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ジョージ・タケイ: かつて自分を裏切った祖国を愛している訳

TED 2月4日(木)11時55分配信

George Takei

翻訳

私は宇宙船エンタープライズ号の 退役隊員です 私は巨大な宇宙船で 汪洋たる宇宙を飛び回りました この宇宙の旅を共にした クルーはというと 多種多様な人種 文化 そして背景を有する 世界各国から集まった 人員で構成されていました 我々の使命は まだ見ぬ新たな世界や 新たな生命体 文明を探し求めて 人類未開の宇宙を 大胆に突き進む ことでした


さて... (拍手) 私はアメリカに渡った 日系移民の孫に当たります 彼らもまた 機会を求めて 未知の新たな世界へと 大胆にも渡っていった というわけです 母はカリフォルニア州 サクラメント出身で 父はサンフランシスコです 二人はロサンゼルスで出会い 結婚し そして私が生まれました 二人はロサンゼルスで出会い 結婚し そして私が生まれました


私が4歳の頃でした 1941年の12月7日 日本軍が真珠湾を爆撃しました これを皮切りに世界は 一夜にして戦争へと突き進みました これを皮切りに世界は 一夜にして戦争へと突き進みました アメリカは突如として ヒステリー状態に陥りました アメリカは突如として ヒステリー状態に陥りました 日系アメリカ人や 日本人を祖先にもつ アメリカ国民らには 疑惑と恐怖 そして むき出しの憎悪の眼差しが 疑惑と恐怖 そして むき出しの憎悪の眼差しが 一斉に向けられました 理由は単に 真珠湾を襲った日本人に 見た目が似ているからです ヒステリー状態は さらに膨らみ ついに1942年の2月 合衆国大統領 フランクリン・ルーズベルトの命令で 合衆国大統領 フランクリン・ルーズベルトの命令で 西海岸の日系アメリカ人は 全員捕らえられたのです 西海岸の日系アメリカ人は 全員捕らえられたのです 西海岸の日系アメリカ人は 全員捕らえられたのです 私たちは告訴することも 裁判を起こすこともできず 「適正手続きの保障」すら ありませんでした 「適正手続きの保障」は 司法制度の核心です 「適正手続きの保障」は 司法制度の核心です しかし正義は消え失せました 私たち日系人は収監されたのです 有刺鉄線で囲まれた10の収容所は アメリカの中でも最も荒廃した 地域にありました うだるように熱い アリゾナの砂漠や 耐えがたく蒸し暑い アーカンザスの湿地 ワイオミング アイダホ  ユタ コロラドの荒れ地に カリフォルニアの 人里離れた地域です


4月20日 私は5度目の誕生日を祝いました 私の誕生日から わずかに数週間後でした 両親は弟とまだ乳児の妹 そして私のことを 両親は弟とまだ乳児の妹 そして私のことを 早朝に突然起こして 着替えさせました 早朝に突然起こして 着替えさせました 弟と私がリビングから 窓の外を眺めていると 二人の兵士が こちらにやって来ました 彼らの持つライフルの先には 銃剣が光っていました 玄関先で足を止めると ドアをガンガン叩きました 玄関先で足を止めると ドアをガンガン叩きました 父が応対すると 兵士たちは「全員 外に出ろ」 と命令してきました 父が私と弟に 小さな荷物を手渡すと 父が私と弟に 小さな荷物を手渡すと そのまま外に出て立ったまま 母が出てくるのを待ちました そのまま外に出て立ったまま 母が出てくるのを待ちました しばらくして 片手に赤子の妹を抱え もう片方でダッフルバッグを持って 母が出てきました 母の両頬には とめどなく 涙が流れ落ちていました あの光景は今も忘れません 私の脳裏にしっかりと 焼き付いています


