賀茂斎院から見る『源氏物語』年立論

〜桐壺帝女三宮の卜定と、朝顔姫君の本院入りを巡って〜(改訂版)




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    『源氏物語』における最初の賀茂斎院(賀茂斎王)は、「末摘花」で名前のみ登場した。この人物はその後「花宴」と「葵」の間に退下した斎院と同一人物であると思われる(本稿では以下「桐壺帝斎院」とする)。
     この桐壺帝斎院については出自不明であるだけでなく、退下の事情も一切作中に記されない。また退下の時期も明確でないが、「葵」冒頭で「そのころ、斎院もおりゐたまひて」(「葵」(2)p20)とあることから、現在通説とされる年立では伊勢斎宮の交替と同じく桐壺帝譲位に伴って退下、その後朱雀帝即位により新斎院として、朱雀帝の同母妹である桐壺帝女三宮が卜定されたと見なされてきた。
     しかしこの年立では、『延喜式』の規定と矛盾する点があることも既に指摘されており、作者紫式部の思い違いによるものではないかとの説も出されている。これについて、9〜10世紀の歴史上の斎院制度と比較しつつ、「葵」から「賢木」に至る斎院のあり方を検証する。

     なお本稿では以下、賀茂斎院を「斎院」、伊勢斎宮を「斎宮」と表記する。また両者を合わせて「斎王」と表記する。


  1. 賀茂斎院の卜定から本院入りまで

     賀茂斎院の卜定に際し、『延喜式』巻第六「斎院司」は次のように定めている。

    凡天皇即位、定賀茂大神齋王、仍簡内親王未嫁者卜之、<若無内親王者、依世次簡諸女王卜之>
    卜食訖遣勅使於彼家、告示事由、神祗祐已上一人率僚下随勅使共向、卜部解除、神部以木綿著賢木、立寝殿四面及内外門、<木綿賢木所司備之、解除料等本家儲之>(中略)
    凡定齋王畢、即卜宮城内便所、為初斎院、即先臨川頭、祓潔乃入(中略)
    凡齋王於初齋院三年斎、畢其年四月始将参神社、先擇吉日、臨流祓禊、<供神料同初度禊>

    (『神道大系 古典編十一 延喜式(上)』神道大系編纂会,1991)


     新斎院卜定があると、まず斎院家に勅使が立ち、斎院は自邸で潔斎に入る。その後宮中の初斎院を定め、斎院は賀茂川で禊の後、初斎院に入る。これを「初度御禊」と称する。
     次に、卜定から3年目の四月、再び賀茂川で禊を行い、その後初めて紫野の本院(紫野斎院、紫野院、野宮とも称する)へ入る。この二度目の御禊は各注釈や先行研究では「二度の御禊」「再度の御禊」と言われることが多いが、『延喜式』に「尋常四月禊 右供神料并儀式、同入初斎院之禊儀、但無勅使」とあることから、本稿ではこの二度目の御禊を以下「初斎院御禊」とする(※なお史料によっては、「初度御禊」のことを「初斎院御禊」と表記している場合もあるので、注意が必要である)。
     そして「初斎院御禊」以後、本院入りした斎院が毎年行う御禊を「尋常四月御禊」と称する。「初度御禊」と「初斎院御禊」は斎院一代に一度しか行われないのに対して、それ以外の御禊は斎院退下まですべて「尋常四月御禊」である。

     現在通説の『源氏物語』年立では、桐壺帝譲位・朱雀帝即位と斎宮・斎院の交替を「花宴」翌年(源氏21歳)のこととする。またその中で「葵」の御禊は、二度目の初斎院御禊であるとされる。


    現在通説の『源氏物語』斎宮・斎院に関連する年立て
    光源氏年齢巻名 当時の天皇出来事
    20花宴桐壺帝2月、紫宸殿の桜花の宴が開かれる。
    21(空白)朱雀帝桐壺帝譲位、朱雀帝即位。
    前坊姫宮(以下秋好)、新斎宮に卜定。
    桐壺帝女三宮、新斎院に卜定。
    (同年初度御禊?)
    22朱雀帝4月、桐壺帝女三宮、初斎院御禊。紫野本院入り。
    秋、斎宮秋好、初斎院入り。9月、野宮入り。
    23賢木朱雀帝9月、斎宮秋好と母六条御息所、伊勢へ下向。
    11月、桐壺院崩御。桐壺帝女三宮、斎院退下。
    24賢木朱雀帝朝顔姫君、斎院卜定。
    29澪標冷泉帝朱雀帝譲位。斎宮秋好退下。
    32薄雲冷泉帝桃園式部卿宮死去。朝顔姫君、斎院退下。


     これについて、最初に初斎院御禊説を唱えた一条兼良の『花鳥余情』には、その根拠が次のように述べられている。

     斎院の御禊は二度あり。初斎院に入給はんとて御はらへあり。又紫野の野宮に入給はんとて御はらへあり。此巻の御禊は二度の禊也。其証これおほし然ば初度の禊同月にあるべしや。同月の事はその例なき故也。(中略)
     今案賀茂の斎院は卜定ありてのち、東河にのぞみ給て御そぎの事ありて、すぐに初斎院に入給ふ。初斎院とは、大内の中に大膳職或左近府などを点して、それにて三年潔斎の事あり。其年の四月に御社へまいり給はんとて、まつりのまへに吉日を撰て又御禊の事あり。すなはち紫野の野宮に入給ふ。これを二度の禊といふ。さて中の酉の日、賀茂社へ参給て祭事にしたがひ給ふなり。毎年の御禊はかならず午の日これを修するなり。
     今女三の宮はきりつぼの御門の御譲国ののち卜定ありて、初斎院へ入給ふべし。初度の禊の事は此物語にみえず、今此巻にいへるは野宮へ入給はんとての二度の御はらへをいへり。その故は、初度の禊には勅使参議一人供奉す。二度禊には大納言中納言参議以下あまた供奉す。毎年の禊には公卿一かう(向)に供奉せず。此巻云、御禊の日かんだちめかずさだまりたる事なれど、かたちあるをえらせ給ふ。延喜式に、二度の禊の勅使には大納言中納言各一人、参議二人、四位五位各四人すべて十二人の勅使なり。これをかずさだまりたるといへり。源氏の大将は参議二人の中なるべし。これをもてこれをいふに、此巻にいへるは二度の禊うたがひなき物也。

    (※『松永本花鳥餘情』(桜楓社、1978)より。句読点・濁点・下線・括弧内注記は引用者による)


     現在の主な注釈書もすべてこの判断を妥当としており、「「葵」の御禊=初斎院御禊」はほぼ定説となっている。しかし桐壺帝譲位・朱雀帝即位と斎宮・斎院の交替を「花宴」と「葵」の間の年とした上でこの説を取ると、卜定から2年目の「葵」で新斎院(桐壺帝女三宮)が早くも初斎院御禊(=本院入り)をしており、「卜定から3年目(つまり翌々年)に本院入り」とする『延喜式』の規定よりも1年早いことになる。


     ここで改めて、『源氏物語』執筆以前の、10世紀末までの歴代斎院の卜定・初斎院入り・本院入りの時期を再確認してみる(なお初代有智子から3代高子までは初斎院入り・本院入り共に記録が残っていない。ただし賀茂斎院制度自体が伊勢斎宮制度に倣ったものであることを考慮すれば、最初から初斎院が定められていた可能性もある)。



    斎院
    (生没年)
    在任時の
    天皇
    卜定 初斎院入り 初斎院 本院入り 退下 退下理由
    1 有智子
    (807-847)
    嵯峨
    淳和
    弘仁元年(810)? 不明 不明 不明 天長8年(831)
    12月8日
    老病
    2 時子
    (?-847)
    淳和 天長8年(831)
    12月8日
    不明 不明 不明 天長10年(833)
    2月?
    天皇譲位?
    3 高子
    (?-866)
    仁明 天長10年(833)
    3月26日
    不明 不明 (承和2年(835)
    4月20日?)
    嘉祥3年(850)
    3月
    天皇(父)崩御
    4 慧子
    (?-881)
    文徳 嘉祥3年(850)
    7月9日
    不明 不明 仁寿2年(852)
    4月19日
    (本院初出)
    天安元年(857)
    2月28日
    不明
    5 述子
    (?-897)
    文徳 天安元年(857)
    2月28日
    不明 不明 不明 天安2年(858)? 天皇(父)崩御?
    6 儀子
    (?-879)
    清和 貞観元年(859)
    10月5日
    貞観元年(859)
    12月25日
    (初斎院初出)
    不明 貞観3年(861)
    4月12日
    貞観18年(876)
    10月5日
    7 敦子
    (?-930)
    陽成 元慶元年(877)
    2月17日
    不明 不明 元慶4年(880)
    4月11日
    元慶4年(880)
    12月?
    上皇(父)崩御
    8 穆子
    (?-903)
    陽成
    光孝
    元慶6年(882)
    4月9日
    元慶6年(882)
    7月24日
    不明 仁和元年(885)
    6月28日
    仁和3年(887)
    8月
    天皇(父)崩御
    9 直子
    (?-892)
    宇多 寛平元年(889)
    2月27日
    寛平元年(889)
    9月23日?
    不明 寛平3年(891)
    4月15日
    寛平4年(892)
    12月1日
    斎院死去
    10 君子
    (?-902)
    宇多
    醍醐
    寛平5年(893)
    3月14日
    寛平5年(893)
    6月19日
    宮内省 寛平7年(895)
    4月16日
    延喜2年(902)
    10月9日
    斎院死去
    11 恭子
    (902-915)
    醍醐 延喜3年(903)
    2月19日
    不明 不明 延喜5年(905)
    4月18日
    延喜15年(915)
    5月4日
    母死去
    12 宣子
    (902-920)
    醍醐 延喜15年(915)
    7月19日
    不明 不明 延喜17年(917)
    4月16日(19日?)
    延喜20年(920)
    閏6月9日
    斎院死去
    13 韶子
    (918-980)
    醍醐
    朱雀
    延喜21年(921)
    2月25日
    不明 不明 延長2年(924)
    4月14日
    延長8年(930)
    9月29日
    上皇(父)崩御
    14 婉子
    (904?-969)
    朱雀
    村上
    承平元年(931)
    12月25日
    承平2年(932)
    9月25日
    左近衛府 承平3年(933)
    4月12日
    康保4年(967)
    5月?
    天皇崩御?
    15 尊子
    (966-985)
    冷泉
    円融
    安和元年(968)
    7月1日
    安和元年(968)
    12月27日
    左近衛府 天禄元年(970)
    4月12日
    天延3年(975)
    4月3日
    母死去
    16 選子
    (964-1035)
    円融
    花山
    一条
    三条
    後一条
    天延3年(975)
    6月25日
    貞元元年(976)
    9月22日
    大膳職 貞元2年(977)
    4月16日
    長元4年(1031)
    9月22日


     この中で、卜定から本院入りまで最短の例である14代斎院婉子は、承平元年(931)12月25日卜定→同2年(932)9月25日初斎院→同3年(933)4月12日本院入りと、合計1年4ヶ月をかけている。本院入りは賀茂祭直前に行われるものと定まっていたようで、少なくとも記録に残る限り、8代斎院穆子の6月が唯一の例外であり、11世紀以降も歴代斎院の初斎院御禊及び本院入りはすべて4月であった。よって原則としては、年の始めに卜定された斎院ほど、本院入りまでの期間が長いことになる(ただし1月の卜定は行われなかったと見られるので、実際には2月卜定の場合が26ヶ月で最長と考えられる)。

     上記の歴代16人の斎院の例を見ると、本院入りの時期が判明している12人のうち、卜定から本院入りまでに丸3年(36ヶ月)を越えたのは7代敦子(38ヶ月)・8代穆子(38ヶ月半)・13代韶子(37ヶ月半)の3人である(※なお本院の初出は、『日本文徳天皇実録』(仁寿2年4月19日条)の4代慧子の記録「是日始入紫野斎院」だが、3代高子についても『続日本後記』(承和2年4月20日条)に「禊于賀茂川、始入斎院」とあり、卜定から2年1ヶ月後に「斎院」に入っていることがわかる)。
     まず7代敦子については、『日本三代実録』(元慶4年(880)4月11日条)の「紫野院」入りの記事に「去年可入野宮。縁穢而停。非緩也」とあることから、本来は前年に本院入りするはずであったものが、「縁穢」によって延期されたことがわかる。この「縁穢」は元慶3年(879)3月23日の太皇太后正子内親王(敦子の曽祖父仁明天皇の姉妹)崩御によるものと思われ、同年4月の賀茂祭・梅宮祭等が停止となった。
     次に13代韶子については、延期とその理由について明確に触れた記録はないが、延長元年(923)3月21日の皇太子保明親王(韶子の異母兄)の薨去で同年4月の賀茂祭が中止となっている。恐らくこれに合わせて賀茂祭直前に行われるはずだった韶子の初斎院御禊も、同様に取りやめられたと思われる(なお承平7年(937)3月29日に14代婉子の同母兄代明親王が薨去した際も、斎院の賀茂祭参加の是非が問われており、祭は一日延引となったが中止はされていない。韶子の場合も、保明薨去に先んじて2月10日に同母姉慶子内親王が薨去しているが、この件については影響はなかったものか)。
     最後に8代穆子については、卜定から近い時期に上記2例のような皇族(特に天皇・皇后・皇太子等)の死亡記事は見当たらない。ただし元慶8年(884)2月に陽成天皇の退位と父光孝天皇の践祚・即位があり、さらに同年3月22日には異母姉妹の繁子内親王が斎宮に卜定され、4月9日には斎院穆子、斎宮繁子が共に内親王宣下を受けている。こうした慌しさの中で、4月19日の賀茂祭自体は「如常」挙行されたものの、穆子の本院入りは「斎内親王不向神社」として後回しになったものかと推測される。
     そして1年後の仁和元年(885)4月10日、『日本三代実録』に「是日賀茂斎内親王擬祓河辺便入紫野院。」とあり、本来であればこの日が本院入りの予定であったが、「今月八日。弁官有人死穢。因而停止。」のためさらに延期、結局同年6月28日に本院入りしている。今井上氏が指摘しているように(注1)6月の本院入りは他に例がないが、穆子の場合は既に1年延期されていたため、さらに翌年まで延長にするのは避けられたのだろう。

     以上のように、少なくとも7代敦子と13代韶子は共に皇族(それも太皇太后、皇太子等の重要人物)の死去が影響した例外である。また他の9人(3代高子も含めれば10人)の斎院は最長でも26ヶ月で本院入りしているところから見て、斎院の本院入りは『延喜式』の規定通りに行われていたものと思われる。このことからも、原則としては婉子の例が卜定から本院入りまでに可能な最短期間であり、制度上これより早い本院入りはありえなかったことが裏付けられよう。

     また『源氏物語』作中で、新斎院となった桐壺帝女三宮は「帝、后いとことに思ひきこえたまへる宮」(「葵」(2)p20)であったと述べられている。愛娘が心ならずも斎院に選ばれ、桐壺院と弘徽殿大后は「筋異になりたまふをいと苦しう思したれど」(「葵」(2)p20)と嘆いたが、大后は朱雀帝即位の後も「今后は心やましう思すにや、内裏にのみさぶらひたまへば」(「葵」(2)p17)とあるように宮中で暮らしていた(加えて同母姉の女一宮も后腹の長女であり、また後に「斎院など御はらからの宮々おはします」(「澪標」(2)p319)と、兄上皇や前斎院女三宮と共に朱雀院にいたらしいとされることから、史実の康子内親王・資子内親王のように母大后と共に内裏住みであったのではないか)。となれば、新斎院が宮中の初斎院にある間はむしろ里邸の右大臣家よりも近くにいたことになり、また六条御息所が娘の斎宮(秋好)に付き添って野宮入りもしているとも語られている(「賢木」)ことから、潔斎中とはいえ母娘の面会も比較的容易であったと思われる(なお歴史上では、選子の次の斎院馨子内親王の時、母中宮威子(後一条天皇后)がしばしば初斎院や本院へ行啓している。また文学作品においても『狭衣物語』で、斎院に卜定された源氏宮が卜定所となった大弐邸にいる間は養母の堀川上がつききりで、堀川大臣も頻繁に出入りしたとの描写があり、穢れの問題さえなければ肉親が潔斎所へ出入りするのは特に問題はなかったとみられる)。
     しかし初斎院御禊を経て紫野本院に入れば、大后が宮中に留まる以上、以後桐壺院女三宮の退下までの間母娘の対面の機会は殆どなかったであろう。まして大后の「いとおし立ちかどかどしきところものしたまふ」(「桐壺」(1)p36)人柄を考慮すれば、ただでさえ手放しがたく思う娘を通例より1年も早く本院入りさせることに同意したとは考え難い。
     一方逆に桐壺帝譲位を「花宴」の年とすると、今度は「賢木」での伊勢斎宮下向の年が丸3年後となる。斎宮の卜定から群行までの期間は、飛鳥〜奈良時代には一定しないこともあったが、平安時代の布勢内親王以降はすべて卜定から2年後の3年目に群行が行われており、『延喜式』規定のとおり制度として確立されていたと見られるため、この年立もやはり矛盾することになる。この斎宮・斎院卜定に関する年立の齟齬が、「葵」における問題点のひとつとされてきた。

     先行研究では、原田芳起氏の「源氏物語年立論への疑い:葵の巻前後の部分構図について」(1960,注2)、今井上氏の「『源氏物語』の死角 : 賀茂斎院考」(2012,注3)がこの点を重視し、従来の説に異論を唱えている。
     原田氏は「葵」での斎院御禊が従来言われてきた「二度の御禊(初斎院御禊)」ではなく「初度の御禊」であろうとしている。また今井氏はそもそも作者紫式部や当時の人々が斎院卜定から本院入りまでの儀礼について正確な知識がなく、ために誤った記述になったのではないかと推測した。特に今井論文は、当時の斎院であった16代選子のあまりに長い在任期間が一条朝の宮廷社会にもたらした影響について鋭い指摘であるが、本稿では選子以前の歴代斎院の卜定・退下事情を比較することで、これまでの年立の問題点と合わせて原田・今井両氏の説を再検証する。

    ※本稿の初稿を公開した後、浅尾広良氏が「朱雀帝御代の始まり――葵巻前の空白の時間と五壇の御修法」(2014,注4)を、また今井氏も新たに「『源氏物語』賀茂斎院劄記:付・歴代賀茂斎院表」(2015,注5)を発表された。
    よって、本稿改訂版ではこれら新規の2論文についても合わせて検証する。また以下、今井氏の「『源氏物語』の死角 : 賀茂斎院考」を「今井論文1」、「『源氏物語』賀茂斎院劄記:付・歴代賀茂斎院表」を「今井論文2」とする。


  2. 桐壺帝譲位と桐壺帝女三宮の斎院卜定

     そもそも『源氏物語』以前の時代、斎院はどのような理由で退下していたのか。
     記録を見ると、10世紀末までの退下理由の最多は「天皇または上皇(=斎院の父)の崩御」である。日時や理由が不明ながら可能性が高いと考えられるものも含めれば、以下6例が確認される。


    【天皇・上皇崩御で退下した斎院一覧】
      斎院  退下年月日 退下理由
    3 高子 嘉祥3年(850)3月 仁明天皇(父)崩御 
    5 述子 天安2年(858) 文徳天皇(父)崩御?
    7 敦子 元慶4年(880)12月 清和上皇(父)崩御
    8 穆子 仁和3年(887)8月 光孝天皇(父)崩御
    13 韶子 延長8年(930)9月29日  醍醐上皇(父)崩御
    14 婉子 康保4年(967)5月? 村上天皇(異母弟)崩御?


