犀川・笹平ダムバス転落事故(1985年)
1985年に起きたこのバス事故は、「犀川(さいかわ)スキーバス転落事故」「笹平ダムスキーバス転落事故」などの名称で親しまれて――失礼――呼ばれている。まあ別に名称なんてどっちでもいいのだが、ここは両取りで「犀川・笹平ダムスキーバス転落事故」と表記することにしよう。これぞ漁夫の利というやつである(違う)。
犀川という河川は全国に数あるが、今回の事故の舞台となったのは長野県内を流れるほうだ。
笹平ダムは、水力発電用にと1952年(昭和27年)に犀川に造られた。管理しているのは、今をときめく東京電力である。治水機能はなく、洪水の原因になるとして周辺住民から批判を受けたこともあるという、なかなか曰くつきの代物だ。
このダムが形成する人造湖にて、事故は起きた。
1985年1月28日の早朝。おそらくまだ夜も明けていなかったであろう、午前5時45分のことである。犀川にかかる大安寺橋という橋に、3台のバスが差しかかった。
事故を起こしたのは、この3台のうちの最後尾のバスである。
このバスは三重交通の貸切バスで、くだんの3台目には日本福祉大の学生ら46人が乗車していた。この大学では26日に後期試験が終わったばかりで、28日から30日までの間、体育の授業の一環としてスキー教室を行う予定だったのだ。目的地は北志賀高原の竜王スキー場。深夜の移動ということで、学生たちはバス内で休んでいた。
問題はこの、大安寺橋のあたりの道路状況である。この道路は国道19号線で、幅は9メートルと決して広くない。そして前日から雪が降っており積雪量は15センチ。冷え込みも激しく、路面は凍結し切っていた。北国の路面状況としては、もっとも恐るべきパターンである。
にもかかわらず、バスの装備は充分とは言いがたかった。当時はすでにスパイクタイヤが普及していたはずだが、このバスは前輪・後輪ともに普通タイヤ。チェーンは一応巻かれてはいたが、ダブルタイヤのうち外側だけにしか装着していなかったという。
はい、ここまで説明すればもうお分かりですね。
事故を起こすことになった最後尾のバスは、橋の手前の直線コースからS字カーブに入ったところで曲がり切れなくなってしまった。しかもそこは緩い下り坂で、ハンドルももう利かない。ガードレールをぶち破り、厳寒のダム湖へダイビングしたのである。
ガツン、ドーン! 学生諸君が眠りにつき、静かだった車内に突如として異音が響き渡る。なんだなんだと騒ぐ余裕もなく車内灯は消え、バスは6メートル下のダム湖へ落下していった。湖面の一部には氷も張っていたという。
車体がボチャリと浸かるのと同時に、割れた窓ガラスから凍てつくような湖水が流れ込んできた。ダム湖の水深は4~5メートル。たちまち水没していくバスから、学生たちは命からがら脱出を試みた。湖面には赤、黄色、青などの派手なアノラックや荷物が散乱し、なんとか脱出して湖岸へ泳ぐ者たちの顔は血まみれだったという。地獄絵図だ。
バスは最終的に、後部がわずかにしか見えなくなるまで水没した。前方から飛び込む形でダイブしたのだろう。
ただちに救助活動が行われた。当時ダムの近くには、修繕工事を担当していた前田建設工業の作業員が宿泊しており、まず彼らが救助を行い、それから長野中央署、長野南署、機動隊も駆けつけ、凍えるような寒さの中で必死の捜索活動が行われた。
ちなみにこの時、ひとりの全盲の学生が無事に救助されたことで話題になっている。彼は極めて冷静に「心の目」でもって脱出経路を確認し、無事に岸に泳ぎ着いたのだ。
とはいえそんなのは奇跡的なエピソードである。乗客46名のうち、大学生22名と引率の教員1名、運転手2名の計25人が脱出できずに水死した。また救助された21名のうち、少なくとも8名は重軽傷を負っている。
現場の道路には、15メートルのスリップ痕が残っていた。制限速度は50キロと定められていたが、しかしそこは地元の人が「魔のS字カーブ」と呼んでいたとかなんとか(新聞記者が勝手に名前をつけただけのような気もするが。地元の人はせいぜい「危険なカーブ」程度の言い方をしたのだろう)。
というわけで責任の追及である。裁判である。悪いのは誰なのか?
