「アクティブラーニング」の欺瞞

 先日、アクティブラーニングに関する研修がありました。もううんざりというか、げんなりというか。
 今求められている学力なるものがいったいどういうものなのかによって、教育法は変わります。
 近代に始まる教育学というのは、その主体は実は授業者です。教え育てるという発想が教育学の根底にあります。そしてそれは社会にどういう人材を送り出していくのかによって変わるはずです。
 しかし、アクティブラーニングを推進する側は、教わり育てられる学習者を主体とします。教育と学びというのは、主体の違いとも言えそうです。つまり、これまでの主体(授業者)と客体(学習者)とを入れ替えようとしているのが現状なのだと今のところ理解しています。


 研修を受けながら感じたのは、要は大学側が欲しい人材を小中高で作ってくれ、ということでした。これはつまり、大学側が社会に送り出していく人材を、中等教育の段階である程度育てておいてくれということです。
 でも、それは結局従来の教育学の側の発想なのではないかと思うのです。人材を社会にどう送り出していくのかという発想です。
それは一つの見解だし、妥当とも思えるのですが、欺瞞だなと感じたのは、実は従来と狙いは変わらないくせに、生徒の学び、主体的な学びなんていう言い方をすることです。
 いったいこれまでの教育の成果というのをどのように考えているのか。これまでの教育による学びとはやりの教育による学びの質や深さ、それを受けての学習者の変容の違い、従来の教育によってそれなりに育ってきた学習者たちのことをどう考えるのか、などなど、本当に歴史を振り返っているのか、はなはだ疑問といわざるをえない。教育政策というものは本当に歴史に鑑みない。責任も誰もとらない。


 なんてことを感じた研修でした。

 その研修によれば、アクティブラーニングでは上位層を伸ばすことが難しいということが課題としてありました。
 中位層以下を伸ばすものらしいです。上位層には退屈のようです。そもそも学力の高い層は自分たちで学びます。たとえば、マイケル・サンデルのような講義。これは、事前にテキストを読み込んでいる学生を相手としていますし、それなりの知性があるからこそ成功しているのだと思います。これを初等中等教育にそのまま持ってくることはできません。時間的な制約もあります。

 一つ、それはどうかなという提案がありました。小テストをこまめにする、予習をするというもの。予習はともかくも、小テストをこまめにするなんて提案をして、なんという現場を知らない教員かと思いました。こんなことを言い始めたら、にわか仕込みの実践家はアピールのために小テストをこまめにしはじめて、手段が目的化してしまうという事態になるはずです。そもそもなぜ小テストをしてまで教育内容を学ぶのかという大きな物語がないのに、というか、この大きな物語の構築をこそ先にすべきなのに、それがないまま教育方法だけがポンポンと提案されていることを問題にしないといけないと思います。


 他にもいろいろと思うところはありましたが、いずれにしても大学入試は変わるとはいいながらも、それは一部の大学、おそらくは地方国公立などだけであって(予算がお上に握られているから)、旧帝大や私立などは対応はしないでしょう。そうなると大学入試はほとんどのところは変わらないので、結局中等教育も変わらないはずです。それはもうゆとり教育以上に現場に混乱をもたらすだけではないかと危惧しています。


 アクティブラーニングは、従来の教育よりも最優先すべきものではなく、並列かそれに従属する形で導入すべきだと思います。
 前にも書きましたが、本当に生徒が面白いと思った授業は、小手先の教育方法で得た学びよりも十分に深いのです。そしてそんな授業はアクティブラーニングが内包されています。
 本当に大学の教員こそが良い授業を見るべきだと思いますね。でも、生徒が面白いと思う授業をおそらくは面白くないと感じ、今求めている学力とは違うとのたまうでしょう。偉そうにこれから求められている力とはこれだと言いながら、その実現場で生起している知的空間を知らないのは、怒りを通り越して脱力してしまいます。そんな人材を創り上げてきたのがこれまでの教育だといわれたら、妙に納得してしまいますが・・・。
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