民間人の正田美智子さんが皇室に入り、プリンセスになることは、日本のみならず海外でも大きく報じられ、外国のメディアも取材陣を繰り込んできた。やはり戦後閉ざされていた「菊のカーテン」が開かれることを期待してのものだった。
昭和33(1958)年11月の発表以降、美智子さんの動向を特に週刊誌や女性誌は事細かに伝える。まず注目されたのは外出時のファッションスタイルであり、カラーやモノクロ写真で紹介されてモード界にも影響を与えた。白いヘアバンドにミンクのストール、プリンセスラインと呼ばれた、裾広がりのワンピースがもてはやされ、デパートや洋品店に並び、同世代の若い女性に「ミッチー・ブーム」が広まり、あっと言う間に全国的にフィーバーし社会現象を巻き起こした。平民から皇室入りする、まさにシンデレラであり、そういったスタイルは若い女性たちのあこがれとなり、喫茶店での話題も美智子さんの話題に終始し、将来の自分たちの夢を語り合う姿があった。これほど皇室を身近に感じることはかったわけで、「菊のカーテン」が、少し開かれた時代だった。余談だが、その年の12月1日に、初めて一万円札が登場している。
フィーバーの頂点となったのは、昭和34(1959)年4月10日である。その日は国民の休日となり、前日の雨も上がり晴れ渡たった。結婚の儀を終えた皇太子殿下と美智子妃殿下を乗せた六頭立てのオープン馬車は、皇居から二重橋を渡り、新居である東宮仮御所まで約一時間のパレードを行った。沿道は祝福する83万人で埋まり、それに応えて手を振る姿がTVで実況中継され、この「世紀の祭典」を全国で1500万人が観たという。こちらは、新米の写真部員だったから、先輩カメラマンのアシストのために、二重橋の正面に当たる明治生命の屋上にいた。先輩は超望遠レンズで馬車行列を狙う。撮ったフィルムをすぐさま社の封筒に入れ、ロープに付けたザルで、屋上から約25メーター下の地上で待機する社の運輸部のオートバイ運転手に降ろすのが私の役目だった。
夜には全国各地で祝賀の提灯行列などが行われ湧きかえった。当方は、国立競技場での「皇太子さまおめでとう」の、光の人文字の撮影に出向いた。日本女子体育短大と藤村高校の生徒たちが演じたもので、国民の喜びと祝福をこめグラウンドに浮かび上がった光の人文字はきらめいて美しかった。
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