中学生の部
最優秀作 内閣総理大臣賞
両親にもらった交通安全
私には、思い出深い一着の「上着」があります。それは、私が小学校二年生のとき、父が誕生日のプレゼントとして買ってくれた物です。色が明るいピンクで、とても目立つ物でした。私は今でもそうですが、幼ない頃から青色や緑色の服が好きで赤色やピンク色の物はあまり好きではありませんでした。だからこの上着をもらったときも、あまりうれしくなかったことを覚えています。しかし、この上着をもらってからは、夜、家族で食事や買い物に出掛けるときには必ず父が、「あの上着を着て行きなさい。」と言って、着せられました。いつもなら、「真希が嫌がっているから、やめてあげて下さい。」と助け船を出してくれる母も、この「上着」にだけは、全く口出ししませんでした。実は、この上着には父と母が私を交通事故から守るために、意識的に着せた物でした。その上着は夜でも大変目立つ物で、道路でも駐車場でも、人目に付きやすい物でした。
私は三人姉妹の一番上で、このとき、妹たちはそれぞれ五歳と二歳でした。出掛けるときには、下の妹は母が抱き、上の妹は父が手を引いていて、私は一人でちょろちょろしていたそうです。私には記憶がないのですが、一度スーパーの駐車場で車にはねられそうになったことがあって、父と母が私に夜でも目立つ服装をさせようと、あの上着を買ってくれたそうです。自動車を運転する人から見れば、子供は小さいので発見しにくいそうです。まして、夜、黒っぽい服装をしていると真近になるまで見つけることが難しいそうです。私も車の助手席に乗っていて、夜黒い人影が突然見えてびっくりしたことがあります。しかし、明るい服装や蛍光のシールなどを身に付けている人は遠くからでもよく認識できます。
あの上着は私には小さすぎて着れませんが、今でも私は夜出掛けるときには、必ず明るい服装で出掛けるようにしています。父と母が私に教えてくれた大切な交通安全の習慣です。言葉で、「自動車に気を付けなさい」とか、「道路に飛び出さない」と教えることも大切ですが、普段の生活の中でごく自然に身に付けられた交通安全の意識は、もっと尊いものだと思います。「上着」の他にも、我が家の交通安全の方法はいくつかあります。車から降りるときは、まず父、母が降りて安全を確認してから私たちが降ります。長距離の走行になるときは予め休憩する時間、場所などを必ず決めておきます。
私の大切なあの「上着」は、上の妹を経て、今は下の妹の物となっています。かなり古ぼけてしまいましたが、今でも、夜出掛けるとき父は必ず、「あの上着を着て来なさい。」と、下の妹に声をかけます。妹はふくれっ面でしぶしぶ着替えに行きます。その後ろ姿を見送りながら、私は心の中で妹に、「あなたもいつかお父さん、お母さんの優しさがわかるときが来るから」と語りかけています。
優秀作 内閣府特命担当大臣賞
祖母の死から学んだこと
私の家に祖母はいない。母がまだ二十歳の時に交通事故でこの世を去ったのだ。母から初めてこのことを聞いた時、私はすごく驚いた。なぜ? どうして? ショックに似た怒りがふつふつとこみ上げ、母に事故の原因を詳しく聞いてみた。すると、若い青年がタバコに火をつけようとして脇見をし、横断中の祖母に気付くのが遅れたのだと言う。私は写真の中の祖母の笑顔を見て、涙があふれた。
交通事故は、一瞬のうちに、その家族さえも不幸に陥れる。幸せな家庭から光を奪ってしまうのだ。母も祖母の死によって、絶望のどん底に突き落とされた。私は、今まで他人事だと思っていた「交通事故」という言葉の重さを感じていた。
そんなある日、買い物の帰り道、横断歩道を渡ろうとした私の横に、一人のおばあちゃんが並んだ。おばあちゃんは、足が少し不自由な上に、重そうな荷物を抱えている。ちょっと気になったが、私はお構いなく先に横断歩道を渡った。
そして、何気なく振り返った私の目に飛び込んできたのは、荷物を抱えたまま横断歩道の真ん中で立ち往生しているおばあちゃんの姿だった。迷惑そうに、おばあちゃんを避けていく車、けたたましくなるクラクション…。「危ない!」とっさに、私は駆け出していた。おばあちゃんのそばへ行き、荷物を持ち、こう声をかけた。
「おばあちゃん、一緒に渡ろう。危ないからね。」
