ジェンダー系の勉強をしている友人と久しぶりに食事をともにしたので、一般的なジェンダー規範からの逸脱、また、それを公にしていることがいかなる不利益を及ぼし、かつそうした不利益をパレート改善*1的に回避するためにはどうすればよいかについて、少しの考察を試みたい。
パノプティコン・モデル
一般的に、共同体における個々人の行動を無言のうちに規定する圧力を説明するために、フーコーが提唱したとされるパノプティコンのたとえが使われる場合が多い。これは刑務所のシステムの一種で、ドーナツ状で各部屋に仕切りが設けられた独房があり、なかでもドーナツの中央にのみ見張りの窓が設けられており、中央の部屋には看守がいて、いろいろな独房をランダムに覗いているが、囚人の方ではいつ自室が監視されているかは知りようがないため、いつ覗かれてもよいように常時適切な態度を取り続けるしかない。
同じように、共同体の中で人々が常に、特に賞罰権のある人物の前でなくても特定の行動様式を定着させることには、あたかもこのパノプティコンのようにいつ露見の憂き目に合うか知ることができず、かつ、これに囚人同士の噂、密告という要素が加わることにより、共同体の誰もが看守たりうるという状況が存在するといえるだろう。
ふつう、こと性的なことに関して異端であることが露見すると、大きな不名誉を被ることが多い。成人用ビデオの趣向に関することであっても、それが一般に認められていない種類のものであれば、あらゆる意味における中傷の的となる。
ただ、ごく普通の成人男女向けのものであれば、異端視される種類の嗜好は数えるばかりのものに限られるが、それが同性愛者向けのものであれば、異端視されない嗜好というものは恐らく存在しない。成人用ビデオの話に限らず、客観的な性別にそぐわない服装や言葉を利用することにも、同様の不利益が伴うだろう。
「不利益」とは何か
一般的に不利益と呼ばれるものには、実際のところどんなものがあるだろう。個別具体的な事柄を挙げてゆくときりがないだろうし、ここで賃金収入の比率を持ちだして云々することが有益であるとは思えない。そこで、可能な限り抽象的な言葉でまとめてしまうと、それは共同体から排除されることだと思われる。
共同体からの排除というものは、常に利益からの排除を伴う。家から破門されれば分業集約の利益が失われ、家賃を新たに稼ぎだし、慣れない家事をする必要が生じ、労働に充てられる時間も気力も以前より少なくなる。職場や学校から追放される場合にも、同じことが生じる。この理由は単純であり、そこに何らかの利益がなければ人は共同体に参入しようと思わないし、家族であっても利益が失われ、回復の見込みがなければ、離婚や家出などの手段を用いて自発的に脱退してしまうことがほとんどだからだ。だからこそ、自発的でなく突然に排除されることは、いつも個人にとって打撃を伴う。
同時に、共同体から得ていた精神的な承認も失われるが、最悪の場合は信頼していた人物がとんでもないペテン師だったということを知ることになり、極めて大きな衝撃を受けることがある。ただ、共同体から排除される場合というのは、既に承認を失った後である場合がほとんどであるため、この過程は正式な排除の前段階に位置づけられるべきかもしれない。
共同体からの排除というものは、第一に共同体と同じ価値観を表明していないことを宣言することで開始され、第二に共同体内で批判・嘲笑の手続きが行われ、第三に、とうとう正式に除名を申し渡される。これは、多くの職場や学校で一般的に見られる光景であろう。
第一の不利益:承認感の喪失
人が人に与えるところの承認は、通常、同じ価値観を持っている人に対して与えられる。ソクラテスさえ、まったく別の価値を奉じている人間同士は、議論をしたところでお互いにばかにし合うだけであると述べている。やはり、同じ行為や目的を是としているという前提があるからこそ相互に評価しあう事ができ、それにともなって相互の尊敬や競争、妬みが発生しうる。まったく別の価値体系を有しているとすれば、それは自己の妨げにならないかぎりは敵意の対象ですらなく、無関心の対象だ。
