思えば新人時代に与えられてた仕事って、フローチャートをなぞるタイプが多くて、正確さと納期を守ればこなせる仕様になってたんです。それは算数の基本問題に似て、計算式を習い、後は実践でその解法に慣れていく感じでした。実践を重ねるほど解法が身体に馴染んで、早く正確に解けるようになる。
そんな風に自分が解ける解法のパターンを増やしていって、出来ることが増えていくのは楽しいものだな、と思っていたのです。
でも仕事って、それで終わらないじゃないですか。そこから始まりな感がある。
目の前にある仕事をどの解法で解けばいいか、ぱっと見わからないものが増えるんです。使う解法がわかれば簡単に解けても、問題を読んでどの解法を当てはめるのか判断するのに時間がかかる。答え(成果)がはっきりするまで、時間がかかる問題も多い。
それでも試行錯誤を繰り返して解法の見極め精度を上げていって、上司からの細かい修正が減ってくると、いつの間にか新人とは呼ばれなくなってました。
そのうち、一問終わって次の問題、じゃなくて、同時並行で複数解くのが当たり前になります。後輩とか部下と呼ばれる人が指示を待っていて、自分の先輩や上司がしてくれたように、助言や指示を出して問題を「解かせる」機会も増えてくる。
部下のレベルを見極めて解けそうな問題を任せたり、問題が複雑な場合は解きほぐして細分化したり、途中経過をチェックして必要な指摘をしたり。一人なら時間がかかりすぎて処理できない量にチームで取り組んでいくんです。
それでも、任された問題を順に解いていくと時間が足りなくなって「優先順位をつける」ことを覚えます。こうなると完全に自分で問題を解く機会は減って、進捗管理だったり、問題を解く「仕組みの管理」がメインになっていく。
そうした経験を積み上げていくうち、土地勘というか経験値というか、問題を解き始める前に「落とし所が見える」ことが増えてきます。あ、多分最後はこの範囲に収まりそうだな、と予測が立つようになる。
それで「先読み」を覚えるんですね。ゼロベースで問題を解くのは効率的じゃないから、仮説を立ててそれを検証する仕事のやり方に変わるんです。先読みからの逆算で仕事を進められるようになると、不測の事態からの致命的エラーも減っていきます。同時に、あぁ多分あそこがボトルネックになるだろうな、なんてのも見えてきて、先回りして根回しする余裕も出てくる。
この頃はもう、自分の裁量によって、与えられた問題に対して先読みして動くだけではなくて、欲しい答えに合わせて「問題を設定する」ことも覚えちゃったりもします。天の声に従ってばたばた動き始めるより、先んじて自分から動き出せるのって主導権握れる分、動きやすいよね、とか考え始める。
そうして上司に仕事をボトムアップで上げていくようになると、指示を出されるだけより、上司の反応が見えやすくて、スムーズに立ち回れるようになってくるんです。話やすさも上がって、認識のズレ(聞いてなかった、思ったものと違った)が入口から発生するクリティカルな失敗はなくなっていく。
それでですよ。気がついたんですけれど、これって「主体性を発揮する」領域に入ってきたんじゃないかなと。問題設定して先んじて動こうとするのは「目的を持って始める」要素もある気がする。「重要事項を優先する」はもっと早く、習慣化の領域に来てる感がある。
つまりなんだか「7つの習慣」的だな、て思ったんです。
自分が初めて「7つの習慣」を読んでから随分経ってしまったけれど、スティーブン・R・コヴィー博士が言いたかったのってこういうことだったんじゃないの、と。理解じゃなくて、実感として納得できそうな気がしてる。
といっても、要領の悪い自分がしたのは、車輪の再発明的「7つの習慣」で、コヴィー博士が折角用意してくれてた車輪の設計図を使わず、ゼロベースでやっちゃうような、非効率な再発明なんですけれど。しかもコヴィー博士ほど研磨されたスムーズに回る車輪じゃなくて、劣化版ぽいし、賢い人なら「7つの習慣」を読んだだけでたどり着けていたであろう領域ですけども。
でも、実感した今「7つの習慣」を読み返せば、以前とは違うニュアンスで頷ける部分もあるんです。自分はこの本を、指南書や補助輪としては上手く使えなかったけれど、終わった後のおさらいとしては使えてるのかもしれない。
車輪の再発明的「7つの習慣」、しかもその入り口ぐらいにたどり着いただけなんですけれど(しかも錯覚かもしれない)、こんな風に本を知るのって面白いのかもしれない、と思った話でした。今意識高いムードになってて、なんだかちょっと高揚してるかもしんない。