そう言って、おばあちゃんの手を取った。おばあちゃんは、ちょっととまどっていたが、素直に私に従ってくれた。やっとのことで横断歩道を渡り切ると、ほっとして、力が抜けた。おばあちゃんは、顔をくしゃくしゃにして、私に向かって手を合わせ、
「ありがと、ありがと。」
と、何度もお礼を言った。
「よかった…」心からそう思った。おばあちゃんの肩ごしに亡くなった祖母の笑顔が見えたような気がした。祖母が私に、「交通事故からこのおばあちゃんを守る勇気を与えてくれたのかもしれない」と思った。
毎日のように、新聞やテレビのニュースをにぎわせている交通事故。そのほとんどが、“もっと気を付けていたなら…”と、思うものばかりである。“ちゃんとルールを守っていたなら…。もう少し、ゆとりを持っていれば…”まさに、「後悔、先に立たず」である。交通安全―この言葉のもつ深い意味をどれだけの人が認識しているだろう。祖母のような悲しい目にあう人が一人でも減るよう、社会の中で自分にできることを見つけ、すすんで実践していこうと、今強く思っている。
五十年前の出来事
この夏、私の祖父は体調を崩し入院しました。お見舞いに行くと、祖父はポツンと、
「もう五十年になるなあ。」
と、つぶやきました。何の事か尋ねると、祖父の父親、つまり私の曾祖父が亡くなって今年で五十年になるというのです。曾祖父の死因はひき逃げでした。曾祖父はその日、いつものように仕事からバイクで帰宅途中、トラックと衝突。即死だったそうです。犯人は結局見つかりませんでした。事故原因は不明にしろ、人の命が失われた事故に関係しながら、犯人は何一つ誠意を見せずに逃げたのです。残された祖父達はどんなにつらかったでしょう。当時祖父は大学生で、一番下の弟はまだ小学生でした。曾祖父の死が、その後の家族の運命を大きく変えたことは想像に難くありません。そして、祖父達は犯人を生涯許すことなく生きてきたのだと思います。
交通事故でも、人の命を奪えば、それは被害者にとっては殺人です。ただ普通の犯罪と違って、それは加害者にとっても残酷な現実といえます。なぜなら交通事故は、事故の一秒前まで加害者にも悪意や殺意がないからです。そこにあったのは、ほんの少しの不注意や油断。でも、その一瞬の気の緩みが、一秒後には加害者と被害者を作り、周りの人達の人生も狂わすのです。もちろん、最近では不注意ではすまない悪質な飲酒事故も多く、加害者に厳しい判決が出ています。でも、その影で膨大な数の交通事故が起き、裁判になっていることを私達は認識すべきだと思います。
私は母が法廷通訳をしているので、よく母の裁判を傍聴に行きます。以前、時間より早く裁判所についた時、母の担当する裁判の前にあった交通事故の裁判の判決の言い渡しを傍聴したことがありました。判決は加害者の女性が反省していること、子供がいて養育の必要があることが考慮され、実刑にはなりませんでした。
でも、私は今でもその女性の姿が忘れられません。警察官の横で被告人席に座るその姿は、ドラマ等で見る殺人事件の犯人のようでした。ほんの一瞬の気の緩みが加害者の運命も大きく変えていたのです。たとえ曾祖父の事故のように、時効を迎えたとしても、犯人は犯した罪を一生背負って生きたと思います。
私達は幼い頃から交通ルールを学び、その中で生活しています。そして、あまりに交通ルールが身近であるために、それが純然たる法律であり、違反すれば逮捕され裁判になりうることを忘れています。そして「少し位大丈夫」という甘さの積み重ねが交通事故を生み出しているのだと思います。事故を起こしてからでは遅いのです。誰も交通事故の被害者にも加害者にもなってはいけません。そのためには、交通事故がもたらす悲劇をより深く理解し、胸に刻もうと思います。五十年前に亡くなった曾祖父のためにも。
我が家の車中は交通安全教室