私たち家族は家を追われ 他の日系アメリカ人たちと一緒に 私たち家族は家を追われ 他の日系アメリカ人たちと一緒に 列車に詰め込まれました 各列車の両端には 見張りの兵士がいて 各列車の両端には 見張りの兵士がいて 私たちはまるで犯罪者でした そうして四日三晩もの間 列車に揺られて アメリカの三分の二を 横断して ついには アーカンザスの湿地へと 連れてこられたのです 収容所を囲んだ有刺鉄線を 今でも覚えています 収容所を囲んだ有刺鉄線を 今でも覚えています 私たちに自動小銃の照準を合せてくる 監視塔のことも忘れはしません 私たちに自動小銃の照準を合せてくる 監視塔のことも忘れはしません 夜間 兵営から便所に走る私を 沿うように追いかけてくる サーチライトのことも忘れません 沿うように追いかけてくる サーチライトのことも忘れません ただ 5歳の私には おしっこに行く道を照らす明りは 少し嬉しくもありました おしっこに行く道を照らす明りは 少し嬉しくもありました 子供だった私は 自らが置かれている状況を 子供だった私は 自らが置かれている状況を 理解するには幼すぎました


子供には驚く程の 適応力があります 捕虜収容所での 悲惨を極めた非日常が その適応力をもって 私の日常に成りかわったのです その適応力をもって 私の日常に成りかわったのです 騒々しい 人々でごったがえす ホールで1日に3回 汚らしい食べ物のために 並ぶことも 父と一緒に 集団で浴びるシャワーも 私には普通になりました 収容所で過ごし 有刺鉄線で囲まれた 捕虜としての生活が定着したのです 有刺鉄線で囲まれた 捕虜としての生活が定着したのです


戦争が終結すると 私たちは解放され 戦争が終結すると 私たちは解放され アメリカ全土どこへでも行ける 片道切符を渡されました アメリカ全土どこへでも行ける 片道切符を渡されました 両親はロサンゼルスへ 帰ることに決めましたが 両親はロサンゼルスへ 帰ることに決めましたが かつての故郷での生活は 困難を極めました 私たちは無一文で 全てを奪われた上に 世間の風当たりは散々でした 全てを奪われた上に 世間の風当たりは散々でした 最初の住まいはスキッド・ロウという LAで最も貧困層の多い地区で 最初の住まいはスキッド・ロウという LAで最も貧困層の多い地区で 路上生活者や酔っ払い 犯罪者などが暮らしていました 路上生活者や酔っ払い 犯罪者などが暮らしていました 小便のひどい悪臭が 大きな通りだけでなく 小さな脇道や 玄関からも漂いました ひどい体験でしたよ 子供だった私と弟は 恐怖も覚えました ある日のことです 酔っぱらいがふらふらと近づいてきて ある日のことです 酔っぱらいがふらふらと近づいてきて 私たちの目の前で倒れたと思うと 嘔吐したのです まだ小さかった妹は言いました 「ママ お家に帰ろうよ!」 有刺鉄線に囲まれた収容所が 当時の私たちにとっては 帰りたいと思う「お家」だったのです