まず一番に悪いのはバスの運転手で、これは動かしようがない。この事故は実に典型的なスリップ事故で、要するに運転ミスによって引き起こされたのだ。しかし、当時バス内で交互にハンドルを握っていたという2名の運転手はすでに死亡している。直接的な責任は問えない。
というわけで、今度はバスの運行管理をしていた三重交通である。さっそく調べてみたところ、運転手に休みなしの「過密勤務」を強いており、それを黙認して勤務表を作っていた実態が明らかになっていったのだ。ビンゴである。運転手は過労状態にあり、おそらく居眠りかなにかで正常な運行能力を欠いていたのだろう。
死亡した運転手は、事故の前には2週間も休みをもらえず、深夜の長距離バス運転で働きづめだったという。筆者はその2週間分の勤務状況までは入手できなかったが、事故直前の3日分ほどは分かったので記しておこう。
●1月24日:新潟県の赤倉温泉スキー場へお客の送迎。
●1月25日~26日:早朝から、通常の路線バス業務。
●1月27日:3時間の休憩後、長野県の竜王スキー場へ送迎。ここで事故る。
いやあ、これは死ぬよ。この調子で、この倍以上の時間も働かせてたんかい。
当世ふうの言い方をすれば三重交通は「ブラック企業」で、死亡した運転手は「社畜」だったということだろう。
ちなみに柳田邦夫によると、事故がもっとも起きやすい時間帯というのがあって、それが早朝の4時から5時にかけてだという。この事故はなにからなにまで典型的な過労事故でもあった、といえそうだ。
バス会社には運行主任という役職があるらしい。それで三重交通四日市営業所の路線バス運行主任は、運転手の勤務実態を知りながら無茶苦茶な勤務表を作ったのだった。そして会社もそれを黙認していたのだ。
ちなみに三重交通は、これより前の3月の時点で中部運輸局による行政処分を受けている。「罪状」は輸送の安全確保に手落ちがあったというもので、8台の観光バスについて14日間ずつ、つまりのべ112日間の使用停止を食らったのだった。これはバス会社に対する行政処分としては当時最高のものだったそうだが、この記録は今も破られていないのかどうかが気になるところである。
さてしかし、裁判は意外な展開を辿った。
まず長野県警と長野中央警察署は、以下の内容でそれぞれ長野地方検察庁に書類送検(※1)している。
●運行主任:道路交通法75条違反(過労運転の命令)
●三重交通:道路交通法123条違反(両罰規定)
●死亡した運転手:業務上過失致死傷罪と道路交通法66条違反(過労運転)
事故から半年以上が経った、1985年9月4日のことだった。
ところが、である。長野地方検察庁は1986年6月30日、「運転手の過労を科学的に立証するのは困難」だという結論を下したのだった。不起訴処分である。
おそらくこれは、誰にとっても意外な結論だっただろう。事故の被害者や遺族はこれを不服として、7月28日に長野検察審査会へ審査申し立てを行った。だがそれも、翌年の4月28日には「やっぱり不起訴でいんじゃね」という回答が出されている。
まあ確かにね。運転手が死亡している以上、その疲労度を具体的に確認するのは難しいところであろう。解剖すれば体内からポコンと証拠が飛び出してくる、というわけでもないだろうし……。
また同じ疲労度でも、事故を起こす人と起こさない人もいるだろう。もちろん普通の感覚ならば「2週間も徹夜で働かされて疲れない奴がおるかい」と、もの申したいところではあるが。
ただし津地方検察庁は、上述の路線バス運行主任と三重交通本社・四日市営業所を、労働法違反ということで四日市簡易裁判所へ略式起訴(※2)している。
(※1)ちなみに豆知識だが、書類送検というのは「逮捕しないで起訴する」やり方であり、(※2)略式起訴というのは「簡単な裁判」と考えて頂ければよろしい。争う必要がなく、罰金や科料で済む程度の簡単な事件はこれでもって処理されるのだ。この事件に関しては、略式起訴された3者は、労働法に関する罰金と、営業停止の行政処分で済んだということである。
