Where microaggressions really come from: A sociological account | The Righteous Mind
今回私訳したのは、社会学者のブラッドベリー・キャンベルとジェイソン・マニングによる共著論文「マイクロアグレッションと道徳文化」を社会心理学者のジョナサン・ハイトが要約した、という記事である。私自身は、元の論文の方は読んでいない。
論文の主なテーマである「マイクロアグレッション」は、日本では馴染みのない単語だろう。このブログの過去記事では、マイクロアグレッションという考え方やマイクロアグレッションを訴える人に対して批判的な記事をいくつか訳している。検索すれば賛同的・中立的に「マイクロアグレッション」について日本語で説明している記事も出てくると思うので、そちらも参照した方がいい。
ハイトの記事の原文は、キャンベルとマニングの論文を引用しつつ、時折ハイト自身の私見も挟まれる、というものである。原文と同じく、訳文の方でもハイトの意見は [ ](ブラケット・角括弧)に入れている。原文の方では、ハイトが重要だと思っている文章は太字で強調されているが、訳文の方では煩雑になるので強調はしていない。また、参考文献や書誌情報なども省略している。
社会学にはあまり馴染みがないので、見慣れない単語は手探りで訳した。訳語や訳し方を間違えている箇所は多々あると思うので、英語ができる人は原文を参照することをお勧めする。
「マイクロアグレッションの本当の原因:社会学的考察」by ジョナサン・ハイト
先程、私は二人の社会学者(ブラッドリー・キャンベルとジェイソン・マニング)によるとても優れた論文を読んだ。何故ここ数年のアメリカの大学でマイクロアグレッションについての懸念が大量発生したのか、ということについて説明している論文だ。手短に要約してみよう:現在は、私たちの道徳文化に二度目の変化が生じ始めているところである。道徳文化における最初の主要な変化は、18世紀と19世紀に起こった。西洋社会は「名誉」の文化から「尊厳」の文化へと移行したのだ。「名誉」の文化では、人々は名誉を獲得しなければならず、自分に対して侮辱がなされた時には自分自身で復讐を行わなければならなかった。「尊厳」の文化では、人々には尊厳があることが前提となっており、尊厳を獲得する必要もない。人々は暴力を行使しないことを誓い、多少の犯罪や違反行為に関しては、人々はその行為を無視するか社会的な手段によって解決することを試みる。もはや、決闘が行われることはない。
キャンベルとマニングは、現在の尊厳の文化がいかに「被害者性(Victimhood)」の文化に取って代わられようとしているのか、ということを解説している。*1被害者性の文化では、名誉の文化と同じように、非常にささやかな攻撃や意図されていない攻撃にも反応するように人々は促される。しかし、人々は自分自身で相手に補償を求めようとするのではなく、自分たちが犠牲になったことを権力を持った人や管理機関・行政機関に訴えて、助けを請わなければならない。非常に平等で多様性のある文化と、管理機関(多くの大学など)の存在が、自分自身を脆弱で傷付けられた被害者であると認識することへの熱心な努力をもたらしたのだ。これが、マイクロアグレッションについての懸念が近年になって爆発的に拡大した理由であり、トリガー警告やセーフ・スペースの要求が拡大している理由である(これらの現象については、私とグレッグ・ルキアノフの共著記事「アメリカン・マインドの甘やかし」でも書かれている)。*2
今月の後半には、この優れた論文の意義を示すブログ記事を書く予定だ。しかし、その前に、多くの人がこの論文に書かれている考えに触れられるようにしよう。かなり長い論文であるが、主な段落ごとのアウトラインを以下に書いている。それぞれの段落からは、文章を大幅に抜粋している。私が望んでいるのは、あなたが7分間かけて下の文章を読むことで、論文の価値の80%を理解することだ。
(…中略…)鍵となる考えは、以下の通りだ。被害者性の道徳文化は「道徳的依存」を助長してしまい、個人間の些細な問題に自分自身で対処する能力を減退させてしまう。個人が弱められるのと同時に、人々は被害者のステータスや被害者の擁護者というステータスを得ることを競い合うので、激しい道徳的紛争が絶え間なく続く社会が登場してしまう。