     一方、従来の『源氏物語』年立が挙げるような「天皇譲位」により退下した斎院は、2代時子が淳和天皇譲位によると思われる(ただし断定はできない)以外に確実な例は存在しない。仁明天皇から花山天皇までの歴代天皇12人のうち、譲位した天皇は清和、陽成、宇多、醍醐、朱雀、冷泉、円融、花山の8人で2/3を占めるが、譲位後すぐに崩御した醍醐を除く7人の天皇の斎院は譲位によっても退下せず、そのまま留任となっている。とりわけ、『源氏物語』が執筆された当時の斎院もまた、既に円融・花山二代の天皇譲位を経ていた16代選子であり(なお三代以上の天皇に奉仕した斎院は、選子が史上初であった)、こうした例を見ると、そもそも斎院は天皇譲位では交替しないのが通例であった可能性が高いと考えられる。

     この問題については、堀口悟氏が「斎院が必然的に退下する――すなわち斎院交替が行われる――条件となるのは、父母の喪、自身の死、及び斎院の任に耐え得ないと判断された病の四つの場合だけである」ことを指摘し、「上皇の崩御による退下は、上皇が当斎院の父に当たる場合だけである」としている(注6)。
     また原田氏も「葵の巻に「斎院もおりゐ給ひて」と書いたのは、御代替わりにともなう斎院交代が自明のことでなかったことを物語っていると思われる」と着目しているが、同時に「それでは葵の巻の斎院交替は新帝即位にともなうものではなかったかというと、そうはとても解釈されない」として否定し、「葵」の斎院御禊は初度御禊であろうとの結論に至っている。同様に今井論文1も「天皇の代がわりごとに行われるはずであった斎院の交代が、実際にはそのようになされなかった」と指摘しながら、「葵」の新斎院卜定の理由としては考慮していない。
     原田氏はさらに「史実を調べても、御代初めに斎宮斎院の両方が卜定された例も多いのである」と述べているが、具体的にどの斎宮斎院が同時に卜定されたか、またそれらの斎院の先代の斎院がどのような理由で退下したかは確認していない。そこで本稿では改めて、斎宮と同時期に卜定された斎院と、その先代の斎院の退下理由を以下の一覧に表した(※今井論文2では、「斎宮と斎院が同時期に退下した例」の一覧が記載されている)。


    【斎宮と同時期に卜定された斎院一覧】
    斎院  斎宮  卜定時の天皇 卜定年月日 先代斎院退下理由 
    3 高子 久子 仁明 天長10年(833)3月26日 淳和天皇譲位? 
    4 慧子 晏子 文徳 嘉祥3年(850)7月9日 仁明天皇(父)崩御
    6 儀子 恬子 清和 嘉祥3年(850)7月9日 文徳天皇(父)崩御?
    7 敦子 識子 清和 元慶元年(877)2月17日
    8 穆子 掲子 陽成 元慶6年(882)4月9日
    (斎宮掲子は4月7日)
    清和上皇(父)崩御
    9 直子 元子 宇多 寛平元年(889)2月6日
    (斎宮元子は2月16日)
    光孝天皇(父)崩御
    14 婉子 雅子 朱雀 承平元年(931)12月25日  醍醐上皇(父)崩御
    15 尊子 輔子 冷泉 安和元年(968)7月1日 村上天皇崩御?


     以上の通り、3代高子と7代敦子以外の6人はすべて、先代斎院が天皇または上皇の崩御により退下した結果新たに卜定されたことがわかる(7代敦子の卜定は清和天皇譲位と同時期だが、これは貞観18年(876)11月29日の清和天皇譲位の約2ヶ月前、6代儀子が病で10月5日に退下したことによるもので、天皇譲位が理由ではない)。
     このうち、2代時子の退下が淳和天皇譲位によるかと見られるのは、まだ斎院制度自体が始まったばかりの頃であり、この時点では後に『延喜式』で記載された規定通りに天皇一代で交替がなされた結果と思われる。しかし先述の譲位した7人の天皇の斎院たちは、以下に表したとおり殆どの例が他に次期斎院候補となる内親王がいたにもかかわらず、結局退下することはなかった(ただし花山天皇譲位の際は、資子内親王は既に32歳でしかも一品であり、事実上候補外だった可能性が高いと思われる)。


    【譲位による天皇践祚時の斎院候補一覧】
     ※《》内は践祚した新天皇名。
      「候補」欄は、○〜斎院候補の資格あり、△〜資格ありと断定できず、×〜資格なしを表す。
      なお候補の年齢については、斎王の卜定年齢の最高齢が30歳(斎宮利子内親王)であることから、31〜35歳までは△、36歳以上は×と見なした。

    貞観18年(876)11月29日《陽成天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    7代斎院敦子871-872頃?9305-6?清和天皇873/4/21877-880
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    平子850以前877不明仁明天皇

    礼子843?-850899不明文徳天皇851/4/25
    掲子851-859914不明文徳天皇

    濃子843?-859903不明文徳天皇

    珍子843?-859877不明文徳天皇

    識子8749074清和天皇876/3/13斎宮(877-880)
    孟子864?-872901不明清和天皇873/4/21
    包子864?-872889不明清和天皇873/4/21

    元慶8年(884)2月23日《光孝天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    8代斎院穆子女王
    (内親王)
    881以前903不明光孝天皇884/4/9882-887
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    礼子843?-850899不明文徳天皇851/4/25
    濃子843?-859903不明文徳天皇

    孟子864?-872901不明清和天皇873/4/21
    包子864?-872889不明清和天皇873/4/21
    簡子女王855以降914不明光孝天皇891/12/29884/6臣籍降下
    綏子女王855以降925不明光孝天皇891/12/29884/6臣籍降下
    為子女王855以降899不明光孝天皇891/12/29884/6臣籍降下
    醍醐妃(897入内)
    繁子女王881以前916不明光孝天皇884/4/9884/3/22斎宮卜定

    寛平9年(897)7月13日《醍醐天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    10代斎院君子890-891?9027-8?宇多天皇892/12/29893-902
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    長子不明922不明陽成天皇

    儼子不明930不明陽成天皇

    簡子855以降914不明光孝天皇891/12/29
    均子8909108宇多天皇
    敦慶親王妃
    (結婚年不明)
    柔子890-891?9597-8?宇多天皇892/12/29897/9/13斎宮卜定
    孚子892-8949584-6宇多天皇895/11/7
    依子8959363宇多天皇897/2/29
    成子895-8969782-3宇多天皇897/2/29

    延長8年(930)9月22日《朱雀天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    13代斎院韶子91898013醍醐天皇920/12/17921-930
    (9/29醍醐上皇崩御、退下)
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    勤子904?93827?醍醐天皇908/4/5藤原師輔室
    (結婚年不明)
    都子90598126醍醐天皇908/4/5
    婉子905-906?96924-25?醍醐天皇908/4/514代斎院(931-967)
    修子907-909?93322-24?醍醐天皇
    元良親王妃
    (結婚年不明)
    敏子907-910?969以降21-24?醍醐天皇911/11/28
    雅子91095421醍醐天皇911/11/28932/12/25斎宮卜定
    普子91094720醍醐天皇911/11/28
    靖子915?95016?醍醐天皇930/9/29藤原師氏室
    (結婚年不明)
    康子919?95712?醍醐天皇920/12/17946/5/6一品
    藤原師輔室(955)
    斉子92193610醍醐天皇923/11/18
    英子92194610醍醐天皇930/9/29
    熙子女王922-9239508-9皇太子
    保明親王
    --朱雀女御(937入内)

    ・天慶9年(946)4月28日《村上天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    14代斎院婉子905-906?96924-25?醍醐天皇908/4/5931-967
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    靖子915?95032?醍醐天皇930/9/29藤原師氏室
    (結婚年不明)
    康子919?95728?醍醐天皇920/12/17946/5/6一品
    藤原師輔室(955)
    英子92194626醍醐天皇930/9/29斎宮(946)
    938/8/27初笄

    安和2年(969)9月23日《円融天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    15代斎院尊子9669854冷泉天皇967/9/4968-975
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    保子94998721村上天皇
    藤原兼家室
    (986結婚?)
    規子94998621村上天皇
    斎宮(975-984)
    盛子949-95299818-21村上天皇
    藤原顕光室
    (977以前に結婚)
    資子955101515村上天皇
    一品(972)
    選子96410356村上天皇964/8/2116代斎院(975-1031)
    宗子9649866冷泉天皇967/8/4

    永観2年(984)8月27日《花山天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    16代斎院選子964103523村上天皇964/8/21975-1031
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    ×保子94998736村上天皇
    藤原兼家室
    (986結婚?)
    資子955101530村上天皇
    一品(972)
    宗子96498621冷泉天皇967/8/4

    寛和2年(986)6月23日《一条天皇》
    斎王名前生年没年年齢親王宣下任期
    16代斎院選子964103523村上天皇964/8/21975-1031
    候補名前生年没年年齢親王宣下備考
    資子955101532村上天皇
    一品(972)
    宗子96498623冷泉天皇967/8/4986/7/21死去


     また11世紀以降で天皇譲位による退下とされる例は、18代斎院娟子と26代斎院官子の2名である。
     娟子の退下年月日については当時の史料に記録がなく、『少外記重憲記』『本朝世紀』(康和5年3月12日条)の薨伝に「寛徳二年正月十六日退斎居」とあることから寛徳2年1月16日とされるが、「斎院」ではなく「斎居」とする記述は異例である(斎王関連では『続日本紀』(延暦4年(785)8月24日条)に「(斎宮)朝原内親王斎居平城」とあるが、この場合は斎王の居場所を指す用語ではない)。また『大日本史料』では「退斎居」の「居」を(宮)としており、原史料では「退斎宮」であった可能性が考えられる。
     娟子の同母姉で同時期の斎宮であった良子内親王は、寛徳2年(1045)1月16日に退下したとの記録が『十三代要略』『一代要記』にあり、後朱雀天皇の譲位による退下であったことはほぼ間違いない。しかし後朱雀の譲位(寛徳2年1月16日)と崩御(同年同月18日)は、わずか2日違いである。同様の例として、13代韶子の場合も延長8年(930)9月22日に父醍醐天皇が譲位した際には斎院退下はなく、7日後の醍醐上皇崩御と同日に退下となっており(『日本紀略』延長8年9月29日条)、「父の喪」による退下であったと思われる。これらの点から、斎院娟子の退下も本来は父上皇崩御の喪による退下であったものが、斎宮良子と混同されて譲位に伴う退下であったと誤解されたのではないかと推測される。

     また官子については、そもそも正確な退下年月日の記録が一切残っていない。次の27代斎院悰子の卜定年月日(保安4年(1123)8月28日、『十三代要略』)から見て、官子の退下が鳥羽天皇譲位(保安4年1月28日)の頃であったことが推測され、加えて当時官子自身とその父母は共に存命であったことから、本人の死去や両親の喪による退下でなかったのは確かである。この場合は譲位による可能性が高いように思われるが、1月の鳥羽天皇譲位・崇徳天皇践祚から8月の悰子卜定まで、約7ヶ月と例外的に間が長い。加えて崇徳天皇の斎宮となった守子女王(輔仁親王女)の卜定は6月9日だが、斎院悰子の卜定は8月28日で、斎宮守子より3ヶ月近くも遅れている。通常新帝の即位に伴う斎宮・斎院の卜定はほぼ同時であり、前斎宮・前斎院の退下理由が別々でない限り、これほど卜定の時期が離れている例は他にない。
     さらに『中右記』(大治2年(1127)4月6日条)の28代統子(※当時の名は恂子)の斎院卜定記事の中で、宮子(官子)は「新院、今上」の斎院であったとされている。「新院」は鳥羽院、「今上」は崇徳天皇を指しており、これにより官子も鳥羽天皇譲位では退下していなかった可能性が高いと考えられる。

     こうした実例を鑑みれば、原田氏の「天皇即位されれば斎院を卜定されるということが延喜式にはっきり出ている」という指摘は、天皇譲位では斎院が交替しないことを否定する根拠としては、現実的には説得力を欠くと言わざるを得ない。
     また原田氏は触れていないが、『源氏物語』作中においても「賢木」で桐壺帝女三宮と交替した朝顔斎院は朱雀帝の譲位の際にもそのまま留任し、後に父桃園式部卿宮の死により退下となったことは周知のとおりである。「澪標」での朱雀帝譲位において「まことや、かの斎宮も替はりたまひにしかば」(「澪標」(2)p309)と斎宮交替が述べられているが、斎院については一言も触れていない。朱雀帝譲位においては当然のように斎院留任が見過ごされていながら、桐壺帝譲位の際にはそれに伴う斎院の交替(それも新斎院は帝鍾愛の内親王である)があったとするのは、やはり不自然ではないか。この点からも、『源氏物語』では「天皇譲位」を「斎院退下」に結びつける発想はなかったこと、ひいてはそれが11世紀初頭の貴族社会でも説明不要な自明の理であり、当時の慣例として定着していたことの裏付けであると考えられる。

     次に今井論文1が指摘する、「花宴」から「葵」の間の新斎院卜定から本院入りまでが可能であったかどうかについて検証する。
     今井論文1は桐壺帝女三宮の卜定から本院入りの過程について、斎院交替にかかる時間の点から疑問を呈している。根拠として挙げられたのは13代斎院韶子、14代斎院婉子の2例であり、13代韶子の退下(延長8年(930)9月29日)から14代婉子の卜定(承平元年(931)12月25日)までは1年3ヶ月、そして14代婉子の退下(康保4年(967)5月?)から15代斎院尊子の卜定(安和元年(968)7月1日)までは1年2ヶ月と、いずれも1年以上の長期に渡っている。今井氏はこうした事例を鑑みて、もし桐壺帝斎院の退下から桐壺帝女三宮の卜定にも同様に1年あまりの時間がかかったなら、「花宴」と「葵」の間に空白の1年があるとしても到底足りないとして、やはり「葵」の御禊は初斎院御禊ではない可能性があると結論づけている。

     しかしこの2例の斎院交替は、13代韶子の退下理由は醍醐上皇崩御(=父の喪)であることはほぼ間違いなく、また14代婉子の退下も村上天皇の崩御による可能性が高いと思われる。歴史上で今上天皇か父上皇崩御による斎院退下の後、1年以内に卜定された斎院は10世紀以前では4代慧子の1例しか見られず、その後も18代娟子のみである。一方8代穆子、9代直子、14代婉子、15代尊子、19代禖子、23代斉子、26代官子の7人は先帝・上皇の崩御後1年以上経ってからの卜定であり、同時期に交替した斎宮も同様であった(なお天皇・上皇崩御以外の交替の場合、12代宣子退下(延喜20年(920)閏6月9日)から13代韶子卜定(延喜21年(921)2月25日)までが最長で8ヶ月かかった他は、すべて3ヶ月〜5ヶ月と比較的短期で交替が行われている)。
     さらにもう一つ重要なのは、この7例がすべて新帝にとっても父の死即ち「諒闇」であったという点である。
     中でも特に注目すべきなのは7代敦子の退下時の記録で、『日本三代実録』(元慶5年(881)4月20日条)には「賀茂祭。内蔵権頭従五位上兼行讃岐介良峯朝臣晨直奉承祝詞。向社宣旨。其祝詞尾曰。辞別申。前年礼留斎王重喪太留尓退出志女天支。今須諒闇波天々乃後占定」とある。ここでは斎院が重喪(父清和上皇の喪)により退下しただけでなく、諒闇が明けるまで次の斎院卜定も延期されたことが祝詞の中で述べられている。9代直子以降に諒闇中の卜定がなかったことから見て、以後の卜定の際もこの時の例に倣い、諒闇中は延期とされたものと思われる。
     加えて今井論文1が根拠とした14代婉子の場合、崩御した上皇醍醐は新帝・朱雀天皇ならびに退下した13代韶子の父であるだけでなく、次代の斎院婉子自身の父でもあった。両親の喪で斎王が退下となるのと同様、新斎王卜定においてもまた、服喪中の皇女が候補者として不適格であることは言うまでもない。婉子が新斎院となることはあらかじめ内定していたかもしれないが、父醍醐の喪が明けるまでは正式な卜定は不可能だったのである。
     なお当時醍醐皇女以外で斎王候補になりえたと考えられるのは、上記斎院候補一覧の中では故保明親王の娘熙子女王のみであった。皇太子の娘の斎院卜定は2代時子の例があるものの、本来ならば帝位を継ぐはずであった保明の一人娘(さらに皇太孫慶頼王の姉妹)である熙子は、後に叔父朱雀天皇元服と同時に入内している。山本一也氏はこの結婚で朱雀天皇の皇位継承を正統化し、熙子との間に生まれるであろう皇子(実際には皇女一人しか生まれなかったが)へ醍醐嫡流の皇統を継がせる目的があったとしており(注7)、それに従えば現実的には熙子の斎王卜定の可能性は低かったと思われる。またその他の醍醐皇子たちにも娘はいたが、服喪が明ければ候補となる醍醐皇女が多数いたことから無理に女王卜定にはせず、従来通りに諒闇明けを待っての内親王卜定となったのであろう(なおこの時は斎宮も女王ではなく、婉子の異母妹雅子内親王が卜定されている)。
    ※参考までに『源氏物語』以降の当帝崩御の例を見ると、堀河天皇崩御の際には25代斎院ヮqが退下している(『中右記』(嘉承2年7月19日条)は急な不例のためとしており、即日退出という慌ただしさであった)。一方で後冷泉天皇の斎院であった20代正子と近衛天皇の斎院であった30代怡子は、当帝崩御でも退下していない。
     この点については、堀裕氏が「一一世紀前半に「「如在之儀」が成立して以降、天皇は「不死の天皇」へと転換する」としている(注8)。即ち、後一条天皇以降の天皇は在位中に崩御した場合であっても、名目上は天皇が譲位して皇位継承を行い、天皇でなくなった後に崩御したものと見なされたのである。このため、後冷泉天皇・近衛天皇の崩御の際も、建前としては「天皇譲位」であったため斎院が退下することはなく、堀河天皇崩御の際にも斎院ヮqは本来留任となるはずであったが、譲位では退下できないために急病を理由に退出したものと思われる。
     死穢を忌避する斎王制度にとって、斎王本人の死去は最大級の穢れであり、しかも天皇と斎王が同時期に死亡した例は歴史上ない。もしこの時斎院ヮqが退下しないままに死亡していれば、前代未聞の二重の凶事となり、斎院ヮqの周囲がそれを避けようと急遽退下に踏み切った可能性も考えられる。
     また9代斎院直子と15代斎院尊子の場合は、両名共に崩御した先帝と親子関係になかったが、それでも先代斎院退下から卜定まで1年以上の空白がある。新斎院と先帝が親子でなくとも、新帝の父の崩御という最も重い服喪が明けるまでは、重要な神事である新斎王の卜定も停止されたのものと見られる(なお後の18代斎院娟子の場合は、長元9年(1036)4月の後一条天皇崩御から1年を待たず年内に卜定されている。この場合は、崩御した先帝が新帝・後朱雀天皇(娟子の父)の兄で、先帝と新帝(兄弟)、また先帝と新斎院(伯父・姪)が共に親子関係になく、加えて表向きは「如在之儀」で譲位後の崩御とされたことが理由かと思われる)。
     よって今井論文1の説についても、「葵」の御禊が初斎院御禊であることを否定する論拠にはならないと考える(※なお今井論文2は、斎宮・斎院の同時退下について「天皇の崩御を前提に起こるもの」である点を指摘し、桐壺帝斎院の退下は桐壺帝譲位によるものではなかった可能性があるとしているが、その理由は不明であると述べるに留めている)。