我が家で主に車を運転するのは母だ。私には弟と妹がいるが、三人ともそれぞれの習い事に通うときには、母に送迎してもらっている。片道十分のときもあれば三十分のときもある。ただ、どんなに短い時間であっても、必ず交通マナーや安全運転についての話が車の中で出る。というのも、母はマナーの悪いドライバーに出会うと非常に激しく怒るので、それがきっかけで交通ルールの話になってしまうのだ。ミラーを見る習慣をつけること、一時停止や優先道路についてなど、その時々の状況にあわせて、どうするべきかという事をいろいろと説明をしてくれる。「人の振り見て我が振り直せ」、ということなのだろう。また、マナーについてもうるさい。お互いに譲り合って気持ちよく運転することが安全運転につながるのだから、あなたたちが自分で運転するようになったら、譲られたときは必ずあいさつをして礼儀を示しなさい、と念を押すように繰り返し言う。母はまた、歩行者として注意するべき点についても話をしてくれる。歩行者用信号機が点滅した時のルールやドライバーの視点から危ないと感じることなどについて教えてくれる。黒っぽい服が夜や雨の日には見えにくいことは小学校のとき、交通安全教室で習ったので頭ではわかっていたが、「ほら、見てごらん。向こうに歩いている人は見えにくいでしょ。」と、実際に意識して観察するように促される。おかげで私は、夜でも車はライトを照らしているのだから、こちらのことは絶対に見えているはずと思っていたが、そうではないことを知った。このように、我が家では、車に乗っている時は、いつも交通安全教室になっているのである。
車に乗っている時以外でも、事故を起こすとどうなるかというような事は、普段から家族で頻繁に話をする。人身事故は、被害者になっても加害者になっても、家族を含めてその後の人生を大きく変えてしまう。物損事故でも、何かを壊したらそれを直すために、やはり多額のお金がかかる。今年、家族旅行で北海道へ行った時、偶然、車が電柱につっこんで信号機が落ちている現場に遭遇した。このときは自動車保険について家族全員で話をしたが、事故を起こした人は怪我はしていないようだったが、その後の生活に大きな負担を負うことになるのだろうと思った。
命と生活を守るために、交通安全を心がけることは重要だ。そのためにはルールをしっかり知ることはもちろんだが、自分だけは絶対に事故に遭わないと思わず、普段から危険に対しての意識を持つことが欠かせない。知っているだけではダメなのだ。知識を意識に変えて自分の行動に結び付けなければ意味がないからだ。
だから私は、通学の時も自転車に乗る時も、いつも家族と話していることを意識するようにしている。
佳作 内閣府政策統括官賞
母が教えてくれたこと
僕は、休日に時々、父と弟とでサイクリングへ出かける。母は、「連れていって。」と言うが、僕達は断わる。それは、前に母を連れて行った時に、「危ない!」「左右確認!」などと、散々しかられて何だか、いやな気分にさせられて、一緒に行くのは二度とごめんだと思ったからだ。
母は、交通安全にはなかなかうるさい。僕がちゃんと左右を確認して道路を渡ろうとしているのに、そばの母は、手を挙げて渡っているのだ。僕はそれを見て、(やり過ぎだなあ。恥ずかしいよ)と思う。後で、「なんで手を挙げるの。」と聞いてみた。母は、「百パーセント相手の不注意での事故で、どんなに自分のせいでなくたって、それで自分が死んでしまったら、つまらないでしょ。だから、相手に気付いてもらうために手を挙げるんだよ。ぼーっとしているドライバーの車が、走ってくるかもしれないんだから。」と、すまして言った。
母が言いたいのは、ドライバーに、自分がどういう行動をとろうとしているか、知らせる事が大事だということなのだろう。それでも、僕は中学生だし、手を挙げて横断するのは幼稚園生みたいで、やっぱりいやだ。だけど、飛び出しだけは絶対にしないと決めている。
母は、こんなこともする。運転中、ハンドルを握る両手の人差し指を、時々ピンと立ててチカチカ左右に動かすのだ。幼い頃の僕はそうやることは普通だと思っていたが、ある時なぜやっているのか聞いてみた。母は、「これは指差し確認といって、信号が赤になったとか、横断歩道に人がいるとかをチェックしてるんだよ。」と言った。やっぱり母は変だ。誰もやっていないじゃないか。
それでも、手を挙げて道を渡るのも、運転しながら指差し確認をするのも、母なりの交通安全の工夫なのだろう。でも、僕がもっと気にしてほしいのは、運転中、僕たち兄弟が後ろの席で騒いでいても、カッカして怒鳴らないでほしいということだ。最も、僕達も反省すべき点があるかもしれないが。
