NHK高校講座

日本史

Eテレ 毎週 金曜日 午後2:00〜2:20
※この番組は、昨年度の再放送です。

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今回の学習

第36回 第4章 近代国家の形成と国民文化の発展

日中戦争

  • 日本史監修:創価大学教授 季武 嘉也
学習ポイント学習ポイント

一.満州事変 二.テロとクーデター 三.日中戦争

今回の時代と三つの要
  • 日本軍の様子が描かれた子ども用着物
  • 羽織の羽裏にも、戦闘の様子が描かれている

今回のテーマは、日中戦争です。日本は、ここから長い戦争に突入していくことになります。

今日のテーマにちなみ、スタジオには当時を象徴するようなものが用意されました。当時の着物です。
子ども用の着物には、飛行機や戦車、落下傘などの柄が描かれています。さらに大人用の着物の上に着る羽織も、一見普通のものに見えますが、裏地(羽裏)には戦闘の様子が描かれた柄が施されています。

AKB48の3人は、「生々しい」「自分の子どもには着せたいとは思わない」といった感想を持ち、複雑な表情です。

高橋館長 「生々しいですよねえ。1935年前後に作られたと思われるものですが、日本兵と、中国兵が戦っている場面が描かれています。人々の生活の中に、戦争が浸透していた時代でした。」

  • 今回は1930年代の昭和初期
  • 中国が一つにまとまるきっかけとなった

今回の時代は、1930年代の昭和初期です。

1931年、満州事変が勃発します。日本はなぜ、中国へ勢力を拡大しようとしたのでしょうか。
そして その後、日本は国際社会で孤立して戦争へと足を踏み入れ、泥沼化していきます。


今回押さえるべき三つの要は、

一.満州事変
二.テロとクーデター
三.日中戦争

です。

第二次世界大戦につながる戦争へ、日本はなぜ突き進んだのでしょうか。


関東軍は親日的だった満州の軍閥 張作霖を爆殺し(張作霖爆殺事件)、これをきっかけに武力行使をしようとしました。しかし、張作霖の後を継いだ張学良は、国民政府側についてしまいます。
関東軍は、その意図に反し、中国が一つにまとまるきっかけを作ってしまうことになりました。

このままでは、満州での日本の権益が脅かされると考えた関東軍は、ある行動を起こします。

要 其の一 「満州事変」
  • 満州には日露戦争で獲得した権益があった
  • 南満鉄線路を関東軍が爆破し始まった満州事変

1920年代後半の中国では、蒋介石率いる国民政府のもと中国全土統一の動きが進み、主権回復の機運が高まっていました。
それは中国東北部、満州においても同じでした。

しかし満州には、日露戦争後に日本が獲得した様々な権益がありました。満州は、重化学工業の資源や農民の移住先という点で、日本の発展に不可欠だとして重視されていました。
そうした権益が、中国国民政府によって脅かされるのではないかと考えた関東軍参謀 石原莞爾(かんじ)らは行動を起こします。
1931年9月18日、柳条湖で南満州鉄道の線路を爆破し、これを中国軍の行為であるとして軍事行動を開始しました。

  • 溥儀を執政に満州国を誕生させた
  • 中国の訴えでリットン調査団が派遣された

この満州事変を受け、若槻礼次郎 内閣は、関東軍をこれ以上進軍させない不拡大方針を表明しました。
しかし陸軍はこれを無視し、わずか5カ月足らずで、満州全土を占領してしまいます。そして、満州族の皇族で清朝最後の皇帝 溥儀(ふぎ)を執政に置き、満州国を誕生させました。
これに対し中国は、「満州事変は日本の侵略行為である」と、国際連盟に訴えました。それを受けて、国際連盟からリットン調査団が派遣され、満州事変の調査にあたりました。
このころ、斎藤 実(まこと)内閣は陸軍の主張を認め、日満議定書を取り交わして満州国の独立を承認してしまいます。

  • 日本軍撤退勧告を受け国際連盟から脱退
  • 列強が敷いたブロック経済

その後 開かれた国際連盟総会はリットン調査団の報告書を受け、満州に対する中国の主権を認め、日本軍の撤退を勧告する決議案が42対1で可決します。

唯一反対票を投じた日本は国際連盟を脱退し、国際社会から孤立する道へと進んでいくことになります。

日本は、経済面でも列強と摩擦を生じます。当時、イギリスやフランスなどの列強は、本国と属領の結びつきを強めてブロック経済圏を強化しました。自国の産業を守り、世界恐慌から抜け出すためでした。