     以上の検討の結果、『源氏物語』においても賀茂斎院は天皇譲位では退下しないのが前提であり、よって桐壺帝斎院の退下は、桐壺帝譲位で退下した斎宮と同時ではなかったと推測する。この前提に立った上で年立の矛盾を解消するには、退下は桐壺帝譲位の前年でなければならないので、「葵」の初斎院御禊から逆算して「花宴」と同年と見なすのが最も妥当であると思われる。

     なお、「葵」ではまず「まことや、かの六条御息所の御腹の前坊の姫宮、斎宮にゐたまひにしかば…」(「葵」(2)p18)と述べ、その後で「そのころ、斎院もおりゐたまひて、后腹の女三の宮ゐたまひぬ」(「葵」(2)p20)とあることから、浅尾広良氏は「斎宮の卜定が斎院卜定の翌年に持ち越されたような文脈もない」としている。今井論文2もこれに賛同し、「斎宮と斎院の卜定を別の年とすれば問題ない」とする「折衷案」(注9)を理屈の上では可能としながらも、「斎宮と斎院の卜定を別の年のことと考えるのは、やはり問題があると思う」と結論付けている。
     しかし、「斎院の退下は天皇譲位では起きない」という前提に立てば、「花宴」から「葵」の間の同時期に斎宮・斎院が揃って交替したという事実こそが異例の出来事である(この点は今井論文2も疑問としている)。斎宮と斎院が同時に退下したのであれば、「斎宮の卜定が斎院卜定の翌年に持ち越された」旨を述べる必要性も生じることになるが、斎院の退下理由(病または親の喪?)と斎宮の退下理由(天皇譲位)が元々別であるならば、それらが「偶然にも」同年に起きるという方がむしろ考えにくい事態である。

     歴史上の例を見ると、6代斎院儀子内親王が貞観18年(876)10月5日に病で退下した後、11月29日に清和天皇が譲位、それに伴い斎宮恬子内親王も退下している。この時儀子は退下の約4か月前(5月23日)の時点で既に病を理由に紫野本院から退出しており、もしこの時点で退下していれば、遅くとも10月までには新斎院が卜定されていただろう(先に触れたように、通常退下から次の斎王卜定までは3〜5ヶ月程度である)。しかし結局儀子の退下は10月まで持ち越され、その後11月に清和天皇の譲位が決定したことにより急遽新斎宮候補も選出され、翌元慶元年(877)2月17日の斎宮識子・斎院敦子(共に清和皇女)の同時卜定に至ったものと思われる。
     またもう一例、円融天皇の斎宮隆子女王が伊勢において疱瘡のため天延2年(974)閏10月17日に死去、退下となったが、翌天延3年(975)に15代斎院尊子内親王の母が死去、このため尊子は4月3日に退下している。この場合は天皇譲位のような人為的に操作可能な事情ではなく、まったく偶然にも別々の理由でわずか半年差という同時期、しかも斎宮退下の翌年に斎院も退下した、歴史上でも稀な実例である。この後、次の斎宮は天延3年(975)2月27日に規子内親王が、斎院は同年6月25日に選子内親王が相次いで卜定された。
    『源氏物語』以前で斎宮・斎院が同時期に異なる理由で交替となったのはこの2例のみであり、1例目の6代斎院儀子と斎宮恬子の場合は斎院が病、斎宮が天皇譲位による退下で本稿の想定と一致するが、この時は斎院退下から天皇譲位までわずか2ヶ月足らずであったためか、結局次期斎宮・斎院の卜定は同時となっている。一方、2例目は斎宮が本人の死去、斎院が母の喪により退下となっており、また次期斎宮決定の後に斎院の退下があったため、当然ながら斎宮・斎院それぞれの交替は別々に進められた。この結果新たに卜定されたのが、いずれも『源氏物語』成立に大きく関係しているとされる斎宮規子と斎院選子であることも、注目すべき点であろう。
    「花宴」〜「葵」の場合もこの2例目と同様に(ただし斎宮・斎院の交替順は逆となるが)、斎院が「譲位以外の何らかの理由により」退下し、新斎院が卜定された後に桐壺帝譲位・斎宮退下となったのだとすれば、新斎院(桐壺帝女三宮)卜定の次の年に新斎宮(秋好)が卜定されるという事態も起こりうる。これは浅尾氏が想定するように斎院・斎宮の卜定が同一の理由により同時進行したのではないため、斎宮だけが遅れて「持ち越し」になったわけではないことが理解されよう。

     そもそも、斎院が天皇譲位により交替するのが当然で、斎宮と同じ理由で交替したのであれば、敢えて「そのころ、斎院もおりゐたまひて」等という曖昧な言い回しの前置きをつける必要はなく、ただ「斎院には、后腹の女三宮ゐたまひぬ」と紹介すればよかったはずである。即ち、この「そのころ」という言葉は原田氏が始めに指摘したように、斎宮と斎院の退下が「同時期」ということを示してはいるが、それと共に「御代替わりにともなう斎院交替が自明のことではなかったことを物語って」おり、従って「斎院交替は(斎宮と同じ理由ではないので)同時ではない」ことを前提としているのではないか。これまでは「斎院も天皇譲位により退下する」ことが当然とされてきたが、その前提が成立しない以上、「そのころ」という一語は従来考えられてきたよりもかなり幅広い時間を意味していると思われる。
     とはいえ、「そのころ」と限定されるからにはやはりかなり近い時期、それも「花宴」と「葵」の間のどこかを意味しているのは確かであろう。斎院の卜定が「花宴」と同年だとすれば、最も早く仮定しても「花宴」の後、つまり同年4月から12月までの間ということになる。また「葵」の斎宮初斎院入りで「斎宮は、去年内裏に入りたまふべかりしを」(「葵」(2)p37)とあることから、恐らく斎宮はこの「去年」、即ち「花宴」翌年秋の9月までには卜定されていたと見られる(10月以降に卜定された斎王の場合、初斎院入りは翌年になることが多い)。よって斎院と斎宮の卜定の時差は、最大で「花宴」4月〜翌年9月の1年半以内であったと推定される。
     逆に最短期間としては、理屈の上では「花宴」12月と翌年2月(既に述べたように、1月の卜定は考えにくい)という仮定も可能だが、それだけ前斎院・斎宮の退下時期が近かったとすれば、先に述べた6代斎院儀子のように新斎院・斎宮の卜定を同時にまとめて行う場合もあるため、少なくとも3ヶ月程度は開きがなければ不自然である(諒闇以外による斎王の交替は比較的期間が短く、早い例では前斎王の退下から2ヶ月足らずで新斎王卜定となっている)。よって斎院卜定は「花宴」の年の4月〜12月の間、斎宮卜定はその翌年の2月〜9月の間で、なおかつ斎院卜定と斎宮卜定の時差が3ヶ月以上ということにほぼ絞られることになろう。

     結論として「そのころ、斎院もおりゐたまひて」という一文は、通常ならあり得ないはずの「天皇譲位と同時期の斎院退下」があったことで「本来帝の譲位で斎院は退下されないものだけれど」という暗黙の了解を確認し、また「斎院の交替は斎宮と同時期ではあるが同時ではなかった」ことを示す意味で付けられたのではないかと思われる。
     何度も述べるように、「天皇譲位で斎院が退下にならない」のが当時の慣例として貴族社会に浸透していたとすれば、同時代の読者には背景を明記されずともこの一文だけで「桐壺帝の譲位が理由ではないはずだから、恐らく斎院の父母が亡くなられたか、あるいは斎院本人が病にかかられたかして退下されたのだろう」と理解できたはずである。言い換えれば、譲位による斎宮退下と同じ頃に「たまたま偶然にも」斎院退下が起きるという事態は読者にとって普通なら起こるはずのない想定外の出来事であり、「そのころ、斎院もおりゐたまひて」という断りがなければわからないのである。ましてや、斎宮・斎院の退下が別々の理由でまったく同時に起こっていたとするなど、それこそあまりにも作り物語的でありえない出来過ぎの設定であろう(既に挙げたように、こうした事例は嘉承2年(1107)の堀河天皇崩御(=斎宮善子内親王退下)と同日に斎院ヮqが病で退下した時のみであり、『源氏物語』以前の例はない)。
     物語の世界での出来事を、作者が後の展開に都合の良い時期に調整するのは当然のことであるが、『源氏物語』はそうした設定においても読者に違和感を感じさせないように、さりげなく伏線を配置している。特に「葵」から「賢木」にかけては、諸研究においても指摘されているように、ヒロイン紫の上が光源氏と結ばれる際に障害となる女君たち(葵の上、六条御息所、藤壺中宮、朧月夜尚侍、朝顔斎院など)が作者の周到な配慮により排除されている。桐壺帝女三宮は光源氏の異母妹なので恋の相手とはならないが、その斎院卜定が葵の上死去と六条御息所の伊勢下向へ繋がり、更には桐壺帝崩御による退下で朝顔姫君の斎院卜定のきっかけともなる重要な役どころであることから、作者はいかに矛盾なく登場人物たちを動かし、自然な形で物語を展開させるかを慎重に考え抜いたであろう。その結果、「葵」での車争いから「賢木」での野宮の別れまでを描くためには、斎院の本院入りと斎宮の伊勢下向を同年にできない(つまり斎院と斎宮の卜定も同年にできない)ことから、「花宴」翌年の空白の一年が組み込まれ、斎院と斎宮の交替も別々の年にせざるをえなかったと思われる。

     また「まず「花宴」の年に斎院交替があり、その翌年に桐壺帝譲位、斎宮交替があった」とすれば、斎宮交替を紹介した後にその前年行われた斎院交替が語られるのは順序が逆で、一見奇異に思われる点である。しかし物語はその後すぐに現在の賀茂祭準備から御禊の日へ、そして葵の上と六条御息所の間に起こる車争いに向けて突き進んでいくことになり、読者は自然にその流れへと引き込まれていく。
     仮にこれを時間軸通りに語るとすれば、斎院交替は桐壺帝の譲位前である以上、「葵」巻頭において真っ先に述べなければならないことになる。次に桐壺帝譲位と斎宮交替、それによる六条御息所の物想いについて長々と説明し、その後再び斎院に話を戻して御禊に光源氏が供奉することを紹介するという手順になるが、時間の流れとしては正しくとも物語の進行という点ではかえって回りくどい描写になるのは否めない。これに限らず『源氏物語』において時間どおりに話が進められない場所は他にもあり、たとえば物語始めで同じように「そのころ、高麗人の参れる中に」(「桐壺」(1)p39)と語られる相人の逸話などは、光源氏何歳の話なのかはっきりしていない。また後に「須磨」でも先に源氏の出立を述べた後、改めて時間を遡り都の人々と別れを惜しむ場面が描かれている。こうした時間の前後や曖昧さは物語の演出の一環として、この斎院卜定の説明だけが特別違和感のあるものではないと考える。
     加えて桐壺帝斎院はその系譜すらも不明であり、従って皇族とはいえ光源氏とそれほど近い関係にはないと思われる。これは作者にとって桐壺帝斎院とは、彼女が「退下した(従って新たな斎院が着任することになった)」という事実を述べる以外には存在意義のない(つまり語るに値しない)人物だったことを示唆していよう。さらに後任である桐壺帝女三宮も、異母妹とはいえ源氏とそれほど親密な関係にはなかったと推測される。
     桐壺更衣の死後、光源氏は桐壺帝に伴われて弘徽殿へも出入りしており、「女御子たち二ところ、この(弘徽殿女御の)御腹におはしませど、なずらひたまふべきだにぞなかりける」(「桐壺」(1)p39)と語られているが、物語はその「女御子たち」(女一宮・女三宮)が内裏にいたとは明記していない山本一也氏の研究によれば、天皇の子供の中で特に皇后所生子は基本的に内裏で養育されていたと見られる一方、逆に更衣所生子は7歳の対面の儀以前に参内した記録はなく(唯一の例外が光源氏である)、女御所生子はその中間で里邸に居を置きながら着袴等は内裏で行うなど、対面の儀以前にも内裏に参入していたらしい(注10)。弘徽殿女御は後に朱雀帝即位に伴って皇太后にはなるものの、周知のとおり桐壺帝の中宮とはなっておらず、その子供たちも桐壺帝の在位中は「后腹」ではなかった。長男の一宮(朱雀帝)について桐壺帝が「一の宮を見たてまつらせたまふにも、若宮(光源氏)の御恋しさのみ思ほし出でつつ」(「桐壺」(1)p26)とあることから、宮武寿江氏は一宮が内裏に居住しているのだろうとするが(注11)、この時の一宮はいまだ立太子前である。春宮になった後ならば内裏に住んでいただろうことは後の冷泉帝・今上帝の例から見て確かと思われるが、桐壺帝は藤壺腹の若宮を見て「皇子たちあまたあれど、そこ(光源氏)をのみなむかかるほどより明け暮れ見し」(「紅葉賀」(1)p329)とも言っている。この言葉から、一宮は源氏ほど幼い頃からしばしば父帝と対面することがなかったらしいことが伺えるので、やはり立太子前は母の里邸である右大臣家で育てられており、桐壺帝との対面もある程度成長した後であったと推測される(ただし光源氏よりも後ということはないと思われるので、恐らく3歳の袴着までには最初の参内があったであろう)。
     さらに桐壺帝は「花宴」で「女御子たちなども、生ひ出づるところなれば」(「花宴」(1)p364)と語っており、藤の宴に女一宮・女三宮が列席していることからも、兄春宮と同様に姉妹たちもまた基本的に右大臣家で成長したと見られる。山本氏も指摘するように、更衣所生にすぎない光源氏が宮中で成長したのは本来ありえないことであり、それも恐らく一宮が立太子し弘徽殿の態度も軟化して初めて「今は内裏にのみさぶらひたまふ」(「桐壺」(1)p38)となり「七つになりたまひしこのかた、帝の御前に夜昼さぶらいたまひて」(「須磨」(2)p184)だったのである。しかし春宮の立太子後も引き続いて里邸で養育された女一宮・女三宮姉妹は、時折参内した際には源氏とも面識があったかもしれないが、そう頻繁なことではなかったろう。
     その後藤壺の入内をきっかけに、弘徽殿の光源氏への心証は再び悪化し、元服した源氏と葵の上の結婚がそれに拍車をかけることになった。以後弘徽殿は源氏への反感をますますあからさまにしており、そうした状況下において、元服後の源氏と女一宮・女三宮姉妹の間に親しい交流があったとは想像しにくい。後に源氏は六条御息所に「故院の御子たちあまたものしたまへど、親しく睦び思ほすもをさをさなきを」(「澪標」(2)p313)と語り、従姉妹の前斎宮(秋好)を実の姉妹同様に思い後見しようと約束しているが、この源氏の言葉は必ずしも社交辞令や誇張ばかりではないであろう。そこからは源氏の本当の姉妹たち、とりわけ弘徽殿腹の女一宮・女三宮との縁の薄さをも伺い知ることができる。
     そんな疎遠な仲の異母妹が斎院に卜定されたからと言って、それだけであれば源氏にとっての重要性は実のところ、(愛人の娘である)秋好の斎宮卜定にも及ばなかったと思われる(現に、秋好以降の斎宮や朝顔以降の斎院の卜定について、物語ではまったく触れていない)。いかに時間の流れどおりとはいえ、わざわざ「葵」という『源氏物語』全体でも重大な転機となる巻の冒頭において、そのような取るに足らない話題を真っ先に紹介する必要があるだろうか。作者にとって、桐壺帝女三宮は「葵」の車争いの発端として必要な存在ではあったが、裏を返せばそのためだけにこのタイミングで斎院にされたのであり、それ以上の存在意義はなかったのである。

    『源氏物語』は(少なくとも正編においては)何と言ってもまず「光源氏の物語」であり、従って作者は自らの(そして読者の)関心である「光源氏に関係する出来事」を語るため、「葵」を始めるにあたっても桐壺帝の譲位、そしてそのことにより生じた斎宮交替と御息所の悩みを、まず導入部で紹介したと思われる(しかも作者はここで抜かりなく、御息所の噂を聞く朝顔姫君の心中もさりげなく付け加えている)。その上で、順序は前後したが「(通常であれば譲位で斎院が退下することはないけれど、今回はたまたま)同じ頃に斎院の交替もありました」と前置きを入れた上で、このたびは桐壺院と弘徽殿大后鍾愛の皇女の晴れ舞台であるから特別に我らが光源氏も供奉することになったのだと、満を持して本題を切り出したのである。
     ここに至り、初めて新斎院の存在が源氏と接点を持ち、その結果日頃滅多に外出もせずまた交流もない葵の上・六条御息所の二人が、互いに意図せずして顔を合わせることになる舞台が自然な流れで整った。こうして物語は運命の御禊の日を迎え、車争いから六条御息所の生霊出現、そして葵の上の急死へと展開して行ったのである。その結果、ヒロイン紫の上の前途を最も阻む重要な女性二人が揃っていなくなり、紫の上が(正妻ではないにせよ)新たな源氏の妻として晴れて認知される道を切り開いたのは言うまでもないだろう。

     ところで、これまで「桐壺帝斎院の退下理由は一体何であったのか」には触れずに来たが、最後にその可能性について検証する。
    「葵」の後、「蓬生」で「(末摘花女房の侍従が)通ひ参りし斎院亡せたまひなどして」(「蓬生」(2)p332)とある。この斎院は「末摘花」(光源氏18歳)で既に「侍従は、斎院に参り通ふ若人にて」(「末摘花」(1)p291)と語られており、時期的に見て桐壺帝斎院と同一人物である可能性が高い。とすれば、桐壺帝斎院の薨去は「須磨」の頃で退下から5〜6年後であり、退下理由は斎院自身の死去によるものではないことになる(「斎院もおりゐたまひて」という言い回しからも、死去による退下という気配は薄い)。従って、死去以外の斎院の退下理由となれば、父母の喪(重服)または斎院自身の病が考えられる。

