研究者が自らの研究人生を語るとき,成功に向かう栄光の過程が綴られることは多くても,失敗へと向かう破滅の過程が綴られることはきわめて少ない。本書はそれが世間を揺るがした大スキャンダルについての手記ということもあり,発行が報じられた瞬間に大きな話題となった。印税に貢献するのが嫌だから買わないとか潔癖な意見が多く聞かれる中,私はこの報道を見てすぐに買おうと思った。発覚以来,公の場では決定に対する不服めいたことしか発表していないように思われる小保方さんが事件の「真相」を語る,という触れ込みはもちろん興味を惹くものであったし,それに私自身が博士論文の総仕上げ段階である今読めば,何らかの形で他山の石となるのではないかとも思ったからだ。紙の書籍と同時に電子書籍でも発売されたのは幸いだった。ハードカバーだったら,わざわざ買わなかったかもしれない。
たとえばこちらの記事*1にも書かれてある通り,本書に関しては「言い訳本」との評価が圧倒的多数であるように思われる。そして,そのような印象を与えるのは無理からぬことだろうと思う。特に後半,事件発覚後についての箇所では,「理研は私を守ってくれなかった」というような記述が散見されるし,件の論文に関しても,「若山先生が強引に推し進めた結果,途中からは私が思い描いていた研究ではなくなっていた」との主張であった。
敢えて言えば,小保方さんに限らず,こういう研究者は少なくない。さすがに不正をはたらいたりはしなくても,たとえば研究を発表する時など,「まだまだ勉強が足りないのは重々承知しておりますが」とか「分析が甘い面も多々あると思いますが」とか,やたらと言い訳がましい人というのは大勢いる。これはまったくもって「謙遜」ではない。要はメンタルが弱いから,批判される前に過剰に防衛しているのだ。私はこういうのが本当に嫌いである。まず,当たり前だが,自信がないなら発表するなよ,と思う。不足があろうが何があろうが,誠実に研究していれば,たとえ批判されたとしてもそれに反論するなり真摯に受け止めるなりできるはずで(しなければならないはずで),それができないなら誠実さが足りないのだ。なにより,貴重な時間を割いて発表を聞いてくれるオーディエンスに失礼だろう。
さらに,これは小保方さんの主張に対して一番強く思ったことでもあるのだが,自分の研究くらい自分で守れよ,と思う。基本的に研究成果が一人だけのものである文系と異なり,理系は共同研究が基本だから,なるほど彼女の言う通り,研究を続けるうちに様々な思惑が交錯して自分の当初の理想とはかけ離れていくということは,ありうることだろう。しかし,そうであっても,自分も(それも一応主体的に)関わった研究であるのなら,きちんと最後まで責任を持って守るべきだ。あれは私がやりたくてやったわけじゃないもん,などという言い分が通用するわけもないことは自明だろう。特に小保方さんはこの著書の中で,理研の検証実験において,少なくとも彼女の定義によるSTAP現象は確認されていたとしている。だったらなおさら,それをきちんと説明すべきではないのだろうか。本意ではない研究をさせられたから,所属する組織が自分を守ってくれなかったから,など,お門違いも甚だしい。自分も自分の研究も,自分で守らなくてどうするのか。
ただ,平気でこのような発言をする人物が育ってしまう原因は,研究者の特殊な世界にもあるのではないかと思う。一般的な社会では30代ともなれば責任のある立場になっていることが多いだろうが,研究者の世界では30代,それも30代前半など,まだまだ新人であることが珍しくない。加えて,これを言ったら元も子もないが,「小保方系女子」は,割とよくいる印象である。まだ比較的男社会である研究者の世界において,女子院生や女性研究者は「女の子」として扱われることが多い。おそらくたいていの女性研究者に覚えがあるのではないか。私にはしっかり覚えがある。しかし,大半の女性はそれを逆手にとって自分の成長につなげるが,うまくいかない時にすぐ泣いてみたりなど,「女を売る」方向につなげてしまう女性研究者もまた存在することは事実である。小保方さんも,彼女が女性だからという理由でちやほやされていたことは明らかだろう。それ自体,別に悪いことではないと私は思う。目標を達成するために利用できるものをすべて利用するのは,特に責められるべきことではない。しかしそれが,本当に若くて本当に無知なうちだけの期間限定の特権なのだということには,早めに気づくべきだろうし,小保方さんもまた,気づくべきだっただろう。特に彼女の場合は,たとえそれが彼女の本意ではないとしても,最初の報道はかなり「女性として」の姿が強調されたものであった。私は当初,小保方さんは便宜的にこうした形での取材を受けているのだと思っていたが,*2おそらくは工まずして,彼女はこういう方なのだろうと思う。推察に過ぎないが,悪意を持って一連の不正をはたらいたわけではないというのは,おそらく事実なのではないか。彼女にしてみれば,これまで通り(杜撰に)研究をしていたらそれが思わぬ注目を集め,そしてその結果いろいろなことが明らかになり,しかしその時誰も守ってくれなかったことにショックを受けた,というのが嘘偽りない本心なのではなかろうかと思う。「はしごは外された」と感じるのは,過度に被害者面をしているわけではなくて,「当然のように庇護されるはずと思っていたらそれがなかった」という意味において本音なのではないか。だとしたら,当然庇護されるべきと考える彼女がもちろん未熟である一方で,そのような思考回路を育てた環境にも問題はあるのではないかと思う。