  • 金輸出を再び禁止して円安政策
  • 軍需で工業生産が飛躍的に伸びた

その頃、大蔵大臣の高橋是清は金輸出を再び禁止して、円安政策を行いました。その影響もあって、綿製品の輸出がイギリスを抜いて世界一になるなど、国際収支を好転させました。

これに対してイギリスやフランスは、円安政策で値段を下げた日本の輸出を批判します。そして日本製品に高率の関税をかけて対抗しました。


日本が国際社会から批判されるような行動をとったのには、軍部が徐々に国民からの支持を受けるようになったことも関係があるといいます。
当時、軍の需要が大きくなったことなどの影響で、重化学工業がめざましく発展しました。

右図は、世界恐慌中の各国工業生産の推移を表したもので、1929年の生産量を100としています。
日本の生産量は、満州国建国 翌年の1933年を見てみると、まだ他の国が低迷する中で飛躍的に伸びていることが分かります。
国民は、これが円安政策による輸出の増大だけでなく、軍部の後押しによって景気が好転したと捉えました。こうして国民が支持したことで、軍の意向が通りやすくなっていきました。

その最中、さらに軍部が台頭する事件が起こります。

要 其の二 「テロとクーデター」
  • 政党内閣に不満を持つ海軍将校らによる犯行
  • 非常時の名の下に「挙国一致内閣」を組織

1930年代、昭和恐慌や満州事変に対する政党内閣の対応に、不満が高まっていました。
そして政財界の要人が暗殺されるテロや、陸軍の青年将校や右翼らによる軍事政権樹立を狙うクーデター計画などが次々に起こります。


若槻内閣の後を継いだのは、やはり立憲政友会の犬養 毅を首相とする政党内閣でした。
1932年5月15日、政党内閣に不満を持っていた海軍将校らが、犬養首相を暗殺しました。
次いで政権を握ったのは、海軍の長老、斎藤 実です。斎藤は非常時の名のもとに、政党にこだわらず幅広く人材を集める「挙国一致内閣」を組織します。
こうして、政府は軍部寄りになっていきました。

  • 陸軍内部の対立
  • 皇道派の青年将校らが決起したクーデター

この頃、陸軍内部では、皇道派と統制派という派閥が主導権争いを繰り広げていました。
皇道派は、農村出身の青年将校が中心で、天皇中心の革新論を唱えていました。一方、統制派は軍部の統制のもと、強力な総力戦体制を目指すエリートたちが中心でした。

1936年2月26日、皇道派の青年将校たちが決起して1400人の兵士を率い、皇道派中心の軍事政権を樹立しようとした二・二六事件が起こります。
彼らは首相官邸や警視庁などを襲撃し、大蔵大臣 高橋是清や 内大臣 斎藤実らを暗殺し、永田町一帯を占拠しました。

側近を殺害された天皇の強い意向もあり、海軍・陸軍の統制派が中心となって鎮圧に乗り出します。そして四日間に及ぶクーデターは失敗に終わりました。

事件の責任をとって岡田内閣は総辞職し、続いて、広田 弘毅(こうき)が内閣を組織しました。統制派を中心とした陸軍は、広田に迫り、軍部大臣現役武官制を認めさせました。
こうして、二・二六事件の後、軍部の力はますます強まっていきました。

  • 軍部大臣現役武官制

軍部大臣現役武官制とは、軍部の大臣を、現役の軍人から出さなくてはならないという制度です。それ以前は退役軍人なども含め、現役でなくとも大臣になることができました。しかし軍部大臣現役武官制により、軍部の意向に沿わない組閣がされた場合、軍は大臣を出さないことで、その内閣を成立させないことが可能になってしまいました。

土保 「軍部の意向に従わない政権は認めない、ということですか?」

高橋館長 「そういうことがまかり通るようになってしまったんですね。そして、日本は全面戦争へと突入していくわけです。」

要 其の三 「日中戦争」
  • 盧溝橋事件から日中戦争へ
  • 内戦で敵対していた国民政府と共産党が提携

1937年、北京郊外の盧溝橋で、日中両軍の武力衝突である盧溝橋事件が起こりました。
近衛文麿 首相は、不拡大方針を声明しながらも中国への派兵を認めます。こうして日本は、中国との全面戦争である、日中戦争へとなだれこむことになります。

