DBJは、その前身の日本開発銀行(開銀、JDB)時代から、「民業圧迫」という批判にさらされ、自らの役割を探し続けてきた。
創設は、1951(昭和26)年に遡(さかのぼ)る。「積極的に長期産業資金を供給するため、強力な日本開発銀行を創設したい」。この年の1月11日、特急つばめの車内で、蔵相だった池田勇人は同行記者団にぶち上げた。
終戦間もない日本で、石炭や鉄鋼、肥料などの重点産業に資金を供給していたのは、復興金融公庫だった。だが、復金融資を受けていた昭和電工が、政治家や官僚にワイロをばらまいた昭電疑獄が48年に発覚。赤字の企業へ運転資金を融資し救済することが「非効率な企業を救っているだけ」との批判も浴び、復金廃止、開銀設立につながった。
開銀が、公庫ではなく「銀行」の名を冠したのは、金融機関として「自立」するためだった。富国生命社長から初代総裁に転身した小林中は「自主的にやる心算なので、政党などからの注文は一切受けつけない。たとえ吉田(茂)総理からの注文でもお断りする」と話し、政治の不介入を就任の条件とした。
51年3月に国会で成立した開銀法は第1条で「一般の金融機関が行う金融等を補完・奨励」することが目的にうたわれている。22条には「銀行その他の金融機関と競争してはならない」とあった。
しかし、その2年後には、全国銀行協会連合会が「民間との競争関係に立つ印象を与えている」と批判し、対立があらわになる。
高度成長期から安定成長期に入ると、さらに「民業圧迫批判」や「無用論」は高まっていく。80年には、日本経営者団体連盟(日経連)名誉会長の桜田武が「すでに役割を終えた開銀と輸銀(日本輸出入銀行)は5年ぐらいで廃止するか、統合すべきだ」と発言し、開銀にショックを与えた。
桜田発言の直前、開銀は理事名で雑誌に寄稿し、「公害防止などの個別の課題を早期に解決し、次の課題に対応するのが政策金融。その意味で常に曲がり角に立つのが宿命であり、誇りだ」(3月30日号エコノミスト臨時増刊)と、存在意義を主張し続けた。
90年代以降は、「行政改革」の焦点に浮上する。
バブル崩壊後の景気対策を通して、93年度に開銀の融資は急拡大するが、景気が回復基調になってくると、再び開銀批判が高まる。
95年、自社さの連立与党は開銀の「スリム化」を決定。さらに、橋本政権では97年、開銀を「廃止」し、北海道東北開発公庫と統合して新法人を設立することを決めた。苫小牧東部開発とむつ小川原開発で巨額の不良債権を抱えた北東公庫の救済合併だった。開銀は48年続いた看板を下ろし、99年にDBJになった。
皮肉なことに、「廃止」が決まって新銀行の準備に入った97~98年にかけて銀行の貸し渋りが深刻化し、開銀の出融資は再び急拡大した。
01年の小泉政権下では、DBJを含む政府系金融機関の再編が検討されたが、霞が関の抵抗や民間銀行の不良債権処理のタイミングと重なったことで、先送りになった。
05年9月、郵政民営化を争点にした衆院選で圧勝すると、小泉は当時の経済財政担当相の竹中平蔵に改めて再編案づくりを指示。11月の経済財政諮問会議で「民営化」の流れが固まった。
政策金融改革を盛り込んだ行革推進法は06年の通常国会で成立した。8機関のうち、5機関を統合、DBJを含む2機関の完全民営化を決めた。(左下図表参照)
08年10月、DBJは株式会社化された。13~15年には、政府が株式のすべてを手放し、根拠法も廃止されれば、普通の民間企業と同じ存在になるはずだった。政府系金融機関としての歴史に終止符を打つカウントダウンが始まったかのように見えた矢先に起きた今回の金融危機。完全民営化のスケジュールは見直され、先行きは再び不透明になっている。
(文中敬称略)