黒澤はゆまの歴史上の女性に学ぶシリーズ、第4話はアステカの悪女、マリンチェです。姫として産まれたのに母親に奴隷として売られてしまった彼女は、好色な男性の元を転々とするうちに極度に発達した人心掌握術を身につけます。男性の懐の中から世界を滅ぼした悪女マリンチェ。彼女は何を思い、生きたのでしょうか。(編集部)

姫として生まれ、奴隷になった

「こんな世界滅んでしまえ」

女性にばかり、不公平と理不尽を強いられる毎日のなかで、そう願ったことはないでしょうか? この願いをまだ20歳にも満たない少女がかなえたことがあります。

その名はマリンチェ。

彼女は西暦1502年、南米のアステカ(現在のメキシコ)で生まれました。父親はパイナラという街の王で、マリンチェはお姫様として、蝶よと花よと育てられるはずだったのですが、幼い頃に父が死んだことから運命は狂い始めます。

別の男と再婚した実母は、娘がうとましくなり、隣国のタバスコにマリンチェを奴隷として売り払ったのです。

マリンチェは、アステカ人が好んだ比喩を使うと、金剛鸚哥(インコ)のように美しい少女でした。十代の前半だった彼女は、人手から人手へと渡り、その間に生涯かかえなくてはならない秘密がいくつも出来ました。

王の目に止まり、性の伴侶に

やがて、タバスコ王の目に留まり、王の側室になったのですが、彼は位が高いだけで、つまらない男でした。

望まぬ男の性の伴侶をつとめる、隷従と屈辱の日々のなかで、一筋の救いの光となったのが、アステカの神話の一節です。

「一の葦の年、白い肌の破壊の神、ケツァルコアトルが帰って来て、世界を滅ぼす」

アステカ族は、この先住の神から文明と農耕を教わったにも関わらず、詐術にかけて追放したのです。ケツァルコアトルは去り際、東の海に船を浮かべながら、必ず戻ってくると予言していました。

そして、マリンチェが17歳になった一の葦の年、西暦で言う1519年、数百年一度も破られることのなかった東の海の水平線を純白の帆で割って、本当に白い肌の男たちがやって来ます。

白い肌の侵略者たち

彼らは巨大な犬のような生き物に乗り、見上げるように背の高い人たちでした。手に持つ不思議な棒から、大きな音とともに火が噴くと、タバスコ王の兵隊たちは魔法をかけられたようにバタバタと倒れました。

タバスコ王は恐れおののき、たちまち白い肌の男たちに降伏しました。彼は仲直りの印として、黄金や美しい布、そして20人の娘を献上しました。そして、この20人のなかにはマリンチェの姿もありました。

他の娘たちが恐ろしさに泣き叫ぶなか、マリンチェの足取りだけが、密林を舞う色鮮やかな小鳥のように軽やかでした。ついに来たのです。神が。自分を迎えに。この悪しき世界を懲罰するために。

コルテスとコンキスタドール

白い肌の男たちは南米の黄金を求めてやってきた、コンキスタドールと呼ばれるスペイン人でした。首領はエルナン・コルテスという貧乏貴族で、一旗あげるため新大陸にやって来たのでした。

コルテスはインテリで腕っぷしも強く、当時男の美徳とされたものは良心以外のすべてを兼ね備えた人でした。傲慢で、残虐で、マリンチェが待ち望んでいた神ぴったりの男だったのです。

彼女は美貌と聡明さで、たちまちのうちにコルテスの心をとらえると、カカオ色の肌を押し付けながら、彼の耳にささやきました。

「コルテス、私のふるさとアステカはここよりももっと豊かな土地よ。あなたをそこの神様にしてあげるわ」

再びの愛人生活

こうして、マリンチェはコルテスの愛人兼参謀になりました。

彼女はもともとはスペインの食い詰めものの集団でしかなかったコルテス達をケツァルコアトルの化身と宣伝し、アステカ人を恐怖のどん底に突き落としました。アステカ人の宗教心は信仰深いなどという生半可なものではなく、彼らは自分のことを宗教という巨大な劇のなかで役割を演じる人形のようにとらえていました。

太陽神が求めれば生贄を捧げ、神話のなかに自分たちの運命が滅びると書いてあるのなら、それに従う他ないのです。語学の才能に優れていたマリンチェは、スペイン語もたちまち習熟し、優秀な通訳ともなりました。

常にコルテスの側にたち、神の言葉を伝える彼女のことをいつしかアステカ人たちは畏怖の念と共に「神の通訳」と呼ぶようになりました。

アステカの偉大な王を騙し、服従させる

そして、血なまぐさい3か月の旅路の果てに、コルテス一行はアステカの首都テノチティトランにたどり着きました。テスココ湖に浮かぶ都は、大きな蓮の花が咲き誇っているようで、その美しさにはさしものコンキスタドール達も声がなかったといいます。