家族と車で遠出する途中、たまに道路脇に花が生けてあるのを目にする。僕は、事故があったんだなと思って、心で手を合わせる。どうして、こんな所で人が死んだのだろうという所もある。思いも寄らないことで、死ぬことがあるのが交通事故なんだなと思った。
僕も、ひやっとさせられたことがあった。直線道路を自転車で走っていたら、横道から突然車が飛び出してきて、急ブレーキを踏まれた。とても怖かった。それからは、その場所を通る時は、スピードを落としている。
どんなに注意していても、避けられない事故はあるだろう。でも、交通ルールを守り、多くのことに気を配れば、失われなかった命もたくさんあったと思う。もしかしたら、僕が今、生きているのも、交通安全にうるさい母のおかげかもしれない。
自転車だって運転免許を
私の父はゴールド免許を持っている安全ドライバーです。そんな父の口ぐせは、
「自転車にも運転免許をとらせるべきだ。」
です。父に言わせると、一番交通ルールを守らないのは、自転車だそうです。自転車は、平気で右側通行する。携帯電話でメールを見ながら運転をする。信号は守らない。夜、電気をつけないで走るなど車を運転している時にとても危ないそうです。私は、本当にそんなに自転車がルールを守らないで走っているのか確かめるために、父に車に乗せてもらうことにしました。
家のすぐ近くの交差点から大通りに出ようとする時でした。右側の歩道の真ん中をすごいスピードで走ってくる自転車がありました。私は、自転車にも制限速度があってもいいのではないかと思いました。
しばらく走っていると、歩道がない道路をおじいさんが自転車に乗ってゆっくり走っていました。父は、対向車が来なくなるまでゆっくり走り、自転車のおじいさんをぬかないで走りました。そして対向車が来ないのを確認して、おじいさんからずいぶん離れて、おじいさんの自転車を抜きました。
「お父さん、なぜそんなに離れて走るの。」
と聞いてみると、父は、
「お年よりは、突然道路の真ん中に出てきたりするから、注意しないと危ないんだ。」
と言いました。すると今度は、自転車の前のカゴに赤ちゃんを乗せ、後ろには男の子を乗せて三人乗りをしているお母さんがいました。私はびっくりしてしまいました。転んだら赤ちゃんはどうなるんだろうと、私はすごく心配になりました。お母さんは子供のお手本となって、交通ルールをしっかりと子供に教えてあげてほしいと思いました。
私達は、駅前の商店街まで来ました。父が急にのろのろ走り始めたのでどうしたのかなと不思議に思っていたら父が、
「このあたりが一番危ないんだ。」
と、教えてくれました。すると突然、私達の前を高校生ぐらいのお兄さんが乗った自転車が横切りました。
「危ない。」
私は思わず叫んでしまいました。父がゆっくり走っていたため、自転車は何事もなく前を通りすぎていっただけでした。よく見ると自転車が出てきた所には、止まれの標識がありました。自転車を利用する人は、最低限のルールを守るという意識を持つべきです。交通ルールを守るのは車だけではありません。
「自転車にも運転免許を」
自転車、歩行者、車がともに普段からお互いを意識し、それぞれがルールを守りながら共有し、生活していくことはとても重要なことだと思いました。
目や耳を使って交通安全
「聞こえる耳を使って、もっと目を働かせて、車や自転車に気をつけなさい。」
と、小さいころから母に言われてきました。
私は耳に障害を持っています。左耳しか聞こえないのです。
私は今年四月、中学生になりました。そして、初めて携帯電話を買ってもらいました。携帯電話を使い始めてから五ケ月ぐらいたちました。買ってもらったころから続けてやっていることがあります。それは、
『メールの返事をする時や話をする時には、動いているのをやめて止まってからやったり、まわりの様子を見て、場所や時間をずらしてやったりすること』
です。
友達や他の人が、携帯電話を歩きながら使っているのを見ることがよくあります。そんな時、車が来た事に気づかなかったり、人にぶつかりそうになって危ないと思ったことが何度もありました。
私は姉が音楽を聞きながら歩いているのを見て、私もしてみたいと思ったことがありました。その時、母はこう言いました。
「聞こえる人でも、注意力がなくなるのよ。あなたがやったらもっと危ない。」
