G伝説スカウトの伊藤菊雄氏、79歳で死去 桑田獲得の立役者

2015年8月19日6時0分  スポーツ報知

 巨人のスカウトとして西本聖、駒田徳広、吉村禎章、川相昌弘、そして桑田真澄らを獲得、辣腕(らつわん)として球界に名をはせた伊藤菊雄(いとう・きくお)氏が15日午前8時8分、心不全のため名古屋市内の病院で死去した。79歳だった。通夜、告別式はすでに家族葬で済ませた。喪主は妻・道恵(みちえ)さん。1961年に巨人入り。“スカウト部のエース”として活動し、99年まで常勝・巨人の土台作りに尽力した。

 巨人軍の関係者によると、伊藤さんは5、6年前から体調を崩していた。何度も視察に訪れた夏の甲子園大会のさなか、静かに息を引き取った。

 伊藤さんは1935年10月24日、愛媛県西条市生まれ。西条南高では外野手で活躍し、近大進学後はマネジャーに転向。卒業後は近大職員となり、コーチ、助監督を務めた。

 巨人のスカウトに転身したのは61年。川上哲治監督の1年目だった。近大コーチ時代には将来性のある選手をチェックし、勧誘する「スカウト業」をしていたが、眼力に大阪読売の運動部記者が目を付け、入団を勧めた。

 獲得第1号は61年夏、関大を2年で中退させて獲った村瀬広基投手。当時はドラフト導入前で、自由競争の時代だった。伊藤さんは重い球質のシュートにほれこみ、シーズン途中に契約へこぎつけた。その秋、村瀬は中日とデッドヒートを演じていた巨人の救世主となり、5勝を挙げ、川上巨人初Vの原動力となった。

 関西、四国を中心に活動し、淡口憲治、河埜和正、小林繁、西本、吉村、村田真一、水野雄仁らを獲得。また、プロ拒否を打ち出していた天理・鈴木康友内野手を翻意させ、巨人に導くなど手腕を発揮。川上監督をして「この男に任せておいたら間違いない―という安心感がある」と言わしめた。

 85年ドラフトでは、早大進学を表明していたPL学園・桑田真澄を果敢に1位指名。他球団から「密約だ」などの声が上がる中、当時の西武・根本陸夫氏、中日・田村和夫スカウトが述べた「巨人はよく調べている」「やられました」という談話に「(両氏に)感服した」と素直な気持ちを吐露したこともあった。

 川上監督の「足を使って、自分の目に自信を持つように」との心得を忠実に守り、最低3度は選手を見て、確信が持てないとリストに挙げなかった。87~95年はスカウト部長を務め、90年にはプロ野球コンベンションで「スタッフ部門賞」を受賞。99年に退団し、03年からは阪神スカウトに転身。04年5月に健康上の理由から退いていた。

 「菊さん」の愛称で知られ、常勝ジャイアンツの礎を作った功労者が、天国に旅立った。

 巨人・原辰徳監督「直接の担当ではなかったが、我々の世代の代表的な巨人のスカウトだよね。よくキャンプにも来ていて、関西弁で元気よく話していて、すごく頼りがいのある先輩という印象だった」

 巨人・川相昌弘ヘッドコーチ「高校(岡山南)時代は学校や家にも来てくれていた。最初から『プロでは野手をやってもらう』と言われていた。(野手としての)力を見抜いて、犠打の世界記録まで作らせてもらった。すごい眼力だったよね」

 水野雄仁氏「ここ何年もお会いしていなかったので、ショックです。僕は『大学進学。でも巨人の指名ならプロに行く』と話していたんですが、実際に指名していただき、本当にお世話になりました」

 末次利光氏(元巨人スカウト部長)「スカウト部長を菊さんから引き継ぎました。スカウト業の何たるかを教えていただいた。仕事に哲学を持っている方でしたが、それは今の巨人スカウト陣にも生きていると思います」

訃報・おくやみ
  • 楽天SocialNewsに投稿!
ニュース 順位表スコア速報
矢口亨のG-Photobook 矢口亨のG-Photobook 矢口亨のG-Photobook 矢口亨のG-Photobook
報知ブログ(最新更新分)一覧へ
今日のスポーツ報知(東京版)