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2016年2月12日 (金)

大学がブラックビジネスでないためには

昨日配信されたこの記事が大変話題を呼んでいるようですが、

http://bylines.news.yahoo.co.jp/sendayuki/20160211-00054313/(大学というブラックビジネス 人生のスタートから借金漬けになる学生たち)

ネット上では、具体的な金利水準が問題になっているようですが、ここでは千田さんが問題の本質として論じている論点そのものについて、その大学外社会への通用性がどれほどあるのかという観点に絞ります。というか、千田さんのこの一節が、文科系アカデミズムにいるのではない人にはおそらくカチンとくる可能性があるからです。

・・・私自身は大学教育に意味があると思っている。それまでの教科書に沿った暗記が主となる授業とは違い、自分で考えること、批判的な精神、自由な想像力、そして一般的に教養と呼ばれるもの、そういうものを身に着けることができるところが大学である。もちろん、それは高校でも可能ではあるし、大学を出たからといってできるひとばかりではないだろう。それでも多くのひとが働いているなかで、4年間、いっけん「無駄」とも思える時間を過ごさせてもらうことは大切なことであると思っているのだ。そう思わなければ、大学の教員などやってはいない。

そういうことのために、俺たちの稼いだ金をただでよこせというつもりかね?という反発こそが、実のところこの問題の最大の焦点なのです。

Chukoこの問題については、『若者と労働』の中で、次のように論じています。

 教育費については、まさにそういう問題があるからこそ、義務教育は無償というのが原則とされているわけです。そして、同世代人口の大部分が義務教育のみで社会に出て行った時代には、それでかなりの必要をまかなえていたことも確かでしょう。しかし、その後日本に限らず、先進諸国ではいずれも高校への進学率が急上昇していき、今ではほぼどの国でもほとんどの生徒が高校に進学するようになっていますし、大学への進学率もかなり高まっています。日本の大学進学率は、先進国の中では決して高い方ではありません。ただし、その中身が職業的意義の乏しい教育に著しく偏っていることは前節で述べたとおりです。

 このように高校や大学への進学率が高まってくる中で、欧米諸国では高校についてはほぼ授業料は無償化されています。日本ではようやく民主党政権になって、二〇一〇年度から実施されたことはご承知の通りです。問題は大学です。ヨーロッパの多くの国では、大学の授業料も原則無料です。それに対して、授業料が無償化されていない諸国でも、だいたい給付制の奨学金によってまかなえるようになっており、日本のような貸付型、つまり卒業後何年もかかって返済していかなければならないのが原則という国はほとんどありません。

・・・・・

 この問題に対しては、最近になって急速に関心が高まってきましたが、逆に言うと、それまではなぜこの問題に対してほとんど関心が持たれなかったのか、社会問題にならなかったのか、ということの方が、諸外国の目から見れば不思議なことのはずです。なぜだったのでしょうか。

 それは、日本人にとっては、生徒や学生の親が、子供の授業料をちゃんと支払える程度の賃金をもらっていることが、あまりにも当たり前の前提になっていたからでしょう。そもそも、生活給とは妻や子供たちが人並みの生活を送ることができるような賃金水準を労働者に保障するという意味がありますから、子供が高校や大学に進学することが普通になっていけば、その授業料まで含めて生活給ということになります。

 おそらくこのことが、高校教育にせよ、大学教育にせよ、将来の職業人としての自立に向けた一種の投資というよりは、必ずしも元を取らなくてもよい消費財のように感じさせる理由となっていたのではないでしょうか。つまり、公的な教育費負担が乏しく、それを親の生活給でまかなう仕組みが社会的に確立していたことが、子供の教育の職業的意義を希薄化させた一つの原因というわけです。

 そうすると、そのことが逆に公的な教育費負担をやらない理由となります。もしその教育内容によって学校で身につけた職業能力が職業人となってから役に立つからのであるならば、その費用は公共的な性格を持ちますから、公的にまかなうことが説明しやすくなりますが、それに対して教育内容が私的な消費財に過ぎないのであれば、そんなものを公的に負担するいわれはないということになりましょう。つまりここでは、日本型雇用システムにおける生活給と、公的な教育費負担の貧弱さと、教育の職業的意義の欠乏の間に、お互いがお互いを支えあう関係が成立していたわけです。

千田さんの言い方は、「私的な消費財に過ぎない」大学教育の費用を「公的に負担すべき」という議論になってしまっているのです。もちろん、それは戦後確立してきた生活給が教育費を私的消費財とみなすことを可能にしてきたにもかかわらず、それが現在大きく揺らいできているという社会の変動を反映したものであり、的確に対応しなくてはならない問題の鋭い提起になっているわけですが、それゆえにこそ、その提起は、大学教育がもはや私的消費財とみなされるべきではないというパラダイムチェンジを伴わなければ、「そういうことのために、俺たちの稼いだ金をただでよこせというつもりかね?」という反発以外の何者をも招かないでしょう。

そういう意味において、教育の職業的レリバンスとかいわゆる「L型大学」をやたらに目の敵にする人々は、すなわち自分たちの足元を掘り崩し続けているのだと思います。「無駄」だけど楽しいからお前の金をよこせ、でいつまでも通用するわけではない。資源の権威的配分の技術としての政治の世界においては、資源を移転するにはもっともらしい理屈がいるのです。

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コメント

またまたおじゃまします。ごめんなさい。
はまちゃん先生の論を素直に頂くと、医学部の学費(特に私学ですが)はたとえば自由開業制を封じるかあるいは限定的にするかで個人のリターン部分をより公共性に近づけるとすれば、財源は保険医であるかぎり公的システムからの支払いですし、なおかつ国民の健康とそれにつながる経済活動に貢献する職業的貢献も付加されたものとして、より公的な財源を投入できることになりますね。なにせ私学医学部はまさに親から子への世襲化が極端に進行中の昔ならばいずれの大学にもあったであろう「リターン」が見込める今や貴重なガラパゴスですから、上記の現象も因果律に近いものになるわけです。
でもですね、わかるんですよ。千田さんの仰る意味も。
東洋経済onlineでの日本学生支援機構理事長への前後編「奨学金貧困問題最大の責任者は誰なのか」のインタビュー応答内容は酷かったですもの。

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