つまり、性的なことであれ実用的なことであれ、一定の程度を超えた部分においてその共同体の規範的な価値を否定すると、その構成員からの承認は段階的に失われてゆくことになる。松屋と吉野家についての意見の対立さえ、人々の心を少しは引き離してしまうものだ。それが人生観についてのことになってくると、その溝はいよいよ大きなものになってくるのだろう。
その事柄の大小、重要さを決定するものは、やはりその問題がその枝先にどれほど多くの分子を持っているかによって決まるように思える。例えば、トヨタ車とベンツ車の選好についての対立は、安全性を重視するかデザイン性を重視するかというより上位の概念的な対立に包摂されうる。同じように、性的な事に関する対立は、そこから派生する対立として、服装から立居振舞い、言葉遣いまで、ありとあらゆる点に何かしらの違いをもたらす。そのことを本能的に察知しているからこそ、性的なことに関して基本的な価値観を共有できないと知った時、人々の間には排除の作用が自動的に働くのではないだろうか。
第二の不利益:批判・嘲笑の手続き
共同体とかけ離れた価値を奉じていることが露見すると、時を置かずして具体的な批判や嘲笑に遭遇することが多い。これは、共同体の中で、対象が逸脱者であると判断した構成員が3人から4人を超えると始まることが多い。対象が既に有している味方の数にもよるが、一般的に2.5倍以上の人数比になると、具体的な攻撃を開始するだけの勇気が得られるようだ。
この過程においては、時ごとに明らかに敵対的な態度を取られたり、文章や口頭における言葉遣いがえらく厳しいものになったり、自分の居ないところで痛烈に悪口を言われたという情報が耳に入るようになる。そうこうしているうちに共同体の全員が敵になってしまったかのような錯覚を覚えるが、これは錯覚であるとも限らない。実際のところ、2.5倍の差が開き、この第二段階に入った時点で趨勢はある程度決している。数は理論よりも雄弁である。
第三の不利益:追放、利益からの排除
多くの場合は、まるでリストラが確定した大企業のサラリーマンのように、人は第二段階に事態が進展したことを知るやいないや、新たに所属できる共同体を発見する作業を始める。人によっては、共同体を新たに作ることを試みようとする。
しかし、様々な都合でそれが困難であったり、怠惰であったりすると、この作業が進まないままに第三段階を迎えてしまう。それは共同体からの正式な追放だ。
職場であれば解雇、学校であれば放校、家族であれば絶縁という具合に、基本的にあらゆる共同体には追放の手続きが定められている。もし学則とか服務規程といった明文の規定に反していれば当然より早い段階で追放の手続きが取られるが、そうでない場合も最終的には追放の対象となるようだ。この時、明文の規定や規則というものが、追放を単なる感情的なものではなく正当かつ当然のものとして演出するために利用される場合が多い。
「価値観の決定的相違」が本当の理由であっても、少なくともリベラル的な多くの立法は、これを解雇その他の理由として認めない。そこで、普通であればめったに適用されない有名無実化した規則の一文を利用し、あるいは実際にあった行為を誇張・再構成した上である処罰規定に該当すると宣言し、反論の機会はろくに与えられないまま追放となる。
先にも述べたように、人は基本的には利益があるために共同体に所属している。第一、第二の段階で精神的な承認が失われたのにそこに踏みとどまっているのは、実物的な利益があるためだ。ゆえに、第三段階ではとうとうその利益から引き剥がされることになる。
共同体の権利
こうしてみると、あたかも暴力的な共同体が弱い個人を痛めつけているかのような印象を受けるが、必ずしもそういうことであるとは限らない。
第一に、これは自由主義の立場、実存主義の立場を問わず言えることだが、共同体はその構成員を選択する権利がある。より端的に言えば、多数派には少数派の処遇を決定する権利がある。
自由主義を前提にするならば、ある個人が誰に承認を与えるか、誰を時間を割くべき相手として選択するかは、当然ながらその個人の自由だ。そこで、多くの人の選好が偶然一致し、誰もが彼を相手にしたくないと考えるなら、事態は自然のうちに先述の第二段階に進展することになるだろう。これは個人の自由な権利の行使が等差数列的に増幅された結果であり、道徳的の批判の余地を残さないものだ。