     まず病だが、10世紀末までに病で退下した斎院は初代有智子と6代儀子の2名である。一方、在任中または退下即日で亡くなった斎院は、9代直子、10代君子、12代宣子の3名がいる。斎宮の在任中死去例は、平安時代400年を通しても隆子女王と惇子内親王の2名のみであることを考えると、宇多〜醍醐朝の二代30年という短期間で斎院3名が死去という数字はかなり多い。しかも12代宣子の例は、延喜20年(920)6月8日に病のため本院を退出していながら、ついに正式な退下はされないまま一月後の閏6月9日に在任で死去している。また貞観18年(876)の6代儀子も死去には至らなかったものの、病により5月23日に本院を退出した後、最終的に退下となったのは4ヶ月後の10月5日だった。本来、在任中の斎王の死去という不吉な形での退下は朝廷としても避けたい事態であったと思われるが、これらの事例から見て、10世紀までは病での斎院退下は許可されにくかったものかと推測される(なお斎院死去の3例は、当時異例の皇位継承となった光孝系天皇家の王権の弱さにも原因があるかもしれないが、本論から反れるため追及は避ける)。
     また桐壺帝斎院の出自については、作中に記述が一切ないことから見て、恐らく桐壺帝の皇女(即ち光源氏の姉妹)ではないと思われる。しかし斎院である以上、内親王であることはほぼ疑いないとも考えられるので、桐壺帝の姉妹(大宮・女五宮以外の女一宮、女二宮、女四宮のいずれか?)かもしくは藤壺中宮・兵部卿宮兄妹の姉妹(つまり先帝の皇女。藤壺が女四宮なので、女一宮、女二宮、女三宮のいずれか?)とすれば、当時既に30代以上の可能性が高い。
     10世紀末までの歴代斎院のうち、8代穆子と9代直子を除く14人は生年不詳でも大体の年齢が判明しているが、その中で確実に30歳以上まで斎院の任にあったのは14代婉子のみ(64歳前後で退下)である。初代斎院有智子の退下理由は「。身美毛」(『類聚国史』神祇五・賀茂斎院、天長8年12月8日条)としているものの、当時25歳では高齢とまでは言い難いが、桐壺帝斎院が桐壺帝と同世代ではなく親世代の人物であったとすれば、婉子のように老齢まで斎院を務めて病により退下となった可能性もないとは言い切れない。

     では可能性のもう一つ、父母の喪の場合はどうであろうか。
     この点について『花鳥余情』は、桐壺院の準拠とされる醍醐天皇は父宇多上皇よりも先に死去していることから、桐壺院の父も桐壺院より後に崩御したのではないかとする。「紅葉賀」で名前のみ登場する一院が恐らく桐壺院の父であろうとされるものの、管見の限り先行研究において一院がいつ亡くなったかは殆ど検証されていないが、学術的研究以外で興味深い説が存在する。
     橋本治氏の小説『窯変源氏物語』は、「葵」冒頭で桐壺帝の父一院が崩御、その喪が明けた後に桐壺帝譲位・朱雀帝即位があったとしている。「紅葉賀」で「帝、下りゐさせたまはむの御心づかひ近うなりて」とあり、また桐壺帝自らの言葉としても「春宮の御世、いと近うなりぬれば」(「紅葉賀」(1)p347)と、譲位は間もなくのように語られているにもかかわらず「花宴」の年にも譲位がなかったと考えるのは奇妙に思われるが、一院が崩御したためにその喪中は譲位も延期されたとすれば筋が通っていることになる。
     三田村雅子氏は一院を桐壺帝の父と想定し、「「一院」はこの紅葉賀以降姿を表すことなく退場しており、ほどなく亡くなったと考えられる」とするが(注12)、もし一院が朱雀院行幸翌年の元旦の参賀から7月の藤壺立后までの間に崩御していたとすれば、わざわざ正月の参賀で名前を挙げられながらその後半年足らずで崩御したにもかかわらず、物語でまったく触れていないのはやや不自然と思われる。一方、藤壺立后の後「花宴」までの半年間に崩御していたとすれば、今度は「花宴」の頃が諒闇中ということになる。そうなれば後に「薄雲」で藤壺崩御の淋しい春の様子が語られるように、2月の紫宸殿での華やかな盛儀もなかったはずであるので、「花宴」以降に一院が崩御し譲位も延期されたとする橋本氏の考えは妥当であろう。さらに「葵」で再び元旦の参賀が話題になった際も、「例の、院に参りたまひてぞ、内裏、春宮などにも参りたまふ」(「葵」(2)p77)と述べられているのは「例の」とあることから桐壺院と見てよいと思われ、一院の名が明記されていないことも、これ以前に既に一院が崩御していた可能性を伺わせる(なお平安時代で『源氏物語』以前に今上帝の祖父上皇が生存していた例は、先に挙げた朱雀朝初期の宇多上皇のみで、その宇多上皇も朱雀天皇践祚から10ヶ月後に崩御した。他には鳥羽朝の白河院と、六条・安徳・後鳥羽朝の後白河院がいるが、院政期以前の天皇・上皇は短命な例が多く、殆どの場合孫が即位する前に在位中または譲位後数年で死去している)。
     また桐壺帝の親ならば母の喪の可能性もあるが、桐壺帝の母と思われる人物については作中に一度も登場しない。「桐壺」で「(葵の上の)母宮、内裏のひとつ后腹になむおはしければ」(「桐壺」(1)p48)とあり、桐壺帝と大宮の母が皇后または皇太后であったことは判明している。だがそもそも桐壺帝自身の外戚について物語ではまったく言及がないことから、母后は恐らく物語が始まる以前に既に死去していたものと思われる(桐壺帝の準拠と言われる醍醐天皇も、生母の女御藤原胤子は醍醐の皇太子時代に死去、即位後に皇太后を追贈されており、桐壺帝母后も同様の可能性がある)。
     しかし天皇の父母いずれだとしても、諒闇中は斎王卜定も延期とされるのが原則である。「花宴」の年に桐壺帝の親(恐らく父?)の喪により桐壺帝斎院も退下したとすれば、次の斎院卜定は「花宴」の翌年(=諒闇明け)でなければならないことになり、結局斎宮(秋好)卜定と同年になってしまう。よって、仮に桐壺帝斎院の退下理由が服喪であった場合、それが今上桐壺帝にとっての父母の喪であってはならない。即ち、桐壺帝斎院の退下が服喪ならばそれは斎院自身の母の死去によるものであり、桐壺帝斎院は一院の皇女(桐壺帝の異母姉妹)か、または先帝の皇女(藤壺・兵部卿宮の異母姉妹)であったと考えられる(※藤壺・兵部卿宮の父である先帝は、物語が始まる以前に崩御している。また先帝の后(藤壺・兵部卿宮の母)も「桐壺」で崩御したことが語られているので、桐壺帝斎院が母の喪で退下したのであれば、桐壺帝斎院の母は先帝の后ではありえない)。
     仮に桐壺帝斎院が桐壺帝と同世代であれば、その親が存命ならば当然50代以上の高齢と思われるので、母の喪による退下は自然にありうることである。また病や高齢では退下理由として許可されにくかったとしても、死穢を厳禁とする斎院にとって重服は必然的に退下であり、これを覆すことはありえなかった(なお歴史上の斎王では、斎宮恬子内親王が母紀静子の死去でも退下しなかった例があるが、これは極めて例外であり、親の喪に遭った斎院はすべて退下している)。

     ともあれ、桐壺帝斎院退下→桐壺帝女三宮卜定→桐壺帝の父院の崩御がすべて「花宴」と同年にあったとすれば、諒闇により朱雀帝即位と新斎宮卜定が延期されることになっても、既に斎院となっている桐壺帝女三宮にとっては「祖父の喪」であり「父の喪」ではないので退下にはならない。よって翌年諒闇が明けた後に桐壺帝が譲位して、翌々年に規定通り桐壺帝女三宮の初斎院御禊が行われたと推定すれば、すべて辻褄が合うことになる。
     既に触れたように、斎宮の本来の初斎院入りの予定が「花宴」翌年の末までであったとすれば、斎宮卜定は同年9月までになくてはならない。また天皇即位にあたっての斎王卜定は原則として即位式の後であったと見られ(注13)、「花宴」翌年9月までに朱雀帝即位がないと、斎宮卜定も9月中に間に合わないことになる。従って「花宴」の夏頃に斎院退下と新斎院卜定があり、その後夏から秋にかけてのどこかで一院が崩御、1年の諒闇を経て翌年秋頃に桐壺帝譲位があり、9月末までに朱雀帝の即位式も挙行されて新斎宮も卜定されたとするのが最も自然な流れであろう。

     斎院退下の真相に限らず、この空白の1年半あまりについて、光源氏の父桐壺帝の譲位という重大事がありながら物語は多くを語らない。しかし光源氏と紫の上の運命が大きく動き出すのは、繰り返すが「葵」で葵の上と六条御息所が衝突する新斎院の御禊こそが発端であった。恐らくその劇的な事件をより効果的に演出するために、作者が桐壺帝譲位に伴う一連の出来事をただ時間の流れに沿って冗長に語る無駄を避けた結果、空白の期間の出来事も「葵」冒頭で簡略に紹介されるに留まったものと思われる。しかしそこには従来疑問とされてきたような矛盾はなく、史実の前例や規定に則った正確な背景が物語を支えていたのである。


    『源氏物語』斎宮・斎院に関連する年立て・改訂案1
    光源氏年齢巻名 当時の天皇出来事
    20花宴桐壺帝2月、紫宸殿の桜花の宴。
    4月以降(?)桐壺帝斎院退下。
    桐壺帝女三宮、新斎院に卜定。
    (斎院卜定の後、一院崩御?)
    同年または翌年、桐壺帝女三宮、初度の御禊。初斎院入り。
    21(空白)朱雀帝 (諒闇明けの後?)桐壺帝譲位、朱雀帝即位。
    前坊姫宮(秋好)、新斎宮に卜定。
    22朱雀帝4月、桐壺帝女三宮、初斎院御禊。紫野本院入り。



  3. 朝顔斎院の卜定と本院入り

    「葵」における賀茂斎院の本院入りについて、ひとまず上記の結論に至ったが、『源氏物語』における賀茂斎院の問題点はこれだけではない。「賢木」において、桐壺院崩御により桐壺帝女三宮が退下した後に新斎院として式部卿宮の姫、即ちかねてから光源氏との仲を噂されてきた「朝顔姫君」が卜定される。

     斎院は御服にておりゐたまひにしかば、朝顔の姫君は、かはりにゐたまひにき。賀茂のいつきには、孫王のゐたまふ例多くもあらざりけれど、さるべき皇女やおはせざりけむ。(「賢木」(2)p103)

     このくだりについて、現行の注釈の殆どは『源氏物語』以前の歴史上の女王斎院を9代直子のみとするが、2代時子と8代穆子も卜定時には女王であったので、厳密に言えば前例は3人である。準拠論でしばしば語られるように、桐壺帝を醍醐天皇に準えたとすれば、醍醐天皇までの歴代斎院13人中3人の「女王」は確かに「殆ど例がない」というほどの少数でもなく「多くもあらざりけれど」というやや控えめな表現は妥当であろう。
     また「さるべき皇女やおはせざりけむ」と曖昧に流されているが、この時は実際に「ふさわしい内親王」が存在しなかったものと思われる。
     何故なら、桐壺院女三宮は父桐壺院の崩御で退下したのであり、同様に女三宮の姉妹である女一宮(弘徽殿大后所生。女三宮の同母姉)・女二宮(この人物は作中に登場せず、当時存命かも不明。斎王となった様子もないので、あるいは夭折したものか)もまた、当時は父院の服喪中で次期斎院となる資格を有していなかった。歴史上では文徳天皇の斎宮晏子内親王・斎院慧子内親王が諒闇中に卜定された例があるが、晏子・慧子が祖父仁明天皇崩御による喪中だったのに対し、『源氏物語』の桐壺帝女一宮・女二宮は父の喪中である。晏子・慧子も祖父の服喪である5か月がまだ過ぎていなかったとはいえ、父母の服喪は1年と最も重く、また斎王の退下理由の一つでもあったことから、桐壺院崩御から半年も経たない時期にそれを破ることは不可能であったろう。
     また桐壺院の皇女以外の内親王となると、この時点で生存していたと思われる先帝の皇女は恐らく藤壺中宮(30歳)が最年少である(後に朱雀帝女三宮の母となる藤壺女御は、この時点ではまだ作者の構想にはなかったと思われる。また「若菜上」には「(朱雀帝が)まだ坊と聞こえさせし時参りたまひて」(「若菜上」(4)p17)とあり、朝顔卜定の前に既に入内していたことになるので、いずれにせよ候補には入らない)。その他に桐壺院や先帝の姉妹たちがいたとしてもさらに年上で、仮に未婚であっても年齢上既に候補として不適当であったと思われる(後に「朝顔」で朝顔斎院と同居する女五宮は、「前斎宮」「前斎院」等の呼称がないことから斎王経験はないとみられ、また姉の大宮よりも老け込んだ様子からかなりの高齢と推測される)。
     最後に朱雀帝後宮は、この頃既に幾人かの妃が入内しており、皇子女については後に「若菜上」冒頭で「御子たちは、春宮をおきたてまつりて、女宮たちなむ四ところおはしましける」(「若菜上」(4)p17)と紹介される。しかし「須磨」で朱雀帝は朧月夜に「今まで御子たちのなきこそさうざうしけれ」(「須磨」(2)p197)と語っている。朱雀帝の寵愛を最も受けているのが朧月夜であり、その朧月夜に御子が生まれないのだから、ましてや寵愛の劣る他の妃に既に御子があったとは考えにくい。
     後に「明石」で「承香殿の女御の御腹に男御子生まれたまへる、二つになりたまへば」(「明石」(2)p261)とあることから、後の今上帝は上記の朱雀帝と朧月夜の会話の翌年(「須磨」2年目)の生まれであり、時期的に見て朧月夜が源氏との醜聞で謹慎していた頃に母承香殿女御が懐妊したものと思われる。しかしこの時点でも作中に他の御子たちは登場しておらず、となるとさらにそれ以前の「賢木」では、皇子も皇女もなかったと見てよいと思われる(なお「若菜上」で女三宮が「御年十三四ばかりにおはす」(「若菜上」(4)p18)とあり、仮に14歳としても「須磨」1年目の誕生で「賢木」ではまだ生まれていない。また女三宮の姉の女一宮、女二宮(落葉の宮)は当然年上であろうが、どちらも異母姉なので同年の可能性もある。仮に2歳上、即ち朝顔卜定の年(「賢木」2年目)の誕生だとしても、朝顔卜定は春と思われるので卜定後の生まれであったか、または卜定前に生まれていても数え1歳での斎王卜定は歴史上の例もないことから、やはり候補にはならなかったであろう)。
     こうして、「さるべき女御子」が一人もいない「若無内親王者」の状況となり(もちろん作者が周到にそう設定した結果であるが)、その結果二世女王の中から白羽の矢を立てられたのが、故桐壺院の姪にあたる朝顔姫君だったのである。

     なおこの時点で既に作中に登場している二世女王のうち、紫の上と末摘花は共に源氏の妻となっているので当然除外されるが、紫の上の姉妹である兵部卿宮の娘たちは候補に該当したはずである。長女(髭黒正室)はこの年か翌年頃に娘の真木柱が生まれたと見られることから、既婚とも未婚とも断定しがたいが、次女(王女御、冷泉帝後宮)は当時明らかに未婚であった。作者も当然兵部卿宮の娘ならば候補となることは意識していたと考えられるが、兵部卿宮は同じ皇族であっても桐壺院の実弟である式部卿宮ほど近い血筋ではなく、異なる皇統に属するらしいことから避けられたのかもしれない(歴史上でも、宇多天皇の斎宮・斎院は清和・陽成系以外の女王が選ばれている)。いずれにせよ、そもそも作者の意図は始めから朝顔卜定にあったのであろうから、このために朝顔を斎院にふさわしく内親王にも劣らぬ高貴な皇女として、桐壺帝や源氏と同じ皇統に属し、しかも現皇族中最も格式高い式部卿宮の姫に設定したものと考えられる(『源氏物語』以前の歴史上の女王斎院3人のうち、2代時子の父正良(仁明天皇)は卜定当時皇太子であり、また8代穆子の父時康も一品式部卿で、皇族の中でも特に格式高い筆頭親王であった)。なお朝顔のきょうだいについては「御はらからの君達あまたものしたまへど、ひとつ御腹ならねば」(「朝顔」(2)p488)とあり、また朝顔自身は父と共に桃園宮で暮らしていたと見られることから、恐らくは正室腹の一人娘であったかと思われる。

