※樋口李一郎
樋口は、ユダヤ難民の救出を万全にするため、二方面での作戦をとった。
まずは正面突破の作戦として、満州国外交部参事官若宮三郎の説得にかかった。
「満州国は独立国家である。何も関東軍に気兼ねすることはない。ましてや、ドイツには遠慮は無用である。ことは人道問題だ。国境の寒さは激しい。一日延ばせば、難民の100人以上の難民が失われる。一刻も早く、入国を決断していただきたい。全ての責任は、この私にある」
次に、正攻法の作戦が失敗した場合に備えて、満州鉄道の松岡総裁に掛け合った。樋口と松岡は旧知の仲だった。
「私が責任を持ちますから、特別の列車を仕立てて下さい」
満鉄には、対ソ連戦争に備え、いつでも数万の軍隊を輸送できる体制が敷かれていたのだ。
暫しの黙考の後、
「わかった」
松岡は応答した。
松岡は日本が国連を脱退した際の外務大臣で、数々の政治的失敗を残すが、樋口の「ユダヤ難民を助けるべきだ」との懇願を受け入れたことだけは、評価に値するだろう。
松岡は直ちに救援列車の出動を命じた。ユダヤ難民がテントを張る「オトポール」に隣接する「満州里」駅から、樋口のいる「ハルビン」は1000キロ近いが、その間をさながらピストン輸送するかの如く、満鉄が誇る高速列車「あじあ号」、なんと13便もが救援列車として編成され、各便には、樋口の部下が警乗した。
それから2日後、ハルビン駅は、多くの命を乗せた救援列車がホームに何台も滑り込んできた。
ハルビンにはカウフマンをはじめ、ユダヤ人協会の幹部や医師が、救援班を編成し、温かい飲み物や医療等の点検に忙しく働きまわっていた。
列車が停まると、救護班が真っ先に車内に飛び込んだ。
病人や凍傷で歩けないヒト達が、次々とタンカで運び出されてくる。
その後から、死の恐怖から解放された難民たちの喜びの声がホームのあちらこちらに起きた。
誰彼の別なく、肩に飛びつき、抱擁して泣き崩れる。
やつれはてて、眼ばかりギョロつかせていた子供たちは、ミルクの入った瓶を見ると、一心にしゃぶりついた。
「助かって良かった。本当に良かった」
カウフマンは、生死をさまよった同胞の多くの命を救えたことに、涙を流して喜びながら、嬉々として難民たちの中を駆けずり回った。
樋口のもとにあ、オトポールの難民全員が、ハルビンの病院などに収容されたという報告がもたらされた。
凍死者10数名、病人と凍傷患者20数名は病院で手当を受け、他の者は公共施設で炊き出しを受けているという。
もし、1日、1時間でも救援列車の出動が遅れていたら、加速度的に犠牲者は増えていただろうと、医者達が語り合っていたことも樋口に伝えられた。
樋口の親友で同じ関東軍参謀の安江が、心配になって樋口に訊いた。
「樋口よ、オマエの指図に従って、ユダヤ難民の面倒をみている者だけには、責任が及ばないようにしてやれよ」
樋口はうなずきながら、
「大丈夫だ。この件は全部、俺に責任がある。俺は、信念で行動する以上、命をかけていることは、オマエも知っているだろう。心配をかけて済まない」
安江は、「俺もできるだけのことをしてみるが、そこまで腹が決まっているなら、何も言わない。しかし、何だか気持ちが良いな」と笑った。
樋口も満面の笑みを浮かべ、「そうだな。今晩は酒が美味しく飲めそうだ」
二人は腹を抱えて笑った。
樋口のとったユダヤ難民保護に対して、案の定、ドイツから猛烈が抗議がきた。
リッペンドロップ独外相は、オットー中日大使を通じて、苛烈とさえ言える抗議文書を外務省に届けた。
抗議文書は外務省を通じて陸軍省へ回付され、樋口はその日のうちに、関東軍司令部への出頭命令が下された。
出頭命令に対して、樋口の部下たちは激怒して騒いだ。
いつしか樋口の部下も、樋口に感化され、人道的な見地から物事を見据える眼を持つようになっていたのかもしれない。
樋口は部下たちに「進退を迫られるのは覚悟している。主張するべきことは思いっ切り主張し、いさぎよく野に降る考えだから、後をよろしく頼む」と泰然としていた。
果たして出頭当日の朝、ハルビン駅の待合室で樋口が列車を待っていると、事情を聞きつけたカウフマンがあたふたと駆け込んできた。
「ゼネラル!新京に出頭命令を受けたそうですね。私達のために申し訳ない」
カウフマンはハンカチで顔を伏して嗚咽しながら言った。
「ドクター!私は自分で決断して正しいことをやったのだ。心配無用だ」
樋口は両手を肩にかけ、笑いかけるのだった。
やがて車上のヒトとなった樋口を、カウフマンは祈るように見送った。
樋口に対する査問は、植田司令官に代わって、関東軍の実権を握っていた参謀長の東条英機によって、参謀長室で行われた。
樋口は先手を用い、
「私は、このような呼出をうけること自体に、大きな疑問を持っている」
東条は、丸いメガネごしにじろりと見て、
「さようか。ならば言い分を聞かせてもらおうか」
樋口はここぞとばかりに、一気呵成に人道的行動について責任を問われること自体が不当である旨を訴えた。
併せて、
先の日露戦争の危機において、日本は金銭面でユダヤ民族に救われている。明治天皇は「この恩は決して忘れない」というお言葉を述べられておられる。
今般の機会は、わが国がユダヤ民族に報恩する機会であるし、天皇の御心を果たすのが我々の務めだと確信している。