両親は普通の生活を 取り戻そうと必死に働きました 両親は普通の生活を 取り戻そうと必死に働きました 全てを失ったので 両親にとっては 人生半ばでの再出発でした 両親にとっては 人生半ばでの再出発でした 文字通り身を削りながら働きました そうして やっとの思いで 資金を工面して 素敵な郊外に寝室が3つある 一軒家を購入しました 思春期を迎えた私は 幼少期の収容体験について とても興味を寄せるようになりました 幼少期の収容体験について とても興味を寄せるようになりました 社会科の本も読むようになり アメリカ民主主義の理想に ついて学びました 「全ての人間は平等に造られていること」 「全ての人間は― 生命 自由及び幸福追求 について不可侵の権利を有すること」 収容所での体験を思うと この主義主張はどこか 腑に落ちませんでした 歴史の教科書は収容所について 全く触れていませんでした 歴史の教科書は収容所について 全く触れていませんでした そこで私は父とこのことについて 毎晩長く ときに熱く 議論するようになりました そこで私は父とこのことについて 毎晩長く ときに熱く 議論するようになりました 父と私は何度も議論を重ねました そうして私が得たもの それは父の英知でした そうして私が得たもの それは父の英知でした 父こそが あの収容の状況下で 最も苦しんだ本人なのでした それでも父は アメリカの民主主義を深く理解し 私に言いました「この民主主義は 人民のために存在している」 私に言いました「この民主主義は 人民のために存在している」 「民主主義には 素晴らしい可能性もあるが 人間と同じく 脆く崩れ去る可能性もある」 父は教えてくれました 「アメリカの民主主義は 民主主義を機能させる過程において そこに関わる制度や考え方を 大切にしている善良な人々によって 支えられている」ということを 大切にしている善良な人々によって 支えられている」ということを 父に連れられ 選挙対策事務本部に行くと 当時はイリノイ州知事が 大統領選に出馬しており 父はアメリカの選挙政治についての いろはを教えてくれました それと 第二次大戦中の 若き日系アメリカ人たちのことも それと 第二次大戦中の 若き日系アメリカ人たちのことも 一緒に語ってくれました


真珠湾が爆撃されたとき 若いアメリカ人と同じくして 若い日系アメリカ人らも自ら アメリカ合衆国の為に闘おうと 徴兵委員会へと志願にいったそうです しかしこの国を想っての行動も 拒絶されてしまったそうです しかしこの国を想っての行動も 拒絶されてしまったそうです 日系アメリカ人たちは兵役を拒否され 「非外国人であり敵だ」と形容されました 祖国の為に闘おうと 立ち上がったのに 敵呼ばわりされるのは 常軌を逸しています 唯一の救いは「非外国人」という 部分でつまり 否定的な表現を伴いながらも 「アメリカ国民」ではあったわけです しかし 後にはその「国民」の 地位さえ剥奪され 1年間に渡る強制収容を 強いられていたのです


その後 米国政府は 戦時中の人手不足に気づきました すると 突然手のひらを返して 若い日系アメリカ人たちに 兵役につく門戸を開きました 若い日系アメリカ人たちに 兵役につく門戸を開きました まったくもって不合理な話ですが 驚くべき 素晴らしいことが 起こりました 男女問わず数千人もの 若き日系アメリカ人たちが 男女問わず数千人もの 若き日系アメリカ人たちが 有刺鉄線で囲まれた 収容所を後にして 彼らを監視していた 兵士たちと同じ制服を着て 収容所に家族を残したまま 合衆国のために立ち上がりました


彼らが立ち上がったのは 有刺鉄線で囲まれた拘置所から 家族を解放するためだけではなく 人は皆 平等であるという 当時はないがしろにされていた 米国民主主義が守るべき まさにその理想を取り戻そうと 彼らは立ち上がったのです


「全ての人間は平等に造られている」 彼らには合衆国の為に 闘う覚悟がありました 日系アメリカ人による日系人だけの 特別部隊が編制され 日系アメリカ人による日系人だけの 特別部隊が編制され ヨーロッパの戦地へと 送り込まれました そして危険も顧みずに闘いました 彼らは信じられないような勇気をもって 勇猛果敢な素晴らしい戦いぶりを見せました 彼らが送り込まれたのは 最も危険な任務ばかりで 全部隊中 最悪の戦闘死傷率を 継続的に記録しました