     ただしここで注意しなければならないのは、「賢木」1年目の11月始めに桐壺院崩御の後、翌年の比較的早い時期に朝顔姫君が斎院に卜定されていることである(2月に朧月夜の尚侍就任があり、その後に朝顔の斎院就任が述べられ、秋に雲林院の源氏との文通があったので、卜定は春から夏にかけての頃か)。
     先述のとおり、『源氏物語』以前に歴史上で諒闇中に卜定された斎院は4代慧子が唯一の例である。慧子は仁明天皇の孫で服喪は5ヶ月であったが、朝顔姫君は桐壺院の娘や孫ではなく姪であり、従って「喪葬令」によれば3ヶ月で朝顔自身の「伯父」に対する服喪は終わっていることになるので、2月以降であれば問題はないように思われる。
     しかし第2節で触れたように、歴史上の例では光孝天皇崩御で8代斎院穆子が退下した後、9代斎院直子女王(文徳天皇皇孫。光孝天皇は大叔父)が卜定されるまでにも1年以上かかっており、やはり故天皇と新斎王が親子でなくとも諒闇中は卜定を避けたためと考えられる。にもかかわらず朝顔姫君の例では、桐壺院崩御から半年も経たずに選出されたと見られ、明らかに諒闇中の卜定ということになる(朝顔斎院の卜定が桐壺院の諒闇中であることは、既に島田とよ子氏が指摘しているが(注14)、女一宮・女二宮が父院の服喪中で卜定も不可能である点には触れていない)。このやや強引とも思われる早期の卜定には、諒闇明けを待たず選出を急いだ弘徽殿大后の意図が感じられないだろうか。
     桐壺帝女三宮が退下したものの、残る女一宮までも新たに斎院になるかもしれなくなった時、大后は当然母として反対したであろう。だがその代りに女王を立てると決定した際、何故他の宮家ではいけなかったのか。特に兵部卿宮の娘ならば、源氏に劣らず大后が敵視する藤壺中宮の実の姪、しかも源氏にとっても義理の姉妹にあたるだけに、言ってみれば格好の標的であったはずである。それを敢えて退け、これまでとりたてて右大臣家との軋轢も見られなかった式部卿宮の娘である朝顔が選ばれたのは、果たして筆頭宮家の姫君という門地の高さだけが理由であろうか。
     そもそも朝顔姫君は早くから源氏との関係を取り沙汰されており、その噂は受領の妻にすぎない空蝉の女房たちの話題にも上るほど世間に知れ渡っていた。いかに格式高い宮家の息女とはいえ、二人が既に逢瀬を持った(あるいはいつ持ってもおかしくない)仲であるとの認識が世間に広まっていたのであれば、未婚を条件とし清浄であるべき斎宮・斎院候補としてはむしろ避けられてもおかしくない(歴史上では寛和2年(986)、斎宮済子女王が滝口武者平致光と密通したとされ、野宮での潔斎中に解任された例がある)。また逆に源氏との関係が事実無根とすれば、かつて東宮妃にと望んだ葵の上を源氏に奪われまた朧月夜の入内も失敗した以上、今や朝顔は朱雀帝の妃候補として年齢的にも釣り合った最高貴の姫君の数少ない一人でもあったはずである(朱雀帝の後宮にはかばかしい妃がおらず、ついに皇后が立たなかったことは諸研究も指摘するところであり、また繰り返すが藤壺女御はこの時まだ作者の構想にはなかったと思われる)。歴史上の例を見ても、仁明朝から村上朝までの歴代天皇は代々女王を後宮に入れており、特に朱雀・村上朝は3人の皇孫女王(皇太子保明王女熙子、重明親王女徽子、代明親王女荘子)が女御として入内している。桐壺帝が醍醐朝の頃を想定しているとされることからも、続く朱雀帝の後宮において、前坊姫宮である秋好が斎宮に立った後の皇族内で最も高貴な血筋の女王であった朝顔の入内は、当然の可能性として考えられたのではないか。
     とはいえ後に兵部卿宮が次女王女御を、そして光源氏もまた養女秋好を冷泉帝へ入内させたのとは対照的に、作中では朝顔入内の可能性すらまったく触れられていない。もちろん本当に入内していれば、当然朧月夜とは帝寵を争うことになるため、それはそれで右大臣家としては難しい事態ではあっただろう。しかし結局朝顔本人や父式部卿宮が結婚の可能性を考えたのは源氏だけであり、朱雀帝後宮への入内は最初からまったく想定外だったというのが実情と思われる(これも式部卿宮にそれだけの政治力がないからではなく、帝の妃になるよりも光源氏との結婚の方が素晴らしいのだ、という作者の意図の表れであろう)。
     葵の上の時とは異なり、朱雀帝から式部卿宮父娘へ入内の誘いがあったとの描写はないが、とはいえそうした式部卿宮家の(かつての左大臣家を思い起こさせる)源氏寄りの態度を見るにつけ、大后にしてみればますます我が子朱雀帝が蔑ろにされていると感じて源氏憎しの思いを募らせる種になったことは容易に想像できよう。だとすれば朝顔の斎院卜定は、親源氏派の式部卿宮家に対する右大臣側の婉曲な嫌がらせであった可能性も考えられる。またさらに踏み込んで憶測するなら、源氏との噂があった故に大后は敢えて朝顔を斎院に推し、折あらば二人の関係を理由に源氏を追い落とそうと密かに機会を伺っていたのではないか。
     後に光源氏と朧月夜との密通が発覚した際、右大臣は次のような言葉で朝顔斎院との交際を非難している。

    「男の例とはいひながら、大将もいとけしからぬ御心なりけり。斎院をもなほ聞こえ犯しつつ、忍びに御文通はしなどして、けしきあることなど、人の語りはべりしをも、世のためのみにもあらず、わがためもよかるまじきことなれば、よもさる思ひやりなきわざし出でられじとなむ、時の有職と天の下をなびかしたまへるさまことなめれば、大将の御心を、疑ひはべらざりつる」(「賢木」(2)p147-148)

     この言葉に大后も「斎院の御ことはましてさもあらん」(「賢木」(2)p148)と右大臣以上に激怒する一方で、冷静に事態を分析し「このついでにさるべきことども構へ出でむによきたよりなり」と、まさにしてやったりという心中を覗かせている。愛息朱雀帝を侮辱するような源氏の傍若無人な振る舞いに対して怒り狂いながらも、同時に実の妹さえもためらいなく政敵追放の犠牲にしようというこの時の大后は、この期に及んでも朧月夜に甘い父右大臣に比べてはるかに冷徹でしたたかな政治家である。しかし右大臣家としては表向き朧月夜との関係を声高に非難できず、その代わりに「神聖たるべき斎院をも犯した」と状況証拠を言い立て、朱雀帝に対する謀反の意ありと決めつけることで、ついに源氏を失脚へと追い込むことに成功した(注15)。
     とはいえ、密会の現場を押さえられた朧月夜が後に謹慎処分を受けたのに対し、完全な無実の朝顔斎院はその後も冷泉帝の御世まで任にあり続けたことから見て、公式には何の咎めもなかったと考えてよいだろう(ただし世間では朧月夜以上にかしましく騒がれた可能性は大いに考えられ、それが後に「朝顔」で前斎院が滅多に源氏の文へも返事をしない「わづらはしかりしこと」(「朝顔」(2)p469)であったかと思われる)。結局のところ、朝顔姫君は始めから源氏を失脚させる目的のために利用されたことになり、それは諒闇中にもかかわらず朧月夜の華々しい尚侍就任(これは右大臣家にとって事実上の入内であろう)と朝顔姫君の斎院卜定を強行した大后らの強引さ(ひいては故桐壺院と源氏への敵愾心)を暗に語るものであったと思われる。


     さらにこの朝顔姫君の斎院卜定についてはもうひとつ、重大な疑問点が指摘されている。
     大将の君は、宮をいと恋しう思ひきこえたまへど、あさましき御心のほどを、時々は思ひ知るさまにも見せたてまつらむと念じつつ過ぐしたまふに、人わろくつれづれに思さるれば、秋の野も見たまひがてら、雲林院に詣でたまへり。(中略)
     吹きかふ風も近きほどにて、斎院にも聞こえたまひけり。」(「賢木」(2)p116,119)

     光源氏は父桐壺院崩御後、藤壺中宮への思いやみがたく再三迫るも厳しく拒絶され、失意から都の北にある雲林院に引きこもる。折しも紅葉の美しい秋、源氏が二条院の紫の上へ便りを送る一方で、雲林院のすぐ近くであるからという口実の元に、今は斎院となった朝顔へも未練たっぷりに文を送る様子を上記引用の本文は描いている。
     だが朝顔が斎院に卜定されてから、作中ではまだ長くとも半年ほどしか経過していない。通常であればまだ自宅での潔斎中か、せいぜいが宮中の初斎院に入っているくらいの時期のはずだが、ここでの描写は明らかに雲林院と紫野の近さを意識したものとなっている。諸注釈もこれを不審としているが、明快な根拠を挙げたものはない。
     この問題について、今井論文1は次のように述べている。

    『源氏物語』は、独自の虚飾をまじえながらも、史実を丹念になぞりながら御息所母子を描き出してゆくのであり、それだけ母子揃っての群行というのは、当時の人々にとっても印象深い、前代未聞の事件であったに違いない。群行の日時や様子は、例えば『西宮記』にも記され、『源氏物語』が、葵巻以下の物語を書き進めるに際しては、それらの資料が利用されたであろうことが想像される。
     それに対して、斎院の描かれ方にはずいぶんと差があり、様々の点で不審や不明瞭なところが認められるということ。先に『花鳥余情』が、この時代の斎院制度について十分に理解できていなかった可能性について言及したが、はたしてそれは、兼良だけの問題であったろうか。新斎院が卜定された後、どのようにして初斎院を迎え、本院にたどり着くか、それらのことに不案内だったのは、他でもない『源氏物語』なのではなかったか

    『源氏物語』が執筆された11世紀初め、天延3年(975)の16代斎院選子卜定から既に20年以上の歳月が経過していた。従って『源氏物語』での斎院を巡る描写の問題点は、斎院卜定時の初斎院や本院渡御以前のあり方についての記憶も、紫式部のみならず当時の社会全体で既に半ば忘れられていたことの反映ではないかとする今井氏の見解は非常に興味深い。
     紫式部の生年は不明だが、仮に最も早い説に従い970年生まれ(今井源衛氏ほか)としても、選子卜定の975年当時数えわずか6歳、本院入りの977年でもようやく8歳である(最も遅い978年生説を取れば、まだ紫式部は生まれてさえいない)。幼少の式部が家族と共に御禊見物に行っていた可能性も否定できないが、いかな才女の誉れ高い式部といえども、その年齢で『源氏物語』で描いたような御禊の様子を詳細かつ克明に記憶していたとは考えがたい。よって紫式部が初度の御禊や初斎院御禊を実見していなかった(あるいは記憶できるほどの年齢ではなかった)であろうとする、今井氏の推論は妥当と思われる(なお「賢木」で描かれる伊勢斎宮の野宮や群行についても、榎村寛之氏が同様の見解を示している(注16))。

     しかし一方で、斎宮については斎院よりも見聞の機会が多かったであろうから、『源氏物語』作中での斎宮の描写もおのずと斎院より詳細なものになったのだとする見解には必ずしも従えない。何故なら今井氏が極めて詳細な記述であるとする伊勢斎宮群行の場面は、早くから史実の斎宮規子内親王(村上天皇皇女、選子の異母姉)とその母徽子女王(斎宮女御)の前例のない母娘下向を準拠としているだろうことを指摘されてきたが、既に述べたように斎宮規子の卜定は斎院選子の卜定と同年だったのである。両者の卜定から本院入りまたは群行までの日取りは、以下の通りである。


    【斎院選子と斎宮規子の卜定から本院入り・群行まで】
    斎院卜定初斎院(大膳職)本院入り
    選子天延3年(975)6月25日 貞元元年(976)9月22日 貞元2年(977)4月16日 
    斎宮卜定初斎院(侍従厨)野宮群行
    規子天延3年(975)2月27日 天延4年(976)2月26日 貞元元年(976)9月21日貞元2年(977)9月16日


     既に触れたとおり、斎院選子の卜定は15代斎院尊子が母(冷泉女御藤原懐子)の死去で天延3年(975)4月3日に退下したためである。一方斎宮規子の卜定は、先代斎宮隆子女王が伊勢で在任中の天延2年(974)閏10月17日に薨去したのを受けてのもので、両名が同年に新斎宮・斎院となったのはまったくの偶然であった。
     とはいえ、特に「賢木」における斎宮下向の詳細な描写は『日本紀略』にも記録された斎宮規子の史実の通りであり、紫式部が当時の貴族の日記等の資料に基づいて『源氏物語』を執筆したとすれば、斎宮と並行して進行する斎院選子の初斎院入りや本院入りの情報についても、紫式部は必ず気がついていたはずである。とりわけ斎宮規子の野宮入りと、斎院選子の初斎院入りはわずか一日違いであったのだから、編年体の資料で規子の野宮入りの記事を調べたなら、その翌日の選子初斎院入りの記事も当然目に入ったことだろう。
     なお、上記表の斎宮規子・斎院選子の卜定から本院入り(または群行)までを年月日順に直し、『日本紀略』の本文を加えると次のようになる。『西宮記』は編年体ではないが、通常の貴族の日記であれば恐らくこうした形で目にしたものと想像される。


    月日記事(日本紀略)
    天延3年(975) 2月27日卜定伊勢斎宮、規子内親王<村上第四>、卜食
    6月25日 卜定賀茂斎王、先朝[村上天皇]第十選子内親王也、
    以陸奥守貞盛二條万里小路宅、為潔斎所
    天延4年(976)
    [貞元元年]
    2月26日伊勢斎王[規子]禊、遷座侍従厨家[初斎院]
    4月25日賀茂祭、斎王[選子]未入本院、仍無供奉
    9月21日伊勢斎宮[規子]従侍従厨禊東河、入野宮
    9月22日賀茂斎院[選子]入御大膳職
    貞元2年(978)4月16日賀茂斎院選子、従大膳職禊東河、入紫野院、
    今日凶會日也、中納言為光為前駈
    9月16日伊勢斎宮規子内親王、従野宮禊西河、参向伊勢斎宮 


     第1節で述べたように、桐壺帝女三宮の斎院卜定から本院入りまでについて、『源氏物語』は矛盾のない時間経過で展開している。また『源氏物語』が多数の資料を駆使し様々な準拠を元に執筆されたと思われることは、多くの研究が指摘するところでもある。斎院についても先述の「賀茂のいつきには、孫王のゐたまふ例多くもあらざりけれど」(「賢木」(2)p103)や「御禊の日、上達部など数定まりて仕うまつりたまふわざなれど」(「葵」(2)p20)というさりげない描写からも作者の並々ならぬ知識が伺え、執筆にあたって事前の入念な調査があったのは間違いない。以上の点から、紫式部が斎院卜定に際しての本院入りまでの一連の儀式を実見していなかったのはほぼ確実としても、だからといって初斎院入りや本院入りの時期について疎かったと言うには当たらないと思われる。
     しかしそうであるならば、何故作者は「賢木」での朝顔斎院に関する逸話で、極めて異例と言う他ない早期本院入りを匂わせる描写を入れたのであろうか。

     この点に関しては、既に根本智治氏等の指摘にあるように(注17)、作者は間違いであることを承知の上で現実の儀礼の規定よりも物語の展開を優先し、「多少の無理を押してでも」故意にこの逸話を入れたものではないかと考える。
     桐壺院の崩御後、光源氏と敵対する右大臣家は勢力を増し、さらに密かに恋い慕う藤壺中宮は故院の一周忌後に自ら出家を遂げ、わずか1年の間に源氏はみるみる破局へと追い込まれていく。そして朧月夜尚侍との関係が露見した後、右大臣と弘徽殿大后が源氏を失脚させる口実のひとつとして引き合いに出したのが、他ならぬ朝顔斎院との交流であったことは既に述べた通りである。
     こうして、桐壺院崩御後に逼塞していた光源氏が一気に須磨隠遁まで追い込まれていく怒涛の展開を、作者はスピーディに進めていく。そこに朝顔斎院との疑惑は源氏失脚の重要な伏線として、さらにはその失脚が表向きは無実の罪によるものとして欠くべからざる要素であったため(注18)、本来であれば諒闇明けとすべき卜定時期や2年後である本院入りのことも敢えて無視し、やや強引に「賢木」の雲林院での逸話を入れたのではないだろうか。
     しかしそれならばそもそも、「花宴」後の斎院交替の時点で朝顔を卜定すればよかったようにも思われるが、「葵」の御禊は桐壺帝女三宮が斎院であったればこそ光源氏の供奉ということにもなったのであり、朝顔では車争いを引き起こすことはできなかった。しかも恐らくその車争いの場からほど近い場所で、朝顔も御禊見物に加わっていたのである。朝顔の父式部卿宮は源氏の素晴らしさに「神などは目もこそとめたまへ」」(「葵」(2)p26)とまで感嘆し、朝顔自身もまた源氏の晴れ姿に心を動かされつつ、同時に「いとど近くて見えむまでは思しよらず」との思いを新たにする。彼女の決意は「葵」冒頭でも「いかで人に似じ」(「葵」(2)p19)と述べられているが、その思いはまさに同じ日に起きた葵の上と六条御息所の車争いの様子を耳にして一層強くなったであろう。葵の上の死後、御匣殿となっても源氏を思いきれない朧月夜や密かに結婚を期待する六条御息所に対して、朝顔の心境はまったく語られないことからもその意志の固さが伺える。源氏の正妻候補として十分と周囲も認める女性でありながら、やや理知的にすぎるほどに自制できるのが朝顔という姫君であり、それを示す上でも車争いの時点で彼女はまだ斎院となるわけにはいかなかったのである(注19)。

     話戻って、今井論文1が指摘するように当時の宮廷社会でも斎院卜定から本院入りまでの一連の儀礼の記憶が忘れられていたとしたら、紫式部がそれを逆手に取って故意にこのような記述をした可能性も考えられる。
     即ち、当時は斎院選子の30年近くにわたる在任で「斎院は紫野にいるもの」という認識が一般に定着してしまっており、式部はその固定観念を利用して、本来であればまだ本院入りまで1年以上あるはずの朝顔斎院を、当然のように敢えて既に紫野にいるものとしたのではないだろうか。だとすれば、式部は今井論文1が推察するように斎院の卜定を巡る事情に疎かったわけでは決してなく、むしろ同時代の人々よりもはるかに正確かつ詳細な知識を有しており、だからこそ故意にこうした「ケアレスミス」ともとれる設定で執筆したということになる。そして式部よりもさらに若い女性読者、例えば式部の主人であった中宮彰子や同僚女房たちなどは何の疑問も持たず、禁域の人となった朝顔と源氏の交際はこれからどうなるのかと先を期待したことだろう(現実には二人の進展はなかったが、『伊勢物語』の斎宮と業平のような展開を予想した読者も当然いたと思われる)。

     ただしここで忘れてはならないのは、いかに当時の宮中や貴族階級の人々が斎院制度に疎くなっていたとしても、かつての御禊の有様をその目で見て記憶している人物も存在したであろうという点である。その筆頭は無論、12歳で卜定され14歳で紫野本院へ入った斎院本人、選子内親王その人である。