本当は、他の人達のように、音楽を聞きながら歩きたい、カッコ良く携帯を歩きながら使いたい、という気持ちもありました。でも、母に言われて、やめました。
先日、自転車に乗りながらヘッドホンで音楽を聞き、携帯でメールをみている人が、車にぶつかりそうになる所を見ました。その人は、赤信号だったのに信号無視をしてルールをやぶり、しかも目も耳もきちんと働かせていなかったからだと思いました。
いくら車を運転している人や歩いている人が気をつけていても、事故を避ける事が難しい時があると思いました。
私は、これからも自分の安全だけではなく、目や耳を使って事故を起こす側にならないようにしたいです。
心のシートベルト
我が家では、いつも母が運転手です。近くのスーパーへの買い物から、夏場はキャンプ等のレジャー、あるいは、僕と妹はラグビーをやっているので、その試合会場への送迎等、いつも僕らを車に乗せて連れて行ってくれます。
母は、車の運転をし始める時、必ず「出発!」と、かけ声をかけます。すると、僕らは決まって、「進行!」と、応えます。僕は、『ちょっと、はずかしいなあ』と、思った時もありましたが、今でもずっと続いています。
実は、この「出発!」の、かけ声もすぐにかかるものでは無いのです。僕らが、それぞれ決まった席にきちんと座り、シートベルトを締めた事が確認できないうちはダメなのです。妹はいつも、「お尻をもっと奥につけて座りなさい。」と、注意されます。そして、それらが全て確認されて、初めて例のかけ声がかかるのです。僕は、あのかけ声が、安全のための『心のシートベルト』なのだと、最近ようやく解りました。
しかし、街中を車で走っていると、僕には信じられないような光景を目にする事があります。それは、幼稚園に通うか通わないかくらいの小さな子供が、後部座席で立ったり、座ったり、時には、運転席と助手席のシートの間に、身を乗り出して遊んでいるのです。すごく危険だと思いました。そしてまた、残念な事に、これは、かなりの頻度で見かけられるのです。
チャイルドシートの着用が義務付けられてから、何年経っているのでしょうか。大切な子供を守るチャイルドシートにも色々な種類があるそうです。僕の生まれた頃と比べて今は、赤ちゃん(新生児)を寝かせた状態で乗せられる物や、ベビーキャリーやベビーカーとしても使用できる物があると、母が教えてくれました。
けれども一番大切なのは、安全な位置に正しく取り付ける事だそうです。助手席は危険なので後部席に、さらに、乳児の場合は後ろ向きに取り付ける必要があるとか。常に、安全を考えてのルールがあるのだと解りました。そう言えば、我が家の車は座席が三列あるのですが、妹のシートは二列目に取り付けてありました。
それにしても、僕がただ一つだけどうしても解らないのは、運転する大人の自分だけがシートベルトを着けて、大切な子供には着けさせずにいられるのかという事です。
僕が大人になって、車を運転するようになったら、やはり、自分の大切な家族を守るためにも、きちんとシートベルトをしたいと思います。そして、その時はきっと、僕の車からは、「出発!」、「進行!」の、あのかけ声が聞こえてくることでしょう。
みなさんも、『心のシートベルト』を、かけてみてはいかがですか。
チャイルドシートからシートベルトへ
「あの子達危ないな。」
と、母が言った。家族で車に乗って買い物に出かけた時、前の車の後部座席で、チャイルドシートをせずに後ろを向いている子供がいたからである。以前、後ろの車に追突された経験があるからだ。その時は、そんなに強く追突されていないのに、衝撃がすごくて、体が前にもっていかれた。しかし、シートベルトをしていたので、頭を打たずにすんだ。
「征生、大丈夫か。けがないか。」
と、母がとてもあわてた様子で叫んだ。
「二人とも大丈夫か。」
父が後ろを振り返って言った。父も、母も、私のことを一番に心配してくれた。私は、両親の気持ちがとてもうれしかった。もし、シートベルトをしていなかったら、けがをしていただろう。そうしたら、父と母は、私のことをすごく心配したに違いない。私は、シートベルトをしていて良かったと改めて思った。そして、シートベルトをすることを教えてくれた両親の私に対する温かい愛情を感じた。母は、事故はいつ起こるかわからないので、前の車に乗っている子供達のことを心配したのだ。