実存主義を前提にするならば、人が生きるのはその目的を実現するためだ。そこにおいて、共同体は同好の士を集め、研鑽を積み、励まし合うために存在するというべきだろう。しかしながら、根本的なところで価値観が相違する他者の存在は、時に生の目的そのものへの批判、すなわち実存の否定を起こしうる。価値絶対主義を奉じる人にとってはそれは真理への接近の過程なのかもしれないが、相対主義の立場をとるなら、人生観を異にする人同士は距離をおいてめいめいの道を進むことが是とされる。
価値絶対主義を真理として啓蒙するのであれば以下の批判は回避できるが、そのためには人間そのものが何らかの究極的目的をもって作られたという科学的な証明が必要だ。
つまり、絶対的啓蒙主義以外の立場を取る限りは、共同体によるこうした排除の作用を道徳的な悪として批判することは非常に困難であるように思える。また、いかなる場合でも寛容であれと命ずることは、同時に自らが多数派の立場を占め、考えられる限りにおいて最も受容しがたい他者が自らの領分に入りこんだ時にも、以前少数派として主張した寛容主義を徹底し、あくまで排除を試みないことが名誉の条件となる。少なくとも筆者には、その大きなリスクを受け入れる自信がない。それよりは、自らが排除される可能性があり、一方で自らも好ましくない他者を排除しようと試みる権利があるような社会のほうが、長期的には、よほど生きやすいように思える。
異端性の表明の是非
以上の議論においては、人が共同体と異なる価値観を持っていることがただちに露見するかのような前提において議論を進めたが、実際にはそうではなく、異端性は露見させようと考えなければそう容易には露見しない場合がほとんどだ。
宗教と政治の話はするべきでないと言われることが多いのはこれが理由だ。政治観や宗教観の相違は、人の行動のあらゆる点で差異を呼び起こす。ゆえに、一旦この相違が明らかになってしまえば、共同体の追放行動が開始されるか、数が互角なら分裂への道を辿ってしまうことも多い。今でも、きわめて極端な左翼思想を持っていることがわかると、ほとんどの共同体で"赤い"として拒絶されることはよく知られている。
それゆえ、人は共同体の中で、きわめて色々な種類の価値観を隠蔽して暮らしている。"自分らしく"生きる事ができるのは、多くの人にとっては自室だけであるか、ごく親しい友人との席だけである場合がほとんどだ。
その意味において、性的な言説が解放されており、その趣向を自由に表明できる状態を前提とし、自分たちにはそれが許されていないというクイア研究の主張は少し傲慢かもしれない。一般には男たちばかりがそれを表明する権利を独占しており、職場のありとあらゆる場所でいい女がどうの、お前はホモかといったようなことを述べているとされるが、実際にはその中で最も有力な男の嗜好に皆が妥協し、うなずいて見せているだけかもしれない。あるいは、その共同体は一定の割合において、そうした嗜好を共有し、促進できるようにするために作られたものなのかもしれない。こうした傾向は、まれにブルーカラーの職場において見受けられることがある。
共同体の目的を決めるのは共同体自身であり、その権利が存在するという前段の議論を確認するのであれば、そこで共有される価値観や言説が必然的に自己を疎外していることは、あらゆる意味において仕方がないことだ。唯一の選択肢は異端性をあえて露見させないことであり、それは多くの人が毎日実際にそうしていることでもある。
実際のところ、人々のあらゆる価値観を図表で閲覧することが可能であるとしたら、人はあらゆるところで意見の対立をはじめ、学校や職場のひとつも作ることができないだろう。しかし、人間は群れなければマンモスの一頭も射止められない弱い存在だ。そこで、いわばシングルイシュー的に特定の価値に賛同する者を募り、他の対立軸は考えないものとして人々が協力するというあり方の共同体が発生したのだろう。