     所京子氏の研究によれば、選子は幼くして両親と死別の後、伯父藤原兼通とその妻昭子女王の元で養育されていたらしい(注20)。幼少期の選子については、同母兄円融天皇の女御・藤原媓子(兼通女、のち皇后)の入内と共に内裏へ参入(『親信卿記』天延元年2月20日条)、その翌年には清涼殿で着裳を行った(『日本紀略』天延2年11月11日条)等の記録が見られるが、それ以外は兼通の邸堀河院で成長したものと思われる。今上帝の同母妹にして后腹内親王という高貴な身分の少女であるから、稀に参内する他は大切に深窓にかしずかれて殆ど外出の機会もなかったであろう。そんな選子にとって、斎院卜定は文字通りその生涯を決定する最大の転機であった。
     しかも選子の卜定からわずか5日後の天延3年(975)7月1日、平安京で日本史上初と言われる皆既日食が起こり、大々的な恩赦が行われた。さらに翌天延4年(976)は5月11日に内裏が焼亡したばかりか、6月18日には大地震で宮中の八省院・豊楽院を始め東寺・西寺・清水寺や多くの邸宅が倒壊し、多数の死者が出る大惨事となった。その後も連日のように余震が起こるなど天変地異や災害が相次ぎ、とうとう7月13日に改元が行われている。
     このような混乱の中、選子の卜定(天延3年(975)6月25日)から初斎院入り(貞元元年(976)9月22日)まで1年3ヶ月もかかっている。通常斎王の卜定から初斎院入りまでは長くとも1年であり、選子の初斎院入りは年月日が判明している歴代斎宮・斎院の中でも最も遅い、極めて異例の事態であった。当時の選子本人はそこまで理解してはいなかったろうが、それでもこうした衝撃的な大事件を多感な少女時代のそれも斎院卜定直後に経験し、それを乗り越えてようやく貞元2年(977)無事に行われた華やかな初斎院御禊と本院入りの記憶は、選子にとってとりわけ忘れがたいものになったであろう。
     さらに選子と同年に斎宮となった異母姉規子内親王は、当時の歌壇で最も著名な女性・斎宮女御徽子女王の一人娘であった。選子より先に侍従厨へ初斎院入りした規子は、選子とは入れ違いに宮中から野宮へ移っており、異母姉妹である二人は共に暮らすどころか、顔を合わせたことさえ殆どなかったと思われる。
     しかし『斎宮女御集』には選子が共に伊勢へ下る規子・徽子母子に送った歌や、後年徽子の死去に際して斎院選子から前斎宮規子へ弔問があったとの詞書もあり、斎院選子と斎宮女御母子の交流が深かったことが伺える。そこには血の繋がる姉妹というだけでなく、不吉な災害の相次いだ時代に共に天皇家と国家の安寧のため神に仕える運命を負った、同じ斎王としての深い共感もあったかもしれない。「賢木」で紫式部が哀切を込めて描き上げた斎宮下向の物語は、選子にはかつて自身が体験した斎院卜定と時を同じくした、亡き異母姉とその母女御との忘れえぬ懐かしい記憶そのものだったのである。
     そして後年、一条朝きっての文化サロンとして名を馳せた斎院選子とその周囲でも、当然『源氏物語』は愛読されたであろう。年若い女房はともかく、選子本人ならば朝顔の本院入りの違和感に気づいた可能性も十分に考えられる。
     紫式部が中宮彰子に出仕した頃、選子は40前後で当時ではそろそろ初老と言われる年齢に差しかかっていた。しかし『枕草子』『栄花物語』『御堂関白記』などに記された中宮定子や藤原道長との当意即妙なやりとりの様子から伺えるのは、老いの衰えどころかむしろ年齢を重ねて一層重みを増し、しかも才気溢れる「大斎院」選子の姿である。いかに30年近い歳月が過ぎたとはいえ、当代のサロンの女主人であった選子が若き日の、そして生涯初めての晴れ舞台となった華やかな御禊や本院入りの儀式を克明に記憶していたとしても不思議ではない。

     ところでここで気になるのは、斎院卜定についてこれだけの申し分のない現場証人にして当事者であった選子が、『源氏物語』執筆に何の影響も与えることがなかったのかということである。
     これもつとに知られたことであるが、紫式部の兄弟惟規は斎院選子に仕えた女房・中将の愛人であった。もっとも『紫式部日記』は中将の人柄を痛烈に非難しているが、式部さえその気になればこうした人脈や主君彰子・道長らのつてを頼りに、間接的にでも選子その人への「取材」も可能だったのではないだろうか。
     とはいえ式部が『源氏物語』の執筆を始めた当時、既に惟規と中将が交際していたかは知る由もなく、また式部が彰子に仕え始めた頃、『源氏物語』がどこまで書き進められていたのかさえ不明である(確かなのは1008年秋には既に「若紫」が宮中でも読まれていたらしいということだけである)。そもそも式部が『源氏物語』をきっかけにその才を買われて出仕するようになったというのが事実であれば、執筆当初は『源氏物語』がこれほど世に広まり斎院選子の目にまで触れることになるとは本人も予想しておらず、それが思いがけず宮中でもてはやされるようになったことで内心密かに狼狽したのではないかとも想像できる(あるいは実際に、選子本人やその周囲から式部に対して指摘があったかもしれない)。

     ここでもう一つ、朝顔斎院が父式部卿宮の死で退下した後「桃園宮に渡りたまひぬる」(「朝顔」(2)p469)とある点に注目したい。
    「朝顔」で唐突にその名称が登場する桃園宮は、『河海抄』で式部卿宮の準拠を宇多皇子敦固親王に求める根拠ともされ、朝顔の出自の高さを裏付けるものであるとする説(今井祐一郎氏(注21)、坂井共展氏(注22))や、また逆に父式部卿宮没後の宮家の零落を示すものであると見なす説(袴田光康氏(注23))、さらに醍醐皇子代明親王とその周囲を準拠とする説(斎藤正昭氏(注24))等、様々に推測されてきた。確かにそれらもひとつの要素であったかもしれないが、さらに想像をたくましくすれば、作者の意図はあるいは「賢木」での逸話が紫野本院ではなくまだ桃園宮での潔斎中のことであったのだと、暗にほのめかすことにもあったのではないだろうか。
     紫野斎院の場所については、角田文衛氏(注25)、小山利彦氏(注26)の推論から大体の位置が絞られており、またそもそも雲林院は始め紫野院と称していたくらいであるから、まさに雲林院から「吹きかふ風も近きほど」であったと考えられる。一方桃園宮の所在も諸説あるが、正確な場所はさておき「大宮小路より西、一条大路より北」界隈またはその付近であることはほぼ間違いなかろう。そしてこの桃園、紫野、そして雲林院はいずれも大内裏の真北、現在で言えば南北を今出川通と北大路通、東西を堀川通と千本通で囲んだ、ほぼ1km四方の範囲の中に存在していたと思われるのである。
     この桃園と紫野の距離の近さについては、「賢木」以前の物語に桃園宮の名が出てこないためか、従来の研究では殆ど指摘されておらず、管見の限りでは小山利彦氏がわずかに触れているのみである(注27)(諸注釈では、雲林院の源氏と朝顔との贈答の頃は「既に宮中初斎院入りしているはず」とするものが多く、そもそも初斎院入り以前ではないかとの想定がなかったのも一因か)。しかし現在の地図で見れば紫野から桃園までの距離は直線でおよそ500m前後、そして紫野から雲林院までもやはり500m前後(角田説に従えば、紫野斎院北端から雲林院南端まで約300m)と、殆ど変わりないのである。即ち、紫野と桃園もまた「吹きかふ風も近きほど」であり、雲林院から桃園までの距離も1km程度なのだから、徒歩でもせいぜい20分といったところであろう。
     当時の雲林院の敷地は推定によるとおよそ219m四方(注28)で、後に光源氏が営んだ邸宅六条院にほぼ匹敵する広大なものであった。源氏がどのあたりの坊に籠っていたかは不明だが、それでも源氏の住まいであった二条院に比べれば、紫野から少し足を伸ばすだけで着く桃園もまた、目と鼻の先と言っても差支えない近さであったと思われる。従って雲林院に籠った源氏が、紫野のすぐ向こうにある桃園宮で潔斎中の朝顔斎院に思いを馳せるというのであれば、それほど無理なく考えられることではないか。斎院が卜定後半年以内に既に本院に入っていたとするのはどう考えても無理な話だが、逆にそれだけ早い時期ならば、いまだ初斎院入りも果たしていない可能性は十分ありうる(事実、『源氏物語』以前に唯一の「生涯女王」斎院であった9代直子は寛平元年(889)2月27日に卜定、同年9月23日に初斎院入りしたらしい記録が『日本紀略』にあり、「賢木」の描写にほぼ合致する)。しかし仮に作者が始めから朝顔の自邸に桃園宮を想定していたならば、「賢木」で明らかに矛盾する本院入りを匂わせるような書き方などはせず、その時点で桃園宮の名を出したであろう。
     つまり作者は、「賢木」の時点では朝顔の居場所を(本来ならばありえないはずの)紫野本院と想定していたが、後に何らかの理由でそれを修正する必要に迫られたのではないか。そしてたまたま「賢木」で紫野の地名を出していなかったのを幸い、紫野から近い桃園を朝顔斎院の退下先とすることで、「賢木」での光源氏との文通も桃園宮での潔斎中であったのだと言外に示そうとしたのかもしれない。「朝顔」において突如「桃園宮」が朝顔の自邸として登場した理由の一つに、そうした意図が隠されていた可能性もありうると思われる。

     なお浅尾広良氏は「この斎院を紫野院という場所に限定せずとも、斎院となった朝顔のことを考えれば、さして問題とはならないであろう」と述べ、今井論文1の問題提起を「朝顔が本院入りしていなくとも疑問には当たらない」としている。これに対し、今井論文2は「「(朝顔姫君が数年後、本院入りした暁には、日々を暮らすこととなる)紫野と風が通うほどの近さであるから、(彼女が連想され、今はまだ卜定されたばかりで紫野には誰もいないのだけれども、京中にいる)朝顔斎院にもお手紙を差し上げた」とでも理解するということだろうか」と、浅尾氏の解釈に疑問を示している。
     今井論文2が指摘するように、紫野という「場」からいずれそこに入るはずの「人物」である朝顔を連想するというのは、やや苦しい解釈であろう。その一方で、後の本文中にも「斎院」が朝顔個人を指す例はしばしば登場しており、この時も源氏が文を贈ったのは「場所としての紫野斎院」というよりも「斎院である朝顔その人」に対してであると解する余地はあると思われる。
     もっとも本来は作者も「賢木」の時点では朝顔斎院が既に紫野にいるものと想定して書いたのであろうし、雲林院から「吹きかふ風も近きほどにて、斎院にも聞こえたまひけり」と言えば、誰しも紫野を連想するのは当然である。しかし運よくと言うべきか、この時「紫野」という具体的な地名には触れていなかったため、後に朝顔退下を書くに至って作者はこの「賢木」での矛盾を解消しようと急遽朝顔の自邸を桃園に設定し、「斎院にも聞こえたまひけり」というのは紫野ではなく桃園にいる朝顔斎院へという意味だったことにすり替えて、やや強引に辻褄を合わせたのではないか。「朝顔」で突然とってつけたように桃園の名が登場し、しかも本文中でわずか二回触れられただけでその後の「少女」や「梅枝」では一切語られなかったのは、そもそも作者にそれほど深い意図がなく、またこじつけのように桃園宮の名前を出したことを蒸し返したくなかったためではないかとも思われる。

     ところで今井論文2が指摘しているように、平安中期以降の斎院卜定は「卜定所」と呼ばれる邸宅で行われるのが慣例であったらしい(今井論文2では触れていないが、斎宮卜定も同様である)。卜定所は斎院の自宅または親族の邸宅等の記録もあるが、乳母や家司等新斎院に縁のある人物の邸宅が選ばれている例が多く、卜占により決せられたとの記録もある(『左経記』長元4年(1031)11月7日条)。斎王の卜定前にあらかじめ自邸を出て、こうした卜定所において卜定を知らせる勅使を迎えそのまま潔斎に入っていたのだとすれば、朝顔姫君も卜定を受ける時点で既に桃園の自邸を出ていたはずではないかということになる。
    「賢木」では朝顔斎院が初斎院入りの前にどこで潔斎をしていたか明記されていないが、「葵」で車争いの後に「斎宮のまだ本の宮におはしませば」(「葵」(2)p26)との一文がある。これについて『河海抄』は「もとの宮とは卜定所歟六條の御息所の在所歟」とするが、自邸を出て移った卜定所を指すのであれば「本の宮」という言い方はしないのではないかと思われる。
     後に述べられるように、本来斎宮は既に宮中初斎院に入っている時期のはずであったが、「去年内裏に入りたまふべかりしを、さまざまさはることありて」(「葵」(2)p37)いまだ「本の宮」に留まっていた。第2節でも触れたように、この説明から見て斎宮が卜定されたのは前年の冬ぎりぎりではなく、もっと早い時期のことだったのであろう(歴史上では斎宮恬子内親王が貞観元年(859)10月5日卜定、同年12月25日に初斎院入りしたのが最短で、11月に卜定された隆子女王(安和2年(969)11月16日)と済子女王(永観2年(984)11月4日 )はいずれも翌年9月に初斎院入りしている)。それが今なお初斎院入りしていないのは、むろん作者が御息所に「榊の憚りにことつけて、心やすくも(光源氏とは)対面したまはず」(「葵」(2)p26-27)させるためである。後に御息所が病のため転居した際の描写に「例ならぬ旅所なれば」(「葵」(2)p33)とあることから見ても、この時の斎宮は六条の自邸をそのまま潔斎所として初斎院入りを待っていたものと思われる。
     とはいえ「まだ本の宮に」の一語がわざわざ入れられたのは、斎宮の初斎院入り延滞が異例であるが故に説明を要したものであり、「本来自邸とは別の卜定所に入るべきところを、慣例に背いて自邸に留まっている」という意味ではなかろう。よって、その後卜定された朝顔斎院の場合も同様に、初斎院入りまでは桃園の自邸を潔斎所にしていたと見なしてよいと考える。

     歴史上の斎院の卜定所の文献上の初見は、所京子氏によれば16代選子卜定(『日本紀略』天延3年(975)6月25日条「陸奥守平貞盛二條万里小路宅」)であり(注29)、15代尊子以前では同じ『日本紀略』や六国史にも見られない。また斎宮については、西山良平氏が10〜11世紀にかけての「斎王家(卜定所)」の記録を検証している(注30)。この中で最も早い記録の一つとして、天暦元年(947)の悦子女王(重明親王女、斎宮女御徽子女王の妹)の斎宮卜定で『日本紀略』(天暦元年2月26日条)に「仰遣父中務卿重明親王家。又神祇官向彼家差賢木」とあり、この場合は斎宮の自邸が卜定所となったものと見られる。なお自邸以外の「人の家」を借用した例では、『日本紀略』(長和元年(1012)12月4日条)の三条皇女当子内親王卜定記事において「坐大和守藤原輔尹六角町尻宅」とあるのが初出であるが、そもそも『延喜式』には「卜食訖遣勅使於彼家」とあり、上記悦子女王の例に見られるように「彼家」は本来「新斎王の自邸」を指すと解釈してよいものと思われる(その後も嫥子女王(具平親王女)が長和5年(1016)斎宮に卜定された際「女王名簿即從女王宅獻之、<書二世嫥子王、>(中略)以左少将経親被仰遣女王宅<染殿、>」(『小右記』2月19日条)との記録があり、染殿は嫥子の外祖父・為平親王の邸宅であったことと「女王宅」という表記から見て、嫥子の自宅と思われる。また永承7年(1052)には斎宮敬子女王が「五条宅」から初斎院入りしており(『春記』4月25日条)、これも自邸が卜定所になったと見られる)。
     しかし天皇譲位でも斎院が退下しなくなったように、卜定所も実際の儀式は次第に斎王の自宅または親族の邸宅以外が定められるようになり、『延喜式』本来の規定とは異なる慣例が定着していったのではないだろうか。特に16代選子は56年という長期在任の斎院であったため、今井論文1が指摘するように半世紀の間に儀式の詳細も不明となっていたらしく、『小右記』(長元4年9月28日条)が選子の次の17代斎院馨子の卜定について「天延三年例也、以可行斎院事之上御」と記していることからも、馨子卜定は「天延三年」即ち選子の例を参照としたことがわかる。
     さらに西山氏が指摘するように、「人の家」の借用は11世紀後半に『江家次第』において「斎王卜定事」に定められている。斎宮卜定時の記録は敬子女王の後しばらく史料が途絶えるが、寛治元年(1087)の善子内親王(白河天皇皇女)卜定の際には「三条烏丸加賀守(藤原)家道[通]朝臣宅」が卜定所となっており(『中右記』2月11日条)、これ以降は斎院同様に自邸以外を潔斎所とする慣例が主流となっていったことが記録から伺える。

     なおそもそも選子卜定にあたって、何故自邸以外の場所が「卜定所」に定められたのかは不明だが、山本一也氏は皇后所生の皇子女は内裏で成長するのが基本であるが、斎王になった際に内裏内に斎王家(=卜定所)を置くわけにはいかなかったことから「人の家」を借用したのではないかとしている(注31)。また選子の母中宮藤原安子が長兄憲平親王(冷泉天皇)を出産したのも、父師輔邸ではなく丹波守藤原遠規宅であり、その後11世紀になって、後一条天皇以降の皇妃の出産等で里邸以外の邸宅が使われた記録が散見されることから、こうした慣例が斎王卜定に限らず天皇家の生育儀礼等でも次第に浸透していったらしいことが伺える。
     しかも選子は生まれながらの后腹内親王として卜定された初の斎院であり(6代儀子、7代敦子は母が皇太后であったが、父天皇在位中の皇后ではなかった)、その上56年という空前絶後の長期斎院在任を全うして後に「大斎院」とまで呼ばれた人物である。こうした選子の存在が、斎王史上最高の佳例として後世に伝えられ、それに倣い卜定所の慣例も定着することになった可能性は十分考えられる(150年以上後の『兵範記』(嘉応元年(1169)10月20日条)には、「天延三年六月廿五日丙寅、卜定選子内親王、斎王間歴五代、最吉例也」と記載されている)。
     これらの点と、西山氏の「10世紀後半から11世紀前半に「人の家」の借用が成立し、11世紀後以降に盛行する」という指摘を総合すると、新斎王が卜定にあたり自邸を出て「卜定所」に移るようになったのは選子以降に定着した慣例であり、それ以前は斎王の自邸がそのまま『延喜式』の規定通りに卜定・潔斎の場となったことから、『日本紀略』等にも殆ど記録されなかったのではないだろうか。後に『狭衣物語』では斎院となった源氏の宮が「下りにし大弐の家」に渡ったとされるが、『源氏物語』の頃は斎院選子の前例はあっても、いまだそれが慣例として根付くには至らない時期であった可能性が高い。そのため紫式部も「葵」での斎宮の潔斎所を「本の宮」としており、さらには朝顔斎院の退下後に彼女の実家を桃園であると述べ、雲林院の光源氏が潔斎中の「斎院」に文を送った先も紫野に程近い桃園宮であったのだと、さりげなく後付けしたのではないかと思われる。

     なお斎院選子の後に卜定された斎宮済子女王の「中河家」は、西山氏によれば済子の父章明親王が生母(中納言藤原兼輔女桑子)から伝領した邸宅と推測される。角田文衞氏は紫式部の居宅が章明親王家の近隣であったとしており(注32)、また式部の父為時と章明親王が従兄弟であったことから、式部が斎宮済子の卜定に関する事情を知りやすい立場におり、『源氏物語』執筆の参考とした可能性も考えられるであろう。