こうして、犀川・笹平ダムスキーバス転落事故は一応の完結をみた。
1987年9月13日には事故現場に慰霊碑が建立され、今もダム湖畔にはこれが静かに佇んでいるという。事故が起きた道路そのものはまだ残っているが、バスが渡るはずだった大安寺橋はその後撤去された。現場では、慰霊碑のみが事故を偲ぶ手がかりとなっているようである。
とはいえ事故当時、25名の遺体を収容した正源寺では、今も命日と盆には遺族会と三重交通と日本福祉大による法要が営まれている。
さらに日本福祉大では事故のあった1月28日を「安全の日」と定め、慰霊行事を行っている。ウィキペディアによると、この行事は2005年以降は不定期になったと書かれているが、確認してみたところ2011年はちゃんと1月28日に執り行われていた。
この大学のキャンパス内には、当時犠牲になった学生と同じ数の桜が植えられているという。桜の成長のスピードがどれくらいなのかはよく知らないが、20数年も経てばそれなりの大きさになっていることだろう。どうやらこの事故で、現在もっとも簡単に触れられる「慰霊碑」は、この桜ということになりそうだ。
さしずめ「慰霊樹」とでもいったところか。
名古屋まで行く機会はなかなかないけれども、見て手を合わせてみたいものだと思う。
【参考資料】
◆ウィキペディア
◆山形新聞
◆日本福祉大ホームページ
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豊浜トンネル崩落事故(1996年)
この事故が起きた時、筆者は中学生だった。
当時、学校から帰ると、テレビで岩盤の爆破作業の生中継をやっていたのを覚えている。その時の記憶があまりに強烈で、いまだにトンネルを通過するさいに怖くなることがある。
事故は1996年2月10日、午前8時10分頃に発生した。北海道後志(しりべし)管内の古平町(ふるびらちょう)の豊浜トンネルでのことだった。
厳密に言えば、この豊浜トンネルは古平町と余市町(よいちちょう)を結ぶもので、事故は古平町側の出入り口付近で起きたのだった。トンネルの真上にあった巨大な岩盤が崩れ落ち、たまたま真下を通過していた路線バスと乗用車を直撃したのである。
この岩盤のサイズは縦横斜めで70×50×13m、体積1万立方メートル、そして重さ2万7000トンという代物だった。
とにもかくにも重さ2万7000トンである。この岩盤をどけないことには救出作業もへちまもない。要請を受けた業者がさっそく爆薬による撤去作業を行ったが、地形のせいで準備に手間取り、また生存者がいるかも知れないということで思い切った爆破もできず、この業者は相当難儀したようである。
この業者は、当時の記録をネット上で書き記している。文中に登場する専門用語はチンプンカンプンであるものの、その時の苦労がじわじわと感じられる文章である。
犠牲者の家族たちは、遅々として進まない救出作業に焦り、苛立ち、時として逆上したという。だが結局、トンネルに閉じ込められていた20人は全員が遺体で発見された。即死だった。
この豊浜トンネルでは、事故以前から落盤の危険性が指摘されていたという。「以前から危険性が指摘されていた」というのはこういう事故を説明するさいの常套句だが、書類送検された北海道開発局の元幹部2名は不起訴処分とされた。
さらに遺族は、国を相手取って民事訴訟を起こす。しかし、賠償金の支払いは命じられたものの、責任の所在についてはうやむやなままという判決になったようだ。
この事故の裁判の結末を見て思い出すのは、世界屈指のバス事故である飛騨川バス転落事故である。どちらも自然災害によるバス事故であるにもかかわらず、判決は180度違っているのが興味深い。
現在、この事故があった豊浜トンネルは完全に封印されている。道路が、途中からより安全なルートに接続されたことで、それ以前のルートは寸断され封鎖されたのだ。今では、現場には船を使わないと行けないそうで、おそらくこの事故現場はこのまま「封印」されていくことになるのだろう。