中国では、内戦を繰り広げていた国民政府と共産党が、提携を結びました。
この第二次国共合作によってできた抗日民族統一戦線が、頑強な抵抗を続け、日本軍は苦戦を強いられることになりました。短期決戦を予想していた日本軍の見込みは外れます。

  • 南京事件により諸外国から非難
  • 東亜新秩序建設を発表

日本軍は大部隊を送り込み、国民政府の首都 南京を占領しました。この際、女性や子どもを含む多くの中国人を殺害する南京事件を起こし、諸外国からも非難を浴びました。

当時、水面下では近衛首相が、国民政府との和平工作を進めていました。しかし和平が難しいとなると、1938年1月、「国民政府を対手とせず」と自ら和平の機会を断ち切ってしまいます。
そして、「東亜新秩序建設の声明」を発表し、日本・中国・満州からなる独自のブロック経済圏の建設を宣言します。
さらに日本は、国民政府の要人 汪兆銘(おうちょうめい)を重慶から脱出させます。そして1940年、南京に日本に協力的な新政府を樹立させます。しかし、この政権は国民からの支持を得られませんでした。

国民政府や中国共産党は、アメリカやイギリス、ソ連などの援助を受けて徹底抗戦を行います。戦争終結はますます困難となり、日本は長期化する戦争へと突き進んでいきました。


向井地 「長期間の戦争をするつもりはなかったのに、そうなってしまったということですよね。怖いですね。」

高橋館長 「そうですね。また、中国はイギリスやアメリカの支持を受けて、徹底抗戦しました。それが今度は、第二次世界大戦へとつながってしまうわけです。次回は、そのあたりを見ていくことになります。」

日本の歴史 いとをかし
  • 創価大学 教授の季武 嘉也先生
  • 爆弾三勇士の記事

前回に引き続き、季武 嘉也 先生(創価大学 教授)に話をうかがいます。
テーマは、戦争柄の着物とも関係がある、「国民が戦争をどう捉えていたか」ということについてです。

軍部の意向が政府の意向を上回り、全面戦争へと突き進んでいった背景には、国民の熱狂があったといいます。
1932年2月24日の「大阪毎日新聞」の朝刊に、「爆弾三勇士」という記事がありました。中国の上海でも、満州事変が飛び火する形で日中両軍が衝突する事件が起こりました。この記事は、その事件について書かれたものです。
戦闘中に、三人の一等兵が爆弾を抱きかかえたまま敵陣に突入し、敵陣の一部を突破しました。当然、その際に三人は命を落とします。


季武先生 「陸軍はこれを美談にしようとしました。そして新聞もそれに協力しました。さらに新聞だけでなく、この話は、映画やお芝居、流行歌などでも、国民に広く宣伝されました。」

向井地 「なんでメディアはこんなふうに戦争に協力する姿勢を取ったんですか。」

季武先生 「色々と理由があるんですけれども、その一つは、その方が新聞がよく売れる、ということでした。」

  • 満州事変後に新聞発行部数が増加
  • 次回もお楽しみに〜

次に、新聞の発行部数に関するグラフを見てみます(左図)。これは「大阪朝日新聞」と「東京朝日」の発行部数の合計です。満州事変勃発とともに売り上げは急速に増加しています。
これは朝日新聞に限ったことではなく、新聞各社はこの事変が売り上げ増加のきっかけになると考えたといいます。

土保 「なぜ、国民はこのように熱狂したのですか?」

季武先生 「今まで勉強したように、当時の日本は、中国大陸ではそれまで持っていた権益が、中国ナショナリズムの発展で次第に狭まっていく状態でした。また、経済も昭和恐慌となって会社は倒産し、農家は借金で苦しんでいました。そういう “ジリ貧” 状態の中で、何とか飛躍の契機を掴もうと必死でした。つまり、国民全体にとって、新たな飛躍のきっかけが満州事変だったということなんですね。」

高橋館長 「これはその時代に生きてみないと分からないですけどねえ。先生、貴重なお話をありがとうございました。難しいねえ。でも、戦争は嫌だよねえ。」

AKB48の3人 「嫌です。」

高橋館長 「気持ちが落ち込んでいるときに、何か明るい話題がほしいっていうのは分からないでもないけれども…。それが、こういう形での記事を求めるようになってしまうと、やっぱりちょっと違った方向に行ってしまうんじゃないでしょうかね。」

季武先生 「そうですね。今から考えれば。」


それでは、次回もお楽しみに!!

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