    【斎宮・斎院の卜定所一覧】(※斎院廃絶後は省略)
    天皇 斎王 名前 卜定年月日 卜定所 史料
    村上 斎宮 悦子女王 天暦元年(947)2月26日 父中務卿重明親王家 日本紀略
    円融 斎院 選子 天延3年(975)6月25日 陸奥守(平)貞盛
    二條万里小路宅
    日本紀略
    円融 斎宮 済子女王 永観2年(985)11月4日 中河家 日本紀略
    (寛和元年9月2日条)
    三条 斎宮 当子 長和元年(1012)12月4日 大和守藤原輔尹
    六角町尻宅
    日本紀略
    後一条 斎宮 子女王 長和5年(1016)2月19日 女王宅染殿 小右記
    後一条 斎院 馨子 長元4年(1031)12月16日 丹波守(源)章任三条宅 日本紀略
    後朱雀 斎院 娟子 長元9年(1036)11月28日 (源)道成朝臣宅 行親記
    (長暦元年4月13日条)
    後冷泉 斎宮 敬子女王 永承6年(1051)10月7日 五条邸 春記
    (永承7年4月25日条)
    堀河 斎宮 善子 寛治元年(1087)2月11日 三条烏丸加賀守
    (藤原)家道朝臣宅
    中右記
    堀河 斎院 令子 寛治3年(1089)6月28日 近衛萬利小路前越前守
    (源)高實朝臣宅
    中右記
    (寛治4年4月9日条)
    堀河 斎院 ヮq 康和元年(1099)10月20日 (源)清実
    大炊御門南京極西宅
    本朝世紀
    鳥羽 斎宮 恂子 天仁元年(1108)10月28日 遠江守(藤原)國資之宅
    綾小路與油小路
    中右記
    鳥羽 斎院 官子 天仁元年(1108)11月8日 土左守盛業二條京極宅 中右記
    崇徳 斎宮 守子
    (女王)
    保安4年(1123)6月9日 六角堀川 永昌記
    (天治元年4月23日条)
    崇徳 斎院 統子
    (恂子)
    大治2年(1127)4月6日 相模守(藤原)盛重新造宅
    雷解小路南堀川東角
    中右記
    (大治2年4月5日条)
    崇徳 斎院 禧子 長承元年(1132)11月25日 綾小路北東洞院西
    尾張守顕盛新宅
    中右記
    崇徳 斎院 怡子
    (女王)
    長承2年(1133)12月21日 中御門烏丸
    土佐守顕保宅
    中右記
    (長承3年9月21日条)
    近衛 斎宮 妍子 康治元年(1142)2月26日 母儀五條堀川第 本朝世紀
    近衛 斎宮 喜子 仁平元年(1151)3月2日 ●小路室町左馬頭
    (藤原)隆季朝臣宅
    ●=亞+鳥、こちらを参照
    本朝世紀
    後白河 斎宮 亮子 久寿3年(1156)4月19日 三條猪熊左馬頭
    (藤原)隆季朝臣家
    兵範記
    後白河 斎院 式子 平治元年(1159)10月25日 四条東洞院 平治元年十月記
    六条 斎宮 休子 仁安元年(1166)12月8日 右馬助大江信忠家 愚昧記
    (仁安2年6月27日条)
    高倉 斎宮 惇子 仁安3年(1168)8月27日 綾小路猪熊家 兵範記
    高倉 斎院 僐子 嘉応元年(1169)10月20日 右近少将泰通朝臣
    五条坊門高倉家
    兵範記
    高倉 斎院 頌子 承安元年(1171)6月28日 中御門京極 玉葉
    高倉 斎宮 功子 治承元年(1177)10月28日 押小路万里小路僕家 顕廣王記、
    仲資王記(10月29日条)
    高倉 斎院 範子 治承2年(1178)6月27日 中御門南京極西
    前中宮権大夫重頼宅
    山槐記
    土御門 斎院 礼子 元久元年(1204)6月23日 外祖前権大納言坊門信清卿
    四條北朱雀西家
    仲資王記
    (『大日本史料』所収)

    ※治承元年の『顕広王記』『仲資王記』は、国文学研究資料館提供「館蔵和古書・マイクロ/デジタル目録データベース」の画像(原本は大和文華館所蔵)による。
    『顕広王記』は121コマ目、『仲資王記』は12コマ目にあり。


  4. 結び

    『源氏物語』における賀茂斎院は、伊勢斎宮に比べると華やかさには欠ける存在である。第一部前半のクライマックスの一つである「葵」の車争いでも、物語の舞台は御禊という斎院の晴れ舞台でありながら、当の斎院本人である桐壺帝女三宮については殆ど語られない。彼女は「賢木」の桐壺院崩御で早々と朝顔姫君にその座を譲り、以後は「澪標」でわずかに名前のみ登場するだけで物語から姿を消してしまう。また朝顔斎院も、肝心の斎院としての在任中には、源氏と一度文を交わした他は退下までまったく登場しない。始めは源氏の須磨隠遁のため、また源氏帰京の後は政界復帰と冷泉帝の即位で多忙になったためもあるが、朱雀帝の譲位の際すら朝顔の斎院留任は一言も語られなかった。
     その朝顔が表舞台に姿を現すのは斎院退下後のことで、「朝顔」での彼女は源氏の正妻候補にふさわしい姫君として「似げなからぬ御あはひならむ」(「朝顔」(2)p478)と世間でも好意的にもてはやされており、世間的には二人の結婚に何の障害もなかったと見られる(この点は朝顔と同様に最後まで源氏を受け入れなかった秋好中宮や玉鬘とは大きく異なる)。新山春造氏は源氏との結婚が私通婚として家名を汚すことになった可能性を指摘しているが(注33)、源氏はまず叔母女五の宮を立てて式部卿宮の喪中を見舞い、朝顔の事実上の後見である女五の宮の了承を得た後に朝顔へ求愛している。紫の上の時とは対照的に形式的にも正式な求婚の手続きを踏み、しかもまったく何も語ろうとしない源氏の様子に、それまで源氏を信じ切っていた紫の上が深刻な不安を覚えたのも当然であった。
     だが一時はヒロイン紫の上の地位さえ脅かすかに見えた朝顔斎院は、内心では源氏へ惹かれる我が心を自覚しながらも、最後まで源氏の求愛を固く拒み通した希有な女性であった。源氏のみならず他の男性ともついに結ばれることなく、生涯を独身で終わった女君は『源氏物語』正編では彼女だけである。こうした朝顔斎院の独特な人物造形に、先行研究が指摘するように『源氏物語』当時の斎院であった選子内親王の面影が反映されていた可能性は十分に考えられることである。
     一方で紫式部はいかにも作り物語らしいご都合主義による展開ではなく、緻密な伏線を入念に張り巡らせながらもあくまで自然なストーリーの流れによって、初々しく登場した若紫を光源氏と生涯を共にする物語最高の女君へと成長させた。その紫の上が源氏と結ばれるきっかけとなったのが、源氏の最初の正妻葵の上の死であったが、それは間接的ながら桐壺帝女三宮という賀茂斎院なくしては起こりえなかった事件である。さらに光源氏自身の運命をも大きく動かし、後に明石の君との出会いと姫君誕生に結びつくことになった須磨流謫もまた、藤壺、朧月夜という二人の后妃と共に、朝顔姫君というもう一人の賀茂斎院の存在が少なからず関わっていた。斎院自身が表舞台に立つことは殆どないため、見かけの地味さに見過ごされがちであるが、物語の展開において二人の斎院の存在は陰ながら不可欠の要となっている。様々な史料から学び取った歴史上の人物や出来事を作り物語の中で巧みに生かし、さらに独自の形で展開させたその手腕はまさに「日本紀の局」とも呼ばれた作家紫式部の面目躍如と言えよう。
     そして『伊勢物語』が斎宮にまつわる「禁忌の恋」のイメージを長く後世へ残し続けたように、式部が選子を始めとする様々な準拠を元に『源氏物語』の中に再生させた斎院もまた、以後の王朝物語に登場する「不婚の皇女」のイメージの原型となりさらなる転生を遂げていった。在原業平をも越える理想の貴公子として作り出された光源氏を最後まで拒み通し、それ故に終生源氏の憧憬と敬愛の対象であり続けた朝顔斎院の面影は、永遠に手の届かぬ孤高の女主人公たる皇女として『狭衣物語』の源氏の宮に至りひとつの頂点を極めることとなる(注34)。
     しかし全盛を誇った摂関政治が傾き、院政を経た動乱の末に平安時代が終焉を迎えたのとほぼ時を同じくして、賀茂斎院という制度は消滅した。その約400年に及んだ歴史において、平安中期以降に定着した「天皇譲位では賀茂斎院は退下しない」という独自の慣例は、恐らく最後まで『延喜式』のような形で明文化されることがなく、またその後の様々な災害や戦乱で多くの史料が失われたために、後世には伝わらなかったものと思われる。やがて伊勢斎宮も南北朝時代に断絶して斎王たちが物語からも姿を消した後、『源氏物語』において語られた賀茂斎院の本来の姿もいつしか忘れられていったのである。


    『源氏物語』斎宮・斎院に関連する年立て・最終改訂案
    光源氏年齢巻名 当時の天皇出来事
    20花宴桐壺帝桐壺帝斎院退下。
    桐壺帝女三宮、新斎院に卜定。
    (斎院卜定の後、一院崩御?)
    同年または翌年、桐壺帝女三宮、初度の御禊。初斎院入り。
    21(空白)朱雀帝桐壺帝譲位、朱雀帝即位(一院の諒闇後?)。
    前坊姫宮(秋好)、新斎宮に卜定。
    22朱雀帝4月、桐壺帝女三宮、初斎院御禊。紫野本院入り。
    秋、斎宮秋好、初斎院入り。
    9月、斎宮秋好、野宮入り。
    23賢木朱雀帝9月、斎宮秋好と母六条御息所、伊勢へ下向。
    11月、桐壺院崩御。桐壺帝女三宮、斎院退下。
    24賢木朱雀帝朝顔姫君、斎院卜定(桐壺院諒闇中)。
    秋までは桃園宮において潔斎中か?
    29澪標冷泉帝朱雀帝譲位。秋好、斎宮退下。斎院朝顔は留任。
    32薄雲冷泉帝桃園式部卿宮死去。朝顔姫君、斎院退下。


著者関連ブログ記事:
【補記】
 本稿は当初初稿の誤りのみを訂正した第2稿として執筆していたが、その後「如在之儀」と天皇崩御の関連、26代斎院官子の退下時期等の訂正事項が見つかり、また2014年に浅尾広良氏、2015年に今井上氏により『源氏物語』年立に関する新たな論文が発表されたことから、両氏の論文についての見解も加え、一部改訂及び加筆を行った。

【注】
  1. 今井上「『源氏物語』賀茂斎院劄記:付・歴代賀茂斎院表」(『専修国文』(96), p7-41, 2015)
  2. 原田芳起「源氏物語年立論への疑い:葵の巻前後の部分構図について」(『国語と国文学』昭和35年5月号, p36-45, 1960)
  3. 今井上「源氏物語の死角:賀茂斎院考」(『国語国文』81(8), p15-30, 2012)
  4. 浅尾広良「朱雀帝御代の始まり:葵巻前の空白の時間と五壇の御修法」(『大阪大谷国文』(44), p20-46, 2014)
  5. 今井上「『源氏物語』賀茂斎院劄記:付・歴代賀茂斎院表」(『専修国文』(96), p7-41, 2015)
  6. 堀口悟「斎院交替制と平安朝後期文芸作品:『狭衣物語』を中心として」(『古代文化』31(10), p22-45, 1979)
    ※なお堀口氏は、斎院の場合「天皇の崩御は、(斎宮と違って)退下の十分条件にはなりえない」とも述べており、14代斎院婉子の例では村上天皇の譲位によるかとしている。しかし『日本紀略』等から見て村上天皇は在位のままの崩御であり、婉子もそれに伴い退下となった可能性が高いが、断定はできない。
  7. 山本一也「日本古代の皇后とキサキの序列:皇位継承に関連して」(『日本史研究』(470), p24-57, 2001)
  8. 堀裕「天皇の死の歴史的位置:「如在之儀」を中心に」(『史林』81(1), p38-69, 1998)
  9. 筆者ブログ「賀茂祭の謎・六 源氏物語の中の斎院」(2012年9月22日公開)
    URL:
    http://ctobisima.blog101.fc2.com/blog-entry-343.html
  10. 山本一也「通過儀礼から見た親王・内親王の居住」(『平安京の住まい』p299-334, 京都大学学術出版会, 2007)
  11. 宮武寿江「光源氏「内裏住み」攷:特に幼少時をめぐって」(『古代文学研究第二次』(6), p23-33, 1997)
  12. 三田村雅子『源氏物語:物語空間を読む(ちくま新書)』(筑摩書房, 1997)
  13. 榎村寛之「即位・大嘗祭と斎王卜定の関係について」(『律令天皇制祭祀の研究』p110-133, 塙書房, 1996)
  14. 島田とよ子「斎宮:秋好中宮の斎宮ト定について」(『園田国文』(11), p29-39, 1990)
    Cinii提供全文あり
    URL:http://ci.nii.ac.jp/naid/110005944036
  15. 田坂憲二「弘徽殿大后試論:源氏物語における<政治の季節>」(『源氏物語の人物と構想』p3-20, 和泉書院, 1993)、藤村潔「朝顔の姫君と空蝉物語との関係」(『源氏物語の構造』p342-379, 桜楓社, 1966)、森藤侃子「朝顔斎院:須磨流謫事件にまきこまれた生」(『源氏物語作中人物論集』p272-287, 勉誠社, 1993)
  16. 榎村寛之「紫式部は斎王を見たか?」斎宮歴史博物館公式サイト「斎宮百話」)
    URL:http://www.bunka.pref.mie.lg.jp/saiku/hyakuwa/journal.asp?record=50(2015年3月25日確認)
  17. 根本智治「光源氏の雲林院籠り」(『源氏物語の視界2 光源氏と宿世論』新典社, 1995)、小山利彦「光源氏を支える聖空間:雲林院・紫野斎院、そして賀茂の御手洗」(『源氏物語と皇権の風景』p75-137, 大修館書店, 2010)、濱橋顕一「源氏物語の年立」(『源氏物語の生成と再構築』p77-105, 竹林舎, 2014)
  18. 三田村雅子『源氏物語:物語空間を読む(ちくま新書)』(筑摩書房, 1997)
  19. 田坂憲二「朝顔の姫君の構想に関する試論」(『源氏物語の人物と構想』p111-126, 和泉書院, 1993)
  20. 所京子「大斎院選子の仏教信仰」(『斎王和歌文学の史的研究』p533-602, 国書刊行会, 1989)
  21. 今井祐一郎「朝顔の姫君」(『別冊国文学(13) 源氏物語必携II』p26-29, 1976)
  22. 坂井共展「朝顔の生き方」(『源氏物語構想論』p433-448, 明治書院, 1981)
    ※坂井氏は朝顔斎院が「宮」と呼ばれることから「内親王宣下をさえ受けているかもしれない」としているが、女王出身斎王の内親王宣下は後に小一条院や輔仁親王の娘たちの例があるものの、10世紀までの歴史上の斎王には見られず考えにくい。また赤迫照子氏は、朝顔の「宮」呼称は内親王に准じるような高貴さを強調する「朝顔斎院の皇女らしさの演出なのではあるまいか」としている。
    赤迫照子「「宮」と呼ばれる朝顔斎院 : 女王の「宮」呼称が意味するもの」(『古代中世国文学』(14), p31-38, 1999)
    機関リポジトリURL:http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/en/list/department/04/item/17545
  23. 袴田光康「『朝顔』巻における「桃園の宮」の再検討:醍醐皇子女の「桃園宮」を通して」(『國語國文』68(4), p35-51, 1999)
  24. 斎藤正昭「朝顔斎院のモデルと准拠:代明親王の系譜を手掛かりとして」(『いわき明星大学人文学部研究紀要』(24), p1-12, 2011)
  25. 角田文衛「紫野斎院の所在地」(『王朝文化の諸相』p131-150, 法蔵館, 1984)
  26. 小山利彦「光源氏を支える聖空間:雲林院・紫野斎院、そして賀茂の御手洗」(『源氏物語と皇権の風景』p75-137, 大修館書店, 2010)
  27. 小山利彦「朝顔の斎院と光源氏の皇権」(『源氏物語と皇権の風景』p315-337, 大修館書店, 2010)
  28. 『雲林院跡(京都文化博物館調査研究報告 ; 第15集)』(京都文化博物館, 2002)、小山利彦「地理:雲林院・紫野斎院そして賀茂御手洗を軸に」(『源氏物語とその時代(講座源氏物語研究第2巻)』p124-140, おうふう, 2006)、片平博文「平安京北郊にあった雲林院の発展と衰退」(『立命館地理学』(24), p61-79, 2012)
    片平論文機関リポジトリURL:http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/asp/research/geo/journal/pdf.geo-journal/24-2012-katahira.pdf
  29. 所京子「「狭衣物語」にみる斎院の史的考察」(『斎王の歴史と文学』p249-280, 国書刊行会, 2000)
  30. 西山良平「平安京の墨書「齋宮」と斎王家・斎王御所」(『平安京右京三条二坊十五・十六町:「齋宮」の邸宅跡(京都市埋蔵文化財研究所調査報告第21冊)』p180-200, 京都市埋蔵文化財研究所, 2002)
  31. 山本一也「通過儀礼から見た親王・内親王の居住」(『平安京の住まい』p299-334, 京都大学学術出版会, 2007)
  32. 角田文衞「紫式部の居宅」(『紫式部伝:その生涯と『源氏物語』』p135-164, 法蔵館, 2007)
  33. 新山春造「二世女王の婚姻:朝顔の姫君を中心に」(『中古文学』(67), p81-90, 2001)
  34. 勝俣志織「物語史における斎宮と斎院の変貌」(『物語の<皇女>:もうひとつの王朝物語史』p149-172, 笠間書院, 2010)

    ※『源氏物語』『狭衣物語』の引用は、『新編日本古典文学全集』(小学館)による。


《補足:前坊姫宮(秋好)の斎宮卜定から群行にかけての準拠について》

 本稿の主旨からは反れるが、最後に『源氏物語』の伊勢斎宮卜定についても一点、簡略ながら触れておきたい。

『源氏物語』における前坊姫宮(以下秋好)の斎宮卜定は、初斎院入りの延期や群行の日付の一致、そして何よりも前例のない母娘の下向という点で、史実の斎宮規子内親王の例を思わせることを指摘されてきた。しかし一方で、秋好の初斎院入りについては「この秋入りたまふ」(「葵」(2)p37)とあり、規子の春初斎院入り(貞元元年(976)2月26日)とは異なるのだが、管見の限り先行研究ではそれ以上の検証はされていない(補足注1)。秋好の初斎院入りは具体的な月日の記載こそないものの、すぐに続けて「九月には、やがて野の宮に移ろひたまふべければ」とあることから、その時期は9月以前の秋、つまり7月か8月であったかと思われる
 では、史実の斎宮初斎院入りの中で、これと一致する例はあるだろうか。


【『源氏物語』以前の伊勢斎宮一覧】(初斎院入り不明な例は除く)