筆者は冒頭に書いた通りの思い出があるので、たぶん誘われてもこの事故の現場に行く気にはならないだろう。ただ、新しいルートのトンネル出口付近には防災祈念公園なるものがあり、そこには慰霊碑や事故関係の展示コーナーもあるという。そちらなら、出向いて手くらいは合わせたいものだとも思う。
まあ、どのみち北海道に行く機会なんて特にないと思うので、さしあたりこの記事をもってしてひとつの「合掌」にさせて頂こうと思う。防災祈念大いに結構! 言っても信じられないかも知れないが、それもまた当研究室のテーマのひとつなのである。
【参考資料】
◇ウィキペディア
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舞鶴市バス水没事故(2004年)
2004年の10月20日から21日にかけて日本列島を襲った台風23号は、後に「激甚災害」に指定される程凄まじいものだった。
まあ日本で「激甚災害」に指定されるのは大概は暴風雨や台風と決まっており、それも言い方は悪いが風物詩のような感もあるので、今さら「2004年の台風23号」と言われてもそれってどの台風だっけ、と記憶がごっちゃになっている方も多かろう。
しかし「台風23号」では分からなくとも、「舞鶴市で観光バスが水没したあの事故」と言えば思い出す方もおられると思う。暴風雨による濁流のため道路で立ち往生した観光バスが、見る見るうちに水没したという一件だ。
バスの乗客37名は、辛うじて水面に頭を出していたバスの屋根の上で恐怖の一夜を過ごし、最終的には全員が救助された。安心して読める事例である。
☆
この37名というのは、兵庫県豊岡市の、もと公務員の年金受給者からなる旅行者の団体だった。よって乗客も年配が多かった。
予定では10月19日に豊岡を出発し、1泊2日で北陸地方を回る予定だったという。
最初、台風が接近しているという不安な情報もあったものの、とりあえず19日は予定通りに旅館に到着。雨の中の旅行だったが、ここまでは問題はなかったようだ。
問題なのは翌朝からである。台風が遂に上陸したのだ。
テレビのニュースを観た乗客の中には、「大丈夫なのか」と不安になる者もいたようだ。
だが、旅行会社としてはそうそう融通を利かせることも出来ない。バスは定刻通りに出発し、午後2時までにはなんとか観光の予定を潰していった。
さあ帰り道である。行きはよいよい帰りは怖い。高速道路が土砂崩れで通行不能という報せが届いたのが、後から考えれば前兆となった。仕方なくバスは一般道を通ることになった。
そうこうしている内に、台風は紀伊半島に上陸しどんどん接近してくる。夕方には暴風雨も甚だしく、さすがに「今日は旅館かホテルに泊まった方がいい」という判断で乗客も運転手も意見が一致した。
それ自体は正しい判断だった。だが時はすでに遅し。適当な宿泊施設が見つからないまま、だらだらとバスは進行し続けた。そして7時を過ぎる頃には遂に道路は冠水し、また渋滞のせいで運転もままならなくなってきた。
7時半。参考文献によると、この時刻に由良川にかかる大川橋なる橋を渡ったところが「運命の分かれ道」だったようだ。国道175線に入って間もなく、バスは立ち往生してしまった。凄まじい冠水によって渋滞の中でエンストを起こした車があり、にっちもさっちも行かない状態に陥ったのだ。たちまちバス内は不安で満たされた。
さっき渡ったばかりの由良川もついに氾濫し、水位はどんどん上がってくる。いよいよバス内に水が入ってきたのが夜の9時で、昇降口から浸入した泥水はたちまち乗客たちの下半身を水浸しにした。水はマフラーにも入り込んでエンジンも停止。さあ、どうするどうする。
一時は、カーテンを切り裂いてロープを作り、民家に助けを求めるというアイデアも乗客の中から出たらしい。しかしその頃には道路も足がつかない状態だったため、この案は却下。もうバスの屋根の上に上がるしか道はない。カーテンで作った手製のロープは、この避難作業で使われることになった。
乗客たちが助け合いながら屋根に避難し終える頃には、もはやバスの車内灯も消えていたという。