共同体において一定の我慢は必須であることはもはや明らかだ。重要なのは共同体が称揚するいくつかの主要な価値観に自己が賛同できるか否かであり、性別に関することでも政治・宗教に関することであっても、その共同体に本来必要でない対立軸についての意思決定を迫るようなことをすれば、何の利益も生まないままに少数派がつまみ出される結果しか招かないだろう。
国家という特殊共同体
今まで問題にしてきた共同体は、職場や学校など、自由意志によって加入し、自由意志によって離脱するものを前提としてきた。家族に加入することは自由意志でない場合もあるが、少なくとも離脱することは比較的容易である。だからこそ、排除される場合は他の共同体に加わって利益を得ればよく、必要であれば自らそれを立ち上げるという可能性が残されていた。
一方、国家や民族といった共同体は、共同体として共通の価値を追求し、あるいは連帯責任的に共同体全体が称賛や非難の対象にされるなど、共同体としての役割を果たしていながらも、そこからの離脱や別の共同体への加入はほとんど不可能であるという特徴を持つ。追放の規定も持たない。
ここにおいて、性的少数者の問題は非常に悩ましい問題を惹起する。つまり、個人にとって完全に所与のものであり、引き剥がすことも貼り直すこともできない国家、民族という共同体において、性的少数者の間でのみ共有される性的規範は、必然的に異端性を有する。それ故に、今までは歌舞伎町二丁目や幾つかの公園の特定の時間帯や、あるいは路地裏のひっそりとした雑居ビルのような、可能なかぎり社会に動揺を及ぼさない場所で、性的少数者の規範はひっそりと共有されてきた。
一方で、政治的、ないしは宗教的な少数派についても、一般的にはこれと類似する状況にあった。たとえば、基督教会は、日本において長い間追放の対象であり、信徒は反政府的であるとして取り締まられる状況が続いていた。今では存在を許されているが、これは国家が宗教について中立の立場を取ると宣言し、実際にそうしているからに他ならない。法によって共同体で共有されざるべき対立軸を正式に定めることで、個人と切り離せない国家、民族といった共同体から、性的規範の相違ゆえに排除される人をなくすことができる。
ところが、国家が宗教について中立の態度を取ることは、一種のニヒリズムを導入する原因にもなり得る。実際、宗教について中立の立場を取ったソビエト連邦や日本では、単に合理的というだけで何の色彩も持たない建築物や家具が普及しつくし、人々は文化的なものに飢えるかのようにかろうじて軽はずみな破壊を免れた歴史的建築物へ好んで旅行している。一方、今なお教会税の制度を持つドイツの町並みは基督教的な色彩に彩られた町並みが残されており、戦争で破壊されてもまた同じような町並みが復活する。日本には江戸時代の伝統を残していると主張する川越という街があるが、この市街の惨状と欧州諸国を比較するとたちまち憂鬱な気分となる。また、欧州の中でも最近のうちに、国家の宗教的中立を宣言したフランスは、これからますます雑多で、色彩を失った国家となるだろう。隣国ドイツとの長期的な比較はきわめて有意義なものになるだろう。
同じように、国家が性的規範について中立の態度を取るということは、乱婚や非嫡出子の増加といった性的頽落をはじめとして、既に始まりつつある恋愛至上主義による選好の激化、出生率の致命的な低下といった問題を引き起こす可能性があるように思える。この実験はジェンダー・ロールからの解放という意味においては既に始まっており、これは先述の恋愛至上主義を引き起こした。これが更に解放され、家庭科や国語の教科書においてスカートを履いている男性が一般的なものとして教育されるようになれば、恋愛至上主義が前提としていた男から女、女から男への欲情さえも脱構築されてしまうこととなり、性的少数者にとって空前の生きやすい社会が到来する一方、非婚化の傾向は勢いを増すばかりだろう。実際のところ、古代ギリシアや中世の日本では男色が流行したことで知られている。この男色は上流階級の特権的なものであったため人口学的な危険は招かなかったが、人は実のところ、明確に同性愛者ではなくても、同性同士の欲情で一定程度の満足を得られてしまうということが示されている。これは、「性的指向とはグラデーションである」というクイア研究の言説と奇妙な一致を見る。むろん、同性愛が大衆化してしまえば、ただでさえ維持できないことがわかっている人口減少が、完全に破綻することは火を見るより明らかだ。