そんな母のおかげで、私は車に乗ると、シートベルトをするのがあたり前だと思っている。それは、赤ちゃんの時は、チャイルドシートを、幼稚園のころはカーシートを(高さ調整のため)、そして、今は、シートベルトというふうに、小さいころから使っているからだ。今では、シートベルトをしていないとあわてて、
「シートベルト、まだ。」
と言って、車の発進を待ってもらうほどになっている。「三つ子の魂百まで」ということわざがある。幼い時のしつけ・性質は、大人になっても変わらないということだ。だから、小さいころから、「車に乗ったらチャイルドシート」の習慣をつければ、大人になっても違和感なくシートベルトをすることができるのではないだろうか。「車に乗ったらシートベルト」の習慣がつくのだ。
法律で決められているのに、守らない人が多いと聞く。取り締まりがあるからするのではなく、理解して実行しなければいけない。大人は、チャイルドシートやシートベルトの大切さを認識するとともに、面倒でも子供にそれを伝え、教えていくことが本当の愛情ではないだろうか。
我が家の交通安全
私は物心ついたころから、母の運転する車に乗せられ、助手席で四六時中母の小言を聞かされてきた。とにかくうるさい。母の口ぐせは、
「あんまりや! マナーがなってない!」
である。車のマナーはもちろんのこと、自転車や歩行者にいたるまで、厳しいことこの上ない。そして、私に向かって『運転者側から見た歩行者やチャリンコ族がどんなに危険か』を延々と説き始めるのだ。
幼いころの私は、「またか…うるさいなあ、もう」としか思えなかったが、最近はもっともだと思うようになった。歩いたり自転車に乗ったりしている自分は、確かに自分側でしか物事をとらえることができていないからだ。ついつい友達とのおしゃべりに夢中になって、道に広がってしまったりして、車に気付くのが遅れたりしてしまう。
車に乗っていると、特に学生は私と同じようにおしゃべりしながら、車にはおかまいなしというような光景があまりにも多いことに気付かされる。母は、それ見たことか、というように私に向かって、
「こうやって車に乗る側から見たら、どれだけ危ないかよくわかるやろ? 歩いたり自転車に乗るときは、絶対に気を付けてよ。お母さんも運転する以上は責任を持っとるんよ。」
と言いながら、ふらふらと歩いている人を注意深くよけながら苦笑した。
私は私で、スピードを出しすぎたり、急に曲がったりするドライバーに腹を立てていた。
「お母さん、マナーの悪い車もいっぱいおって、何回もぶつかりそうになったこともあるよ。それはお互い様やろ?」
と切り返した。暴走するバイクもよく見かける。歩行者やチャリンコ族にだって言い分はあるのだ。
我が家では車で出かけるたびに、こんなやりとりを交わしている。交通マナーを守るということは、決して自分さえ良ければいい、と思っていてはできないことだと思う。私と母のように、まったく逆の立場の者同士が話し合ってみると、それがよくわかる。当たり前のことだけど、相手の立場を思いやりながらお互いが気を付けていれば、交通事故ももっと減ると思う。
もう一つ言わせてもらえば、「道路は車だけのものじゃない」と、歩行者の私は思う。小さな子どもやお年寄り、野良犬や野良猫だってたくさん通るのだから。大きくてスピードの出る車のドライバーは、そのことを忘れないで運転してほしい。私の意見に母も大納得のようだった。
母と私のこんなやりとりは、今後もずっと続くだろう。最近私はだんだん理解できるようになったし、ちょっぴり気に入っている。
自分たちにできること
我が家のある日の車の中、助手席の母、「前の車、止まりそう。」「信号赤ね。」「車間車間。」等々。後部座席の姉と私、時々、「あー、今スピード何キロ?」父、「はいはい。」「分かってるよ。」「ちょっとうるさいよ。」必ずこんな会話が繰り返されます。
家で運転できるのは、父一人です。だから長時間のドライブも運転者は一人。でも、周りの様子を気にする家族の目があります。後部座席の私たちは寝てしまうこともあるけれど、助手席の母はいつも起きています。寝ないと決めているそうです。「眠い?」「大丈夫?」「少し休む?」「歌をうたってあげようか?」父からすると少しうるさいかもしれませんが、家族で互いに協力しながら交通事故を防ぎ、交通ルールを守っています。
