2006年1月17日の朝日新聞の朝刊の記事の一つのタイトルが「勝ち組の象徴、騒然」である。
この時代はまだ「勝ち組」に見えるものが明らかに悪く見えて、責めやすかったのではないか。
この時の「勝ち組」は時代、体制、金など流動性が極めて高いものの後押しがあって、勝者たりえていた。
今の「勝ち組」、「負け組」というのは、分かりにくくて、責めにくい。
というのも、本人の生まれや見てくれという物凄く解りやすく「能力」というもので、「勝ち組」に登りつめているのだ。
なぜ、あの人間が勝者なのかというのを外見を見るだけで納得できてしまう。
何か悪いことをやって「勝ち組」になっているのならまだ弱者は救いがある。
しかし、容姿やらという明らかに誰もが肯定している能力を武器にされると、弱者は起死回生なんてない中で永遠と苦しんで死んでいくだけなのだ。
「勝ち組」の人間を、明らかに責めることが出来ない時代に自分は弱者として生きている。
どうにもならない中、自分は嘆き死んでいくのだろうか。