視聴者が主体として考える作品とは──開始3分で面白さを伝える方法『いつ恋』第4話
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テレビドラマを、というかテレビに限らずフィクションの映像作品を観るという行為は、そういった意味で知的遊戯だ。それは単体の映像物としてそこにあるのではなく、観る存在であり考える存在である主体を必要とする。フィクションの映像作品を観るということは、ドラマであれ映画であれ、無料であれ有料であれ、受動的な行為ではなく、あくまでも主体的な行動なのだ。
テレビドラマがつまらなくなった、あるいは薄っぺらいものとなった、と言われて久しいが、それはもしかしたら、情報量の多い作品、それはつまり主体として考えるという行為が要求されるような作品を避けて通るようになった我々視聴者の視聴行動にも原因があるのではないか。少なくとも、この作品ほど深く語れる、考えることのできるテレビドラマは、近年では稀である。それを例えば、視聴率が低いからどうせつまらないに違いないなどといって観ないというのは、あまりにももったいない。
テレビとは、ただだらだらと流れるものではなく、作り手と受け手の共同作業だ。ドラマ『いつかこの恋を思い出してきっと泣いてしまう』を面白くするのは、我々視聴者の仕事でもあるのだろう。
(文=相沢直)
●あいざわ・すなお
1980年生まれ。構成作家、ライター。活動歴は構成作家として『テレバイダー』(TOKYO MX)、『モンキーパーマ』(tvkほか)、「水道橋博士のメルマ旬報『みっつ数えろ』連載」など。プロデューサーとして『ホワイトボードTV』『バカリズム THE MOVIE』(TOKYO MX)など。
Twitterアカウントは@aizawaaa