前回のつづき。
現在のあらかわ遊園の境界塀。煉瓦製だがイメージしていたものと違う。
一本南側の通りへ行ってみた。
すると、ありました!
大正11年(1922年)5月の開園当初に作られた煉瓦塀。その翌年の関東大震災にも耐えたことになる。
道路のカーブに沿って曲りながら続く煉瓦塀。
内側は別々のお宅が建つ。
ふさがれた丸穴。
ごみ回収も煉瓦の前で。
見事なアーチがある場所も。
こちらのお宅では煉瓦塀側に玄関を設けていたが、壁も煉瓦タイルで合わせていた。
場所によって異なるが、高さは180~190cmほどか。
凹型のカーブも。
中帯の上段は長手積み、下段はイギリス積み(長手の列と小口の列とが交互になる)
煉瓦塀の全長は175mになるそうだ。
中帯の中も煉瓦だった。
ここは修復が必要か。
枝道から民家の庭側から。
曲り角の「角」
曲がり角の先にもつづく。
この一辺での背の高い部分は、かつて塀の裏にあった煉瓦造の小屋の壁面部分とのこと。
貴重な遺構がかなり連続して残っているということは、不便があっても所有者の方が大事にされているということなのだろう。
「帯」が「屋根」に変わる箇所。
切り口は結構厚みがあった。
この部分には塀の間を道が通っている。かつての遊園地出入口か。
道路の裏側から見たところ。
片方は門柱の形がきれいに残っている。
そばに説明板があった。
荒川(現隅田川)沿岸の煉瓦工場とあらかわ遊園
大正11年5月(1922)に開業したあらかわ遊園は現在よりも南東に広く、住宅地である西尾久6丁目20番と21番、34番も遊園の敷地内だった。この敷地を取り囲むように建てられていたのが、このあたりに残る煉瓦塀である。
あらかわ遊園の創設には、当時煉瓦工場を経営していた広岡幾次郎(後の広岡勘兵衛)が尽力したといわれる。広岡は、明治30年代から遊園の西部(西尾久6丁目36番付近)で煉瓦工場を経営していた。これが広岡煉瓦工場で、のちの王子煉瓦株式会社と考えられる。しかし、大正10年12月に漏電による火災で工場を焼失したため、工場の敷地を含めた2万坪余りを人々の行楽地として整備したという。これがあらかわ遊園で、その際に煉瓦塀も造られたといわれる。
この煉瓦塀は、荒川(現隅田川)沿岸の地場産業であった煉瓦工場とあらかわ遊園との歴史を物語る文化財として現在も地域の人びとに大切にされている。荒川区教育委員会
その先も数十m、煉瓦塀は私有地の境界につづく。
前回にも引用した資料「煉瓦のある風景」には煉瓦塀の位置も示されていた。
民家の前の道も隅田川の土手で行き止まり(上の地図の右上)
紅梅が咲き誇っていた。
ストリートビューでも楽しめます。
つづく。