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 昨日は、外国人と共に働くことについて考えました。きょうは教育の現場からです。慣習や考え方の違いは乗り越えられるのか。言葉の通じない国の学校に通って、何が支えになったのか。

■10代で来日 大学生2人にミナミで聞く

 外国から来た子どもたちは、日本語や学校生活の壁をどう乗り越えるのか。10代で来日した大阪の大学生2人にミナミの繁華街で話をしてもらいました。

 ――日本に来たきっかけは。

 林吉子 両親が1980年代に来日して、大阪で働いてました。2人とも忙しくて、私は生まれてすぐ中国のおばの家に預けられたんですけど、中学を卒業する頃、「そろそろ帰ってこないか」と言われて。おばが親代わりに育ててくれたんで悩んだんですけど、本当の親が日本にいるんだからっていう気持ちもあって。

 パレル・ハンズ2世 僕も父が20年前から日本で料理人やペンキ職人として働いてたんですよ。フィリピンのハイスクール(中学・高校)2年生の時に、母や弟、妹と大阪に来ました。仲良くなった友達と離れるのは嫌だったけど、ずっと日本でがんばってくれた父親が言うなら、と思って。

 ――来日してから、どんな苦労がありましたか。

 林 最初は日本語もわからないし、両親も昼間はずっと働いてて家にいないから、引きこもりみたいになってた。自分で日本語の勉強をして。

 パレル 僕もそう。全く言葉がわからなくて、知らない場所にぽつんと置かれた感じ。こんな状況で、父がどうやって20年も精神的に耐えられたんかなって思った。

 学校に行きたくて、市役所に相談に行ったけど、日本語がまだできないから夜間中学を薦められて、1年半通いました。大阪の八尾市の夜間中なんですけど、そこはベトナム人も多かった。

 林 私も大阪市の夜間中学に半年間通ってた。父が探してきてくれて。そこは戦争中に学校に行けなかった高齢者の人が多くて、かわいがってもらった。日本語の勉強と高校入試の準備は夜間中の先生にみてもらいました。

 ――2人とも、同じ大阪府立長吉高校(大阪市)へ入ったんですね。

 パレル 外国出身者の特別枠入試があって、夜間中の先生が薦めてくれました。長吉高はフィリピン人生徒も多くて、逆に日本語が伸びないかもって不安があった。だけど、学校見学の時に、フィリピン人の先輩が「やる気があったら、日本語も絶対伸びる」って言ってくれたんで決めました。

 林 確かに。長吉高は特にフィリピンと中国出身の生徒が多いから、それぞれで固まりがち。昼休みも中国グループは国際交流室、フィリピングループは食堂で、みたいな。日本人の生徒とも普通に接点はあるけど、友達にはなりにくかったかも。

 パレル 僕は学校の行事で、淡路島でのチャリティーマラソンの実行委員をしてた。そこで仲良くなった日本人の生徒はいるけど、それ以外ではなかなか。

 林 ただ、外国出身の生徒が多いからこそ、先生たちもすごく私たちのことをみてくれた。私にとっては、中国出身の先生の存在が大きかったな。勉強以外のことも何でも相談できて、お母さんみたいやった。

 パレル 僕もそう。フィリピンに留学経験のある先生がいて、本当の姉みたいでした。大学生になってからも、相談に行ったらちゃんと乗ってくれる。他の高校の話を聞くと、もっと長吉高みたいな学校が増えたらいいなって思いますね。

 ――つらかったことは。

 林 高校ではなかったけど、アルバイトではいろいろあった。そのころ学校の近くの弁当店で働いてたんやけど、いつも配達の注文の電話がかかってくる。けど日本語の住所や名前がなかなか聞き取れなくて、「もう一度お願いします」っていうとすごい怒られて。それはつらかったな。

 パレル 僕は日本語が少しできるようになって、市役所の手続きとかを任されるようになった。両親は日本語がそんなにできないから。けど、役所や病院で使う日本語は日常会話と全然違う。僕もそんなにちゃんと理解できてるわけじゃないから、失敗も多くて。

 弟の小学校の懇談にも行ってます。弟は3歳で日本に来たから、タガログ語や英語があまり話せなくて、特に母親との会話がうまくできない。弟にはそれがストレスになってて、すごく心配ですね。

 林 弟さんの気持ち、よく分かる。両親は福建省の方言の閩南(びんなん)語を話すけど、私が中国にいた時代は、福建省の学校でも北京語しか教えない。北京語と閩南語は全然違うから、なかなかコミュニケーションがとれなかった。親からは大学進学を反対されて、高2の時に1人で暮らすようになった。多い時はバイトを三つかけもちして、ふらふらでしたね。

 ――大学にはなぜ進学しようと思ったんですか。

 林 中国の学校は受験競争も激しくて、小さい頃から大学には行こうと思ってた。高校の先生も、入試前は夜中まで日本語の面接の練習に付き合ってくれた。

 パレル 僕も小論文の指導を厳しくしてもらいました(笑)。英語の先生になりたいと思って、教員免許のとれる大学に進みました。長吉高で出会った先生みたいになりたくて。大学を卒業したら、先生として長吉高に戻りたいですね。

 ――大学に入って変わったことはありますか。

 林 周りに外国人が1人もいなくて、最初は慣れなかった。高校では日本人の友達が少なかったから、距離感がわからへん。同級生にずっと敬語を使ってたら「なんで敬語使うねん」って言われて、ちょっと恥ずかしかった。

 私は日本国籍やけど、高校の時は日本人って意識は薄かった。いまは半々って感じ。大学で「私、半分中国人なんです」って言ったら、みんな興味もってくれるし。

 パレル 1年生の時から、堺市で外国人の小中学生の学習ボランティアを始めました。南米やフィリピン出身の子が集まる教室で、言葉で苦労してる子たちをみると、昔の僕みたいやなって感じます。小6の子が「将来、ハンズ先生みたいになりたい」って言ってくれて。涙が出そうでしたね。