日独間の国交の親善が必要だとしても、日本はドイツの属国ではない。満州国もまた日本、ドイツの属国では無い。今回のユダヤ難民を救出に携わった日本人の責任を追及することに大きな疑問を持つものである。
そのような主張を展開した。樋口からすれば、責任追及は自分だけで充分。他の人間に及ぶことがあってはならないとの思いがあるので、必死だった。
東条は返事に窮し、天井を見つめ、暫く考えたあとで言った。
「樋口君、よくわかった。あなたの話はもっともである。ちゃんと筋が通っている。私から中央に対して、よく伝えておこう。もう帰ってよろしい」
東条は東京の軍本部から責められていたが、樋口の言う「人道」に従ったのだ。
樋口は東条の査問を受けたその足で、関東軍副参謀の石原莞爾の部屋に立ち寄った。
「やあ、石原。軍を退職するつもりで東条さんに会ってきた。説明したら、もう帰れと言われた」
「よくユダヤ人を助けたな。キミだからあんな大仕事ができたんだ。東京の本部では大騒ぎだろうが、気にするな。良くやった。あとは上等兵(東条の事)に任せておけ」
日本としては、樋口をこのままハルビンに置いておくことはできなかった。間もなく、樋口に転出命令が下された。
樋口の転出命令はいち早くユダヤ人社会を駆け巡った。もっとも衝撃を受けたのはカウフマン博士だった。
悄然とした足取りでカウフマンは樋口を訪ねた。
「ゼネラル!私たちはゼネラルがいなくなったら、誰に頼ればいいか、判りません。恩に報いることができずに、申し訳ありません」
カウフマンは樋口の手を握って放そうとしない。
「博士、申し訳ない。しかし、心配は要りません。私から責任をもって、後任者に博士のことはよく伝えておくから、安心して下さい」
樋口もハルビンを去ることは、後ろ髪をひかれるような思いだったが、後任は気心の知れた、気立ての良い秦彦三郎少将だった。それだけは救いだった。
樋口の出発の当日、ハルビン駅は何と2000人以上の見送りの群衆で埋め尽くされた。ユダヤ人がその殆どだ。その中には、数十キロの奥地から、わざわざ馬車で駆けつけたユダヤ開拓民たちも混じっていた。
樋口が駅前に立つと、一斉にバンザイの声が沸き上がった。
「ゼネラル ヒグチ バンザイ」
「ゼネラル ヒグチ アリガトウ」
連呼が止まなかった。
孫に手を引かれた白髪のユダヤ人老婆は地面に膝まずいて樋口を拝み、涙を流した。
「お見送り、ありがとうございます」
樋口はその老婆の肩に手を置き、抱き起した。
樋口を乗せた「あじあ号」が小さくなっても、ユダヤ人たちは手を振り続けた。列車が見えなくなっても、誰も帰ろうとしなかった。
その後、樋口はキスカ島奇跡の脱出作戦等を演出等、様々な武功を立てるが、ここで樋口の軍功を語るつもりは無い。
ただ、わが国の難民救済の伝統は、現代においても息づいており。国連難民高等弁務官の要職を日本人が担ってきていることにも受け継がれている。
(2日間に亘り読んでいただき、ありがとうございました)
前回の続きを書く。
クリスマスを過ぎると、年末年始シーズンだ。
みんな実家に戻り、思い思いの年の瀬、新年を過ごす。
ただ問題は、年末年始も帰るところのない従業員だ。
飯場を閉められたら、行くところがない。
「困ったなぁ…もう、無人駅生活なんて絶対嫌だし」
思案に暮れていると、俺と同じように帰る家を持たない人間が数名いることが判った。
一番年長のヒト(苗字は忘れたので「年長さん」とする)に訊いてみた。
「年末年始も帰らないヒトを集めて、この飯場も開けてもらえるように、社長に談判しませんか?」
年長さんは、
「そうだな。それじゃ、各部屋で、同じような境遇の人間を集めて、みんなで社長のところにお願いしに行った方がいいな」
腕組みしながら、言った。
当日から調べたところ、俺と年長さんを含めて、合計4名が「行く宛の無い人間」だということが判った。
事を起こすなら早い方が良い。
仕事納めの2日前だから、12月27日だったかな。
夕食後、社長のところに4人で談判することとなった。
ただ、基本的には年長さんが社長にお話をして、他の人間は必要に応じて、クチを挟むという形にした。
「専務の顔は給料日に見るけど、社長の顔は見たことないな」
どういうヒトなのか興味があった。
果たして、その瞬間がやってきた。
ドアをノックするとドスの効いた声で「はい」とドアが開いた。
角刈りの50前後のオヤジさんだ。結構、貫禄があった。
結論から言うと、年末年始は、一部屋だけ飯場を開ける。但し、条件として、
1 年末年始も飯場で過ごす者は、自分の荷物と布団を持ち寄り、その「一部屋」に集まる。
2 電気は使えることにするが、ガスは閉める。よって、風呂も入れない。
3 酔っ払って、大騒ぎしない。
4 食堂も閉めるので、食事は各自で摂ること。
そのような条件が付された。
2番だけは「(;´Д`)」となったが、構うことはない。社長が実家に帰ったら、南京錠をこじ開けて、勝手にお風呂に入ってやる。
全ての条件を受け入れて、談判は終了となった。
そして、12月29日、年内全ての仕事が終わり、各人は一斉に実家に帰ったり等で飯場から散っていった。
そして残った4人だけの、子羊みたいに肩寄せ合っての生活が始まった。