また家や、友達同士で話してる中で、交通の話題もよくでます。「いきなり、無灯火の自転車が向こうから来てびっくりした。」「自転車に乗りながら、ちょっと考え事していたら目の前に電信柱がせまっててヒヤッとした。」「斜め渡りする自転車があった。」など聞いていて、「あっ、自分もやっている事あるかも。」とか、「気をつけなくちゃ。」など記憶に残るので、お互いに話してみるのもいい事だと思います。
それから、歩行中や自転車、車に乗っている時など、それぞれの場面で、もっとこうしてほしいと思ったら、自分がそこを気を付け、各々の立場になって考えてみることが必要だと思います。
また、車が止まってくれたり、譲ってくれたら、当たり前の事と思わず感謝の気持ちを表すことが大切だと感じます。
そして何より、本当に簡単な単純な事ができれば、交通事故は防げます。「信号無視をしない」、「飲酒運転をしない」、「速度制限を守る」、「シートベルトをする」、「ヘルメットをかぶる」、「前をよく見る」、「二人乗りをしない」など。自分の命を守るために、交通ルールを守れば、たくさんの人の命も守れるのです。歩行中、自転車、バイク、車。それぞれ立場は違っても、どんな時もいっしょです。「みんながやっているからやってしまえ」、「自分一人ぐらい大丈夫」、それは危険のはじまりです。「まず自分だけでも守ろう。気を付けよう」、そういう気持ちで行動していきたいです。
家族で語る交通安全
僕が交通事故を初めて経験したのは、小学校二年生になった春だった。安城のショッピングセンターからの帰り道、田んぼ道から突然飛び出してきた車に左側面を衝突され、その衝撃で車が九十度回転し歩道に乗り上げ電柱に激突した。運転していた母は胸部打撲、父は頭部をハンドルで打撲し唇に裂傷、僕は後部座席で三、四回転がり頭部に打撲、という状況だった。救急車に乗っている時も意識はしっかりしていたが、その時の事故は今思い出しても背筋がゾクッとする。幸い三人とも大事にならなかったので運が良かった。加害者は若い女性で、一担停止後発進時に左右の確認を怠ったことが原因で発生した事故だった。
我が家には、祖父、父、母、兄と四人の運転免許所持者がいるので、交通事故についてはよく話題になる。
特に地元で発生した事故については、「どんな事故で? 場所は? 被害状況は? 原因は?」など、ニュースを入手した者が詳細に報告するようにしている。また近隣の道路事情、交通事情についても、「あの通りは不法駐車が多くて飛び出しがありそうだ。」「あの川沿いは草が高く茂り、見通しが悪い。」「あの道は工事中の片側通行で路面も悪く渋滞している。」「あの橋は坂の上り下りが急で、前方の視界が悪い。」などの情報を交換し合うことによって、安全な道路を通るように心掛けている。そして二人以上で同乗した時には、助手席に乗った者が、「ブレーキが遅い。」「スピード出し過ぎ。」「もっと車間距離をとって。」「ここは徐行するように。」など、お互いに注意し合うようにしている。運転者は言われた時はうるさく思うが、知らないうちに悪いところが改善されていくようだ。
こんな風に我が家は話し合いと情報交換などによって、交通事故防止の対策としている。そのせいか最近七年間は全く事故もないので、効果が出ているのではないだろうか。
また、僕は家の者と出かける時は必ず助手席に乗る。その時は僕自身運転者になったつもりでいる。すると運転者から見た歩行者とか自転車利用者の危険な動きがよくわかる。自転車の並列走行、子供、老人の予想できない動き、横断歩道の無謀な渡り方、などである。このように運転者の立場で考えると、僕達は運転者に対し、少しでも気遣いができ、運転負担も軽くしてあげることもできるのだと思った。
とにかく現代社会において、車の利便性は不可欠なものである。反面、交通事故も避けられないものとなっている。そんないまわしい交通事故を少しでも減少させる為、運転者も歩行者もそれぞれが譲り合いの気持ちを常に忘れず、交通安全に対する意識づけをしていくことが重要だと思う。そして誰もが忘れてはいけない。車が運んでいるのは何よりも大切な命だということを。