この時、このような形で避難したのはバスの乗客たちだけではなかった。近辺では、他にも電柱に掴まって一夜を過ごしたり、自家用車を乗り捨てて近くの建物の2階に逃げ込んだ人々もいたのである。
このように助けを待っていた人は、バスの乗客を除いても40名ほど存在していたらしい。ちなみに、乗用車は44台が水没している。
さて、ここからの10時間が大変だった。なにせほとんどの人間が年配である。ひっきりなしに吹き付けてくる暴風雨と、バスの屋根の上を越えてくる泥水のせいでずぶ濡れになり、とにかく皆、凍えて仕方がなかった。最も高齢の男性は低体温症でかなり危ないところまで行ったようだ。
そして恐ろしいのは低体温症ばかりではない。バス1台を水没させる程の濁流で、バスそのものもいつ流されることかと全員が気が気でなかった。携帯電話も電池が切れれば通じないし、通じたとしても、救助はいつ来るのかという明確な答えはなかなかもらえない。もう不安で不安で過呼吸に陥る者が出て来るし、持病のある高齢者は体の不調を訴えてくる。居合わせた看護士たちは大忙しだ!
それでも、乗客たちは励まし合ったり歌を歌ったりして不安を紛らわせ、救助を待ち続けた。
中には、流れてきた竹竿でもって、バスが流されないように近くの街路樹から支えようとするツワモノもいたという(実は参考文献を読んでも、どうしてこれで「支える」ことになるのかよく分からなかったのだが)。
ちなみにバスの運転手は、こんな危険なところまでバスを乗り入れてしまったことに責任を感じてションボリしていたそうな。もっとも彼を責める者は誰もいなかったそうである。
さて最初に書いた通り、彼らはおよそ10時間後には無事に救出されたのだが、救助活動はどのように進んでいたのだろう?
もちろん、京都府も自衛隊も手をこまねいていた訳では無い。バスが水没する直前の午後9時頃には、連絡を貰った京都府から海上自衛隊に災害派遣要請が出されていた。
しかし暴風雨、増水、夜闇の中では救助も簡単ではない――てゆうか不可能である――。ヘリは強風で飛べないし、濁流の流れは激しくゴムボートも使えない。結局、明け方に水位が下がってくるまでどうしようもなかったのだ。
バスが水没した国道175号線からは、最終的にはバスの乗客を含む67人が救出された。こうしてようやく長い夜は明けたのだった。
この水没事故の詳細は『バス水没事故 幸せをくれた10時間』という本に記されている。
変なタイトルだなぁ、と思う前に、興味があれば是非一度目を通して頂きたい。この本の作者のスタンスは「この事故によって人を信じることの意味や希望を学ぶことが出来た」というもので、思わず本当かよ、とツッコミを入れたくなるところではあるが、とにかく読めば分かる。平易な文章で描かれた過酷な事故現場の状況の描写は、我々にある感慨を与えてくれるであろう。なるほどこんな極限状況に遭遇して、最後に全員救助というハッピーエンドになればこういうタイトルになるかも知れない。
ところで、集団が一斉に事故に巻き込まれるという事例はいくらでもあるが、筆者が個人的に、この舞鶴市の事故と比較せずにおれないのは2009年に起きたトムラウシ山の遭難事故である。大人数のグループが遭難したという状況までは同じだが、かたや助け合って全員救助、かたやバラバラに離散して半分以上が凍死と、結果は180度違っている。
もちろん細かな状況は全然違うので一概には言えないだろう。だがとにかく、被災した際に一緒にいる他人がどんな人格であるか――注意深いか、人生経験は豊富かそうでないか、思いやりがあるか――実はその程度の要因によって、人間の運命というのは呆気なく変わってしまうものなのである。
ちなみに話ついでに言うと、この事故のことは他にも本が出ており、なんとそれは「童話」であるという。ある意味で、読んでみたい気がしなくもない。
【参考資料】
◇中島明子『バス水没事故 幸せをくれた10時間 人を深く信じた奇跡の瞬間』朝日新聞出版
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本邦初の鉄道事故は?
