【田母神俊雄前航空幕僚長の視野狭窄】
【元軍人の軍隊しらず,もともと素養不足の軍事論】
【日本研究者ジョン・ダワーによる愛国論の考察】
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※ 断わり ※ 本稿は,旧ブログ 2008年12月22日の記述を採録したものである。再掲に当たっては必要な補正と加筆をおこなっている。とくに画像関連はほとんどを差し替えてある。
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① ジョン・ダワーの田母神俊雄論文批判
ジョン・W・ダワーは『敗北を抱きしめて-第二次大戦後の日本人(上・下)-』(岩波書店,2001年,増補版 2004年)を代表作にもつ日本研究者である。1938年生まれ,現在マサチューセッツ工科大学教授を務めるダワーは,日米関係近現代政治史を専攻し,日本語にも飜訳されている何冊もの書物を執筆している。
出所)右側画像はジョン・ダワー,http://digital.asahi.com/articles/ASH574JV5H57UHBI017.html
このダワーは,2008年11月に入るや,にわかに日本社会を騒がせた,それもAPAグループ代表元谷外志雄が個人的に主催するといっていい「懸賞論文」が,当時海上自衛隊幕僚長だった田母神俊雄の投稿した「日本は侵略国家であったのか」を,故意的であるかのように最優秀論文として〈当選させた:出来レース〉にまつわる一連の出来事に対する批判を,具体的に提示している。
本日〔2008年12月22日〕『朝日新聞』朝刊「私の視点」欄に投稿されたジョン・ダワーの「田母神論文『国を常に支持』が愛国か」に,その論旨を聞こう。ダワーは「国を愛するということが,人々の犠牲に思いをいたすのではなく,なぜ,いつでも国家の行為を支持する側につくことを求められるのか」という疑問でもってむすび,田母神の狭隘な〈視点〉を指摘し,基本的な反論も展開している。
出所)画像は,http://blog.goo.ne.jp/tumuzikaze2/e/f7dc4a684fcbe418ccfdf34965cefc00 凜々しいお姿であるが,口から出てくる発言・主張は低品質で,その保証はできない。
ダワーは,こういう。--1946年12月8日の「真珠湾攻撃」は「ルーズベルトの仕掛けた罠」にはめられて日本が決行したものだとみる田母神の主張は,2001年9月11日の「同時テロ」の発生とこれにつづくアメリカ主導のイラク戦争選択という記憶を,思いがけず,衝撃的なかたちでよみがえらせた。それだけでなく,ここに挙げた「2つの戦争行為:歴史的事件」にみられる顕著な類似性=『戦略的な愚行』性は,皮肉にも,その「ユニークさ =〈罠だとかいって強調する主張〉」の意味を減価させた。
田母神俊雄論文の不勉強ぶり・素養の欠落は,ダワーによるとこう批判される。
アジア太平洋戦争について,帝国主義や植民地主義,世界大恐慌,アジア(とくに中国)でわき起こった反帝国主義ナショナリズムといった広い文脈で論議することは妥当だし,重要でもある。戦死を遂げた何百万もの日本人を悼む感情も理解できる。
しかし,〔19〕30年代および40年代前半には,日本も植民地帝国主義勢力として軍国主義に陥り,侵攻し,占領し,ひどい残虐行為をおこなった。それを否定するのは歴史を根底から歪曲するものだ。戦後,日本が世界で獲得した尊敬と信頼を恐ろしく傷つける。
勝ち目のない戦争で,自国の兵士,さらには本土の市民に理不尽な犠牲を強いた日本の指導者は,近視眼的で無情だった。
ダワーにしたがい「広い文脈で論議」し,「近視眼」にメガネをかけさせて矯正するには,このダワーが触れていない旧日本帝国の2等・3等臣民,つまりこの帝国の将兵や軍属として駆り出されたあげく,やはり戦争の犠牲者になった「大勢の植民地出身」の人たち(特攻兵になった者たちさえいる)を引き出し,いっしょに並べて〈論議の対象〉としなければならない。しかし,この問題領域は,今回におけるダワーの論議には入っていない。
--それにしても「国を愛する」ということは,いったいなにを意味し,どのような行為を予定するのか?