それを如実に物語る 戦いが一つあります それがゴシックラインの戦いです この難攻不落の山岳地帯は 洞窟の中から この難攻不落の山岳地帯は 洞窟の中から ごつごつとした山腹までを ドイツ国防軍が占拠していました ごつごつとした山腹までを ドイツ国防軍が占拠していました 3つの部隊による 6ヶ月にもわたる砲撃も 功を奏せずに 6ヶ月にもわたる砲撃も 功を奏せずに 膠着状態が続いていました そこに日系第442連隊戦闘団が 追加戦力として投入されます そこに日系第442連隊戦闘団が 追加戦力として投入されます 第442連隊戦闘団の練り出した戦略は ユニークでしたが それと同時に 危険なものでもありました その山の背面は 断崖絶壁だったため その山の背面は 断崖絶壁だったため ドイツ国防軍は 背面からの攻撃は不可能だと 高を括っていました 第442連隊戦闘団は この不可能に目をつけたのです 月明かりさえない闇夜に 第442連隊は 300m以上もある絶壁を 登り始めました 完全武装をした状態で 断崖絶壁を一晩中 黙々と登っていきました 暗闇の中ですから 手や足を滑らせる者が いないはずもなく 手や足を滑らせる者が いないはずもなく 山峡へと落下して 命を落とす者もいました 山峡へと落下して 命を落とす者もいました ただただ 音もなく 落ちていきました 自分たちの存在を知られないよう 声を押し殺して堪えました 8時間もの間 休みもなく 登り続けました 頂上まで辿り着いた者は 夜明けが来るのを 静かに待ちました そして 朝日が昇ると同時に 奇襲を仕掛けました そして 朝日が昇ると同時に 奇襲を仕掛けました 不意を突かれたドイツ兵は この丘を諦め 遂に ゴシックラインが陥落しました この丘を諦め 遂に ゴシックラインが陥落しました 6ヶ月もの膠着状態が続いた戦局を 第442連隊はものの32分で 打開してみせたのです 第442連隊はものの32分で 打開してみせたのです


全くもって素晴らしい所業ですよ そして終戦を迎え 第442連隊は第二次世界大戦において 最多の勲章を受けた部隊として アメリカ合衆国へ帰還しました 最多の勲章を受けた部隊として アメリカ合衆国へ帰還しました 彼らをホワイトハウスに迎えると トルーマン大統領は言いました 「諸君は戦の敵だけでなく― 偏見に対しても戦いを挑み 見事に勝利を勝ち取った」


彼らは私のヒーローです 合衆国の光り輝く理想を 彼らは信じてやまなかったのです そして証明してくれました アメリカ合衆国民とは 一部の人たちの地位ではないことを そしてその定義に人種的背景など 関係はないということを 彼らの業績は 恐怖 疑念 憎悪の対象とされた 日系アメリカ人らをも アメリカ合衆国民の定義の 一部分としてしまったのです 彼らは変革を成し遂げ 我々に遺産を残してくれたのです 我々に遺産を残してくれたのです 彼らは私のヒーローです そして私の父もまた 民主主義の本質を理解し 私を導いてくれたヒーローです 民主主義の本質を理解し 私を導いてくれたヒーローです 先人が托してくれた遺産 そしてその遺産には 責任が伴います ですから 私は 祖国アメリカが 今よりさらに良い国に成長し 祖国アメリカが 今よりさらに良い国に成長し 我が国の政府が民主主義の本質に さらに近づけるよう力を尽くします 我が国の政府が民主主義の本質に さらに近づけるよう力を尽くします 過去の偉大なヒーローたちと 私たち皆がくぐり抜けてきた 苦境のおかげで こうして皆さんの前に ゲイの日系人として立っていられます しかし それ以上に重要なのは 私が誇り高きアメリカ人であることです


どうもありがとうございました


(拍手)


ジョージ・タケイ がまだ幼かった頃、第二次世界大戦中の「保安」対策として、タケイ 一家は日系アメリカ人であることを理由に、収容所での拘置を余儀なくされました。それから70年がたった今、当時の拘留体験が愛国心と民主主義という言葉に対する一風変わった独自の定義を形成した軌跡を振り返ります。 ( translated by Takahiro Shimpo , reviewed by Yuko Masubuchi )

動画撮影日:2014年6月4日(水)

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