人口減少は当然ながら経済的な不都合をもたらす。労働者の数が不足すると賃金が上昇し、資本の利潤は減少する。すると資本家は新たな投資が行えないため経済成長は困難になる。本来であればここで政府が介入し、徴税で多くの労働者から集めた財源で公共事業を行って資本家の利潤を取り戻し、安定的な成長の見通しを与えることで再び投資を拡大するように仕向けなければならないが、現在ではこうした市場介入の考え方はあまり好まれないし、国際金融市場の発達によって、ひとつの政府が国内市場にもたらせる影響はあまりにも小さくなっている。
すると、人口減少による不都合を解決するためには、人口が余剰となっている他国から移民を受け入れるしかない。しかし、先ほどの仮説が正しければ、性的規範に対して中立を選択する民族共同体は、少なくとも人口増の傾向を持つことができない。すると、人口が減少する国に移民を輸出する国は、必然的に性的規範に対して国家共同体が介入する伝統的な国家でしかありえない。現在、欧州諸国にイスラム圏からの移民が大量に流入していることがこれを雄弁に疎明している。
しかし、こうした人口移動が長期的に継続されると、遠くないうちに性的規範について自由な国民は少数派に転落してしまい、新しく流入した移民の代表が政治的に発言力を持つようになる。そうなれば、せっかく構築された性的規範に対して中立な国制は、たちまちのうちに解体され、振り出しに戻されてしまうだろう。
これは性的なもの以外、たとえば料理や言語といった民族に固有な文化が国家という王冠を失い、衰退してゆく過程でもある。正式な駅名や市町村名を奪われた地方がその精神性を維持していくことが困難であるのと同じように、国民国家としての地位を追われた民族は、その多くが多数は民族に吸収されるか、あるいは民族浄化の対処とされ、長期的には百科事典の一頁に収められる運命にある場合がほとんどだ。こうした理由を踏まえれば、国家という避けられない共同体において性的少数者の生きづらさを取り除くことはあまりにも困難であるように思えてならない。
所得分配政策の可能性
ところで、共同体に所属する大きな理由の一つに、実物的な利益の存在があることは既に述べた。逆説的に言えば、利益を受ける必要が無いほどの富が既にあれば、精神的な承認を別にすれば、もはや共同体に所属する必要はないのだ。
そこで、性的少数者の困難を取り除くために、国民国家の性的規範を脱構築するのではなく、社会制度に異議を唱えない約束と引き換えに圧倒的に多額の年金を保障するという解決策が考えられる。この方法によれば、性的少数者は望まない共同体、つまり性的規範が少しでも共有されている職場や学校に所属しないで済むばかりでなく、国家内の性的な喧騒からも自由となり得る。精神的な承認を得るためには、同じように年金を手に入れた性的少数者と同じ場所に豪邸を建設すれば満たされるだろう。その土地の候補としては、今では廃れしまったかつての楽園、ナウルや、その他購入できるあらゆる別荘地が挙げられる。
当然ながら、彼らが生まれ育った土地や家族と別れることは辛いだろう。しかし、本当に残念なことではあるが、性的少数者が地域や家族から排除されるのは、地域や家族がその性的少数者を必要ではないと判断したからに他ならない。先ほど述べたように、絶対的啓蒙主義の立場に立つのでないかぎりは、地域や家族が誰かを拒絶する権利を否認することはできない。
しかし、国家、民族という共同体はその構成員を誰も排除できない。それゆえ、全員に平等な幸福を保障するべき、誰と立場を入れ替えても問題ないようにするべきというリベラリズムの立場からも、その他の立場からも、上に述べた再分配・年金政策は検討されるべきではないだろうか。
*1:誰も嫌な思いをしない方法で誰かの好ましい思いを増やすこと