太田昌克(おおた・まさかつ)1968年富山県生まれ。早大政治経済学部卒業、政策研究大学院博士課程修了、博士(政策研究)。92年共同通信入社。広島支局、大阪社会部、高松支局、外信部、政治部、ワシントン特派員を経て2009年から編集委員。06年度ボーン・上田記念国際記者賞、09年平和・協同ジャーナリスト基金賞を受賞。近著に『日米「核密約」の全貌』(筑摩選書)。
本土復帰から40年を迎えた沖縄には1950年代から返還直前まで、米軍の核兵器が大量配備された。冷戦が先鋭化する中、「核の傘」を求める日本政府は本土での核貯蔵を拒む一方、沖縄への核持ち込みを黙認。歴代保守政権が本土の"核基地化"を回避しながら、沖縄への核配備を許容する二重基準を用いた結果だった。日本に「潜在主権」を認めながら、米国の施政権下にあった沖縄。こんな戦後体制の死角を突く格好で既成事実化した沖縄への核持ち込み。地元関係者は今の米軍基地問題にも通じる「差別」を感じ取っている。
61年6月21日、雨のワシントン。ポトマック川に浮かぶ米大統領専用ヨットの上で、池田勇人首相がケネディ大統領にこう言明したことが、米公文書に記されている。
「米国が安全保障上、沖縄で何を必要としているか、自分は十分に理解している。日本に核兵器を持ち込むことには相当の反対がある。だから、沖縄を核兵器のための基地と位置付ける米国の立場を堅持する必要性も、十分に理解している」
52年のサンフランシスコ講和条約発効に伴い日本が独立する中、沖縄については、米国が立法・行政・司法の全権を握り、自国の法令を適用する施政権を獲得。日 60年の日米安保条約改定で、日本への「核持ち込み」は日米間の事前協議対象となったが、米施政権下の沖縄は対象外。米軍文書によると、朝鮮戦争休戦から約1年半後の54年末から55年にかけ、沖縄への核配備が始まり、本土復帰直前まで沖縄はアジア最大の「核弾薬庫」の役割を果たした。
被爆地を抱える広島の選出議員だった池田だが、ケネディへの発言に見られるよう、沖縄への核持ち込みについては"確信犯"だった。
日米の公文書によると、池田はヨット会談の翌々日、ケネディに対し、米国が核実験再開に追い込まれた場合、米側の立場を「了解する」と明言。実際に61年11月、ソ連に追随する形でケネディが核実験再開を決めた時、池田は「日本の首相という立場上、米国の核実験に公に賛同することはできないが、自分の本心としては、大統領はなすべきことをなさねばならないと信じている」と言い切っている。
「核の傘」への信奉心が、経済重視で安保問題では際立った姿勢を示さなかった池田をして、核実験をめぐる対米支持と、沖縄への核配備黙認に向かわせたとみられる。
60年代初頭、沖縄が騒然となった核巡航ミサイル「メースB」の配備をめぐっても、本土政権の対応はお粗末だった。
61年11月4日、神奈川県箱根町。日本の外交文書によると、池田政権の外相、小坂善太郎がラスク米国務長官にこう語った。「沖縄にメースなどを持ち込む際、事前に発表されるため、論議が起きている。事前に発表しないことはできないか」
「何らかの発表を行うことは必要と思われるし、隠しおおせることはできない」とラスク。
それでも小坂は「事後に判明する場合には、今更騒いでも仕方がないということで論議は割合に起きない。事前に発表されると、なぜ止めないのかといって日本政府が責められる結果となる」と反論。潜在主権のある沖縄への核配備をめぐり、責任回避を図りたい意図がありありだった。
沖縄のメースに関しては、なるべく何も言わないのが得策―。マクナマラ国防長官は、こんな方針を軍部に伝達。沖縄の核を「腫れ物」とみなす日本政府の意向を忖度した結果とみられる。
「ひきょうだ。潜在主権がある以上、日本政府は当時も沖縄の国民を守る義務があった。『メースBはやめてくれ』と言えばいい。これでは今のMV22オスプレイの問題と同じじゃないか」
米軍普天間飛行場のある沖縄県宜野湾市で市議を8期務めた知念忠二(77)は、半世紀前の本土政府の対応に強く憤る。米軍は今秋までに垂直離着陸輸送機MV22オスプレイを同飛行場に配備する予定だ。米軍は90年代から沖縄への同機配備を内定し、日本側にも打診していたが、日本政府はそうした内実を沖縄に長年伝えていなかった。
米軍嘉手納基地を抱える嘉手納町の町議で基地対策特別委員長の田仲康栄(67)も、当時の本土政府の対応は「今に通じる」と語気を強めた。
「これは特別の差別だな」。沖縄選出の元衆院議員、上原康助(79)はこう語った。返還で本当に核が撤去されたのか、疑念は今も晴れない。
田仲も「核の問題でも温存された差別意識があった」と口にした。沖縄県民の苦悩や不安をよそに、「沖縄の核」に見て見ぬふりを決め込んだ返還前の本土政府。田仲らには現在の基地問題が重なって見える。(共同通信編集委員、太田昌克、一部敬称略、2012年06月10日、肩書きは当時)