② 鈴木邦男『愛国者は信用できるか』2006年
鈴木邦男が有名な右翼思想家・行動者であることは,つとにしられている。現在,一水会の「最高顧問」であり,著作も10冊以上公刊している(共著も含む)。この鈴木とともに一水会に属し,この会の「代表」である木村三浩は,2003年1月,責任編集の書物『鬼畜米英-がんばれサダム・フセイン ふざけんなアメリカ !! 』(鹿砦社)を公表している。本書のまえがき部分で木村は,アメリカを大上段より,こう批難する。
2006年12月30日,サダム・フセインは〈絞首刑による死刑〉を執行され,この世を去った。かつてはアメリカの手先になって,U.S.A. のために働いてきたフセインである。彼の口からとくに,中東地域の国際政治に記録してきた〈過去の経歴〉が暴かれる畢竟(ひっきょう),アメリカの対イラク攻撃は,もはやイラクだけに限った問題ではない。これを許せば,国際法理を逸脱するアメリカの世界支配は決定的となる。そして,それはすべての国に跳ね返ってくるに違いない。もちろん,これからの日本にもだ。
イラク問題の根底には,世界政治における法や正義,道理を守る「砦」としての意義が存在しているといってよい。だからこそ,私はアメリカの傲慢を糺し,パレスチナ問題を含めた南北問題の公正な解決を訴えるフセイン大統領とイラク国民の戦いを,断固支持するのである。そして,心底から「がんばれ! サダム・フセイン」と叫ばずにはいられないのだ。
平成14年12月8日 大東亜戦争開戦に日に寄せて
注記)左側写真は,大統領時代とイラク戦争で逮捕・拘束されたときの,それぞれサダム・フセインの姿。
さて,鈴木邦男『愛国者は信用できるか』(講談社,2006年)は「愛国心」がいかにむずかしい問題であるか,そんなに単純なものではないと議論する。
☆-1 「自己愛」から「国家愛」になるのでは矛盾だし,論理の飛躍だ(23頁)。
☆-2 愛国心とは国境をもって閉ざされた愛であるという陥穽を含んでいる(24頁,25頁)。
☆-3 日本への愛なんて要らない。ひたすら恋していればいい。愛は表に出るし,強制する。見返りを求める(28頁)。
☆-4 明治政府にとってははじめは「愛国」ということばは嫌なものだったけれども,その後「愛国」をめぐっての争奪戦がおこなわれ,政府がわが勝利し以後,ずっと「官制」のことばとなる(31頁)。
つまり「民権」を忘れて「国権」になったのが「愛国心」である(38頁)。愛国心は人民と国家が奪いあい,国家のがわが勝利した結果,この愛国心を軸にしてさらに,世界へ向かおうとした(43頁)。
☆-5 戦争に訴えてでも平和を手に入れようとしたとき,もちろんそのときには〈愛国心〉が動員された。国のために死ぬことこそが愛国心だと強調された。いや,いまだってそう強調されている(50頁)。平和主義も民主主義も愛国心の暴走は止められない(51頁)。
☆-6 愛国は一見平和的だが,暴発すれば国民全体を巻きこむ。うむをいわせない。テロやクーデタは憂国から起きるが,局部的・瞬間的なものであるのに対して,愛国は〈戦争〉に突きすすみ,全国民を強制する。それも長い年月,強制する(68頁)。
ここまで鈴木の記述は,20世紀なかば旧日本軍のパールハーバー奇襲攻撃,21世紀アメリカ軍のイラク侵略戦争が,両国における愛国感情の〈仕組まれた昂揚〉を契機に実行された事実=背景を,指摘している。
出所)画像は,http://dze.ro/authors/kuniosuzuki
鈴木は,昨今の教育現場における「日の丸掲揚・君が代斉唱」強制指導を批判する。国旗を仰ぎみ,国家を唱うことを「尊重する義務をくわえるべきだ」というのはいいけれども,「学校で生徒・教師にただ強制する」のはよくないと主張する(70-73頁)。
③ 日本国の伝統と思想と現実
★-1 『古事記』と『日本書紀』の〈日本精神〉は,コミカルな話,残酷な話,理不尽な話,悪辣な話,エロティックな話が満載である。ちっとも神典でない。神々だって間違うし,争いもし,嫉妬もし,殺しあいもする。神々の子孫の天皇だってそうである。ましてやわれわれは,間違いばかりしている。だから,もっともっと謙虚になろう。人にはやさしくなろう。そう教えているのではないかと思った(126頁)。
こういうふうに「記・紀」を解釈できるのであれば,歴史にイフはないにせよ,日本帝国のアジア侵略路線が敷かれ実行されていった以外の方途において,明治以降の歴史が形成されたかもしれない可能性を想像したくなる。鈴木の右翼的立場はこれに賛同しえない思想を抱く人たちにも理解はできるし,そして,協同的な連帯行動を可能にさせうる柔軟な思考回路がある。
★-2 鈴木は戦前の右翼思想家,北 一輝や大川周明,里見岸雄に言及しつつ「天皇・国体が体制側,資本家側のものになり,労働者を反天皇に追いやっている状況を憂え,天皇は一億国民,プロレタリアにこそ必要な理念だと説いたのだ」(128-131頁)という解釈を,とくに里見の著作をとりあげながら導きだす。