つまり何が言いたいかというと,彼女だけを絶対悪と決めつけるのもまた違うのではないかということである。上に書いたこととは矛盾するようだが,やはり共同研究者である若山教授が手のひらを返したというのは,彼女にとって衝撃的なことだっただろう。理系の研究にはまったく明るくないが,純粋な疑問として,これだけ多くの人が共著に名を連ねる論文において,彼女ひとりに不正を帰責するのはやはり不自然なのではないだろうか。一連の報道がなされた時にもそう思ったし,やはりそれは今も変わらず疑問である。昨今のベッキーの一件を見ていても思うことだが,共同で責任を負うべき事柄について,誰かひとりを矢面に立たせてスケープゴートにするというのは,やはり見ていて気持ち良いものではない。特に矢面に立つのが女性の場合はなおさらである。小保方さんを擁護するわけではないが,彼女をめぐる人々が保身や隠蔽に走ったというのは,ある程度真実なのではないかと思えてしまう。ああいうことが起こったあとで,たとえば若山教授に指導を請いたいという学生はいるのだろうか。
また,本書の後半では,取材の名のもとに執拗な人格攻撃がなされたということについてかなりの紙幅が割かれている。特に「悪質」だったとされる記者2名については実名で批判されているのだが,確かに当時のメディアの白熱ぶりは,海外から見ていても異様なものがあったと思う。上記の通り,最初の報道の時には「女性研究者」としての小保方さんを持ち上げておきながら,一連の不正について報道がなされた後には,これも女性としての小保方さんを一転して揶揄する形で「乱倫研究室」などと報じるなど,その報道の中には品性を疑うレベルのものもかなりあった。不正があったらしいことは仕方ないにしても,女にサイエンスなど(男性に擦り寄らない限り)所詮無理なのだ,というようなステレオタイプな性差別意識が隠喩されている気もして,大いに不愉快だったことを覚えている。
また,その「悪質」な記者2名のうち,とりわけ悪質だったとされている毎日新聞の記者は女性であった。彼女もまた早稲田の物理学を修士まで出ている方らしいのだが,この事件について本を上梓し,大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したとかで,インタビュー記事が多く出てきた。その中で,以下のような発言が目に留まった。
元村 私が根拠を示しながら「小保方さんは不正な論文を出した段階でいけないことをしたんだ」と言っても、「いやあ、そんなこと言っても小保方さんはかわいいから許してあげたら」とか。不正という事実と、世間の見方とのギャップをすごく感じました。
須田 そうですね。そういう点も私が本を書きたいと思った理由の一つです。私たち取材班が一つ一つ確認し、積み重ねた事実を、読者に一緒にたどってもらいたかった。そうなれば「小保方さんはいじめられている」というような見方はなくなる、私たちと同じ景色を見てもらえるんじゃないかと思いました。*3
この箇所(特に「私たちと同じ景色」という言葉)を読んだとき,直感的にではあるが,この記者は小保方さんのような女が嫌いなんだろうな,と思った。おそらく,この人の周りにも「小保方系女子」がいたのではないか。そしてそういう女がちやほやされ,ちょっとくらい杜撰な研究をしても「かわいいから許されるべき」とされている風潮にずっと歯がゆい思いをしていたのではないか。そういう,いわば私怨のようなものも,知らず知らず「殺意」までも感じさせるような執拗な取材につながったのではないかと,下衆の勘繰りかもしれないが想像をめぐらせざるを得なかった。誤解のないように言うと,私も無論,「小保方系女子」は好きではない。しかし,そういう女がいようといまいと,はっきり言ってどうでもいいことで,あんなふうに完膚なきまでに叩きのめすことが果たして正しかったのか,と言われればわからない。たとえ真実を追究するのがジャーナリズムの仕事なのだとしても。
研究不正をはたらいた経験はもちろんないし,今後もはたらく予定はないのだが(そんな勇気はまるでない),少なくとも私はこれを読んで,無邪気に小保方さん1人を嘲笑する気にはまったくなれなかった。冒頭に書いた通り,この本は成功への過程を描くものではない。しかし前半は彼女の研究者としての歩みに割かれていて,それが成功した研究者の自伝やインタビューとまるで同じ構成であるということが,少しばかり恐ろしくもあった。研究者を志すまでのことや,留学時代のことなど,彼女はどのような思いで綴ったのだろうか。そう考えると切なかった。私は今までの私の歩みを否定するようなことにならないよう,今後もより誠実に仕事をしようと心から思った。