里帰りしたあの日。俺は東京駅で新幹線に乗り込むと窓の外をぼんやりと眺めていた。目の前が真っ暗だったのは、かけていたサングラスのせいだけじゃない。都会の生活にまったく光が見えなかったからだ。成功するまでは絶対に帰らない。そう決めて故郷を飛び出したはずなのに、現実は厳しく日々の暮らしを乗り切ることで精一杯。そんな息が詰まりそうな毎日に嫌気がさして、気がつけば故郷という振り出しに戻っていた。
今回の里帰りは都会を追われた負け犬の逃亡かもしれない。俺はそれに気づかれることが怖かった。成功者として迎えられたい。故郷に錦を飾るスターのように華々しく迎えられたい。俺はありったけの持ち金で有名なブランドのサングラスを買った。それが成功者として自分を偽るための精一杯の変装だった。
実家に到着しても俺はサングラスを外さなかった。違和感は当然感じている。それでもスターとして振る舞う為には仕方がないこと。そんな俺をおばあちゃんは、あの頃と全く同じ笑顔で迎えてくれた。
話も弾んで酒が進みすぎたのかもしれない。急に腹に差し込むような痛みを感じて俺は便所にこもった。久しぶりのポットン便所。子供の頃はずっとこれだった。おばあちゃんは未だにこれを畑の肥料として使っているのかな。おばあちゃんの畑仕事よく手伝ったな。そう考えると懐かしさがこみ上げる。子供の頃は本当にこの穴が怖かった。ここに落ちたらどうなるんだろう。ふと、俺は怖いもの見たさで穴を覗き込んだ。真っ暗でよく見えない。当然だ。サングラスをしているのだから。それに気づいた俺はサングラスを外して胸ポケットに引っ掛けると、もう一度穴を覗き込んだ。その瞬間、胸ポケットからスルッとサングラスが滑り落ちた。愕然とした。どんなに覗き込んでも深い穴の奥に落ちたサングラスはもう二度と見えなかった。
便所から戻った俺の顔を見ておばあちゃんはにっこりと微笑んだ。サングラスを外して表れたありのままの自分の顔。負け犬のようなその顔をおばあちゃんは何度も褒めてくれた。その顔がいい。その顔がいいと。
それが本当に嬉しかった。
サングラスを外して見た故郷の景色。それが驚くほど美しいことに今頃になって気づく。大嫌いだった田園風景も大嫌いだった山の景色も、今思えば全部が俺を応援しているように感じる。帰りの新幹線の窓の外で、いつまでも手を振るおばあちゃんの姿がまぶたに焼き付いて離れない。思わず涙がこぼれた。本当はこんな時サングラスがあればよかったのに。俺は流れる涙を袖でぬぐって、もう一度、前を向いた。
もう一度、頑張ろう。
大丈夫。
俺には帰る場所がある。
だから、今度こそ思いっきりやってやる。
そう決意した、あの時の気持ちは今も変わらない。
田舎からの手紙は、こう締めくくられていた。
「ちゃんとご飯は食べてるか?この間、畑で採れた野菜送るからな。健康には気をつけて頑張れよ。辛いこともあると思う。だけど人生は何がおきるかわからないもんだ。ばあちゃんは毎日畑仕事だけど、毎日新しいことの発見ばっかりだ。お前も何か見つけられるといいな。負けんなよ。」
発見か…。
写真を見て気づいた。
あっ!ばあちゃん。
俺が便所で落としたサングラスしてる。
※フィクションです。