斎宮
(生没年)
天皇
(続柄)
卜定 初斎院 野宮 群行 退下 退下理由
恬子
(?-913)
清和
(異母弟)
貞観元年(859)
10月5日
貞観元年(859)
12月25日
貞観2年(860)
8月25日
貞観3年(861)
9月1日
貞観18年(876)
11月29日
天皇譲位
繁子
(?-916)
光孝
(父)
元慶8年(884)
3月22日
元慶8年(884)
8月13日
(雅楽寮)
仁和元年(885)
9月18日
仁和2年(886)
9月25日
仁和3年(887)
8月26日
天皇(父)崩御
元子女王 宇多
(従兄弟)
寛平元年(889)
2月16日
寛平元年(889)
9月20日
寛平2年(890)
9月5日
寛平3年(891)
9月4日
寛平9年(897)
3月19日
不明
柔子
(892?-959)
醍醐
(同母兄)
寛平9年(897)
8月13日
昌泰元年(898)
4月25日?
昌泰元年(898)
8月22日
昌泰2年(899)
9月8日
延長8年(930)
12月
天皇譲位
雅子
(909-954)
朱雀
(異母弟)
承平元年(931)
12月25日
承平2年(932)
6月10日
(宮内省)
承平2年(932)
9月28日
承平3年(933)
9月26日
承平6年(936)
3月7日
母死去
徽子女王
(929-985)
朱雀
(叔父)
承平6年(936)
9月12日
承平7年(937)
7月13日
(雅楽寮)
承平7年(937)
9月27日
天慶元年(938)
9月15日
天慶8年(945)
1月18日
母死去
悦子女王 
(942-?)
村上
(叔父)
天暦元年(947)
2月26日
天暦元年(947)
9月25日
(主殿寮)
天暦2年(948)
9月26日
天暦3年(949)
9月23日
天暦8年(954)
9月14日
父死去
輔子
(952-992)
冷泉
(同母兄)
安和元年(968)
7月1日
安和元年(968)
12月25日
(右近衛府)
なし なし 安和2年(969)
11月4日
天皇譲位
隆子女王
(?-974)
円融
(従弟)
安和2年(969)
11月16日
天禄元年(970)
9月8日
(主水司)
天禄元年(970)
9月30日
天禄2年(971)
9月23日
天延2年(974)
閏10月17日
斎宮死去
規子
(949-986)
円融
(異母弟)
天延3年(975)
2月27日
貞元元年(976)
2月26日
(侍従厨家)
貞元元年(976)
9月21日
貞元2年(977)
9月16日
永観2年(984)
8月23日
天皇譲位
済子女王
(?-?)
花山
(いとこ甥)
永観2年(984)
11月4日
寛和元年(985)
9月2日
(左近衛府)
寛和元年(985)
9月26日
なし 寛和2年(986)
6月22日
密通


『源氏物語』以前で初斎院入りの日付が判明している斎宮は、以上11例である。
 この内、卜定2年目の7月から8月に初斎院入りし、さらに同年9月に野宮入りしたとわかる斎宮は、規子内親王の母徽子女王(承平6年(936)9月12日卜定、承平7年(937)7月13日初斎院入り、同年9月27日野宮入り)のみなのである。秋好は斎宮退下後に入内しと女御となった点が史実の斎宮女御徽子女王を準拠とすると言われてきたが、この初斎院入りから野宮入りにかけての日程もまた、娘の規子内親王ではなく斎宮徽子女王の例を参照したものではないだろうか。

 本来斎宮は『延喜式』で卜定1年目に初斎院へ入り、2年目の7月に野宮を造営、8月に吉日を定めた後入ると定められている。平安時代の例に限定しても、記録の残る34名の斎宮全員が8月中旬から9月にかけての時期に野宮入りしており、よって初斎院滞在期間は原則として卜定2年目の1月から8月まで、最低でも7ヶ月以上と想定されていることになる。
 ただし実際には、平安時代の斎宮で卜定1年目に初斎院入りした例は8名、卜定2年目の例は15名と、むしろ現実には2年目の方が多い(なお9名は初斎院入り時期が不明だが、このうち好子内親王は保元3年(1158)12月25日卜定のため、ほぼ確実に翌年の初斎院入りであったと思われる。仮に残り8名全員が1年目に初斎院入りとしても、1年目・2年目共に16名で拮抗しており、1年目が主流とは考えにくい)。これは卜定の時期が冬であった場合や、また天皇譲位・崩御以外の予測不可能な突然の理由で急遽選出された時は、日程や準備等の問題で年内に初斎院入りを済ませるのが不可能だったためと推測される(この他規子内親王のように、穢れの発生という突発的な事故により遅延となった例もある)。
 しかし卜定2年目に初斎院入りした斎宮も、15名の内11名は6月までに初斎院入りを終えているのである。初斎院滞在が3ヶ月未満であった斎宮は、『源氏物語』以前では徽子女王の他は円融朝の隆子女王と花山朝の済子女王の姉妹2人だけであり(この2名は実に1ヶ月未満という短期滞在である)、その後も三条朝の当子内親王しかいない。しかも徽子女王の卜定は9月、隆子女王と済子女王の卜定は共に11月であった。この3名よりも卜定時期が遅かった雅子内親王は、承平元年(931)12月25日に卜定、承平2年(932)6月10日に初斎院入りしており、他の斎宮も長くて7ヶ月程度で初斎院入りしているので、本来ならば徽子ら3名も卜定2年目の春から夏頃に初斎院入りするはずだったのではないだろうか。初斎院入りも野宮入りもその都度御禊を伴う一大行事であり、『源氏物語』でも「二度の御祓えのいそぎとり重ねてあるべきに」(「葵」(2)p37)と準備の慌しさが語られていることから、やはりよほどの事情がない限りは短期間に御禊が二回連続するような日程は避けられたのであろう。
 なお規子内親王の場合は、卜定から初斎院入りまで1年という異例の長期だが、この時は先代斎宮隆子女王が伊勢で死去するという前代未聞の大事件の後であった。また同時期に交替した斎院選子内親王の例でも触れたように、規子内親王の斎宮卜定から約4ヵ月後の天延3年(975)7月1日には皆既日食が起こっている。こうした事件が続いたことによる不安定な世情が、規子内親王の初斎院入りにも影響したと思われる。

 さらにもう一点、秋好の群行の日付「(9月)十六日、桂川にて御祓へしたまふ」(「賢木」(2)p91)が、規子内親王の貞元2年(977)9月16日と完全に一致することから準拠とされてきたが、原槇子氏の指摘にあるように、母徽子女王の群行もまた天慶元年(938)9月15日であり、わずか1日違いなのである(補足注2)(『源氏物語』以前の平安時代の斎宮で、徽子女王・規子内親王以外に9月中旬に群行したのは、仁和元年(885)9月18日の繁子内親王のみである)。加えて年齢も徽子女王は10歳、規子内親王は29歳で、徽子女王の方が「幼き御ありさま」(「葵」(2)p18)と言われる秋好の14歳により近く、また内親王ではなく女王であるという点も共通している。
 土方洋一氏は「六条御息所が澪標巻で死去することによって物語の世界から退場するのを機に、村上帝女御徽子女王の面影は母から娘へとスライドされていることになる」と述べている(補足注3)。しかしこうして見ると作者は、娘と共に下向する母御息所に「女御徽子」の姿を投影しつつ、同時に娘の秋好にもまた、在りし日の幼い「斎宮徽子」の面影を重ねて描こうとしたのではないかと思われる。そして秋好は斎宮を退下した後、徽子と同様に王族出身の女御として冷泉後宮へ入内、その名も徽子と同じ「斎宮の女御」の通称で呼ばれることになるのである。


【秋好・徽子女王・規子内親王の卜定から群行まで】(※徽子・規子の下線太字は秋好との一致事項)

斎宮 身分 天皇
(続柄)
卜定 初斎院入り 初斎院 野宮 群行 備考
秋好 女王 朱雀帝
(従兄弟)
花宴翌年?
(12歳)
葵1年目
7〜8月
(13歳)
左衛門司 葵1年目
9月
賢木2年目
9月16日
(14歳)
母娘下向,
退下後入内
徽子 女王 朱雀
(叔父)
承平6年(936)
9月12日
(8歳)
承平7年(937)
7月13日
(9歳)
雅楽寮 承平7年(937)
9月27日
天慶元年(938)
9月15日
(10歳)
退下後入内
規子 内親王 円融
(異母弟)
天延3年(975)
2月27日
(27歳)
貞元元年(976)
2月26日
(28歳)
侍従厨家 貞元元年(976)
9月21日
貞元2年(977)
9月16日
(29歳)
母娘下向


 なお徽子女王の卜定は承平6年(936)9月12日だが、この日付は本稿第1節で想定した「一院崩御により朱雀帝即位が延期となった場合(=卜定は「花宴」翌年秋頃)」に合致する。現存史料に記録は見られないが、恐らく徽子も元々は年内に初斎院入りを予定していたところ、何らかの理由で延期となったのではないだろうか。また翌承平7年(937)は1月4日に朱雀天皇が元服、次いで2月19日に熙子女王が女御となり、そして3月29日には醍醐皇子代明親王(朱雀天皇の異母兄、徽子の伯父)が薨去と、吉事・凶事が相次いでいる。こうした一連の慌しさもあって、斎宮徽子の初斎院入りはさらに先送りにされ、結局伯父代明の喪も明けた7月に至っての初斎院入りになったのではないかと推測される。


【補足注】
  1. 田中隆昭「秋好中宮における史実」(『源氏物語歴史と虚構』p287-302, 勉誠社, 1993)は仁明〜一条朝の斎宮一覧を掲載しているが、「この秋入りたまふ」との一致例は検証していない。また本文と史実の照会も、規子内親王の斎宮卜定から群行の例のみに留まる。
  2. 原槇子「斎宮女御徽子女王:六条御息所母子への投影」(『斎王物語の形成 : 斎宮・斎院と文学』p191-239, 新典社, 2013)
  3. 土方洋一「皇子たちの物語:テクストと史実」(『源氏物語の探究 第15輯』風間書房, 1990)


【平安時代の伊勢斎宮一覧】

斎宮
(生没年)
天皇
(続柄)
卜定 初斎院 野宮 群行 退下 退下理由
布勢
(?-812)
桓武
(父)
延暦16年(797)
4月18日
不明 延暦16年(797)
8月21日
延暦18年(799)
9月3日
大同元年(806)
3月17日
天皇(父)崩御
大原
(?-863)
平城
(父)
大同元年(806)
11月13日
不明 大同2年(807)
8月24日
大同3年(808)
9月4日
大同4年(809)
4月1日
天皇譲位
仁子
(?-889)
嵯峨
(父)
大同4年(809)
8月11日
不明 不明 弘仁2年(811)
9月4日
弘仁14年(823)
4月16日
天皇譲位
氏子
(?-885)
淳和
(父)
弘仁14年(823)
6月3日
不明 天長元年(824)
8月14日
天長2年(825)
9月
天長4年(827)
2月26日
宣子女王 淳和
(叔父)
天長5年(828)
2月12日
不明 不明 天長7年(830)
9月6日
天長10年(833)
2月28日
天皇譲位
久子
(?-876)
仁明
(父)
天長10年(833)
3月26日
不明 承和元年(834)
9月10日
承和2年(835)
9月5日
嘉祥3年(850)
3月21日
天皇(父)崩御
晏子
(?-900)
文徳
(父)
嘉祥3年(850)
7月9日
不明 仁寿元年(851)
8月26日
仁寿2年(852)
9月7日
天安2年(858)
8月27日
天皇(父)崩御
恬子
(?-913)
清和
(異母弟)
貞観元年(859)
10月5日
貞観元年(859)
12月25日
貞観2年(860)
8月25日
貞観3年(861)
9月1日
貞観18年(876)
11月29日
天皇譲位
識子
(873-906)
陽成
(異母兄)
元慶元年(877)
2月17日
不明
(雅楽寮)
元慶2年(878)
8月28日
元慶3年(879)
9月9日
元慶4年(880)
12月4日
父上皇崩御
掲子
(?-914)
陽成
(異母兄)
元慶6年(882)
4月7日
不明 元慶7年(883)
8月24日
なし 元慶8年(884)
2月13日
天皇譲位
繁子
(?-916)
光孝
(父)
元慶8年(884)
3月22日
元慶8年(884)
8月13日
(雅楽寮)
仁和元年(885)
9月18日
仁和2年(886)
9月25日
仁和3年(887)
8月26日
天皇(父)崩御
元子女王 宇多
(従兄弟)
寛平元年(889)
2月16日
寛平元年(889)
9月20日
寛平2年(890)
9月5日
寛平3年(891)
9月4日
寛平9年(897)
3月19日
不明
柔子
(892?-959)
醍醐
(同母兄)
寛平9年(897)
8月13日
昌泰元年(898)
4月25日?
昌泰元年(898)
8月22日
昌泰2年(899)
9月8日
延長8年(930)
12月
天皇譲位
雅子
(909-954)
朱雀
(異母弟)
承平元年(931)
12月25日
承平2年(932)
6月10日
(宮内省)
承平2年(932)
9月28日
承平3年(933)
9月26日
承平6年(936)
3月7日
母死去
斉子
(921-936)
朱雀
(異母弟)
承平6年(936) 不明 なし なし 承平6年(936)
5月22日
斎宮死去
徽子女王
[斎宮女御]
(929-985)
朱雀
(叔父)
承平6年(936)
9月12日
承平7年(937)
7月13日
(雅楽寮)
承平7年(937)
9月27日
天慶元年(938)
9月15日
天慶8年(945)
1月18日
母死去
英子
(921-946)
村上
(異母弟)
天慶9年(946)
5月27日
なし なし なし 天慶9年(946)
9月16日
斎宮死去
悦子女王 
(942-?)
村上
(叔父)
天暦元年(947)
2月26日
天暦元年(947)
9月25日
(主殿寮)
天暦2年(948)
9月26日
天暦3年(949)
9月23日
天暦8年(954)
9月14日
父死去
楽子
(952-998)
村上
(父)
天暦9年(955)
7月17日
不明 不明 天徳元年(957)
9月5日
康保4年(967)
5月25日
天皇(父)崩御
輔子
(952-992)
冷泉
(同母兄)
安和元年(968)
7月1日
安和元年(968)
12月25日
(右近衛府)
なし なし 安和2年(969)
11月4日
天皇譲位
隆子女王
(?-974)
円融
(従弟)
安和2年(969)
11月16日
天禄元年(970)
9月8日
(主水司)
天禄元年(970)
9月30日
天禄2年(971)
9月23日
天延2年(974)
閏10月17日
斎宮死去
規子
(949-986)
円融
(異母弟)
天延3年(975)
2月27日
貞元元年(976)
2月26日
(侍従厨家)
貞元元年(976)
9月21日
貞元2年(977)
9月16日
永観2年(984)
8月23日
天皇譲位
済子女王
(?-?)
花山
(いとこ甥)
永観2年(984)
11月4日
寛和元年(985)
9月2日
(左近衛府)
寛和元年(985)
9月26日
なし 寛和2年(986)
6月22日
密通
恭子女王
(984-?)
一条
(従兄弟)
寛和2年(986)
8月8日
不明
(宮内省)
永延元年(987)
9月13日
永延2年(988)
9月20日
寛弘7年(1010)
11月7日
父死去
当子
(1000-1022)
三条
(父)
長和元年(1012)
12月4日
長和2年(1013)
8月21日
(宮内省)
長和2年(1013)
9月27日
長和3年(1014)
9月20日
長和5年(1016)
1月29日
天皇譲位
子女王
(1005-1081)
後一条
(いとこ甥)
長和5年(1016)
2月19日
長和5年(1016)
9月15日
(宮内省)
寛仁元年(1017)
9月21日
寛仁2年(1018)
9月8日
長元9年(1036)
4月17日
天皇崩御
良子
(1029-1077)
後朱雀
(父)
長元9年(1036)
11月28日
長暦元年(1037)
4月3日
(大膳職)
長暦元年(1037)
9月1日
長暦2年(1038)
9月11日
寛徳2年(1045)
1月16日
天皇譲位
嘉子
(?-?)
後冷泉
(従兄弟)
永承元年(1046)
3月10日
不明 永承2年(1047)
9月14日
永承3年(1048)
9月8日
永承6年(1051)
1月8日
父死去
敬子女王 後冷泉 永承6年(1051)
10月7日
永承7年(1052)
4月25日
(大膳職)
永承7年(1052)
9月28日
天喜元年(1053)
9月14日
治暦4年(1068)
4月19日
天皇崩御
俊子
(1056-1132)
後三条
(父)
延久元年(1069)
2月9日
不明 延久2年(1070) 延久3年(1071)
9月23日
延久4年(1072)
12月8日
天皇譲位
淳子女王 白河
(再従兄弟)
延久5年(1073)
2月16日
不明 承保元年(1074)? 承保2年(1075)
9月20日
承暦元年(1077)
8月17日
父死去

[郁芳門院]
(1076-1096)
白河
(父)
承暦2年(1078)
8月2日
承暦2年(1078)
9月1日
(大膳職)
承暦3年(1079)
9月8日
承暦4年(1080)
9月15日
応徳元年(1084)
9月22日
母死去
善子
(1077-1132)
堀河
(異母弟)
寛治元年(1087)
2月11日
寛治元年(1087)
9月21日
(左近衛府)
寛治2年(1088)
9月13日
寛治3年(1089)
9月15日
嘉承2年(1107)
7月19日
天皇崩御

(1093-1132)
鳥羽
(甥)
天仁元年(1108)
10月28日
天仁2年(1109)
4月14日
(諸司)
天仁2年(1109)
9月15日
天永元年(1110)
9月8日
保安4年(1123)
1月28日
天皇譲位
守子
(1111-1156)
崇徳 保安4年(1123)
6月9日
天治元年(1124)
4月23日
天治元年(1124)
9月27日
天治2年(1125)
9月14日
永治元年(1141)
12月7日
天皇譲位
妍子
(?-1161)
近衛
(異母兄弟)
康治元年(1142)
2月26日
康治2年(1143)
2月22日
(大膳職)
康治2年(1143)
9月27日
天養元年(1144)
9月8日
久安6年(1150)
5月10日
喜子 近衛
(甥)
仁平元年(1151)
3月2日
仁平元年(1151)
9月19日
(一本御書所)
仁平2年(1152)
9月30日
仁平3年(1153)
9月21日
久寿2年(1155)
7月23日
天皇崩御
亮子
[殷富門院]
(1147-1216)
後白河
(父)
保元元年(1156)
4月19日
不明 保元2年(1157)
9月15日
なし 保元3年(1158)
8月11日
天皇譲位
好子
(1148?-1192)
二条
(異母兄)
保元3年(1158)
12月25日
不明 不明 永暦元年(1160)
9月8日
永万元年(1165)
6月25日
天皇譲位
休子
(1157-1165)
六条
(甥)
仁安元年(1166)
12月8日
仁安2年(1167)
6月28日
(大膳職)
仁安2年(1167)
9月21日
なし 仁安3年(1168)
2月19日
天皇譲位
惇子
(1162-1172)
高倉
(異母兄弟)
仁安3年(1168)
8月27日
嘉応元年(1169)
5月9日
(一本御書所)
嘉応元年(1169)
9月27日
嘉応2年(1170)
9月10日
承安2年(1172)
5月3日
斎宮死去
功子
(1176-?)
高倉
(父)
治承元年(1177)
10月28日
不明
(一本御書所)
治承2年(1178)
9月14日
なし 治承3年(1179)
1月11日
母死去
潔子
(1179-?)
後鳥羽
(異母弟)
文治元年(1185)
11月15日
文治2年(1186)
5月23日
(左近衛府)
文治2年(1186)
9月28日
文治3年(1187)
9月18日
建久9年(1198)
1月11日
天皇譲位


初稿:2013/06/21
改訂:2015/05/10




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