「日本でいちばん最初の鉄道事故はなんだろう?」
まずはその問いから始めようと思い、調べてみた。例えるなら火災史における白木屋火災、即ち「近代鉄道事故の夜明け」にあたるケースである。
ところがどうも話が単純でなかった。ごく普通に事故の歴史を紐解いていけばそのような事例に突き当たるだろう、と最初は高を括っていたのだが、文献によって微妙にニュアンスが違っているのである。
世界で最初の鉄道事故がなんだったのかは、これははっきりしている。1830年9月15日、英国ランカシャーのパークサイド駅で発生したのがそれだ。よりによってリヴァプール-マンチェスター鉄道の開業当日というめでたい日に、粗忽者の代議士が轢かれて死亡したのである。
この代議士は、友人に挨拶をしようとして線路を横切ったのだった。どうやら汽車の接近が思いのほか速かったため轢かれてしまったらしい。乗り物といえばせいぜい馬車くらいしかなかった当時、汽車の速度がどれほどのものなのか、多くの人は想像もつかなかったのだろう。
では日本の場合はどうか。
まず、鉄道事故マニア必読の書である『事故の鉄道史』を観てみると、1877年に発生した「東海道線西ノ宮列車正面衝突事故」が「大事故の事始め」だと記してある。
しかしこれはどうも本邦初の「大事故」あるいは「死亡事故」であって、人が死なない鉄道事故ならその前にも起きていたようだ。それはウィキペディアをちょっと覗けば分かることで、たとえば1874年には「新橋駅構内列車脱線事故」なるものが発生している。ポイントの故障のせいで機関車と貨車が脱線したというもので、これは死者ゼロである。
だがこれも「脱線事故」というカテゴリーで見れば確かに本邦初と言えるのだが、「鉄道事故」ということでは必ずしも最初のものではないようだ。
さあそれで、ここで『鉄道・航空事故全史』(災害情報センター・日外アソシエーツ共編 2007年5月刊)を見てみよう。すると、ここでようやくそれらしいものに行き当たる。1872年9月12日、記念すべき鉄道開業式の当日に、線路に入り込んだ見物人が機関車に引かれて指を切断しているのである。なにしろ開業式当日というくらいだから、おそらくこれが本邦初の鉄道事故だろう。
この時開通したのは横浜-新橋駅間の路線だった。新橋駅ではこの2年後に、上述の「日本発の脱線事故」が起きているわけだ。
それにしても、死亡事故と傷害事故という違いはあれど、イギリスでも日本でも、開業式当日からいきなり事故が発生しているというのはおかしな符号である。この奇妙な偶然に、これ以降の鉄道史が辿る苦難の歴史がすでに暗示されていたような気すらするのだが、読者の皆様はどうお思いになるだろうか。
【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
◇ウィキペディア
◇災害情報センター・日外アソシエーツ編集『鉄道・航空機事故全史―シリーズ災害・事故史〈1〉』(日外選書Fontana シリーズ災害・事故史 1)
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東海道線西ノ宮列車正面衝突事故(住吉事故)(1880年)
西南戦争が終結して間もない、1880(明治10)年10月1日の夜のことである――もはや日本史の教科書に出てくるような時代だ!――現在の兵庫県神戸市、阪神間鉄道の住吉駅東方で上り列車と下り列車が正面衝突、死者3名と重傷者2名の大惨事が発生した。
これは鉄道の衝突事故としても、また鉄道における死亡事故としても本邦初のものである。ネットで検索すると本稿のタイトルのように「タンコブがひっこんじまったい」と言いたくなるような長ったらしい名称がつけられているが、文献によってはシンプルに住吉事故、などとも呼ばれている。
まずは、当時の鉄道の様子を簡単に説明しておこう。
当時は、西南戦争に参加した官軍の兵隊たちが帰還する時期だった。よって鉄道としては、普段よりも多く人員の輸送を行う必要があった。