アステカの偉大な王、モクテスマ二世はコルテス達一行を歓迎し、赤い巻貝と黄金の首飾りを贈りました。アステカを全盛期に導いた偉大な王の、客人に対する接待は丁重で、敬意と愛情に満ちていました。

彼自身、本気でコルテス達をケツァルコアトルの化身と信じていたからです。

純粋な王の困惑

しかし、それに対する、コルテスとマリンチェの言葉は、偽りと悪意に満ち、純粋な王を困惑させ続けました。そして、一トンもの黄金をだまし取った末に、王を自分たちのもとに軟禁し人質にしてしまいます。

当然、王の家臣からは不満が噴出、スペイン人に立ち向かうよう王を突き上げるのですが、王は神への抵抗に対しては一貫して消極的でした。

そして、アステカ人にとって最も大事な太陽神を祝う祭儀の最中、事件が起きました。王を慰めようと軟禁されている邸の回りに集まった群衆たちに向けてスペイン人たちが発砲したのです。

群衆のなかには多くの貴族たちの姿もありました。詩や歌や踊りのなかで、その栄光が称えられ語り継がれてきた、アステカの高貴の血筋のほとんどが、この時に死に絶えました。

それでもなお王は宥和政策を維持しようと、民衆に向けて平和を訴えるのですが、怒り狂った群衆の投げた投石を頭に受けて死亡してしまいます。マリンチェの言葉に翻弄され、国も財産も誇りも名誉も何もかもを奪い尽くされた果ての最後でした。

三十万人を擁した、世界最大級の都市が廃墟に

その後、若き英雄、クアウテモックを擁して企てられた反乱によって、一時スペイン人たちは首都を撤退するのですが、スペイン本国やアステカに敵対的な南米諸国の兵を集めて軍を編成すると、再度侵攻。

そして、3か月の激しい攻防戦の末、1521年8月、テノチティトランは陥落します。

かつて三十万人を擁した、世界最大級の都市は、完全な廃墟と化しました。

戦闘あるいはスペイン人の持ち込んだ天然痘によって命を失ったアステカ人の死骸がそちこちに転がる、焼け焦げた街を歩きながらマリンチェの心に去来したのは、復讐を遂げたことの満足だったのでしょうか。しかし、同胞たちから魔女と罵られながら、彼女にはもう一つの歴史的役割が残っていました。

悪女マリンチェの子供

世界の滅亡を願ったはずの彼女のお腹には新しい命が宿っていたのです。コルテスとの子供であり、後のメキシコの主役となる、史上初めてのメスチーソ、征服者と被征服者の間の混血児でした。

子供を生んだあと彼女はつきものが落ちたようになりました。自分を奴隷に売った母親と再会しても、「あなたは無知だっただけ」と鷹揚に許しています。後に、この母親はマリンチェの息子と共にキリスト教に帰依しました。

マリンチェの若き死

静かな若い晩年を過ごした後、1527年、マリンチェはわずか25歳でこの世を去りました。

マリンチェは、古い世界を滅ぼし尽くした魔女だったのでしょうか? それとも新しい世界を生んだ女神だったのでしょうか?

いずれにせよ、現在、マリンチェの子供たちは、彼女のことを、もう激しく憎んではいないようです。ベラクルスの街には、未来の象徴として彼女の像が建立されています。銅像のマリンチェは激しい怒りも憎しみもない、穏やかな目で、メキシコの行く末を見守っています。

【第1話】すべての女性がもっとも望むものは何か? アーサー王の物語に学ぶ
【第2話】北条政子の名演説に学ぶ、“意志を伝えられる”女性になるために必要なこと
【第3話】男たちはなぜジャンヌ・ダルクに命を捧げたのか? 女性がもつ“現状を打破する力”とは

参考文献:『アステカ王国 文明の死と再生』(セルジュ・グリュジンスキ著、斎藤晃訳、創元社)/『アステカ文明』(リチャード・F・タウンゼント、増田義郎監修、武井摩理訳、創元社)/『古代マヤ・アステカ不可思議大全」(芝崎みゆき著、草思社)/『悪いお姫様の物語』(リンダ・ロドリゲス・マクロビ―、緒川久美子訳、原書房)/『メキシコの夢』(J.M.G. ル・クレジオ著、望月芳郎訳、新潮社)

黒澤はゆま(くろさわ・はゆま)1979年、宮崎生まれ。大阪在住。システムエンジニアの仕事のかたわら、小説教室「玄月の窟」で修業。エージェントに才能を見出され、2013年に歴史小説『劉邦の宦官』(双葉社)でデビュー。2015年10月、真田昌幸を主人公にした第2作『九度山秘録』(河出書房新社)出版。愛するものはお酒と路地の猫。