちは、Ichiです。

このブログは、雑記ブログを名乗っておいて、雑記っぽいことをあまり書いていないなってこと最近よく思うんです。なので、雑記を書こうと思ったんですが、ただつらつら書いても仕方が無い。

なので、今回の記事は内容というよりは、文体を意識して、自分らしさが良く出るような書き方を試そうとしたエントリーです。内容も自分なりの考えをつづったので読んでもらえると嬉しいです。

目次

雑記ってなんだ?

f:id:ibookwormer:20160213235116j:plain

雑記の認識って恐らく人によって捉えている幅が異なっています。テーマを決めないで書いていれば、1つ1つの記事が専門的でも雑記ブログだと認識する人もいるし、日記のような文章、自分の思ったこと感じたことを綴るのが雑記ブログだと思う人もいるでしょう。

私が思い描いているのは、どちらかと言うと後者の方で、日々あったことの報告と言うか、そういうことが雑記だと認識しています。決して私の記事が専門的だとかそういう話では無いんですが、常日頃考えたことを何の気なしに綴った記事が少ないなと感じたので、こうして書いてみようと思ったわけです。

ちなみに広辞苑で引くと『種々の事を思いついたまま書き記すこと』と記載があって、やはり、後者の意味合いの方が主だって使われる認識だと思っていいと思います。

 

ブログ著者のキャラクターと文体

私自身、日記というか、そういう書いている人の日常が垣間見える記事やブログって好きで、普段の記事からは見えない側面がその人の魅力をあげてくれるというか、キャラクターを構築してくれる気がしています。

キャラクターを構築する要素として、文体もかなり大きな要素だと思っていて、文章を見ただけで誰の記事か分かるっていうのは理想的です。他の人の文章と違うのは、接続詞や語尾辺りの些末なものだと思うけれど、その人らしさというのが出てくるのはどういう原理なんでしょう。

私の場合は、専門的な記事、何かを紹介するような文章になるとついつい文体が変わってしまって、つまらない文章になってしまっている気がします。気をつけないでいると断定型の文章になっていたりとかそういうことが多いんですが、最近はあえて、あまりその辺りは気にしないで書くことにしています。その方が自分らしい文章を書けている気がしています

そんなこともあり、自分の文体を保ちつつ、色々なジャンルの記事を書く人は単純にすごい人だと認識しています。もちろん、論文では無個性を求められるので意識して変えなければいけないんですが、その切り替えというか、上手くやりたいなと思っています。

私のブログは、記事のふり幅が広いので、どんな記事を読んで読者登録してくれたのかとか変な勘繰りをして、一瞬、求められているような記事を書こうかと思いました。でも、やっぱり自分に湧いて出てくるものしか書けないので、小細工は無く、ジャンルは絞らず、自由に書いていきますのでお付き合いください。アフィアフィしたのはこっそりとあげますのでね。

 

知識の共有

ただ、最近考えることは、この文体の部分だけでなくて、雑記の記事で知識をどこまで共有しても良いものかということです。

私の場合、本とかモノのレビュー記事を書くことが多々あるのですが、モノの場合は簡単です。モノの魅力って、使ってみなければ分からないし、食べて見なければ分からないし、いくら紹介したところで完全には伝わりません。それはそれで、もの悲しさを感じる部分ではありますが、記事としてはそれでいいでしょう。

ただ、本の紹介は非常に難しい。特に考え方や実用書などの分野です。

小説の場合、悩むべきはどの辺りまでネタバレを避けつつ、魅力を伝えるかという点で、それはそれで悩ましいものですが、線引きはそこまで難しくありません。

ただ、考え方や実用的な本の場合、伝えようと思えばその内容が全部伝わってしまう。著者のキャラクターが非常に強い場合は例外だけれど(松岡修造さんとかね)、主に読む人が知りたいのは考え方や情報なのだから、それを全て伝えてしまうのはいかがなものかなって。

基本的に言えるのは、自分のフィルターを通して、自分の言葉で伝えないといけないということで、その咀嚼には結構時間がかかったりします。本を鵜呑みにして、そのまま吐き出すのは簡単だけれど、それは自分の考えではないし。

 

考えの源泉

f:id:ibookwormer:20160213235212j:plain

でも、ふと思うのは、その著者ですら色々な書物から知識を得て、その著書を書いているということ。自分の考えって何だろう?


新しいものを生み出す過程である研究ですら、過去に生み出された知識をフルに活用して生み出されているわけで、「オリジナリティー」と声高に叫ばれてはいますが、どこまでオリジナルなものなのかは定かではありません。恐らく99%位は既存の知識で構成されていて、1%位自分の考えが混ざりこんでいるんでしょう。

そう考えてみると、著作権を主張する著書の一体どの程度がその著者のオリジナルな発想から生み出されているものか非常に混沌としてきます。もしかしたら、ほぼ100%過去の知識がそこに盛り込まれているだけかもしれません。それだったら、その本から得た知識を全部ブログで紹介しても良いんじゃないかと思えてきます。もちろん法律があるからダメなんだけどさ。

不思議ですね。自分で考えて、自分が思いついたと思っていても他人の考えを喋って、書いているかもしれません。そう考えるとやっぱり周囲の環境って大切だと思いますね。そんな言葉も、過去に何千何万と言われてきたかもしれませんが、この文脈においては私のものである気もしてくるから不思議ですね。

さて、やはり、最終的には自分の良心に沿って行動するしかなさそうですけど、文体にはその人が映り込むというのはこの文章を書いていても再確認したので、もう少し気にした方がよさそうですね。それは単に面白そうな単語を使うとか、そういった安易なものではない気がします。根拠はないです。そう感じたんですよ。では、また。