そこで、神戸駅からは、各駅停車の「定期列車」とは別に、大阪まで停車せずに一気に走る「臨時列車」が出ていた。今で言う快速や特急のようなものだろう。
この「定期」と「臨時」の2本の列車が出る際は、いつも臨時が先で定期が後、と決まっていた。なぜなら各駅停車の定期列車に対し、臨時列車は停止なしで突っ走るので、臨時列車が後から追いかけていてはどんどん距離が縮まって追突してしまうからだ。
そしてこの2本の列車は、大阪に到着すると今度はUターンし、神戸へ戻る。この時には、往路では「臨時列車」だった車両は空っぽになるので「回送」になる。そして神戸からは再び兵隊が乗り込む、という寸法だった。
また、当時の鉄道はほとんどの路線が単線だった。一本の線路を一本の列車が通過することしかできず、いわば列車はかわりばんこに線路を走るのである。上りと下りの列車がすれ違えるのは駅だけで、しかも今のように信号機もないものだから、一方が駅に入ってくるのを確認してからもう一方は発車するというやり方になっていた(まあ、地方の路線では今でもそんな感じだけどね)。
さてそれで当時は、神戸-大阪間を「上りの定期列車と臨時列車」と「下りの定期列車と回送列車」がかわりばんこに行きつ戻りつしていたわけだ。
事故当時は雷を伴った豪雨だったという。そのため、当夜は上りと下りの両列車のいずれも遅れが出ており、臨時列車が大阪駅に到着したのは、本来なら後続の定期列車が到着しているはずの時刻だった。
つまりこの時点で、上り定期列車はまだ線路を神戸から大阪に向けて走っていたのだ。
しかし、大阪駅で待機していた上り回送列車の英国人運転士はそこで勘違いしてしまった。大阪駅に到着したのが「遅れた上り臨時列車」ではなく「定刻通りの上り定期列車」だと判断し、列車を出発させてしまったのである。
それで正面衝突となった。
その結果、回送列車の英国人機関士と、日本人の火夫(ボイラーの取扱担当者)は死亡し、大阪に向かっていた上り定期列車の日本人車長も即死。定期列車の方に乗っていた英国人機関士は右目を失明する重症を負った。乗客に怪我人がいなかったというのは不幸中の幸いであった。
遺体の状況は凄惨なものだったという。後年発生した参宮線六軒事故もそうだが、蒸気機関車というやつは、ひとたび事故ると蒸気や熱湯で被害が拡大することがしばしばあるのだ。
ところで面白いのが、当時の鉄道局長の報告書である。事故の責任は、誤って列車を出発させた英国人機関士にある、と決めてかかっているのはともかくとして、同時に「官軍の連中の乗車マナーがなっておらず、そのせいで時刻表が乱れた。それも事故の原因だ」と憤慨しているのである。ふうん、局長あなたひょっとして士族よりだったの?
ただ事故原因について言えば、英国人機関士の責任うんぬんよりも、そもそもなぜ彼が回送列車を発車させてしまったのかが問題であろう。この点について『事故の鉄道史』では、彼は当時、下り臨時列車の存在を完全に忘れていたか、あるいは全く知らされていなかったのではないか――という可能性も示唆されている。
まあどのみちかなり古い事故で、資料も極めて乏しい。真相は藪の中という外はない。
ともあれこの事故を教訓として、上り下りの列車がかわりばんこに走るこうした「閉塞路線」では、線路を走る時に必ず運転士が通行証を受け取るというやり方が確立されていったのである。
この通行証を、いわゆる「タブレット」という。
しかし人間というのは実に厄介なもので、だから事故が起こらなくなったかというとそんなことは決してないのである。このタブレットをいい加減に扱ったせいで逆に大事故に繋がった例もあり、それは別項の「東北本線・古間木―下田間正面衝突事故」に詳しい。
西南戦争は、ひとつの時代の完全な終息を示す出来事だった。一方で、同時期に起きたこの衝突事故は、鉄道史のこれ以降の苦難の道のりの幕開けを告げる出来事だったのである。
【参考資料】
◇佐々木冨泰・ 網谷りょういち『事故の鉄道史――疑問への挑戦』日本経済評論社 (1993)
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