(最終連載4)デマをどうやって無くしていくべきか 林 智裕
デマは悪徳商法などと同質の、他者に一方的な犠牲を強いる営利獲得手段にも利用されています。これを言論の自由として保護することは一方で被害の更なる増加や、「力の論理」で押しやられた弱者の人権と言論の自由を毀損させることを意味します。リスクやペナルティをほとんど受けることなく、大きなメリットを享受できる根本的な仕組みが変わらなければ、これからもデマとニセ科学は流行性のウィルスに毎年亜種や変種が現われるのと同じように、次々と再生産され続けることでしょう。
デマは人の不安や「わからない」に依拠しておりますので、客観的事実や知見など情報の共有不足、データや結論が出るまでの待ち時間といった僅かな隙さえあれば簡単につけこむことができます。社会に不安が蔓延している状態では特に、たとえ膨大な労力とデータで検証を行っても、その結論が出るよりも先に新しいデマが生まれる速度の方がはるかに早い上に、伝達や拡散力においても比ではないでしょう。デマと検証の間にある必要コストの不平等には圧倒的な開きがあります。
被害を無くしていくためには予防が最も重要であり、デマやニセ科学の典型的な手口が予防知識として社会に広く常識化され、ワクチンのように作用していくことが望まれます。
その上で、一度広がり定着してしまったデマを後から訂正することは困難を極めます。
そもそもデマがデマであることを伝えるためには、受け手にそれを知ろうとする努力(≠不快)を求めるものですが、苦労させられた側にそれに見合った判りやすいメリットは見えにくいものです。
しかもどれだけ正当性があったり言葉を選んで批判をしようにも、批判という行為そのものが拒否や排他性を必ず含むものであり、事情を良く知らない方や中立的な立場を望む方には肝心の伝えるべき内容そのものではなく、不快でネガティブな印象だけしか残らないリスクも伴います。
加えて、先ほどお話したような「大きな声」による情報の断絶によって、福島県内の方が直面している課題や感じている感覚と、県外の方の感覚や情報との間に相当のズレがあることが前提として想定されます。県内からデマ被害の声が強く出てくることは県外の方の多くにとってはもしかすると唐突で、違和感と困惑を感じてしまうかも知れません。特に、おそらく一番多い「よくわからないけどなんとなく怖い」という、ある意味当たり前の感覚を持っている方々をいたずらに排除するような方向に向かうことは、あってはならないと思います。
被害を訴える側は5年近くの間、声が大きい代弁者の「活躍」によって被害を訴える機会が横取りされ続けた結果声が社会に充分に届かず、震災直後から続くやり場の無い想いを孤独に抱え続けた一面もあります。一方で支援する側は5年間近くも支援を続けてきたのに一向に改善や感謝が聞こえてこない、その上いつまでも文句ばかりを言っているように見えることで支援疲れや反感を感じてしまう方がいるのも、無理はないでしょう。
結果として、特にデマに苦しめられてきた人たちが自力で被害を強く訴えたりデマを否定しようとするほど、説得するべき第三者や、本当に助けてくれている方にまで不快感を与えながら益々孤立を深めていくという悪循環の構図に陥ります。先ほどもお話したように「福島はなんだか感じが悪い」「せっかく助けてきたというのにあんまりだ」「難しい、怖い、面倒くさい、関わりたくない」とされて分断を相互に深めてしまうのです。
さらに、声が届かない理解されない苛立ちやデマを憎む余りに、仮に発言への反論ではなくデマゴーグそのものへの人格攻撃や暴言までもが飛び交うケースが発生すれば、悪印象は益々エスカレートすることでしょう。
そうなれば、たとえ放射線についての誤解が解けたとしても、多くの人が福島を避ける理由が放射線から別のものに変わるだけです。たとえ風評被害を無くしたとしても、そのために福島が嫌われてしまっては本末転倒ですから、それを恐れて痛みに耐えて沈黙する方も多いですし、同じ県民でもデマに反論することを嫌う人も沢山います。
これはとても難しい問題で、「わざわざネガティブなことを言っても嫌われるだけで何のプラスにもならない」という合理性のために、光と影が混在する被災地の状況に光だけを求めて、いわば「笑顔ではない被災地は認めない」と言わんばかりに、それぞれの人が受けている被害や心情を押し殺しての泣き寝入りを強要する圧力にもなります。それは例えば学校でいじめが起こった時に、クラス全体の空気が悪くなるのを嫌って誰か一人がいじめられているのを黙認することにも似ているのかも知れません。
しかしそれと同時に、そうやって言論を封殺される被害者である立場の「弱者」が一転、放射線への不安や喪失感を訴える方に対しては、「科学的ではない」「勉強が足りない」として、同様に光の部分だけを求めて不安を封殺しようとする立場に回ることもあります。
さらに視点を変えると、そうして光を求める声に封殺されそうになる側の「弱者」もまた、光と影が混在する被災地の状況に「フクシマ」という影だけを求めて、「笑顔の被災地など認めない」と言わんばかりに震災後の変化や復興を一切無視して、現地が努力して積み重ねてきた客観的な知見やデータなどの成果をデマや偏見で貶めて封殺しようとする立場にも回りがちです。
原発事故の被害にはこうした立場の違いが複雑に絡み合っていて、敢えて言えばそこには完全な強者も弱者もなく、単純な二項対立にもできません。誰もが傷ついていながらも、それぞれの方にとっての福島、或いは「フクシマ」や目指す「復興」の方向が並列できないほどの矛盾に満ちているために対立が起こっています。そのどれもが紛れもない「当事者の生の声」でありながら、声を聞く相手や見る角度によって「福島の声や姿」は全く違うものに見えてくるでしょう。