註記)右側画像は,昭和4〔1929〕年発行。
いずれにせよ「北 一輝,大川周明にしろ,当時の右翼思想家は皆,大変な学者でもあった」(138頁)ことに,鈴木は触れている。本ブログで2008年11月からとりあげてきた田母神俊雄なる軍人など,その足元にもおよばないどころか,比較することさえ憚れるような,壮大な世界観を抱く右翼思想家が戦前の日本にはいた。
★-3 本ブログの筆者は,鈴木邦男を右翼派リベラリストであると受けとめる。「天皇制を批判し,『天皇制は差別の元兇だ』とか『戦争責任がある』といったところで,いまでは何ら問題はない」(146頁)と平常心でいえるこの鈴木を,いま21世紀の世界でわざわざ褒める必要はない。だが,戦後右翼の,とりわけ,「元」軍人 田母神俊雄の不勉強・無知にも勝るとも劣らないような,多くの『オバカ的:単純ウヨクの「愛国者」たち』に比較してみれば,そこには雲泥の差を看取できる。
鈴木邦男『愛国者は信用できるか』は,彼なりに人生を貫いてきた「行動のための〈思想・原理〉」を披露している。けっしてむずかしいことばも表現も使われていない。率直にあけすけに,そして正直に,思いの丈(たけ)をぶちまけている。
★-4 ただし筆者からみるばあい,それでも鈴木に関しては,回避不能の個人的な難題がある。鈴木は「万世一系の血縁の天皇という非民主的存在が,民主主義と結合している」のが,「憲法第1条」で「天皇は,日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて,この地位は,主権の存する日本国民の総意に基く」という規定であると褒めあげている(148頁)。だが,この咀嚼は非常に苦しくみえるし,無理やりでの〈結びつけ=こじつけ〉というほかない。
そうした思考方法は「非民主主義と民主主義との結合」を,突如〈コロンブスの卵〉の便法で,それも手前勝手に実現させているからである。筆者はとうてい納得できない。皇室が「非民主主義」の存在である事実を,鈴木は熟知しているらしい。ここにおいてはそれこそ,リベラル右翼の〈日本特殊の,さらなる限界〉が示唆されている。
1945年夏までの日本帝国において,「天皇は1億国民,プロレタリアにこそ必要な理念」だと,鈴木は論及していた。けれども実際のところは,その1億のうち〔7千万人ほど〕の大部分だったはずのプロレタリア集団の仲間にくわえてもらえなかった,その余の集団=「3千万人もの植民地地域・出身の人民」もいた。鈴木の目にまだよく映っていないこの社会集団だったせいか,これを前提に入れた議論を彼は展開していない。
★-5 鈴木は「在日の人々の参政権を認めたらいい。そう発言しただけで『売国奴』と罵られる」(9頁)といい返して,民主主義的な態度・理性を欠いた日本の右翼人士を諫めているにもかかわらず,この〈在日〉という,それも旧植民地出身者とこの子孫たちが,かつては「1億国民」の仲間〔むろん劣等な位置でのそれ〕だった事実をしりながらもなお,真正面からとりあげることができず,上記の一言だけで終わっている。
④ 日本右翼思想の地平,その真価
仮に「在日〔韓国・朝鮮人ら〕」にも「必要な理念」が「天皇・天皇制」であるとの定義を,天下り的に与えることしよう。そうなれば,鈴木が大事にするはずの「大切な天皇」を大前提とした『日本国への「在日」の包摂』は,これからも絶対的に矛盾しつづけるし,さらに軋轢関係を生むほかない。これは結局,「民主主義という政治の制度」と「天皇制という王制」との政治的な複合体が固有に形成させる〈特定の基盤〉が存在するかぎり,永久に居残らざるをえない難題である。
松本健一『畏るべき昭和天皇』(毎日新聞社,2007年)は,「原理的にいえば,民主主義と皇室とはそもそも背反する性格のものである。民主主義の原義の1つに,特権階級を廃す,という意味があり,そうだとしたら国民の誰も天皇になることができない天皇制シ
出所)画像は松本健一,http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200904020188.html
鈴木邦男に限らず,天皇・天皇制を無条件に,そして歴史心情的に認めたい右翼人士は,この問いに真正面から答えねばならない。松本はいままですでに,右翼人士から学問の展開について脅迫・恫喝めいた言辞を受けとってきている。この程度のことを素直に読めない右翼には多分,まともなインテリが1人もいないのではないかと疑われて,当然である。
要は,この問いから逃げる右翼思想・行動家は,負けの判定を下されるし,その思想的立場が存在する価値がなく,また彼らが行動するための社会的意義もみいだせない。「民主主義の政治理念」を日本の右翼諸氏が否定しえないことは,少なくとも,鈴木邦男の見解を聞く範囲内では十二分に了解できる。
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