 ――将来はどう考えていますか。

 林 去年の秋、在学しながら中国系航空会社の日本支社に就職しました。会社には日本国籍の社員がいなくて、日本語と中国語が両方できることで、省庁への申請書類とか重要な仕事も任せてもらえる。日本と中国を行き来する人がもっと増えたらいいなと思ってます。

 パレル 僕は大学を卒業したら先生になって、外国人のサポートをしたい。これから日本に来る子どもたちが僕と同じ苦労をしないようになればいいなっていうのが、一番の目標ですね。

 林 今までの選択で後悔したことは一つもない。私たち一番似てるところが、環境を変えられへんかったら自分を変える、ってとこやね。

 パレル ほんとそう思います。=敬称略(聞き手・玉置太郎、宮崎亮 ミナミの写真は滝沢美穂子撮影)

     ◇

 林吉子(はやしよしこ、23) 和歌山大学4年生。終戦時の中国残留邦人の4世。生後すぐ中国・福建省へ渡り、08年に再来日。在学しながら働く。

 パレル・ハンズ2世(22) プール学院大学(堺市)2年生。フィリピンの首都マニラ、中部のバコロド市などで育ち、09年に来日。英語教師を目指す。

■児童の6割が外国籍 愛知・知立東小で座談会

 愛知県知立市には、仕事を求め来日した外国人が多く住む知立団地があります。団地の子どもが通う公立の知立東小学校は、全校児童304人の6割弱の178人が外国籍、出身は11カ国に及びます。担任教諭も授業も給食も日本の児童と一緒です。多国籍な学校生活って? 放課後、最多のブラジル、次に多い日本国籍の児童から、6年生の5人ずつに集まってもらい、話を聞きました。

 「魚は嫌い。家で食べるのはツナ、サーモンだけ」。豆と肉が中心の食生活を送るブラジル籍の子たちは給食に出る魚が苦手です。「(おかずを盛る時に)半分以上減らしてる。我慢して食べることもある」

 「正月はブラジルだと『シャンパン』をパーン。いとこ全員、親戚も集まる」

 日本の児童は「何でそんなに騒げるの」「ありえん。こっちは、こたつでミカン食べる」と言います。

 ブラジル籍の5人は、みな日本語が上手。日系人家庭で育ったものの、母語はポルトガル語です。

 「さっき先生に『ごめんなさい』と言う時も間違えて『ディスクーピ』と言った。家ではポルトガル語だから」

 感情的になると、つい母語が出るブラジル籍の児童に、日本の子たちは「ポルトガル語だと何を言っているか分からないから余計けんかになる」。それでも「ある程度の悪口は覚えた」。ブラジル籍の子も「口よりも顔で説明する。赤くなって『ウー』って」。仲直りは、日本語で。

 「『ごめん』と言う」

 結局、「いつの間にか収まってる」と、みな笑いました。

 多くの子が1年生から一緒に学んでいます。「日本の学校だから日本語が伝わらないといけないと思った。聞いて覚えて話すようになった」。伝えるための工夫もしています。「日本人があまり知らないブラジル独特の文化を話さずに、お互いに知っている話題で話す」。日本の児童たちも「最初は、どう話しかければいいのか分からなかった」。今では「避けたりしない。話しかけられて無視するんじゃなくて、話す」「日本語が伝わらない時は、手ぶり身ぶりで分かりやすく説明する」。例えば「ダメなときはこう」と手を交差させて×を作りました。

 「自然にいれば、いつの間にか何となく。無理やり仲良くしなくてもいい」

 外で遊ぶ時も「(仲間に)入れという『オーラ』」が出るそうです。異なる国の人と暮らすことについて「普通すぎるから考えたことない」。自然にたどり着いた境地です。

 親同士の交流はほとんどないそうです。「触れあうタイミングが合わないし」。ブラジル人家庭は団地からの転居も多い。大人になっても友達? そう聞くと「わかんない」「ブラジルに帰る子もいるし」。現実を見つめた答えが相次ぎました。

 「大人になった時に知らない外国人と会っても話せる。日本人だと外国人を見たら怖い人たちと思うけど、そういうのがないと思う」

 日本の児童はそう言います。ブラジルの子は「世界一周旅行をしたい。ある国では分からないことが、違う国にいることで分かり始めるから、色んな国のことを知りたい」。

 約1時間、輪になり向かい合った児童たちは、冗談が大好きで、笑い声が絶えません。

 「友達がさ、外国人を抜いたら、すげー少なくなるよね」

 「確かに言えてる。クラスの半分だもの」

 多国籍が「日常」の学校なんて、日本ではまだ珍しい光景です。そう言うと――

 「それが分からないくらい一緒にいる」

 日本人児童の即答に、全員が一斉にうなずきました。(増田勇介、知立東小の写真は吉本美奈子撮影)

■「日本語指導が必要な児童生徒」3万7千人

 文部科学省によると、全国の公立学校に通う「日本語指導が必要な児童生徒」は約3万7千人(2014年度)で、15年前の1.8倍に増えた。最多は愛知県の約7800人。母語はポルトガル語(主にブラジル)24%、中国語21%、フィリピノ語20%の順に多い。

 文科省は14年度、小中学校での日本語指導を「特別の教育課程」と位置づけ、通常の教科に替えて授業を組めるよう規則を改正。対象生徒を周辺校から集めて指導する「センター校」を設ける自治体もある。

 高校入試で、来日生徒向け特別入試に先進的に取り組む大阪府は府立6高校の定員の5%で募集し、数学、英語、母語の作文で受験できる。

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