2016-02-09

小学校から中学校にかけて、わたしには盗み癖があった。

欲しいものがあれば人目を盗んで自分のものにした。

そのほとんどはおもちゃゲームなどだ。

盗んでは遊び、飽きてはまた盗んだ。

しかし悪いことはそれほど続かない。

周囲に怪しまれた挙句に罠にかかって発覚した。

多くの友人からの信用を失ったが、その時は別に悪いとも思わず、次はうまくやろうと思った。

それから親の金を盗むことにした。

これならば友人からの信用を失うことはない。

ある日、いつもの様に親の財布から金を抜き取り、どうしても欲しかった大きなおもちゃを買って帰った。

しかし、大きなおもちゃを嬉しそうに抱えている姿を親に発見され、うまく説明できずに発覚した。

その日は顔が変わるほどに殴られた。

お店に返品するわけには行かないと結局そのおもちゃは引き取ることになった。

わたしが嬉しそうに梱包を解いていると、「どうしてそんなに楽しそうでいられるのか」と親が泣き出した。

その時、はじめて盗みが悪いことだとわかった気がした。

振り返ってみると、盗んだものの中で大切に思えたものは一つもなかった。

しいていえば、手に入れた瞬間の喜びだけだ。

(世に言われる盗む時のスリルのようなものは一度も楽しんだことはない。)

飽きては捨て、捨てては盗んでを繰り返していた中で、いつも何かが満たされないことを感じていた。

そんな自分に対し、親は仕事の手伝いを強要した。

盗みの罰の意味もあったのだろう。

学校が終わってから夕方から深夜まで飲食店の手伝いをさせられた。

おぼつかない手元で客から怒鳴られ、そのことを従業員からもきつく叱られたりした。

25時の閉店時間を回る頃には心底からヘトヘトだった。

そんな自分に、親は500円玉を一つ差し出した。

そして一言「これがお前の金だ」と言った。

冬のまっただ中ということもあり、店を出る頃には凍えるほどに寒かった。

まらず帰り道のコンビニに立ち寄り、何か身体が温まるものを探した。

しかし、わたしホットドリンクコーナーの前に立ち、身動きがとれなくなっていた。

いつもなら何も考えずに飲みもしないものまでカゴに入れていただろう。

ところが、その時はそんなもののためにお金をつかうことが余りにももったいなく感じられてしまったのだ。

その日はお金を使わずに家まで寒さを我慢して帰った。

そうして次の日、わたしは興味があったけど難しそうだと敬遠していた小説を一冊買った。

それでわかったことは、それまで自分が手にしていたものは人の富だったということだった。

もらったり盗んだりしたものは、限りなく自分の富ではなかったのだ。

読んだ小説は期待を圧倒的に裏切るつまらなさだった。

だけど、それが悔しくてわたしは何度もその小説を読み返した。

やっぱり最後まで好きにはなれなかったが、わたしにとっては最も大切な小説になった。

お金で何でも解決できるという人がいる。わたしもそう思う。

だけど、それが自分お金でないのなら、それで得たもの幸せにはなれないと思う。

ズルをして富を手に入れようとする人がいる。わたしはそれでもいいと思う。

だけど、それは自分の富ではないからわたしは欲しいとは思わない。

笑顔幸せになれるという人がいる。わたしもそういう人のほうが好きだ。

だけど、わたしの知らないところでその人が泣いてると思うと、そんな笑顔は欲しくない。

だれもがありのままでいたいというのに、ありのままで得られるものを物足りないというのはエゴだ。

誰と比べるのでもなく自分価値と正直に向かい合って得たものこそがかけがえのない本物の富であり、その富でなければ自分幸せにしてくれることはできないのだと思う。

多分、上手く言えないけど幸せとはそういうものだ。

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