(…中略。論文のリンクが貼られている…)
1・イントロダクション
ある人が別の人の行動を「逸脱(deviant)」(非道徳的、不愉快、など)と定義した時に、抗争(conflict)は起こる。*3不平をもたらす問題とは何であるか、それらの問題はどのように対処されるか、ということには社会状況によって非常に違いがある。紛争と社会的コントロールは遍在しており、多様であるのだ。この論文では、アメリカの大学に共有されつつある新しい種類の社会的コントロールである「マイクロアグレッションの喧伝」に注目することで、現代の社会において変化している紛争のパターンについて論じよう。この現象を分析するうえで、まず、「マイクロアグレッションの喧伝」は「被害者が第三者から助力を得て行使させようとする」という紛争戦略のカテゴリに含まれていることを示そう。これらの戦略には、時には、攻撃を記録する・攻撃を大げさに表現する・攻撃を偽造することによって訴えを成立させようとすることも含まれている。これらの戦略が利用する社会的なロジックと、これらの戦略を生み出す社会的な状況についても論じよう。紛争に対処するうえで、被害を受けた個人が第三者に頼ることを促進するが、第三者の助力を得ることは問題にもなる、という状況である。その次には、マイクロアグレッションの訴えで表現される不平と、それに関する社会的コントロールの形式について論じよう。不平等に注目し、加害者の優勢と被害者の抑圧を強調する社会的コントロールだ。
抑圧と被害の不平を訴えることを促進する社会状況は、第三者を惹きつけることで訴えを成立させようと試みることを促進する社会状況と重なる、ということを論じる。そのような社会状況が高い度合いで存在していることは、被害者性の文化をもたらす結果になる。個人や集団が、自分たちは些細な軽視にも敏感に傷つくということを見せびらかし、第三者に訴えることで紛争に対処しようとする傾向があり、助力の必要な被害者であるというイメージを獲得しようとする、という文化である。名誉の文化、尊厳の文化と、被害者性の文化を対比させて論じよう。
2・第三者への依存
A・ゴシップ、抗議、不平
人々が第三者の注目を惹くために不平を訴えるのにも様々な方法があるが、最も普及している方法は、家族・友人・同僚・知り合いに、プライベートに不平を言うことである。これはゴシップと呼ばれるものだ。その場に居ない人についての、その人の評価に関する会話である。…個人的な抗争と集団的な抗争の両方で、加害者を罰することやその他の形で問題に対処するために、権威の注目を惹きつける場合がある。子供たちはしばしば大人に不平を訴えるが、同じように、大人は法制度に自分の不平を訴えるのだ。マイクロアグレッションの隆興を説明するためには、個人が自分の問題を第三者に訴えることを導く状況を説明することが求められる。一般的に第三者への依存を助長するのと同じ要素が、不平を公然と主張するという特定の行為も促進する、と我々は推測している。
B・道徳的依存の構造的論理
自分たち自身にではなく第三者に頼る傾向を個人にもたらす状況は、複数存在する。その要素の一つは、法律である。歴史的には、法律が発達したことは、片務的な社会的コントロールの様々な形式を弱体化させた。所有権を保護する・抗争を解決する・加害者を罰するための法的な権威が存在しないか弱い時代や場所では、人々が自分自身の手で暴力的に攻撃することで問題に対処することが頻繁に行われていた。法律や社会コントロールを学ぶ学生たちが「自己救済」と呼ぶ現象である。…法的な権威は、過激でない自己救済や交渉による妥協や仲裁など、他の機構や社会的コントロールにも取って代わる可能性を持っている。人々が法律のみに依存するようになると、抗争に対処するために他の手段を使用する意志が減退してしまい、「法律的過剰依存」と呼ばれる状況を導いてしまう。
法制度と同様に、大学の管理当局も、学生と教職員との間の抗争を対処する場合がある。教育機関は、虚偽や剽窃などの学問的な非行を取り締まるだけではなく、個人間における攻撃を禁止する規則も増やし続けている。…しかし、第三者に対する依存は、権威に対する依存とは限らないことに留意しよう。権威による行動がとられなくても、ゴシップを言うことや公然と侮辱を与えることは、強力な制裁になり得る。最終的には権威による行動を求めている人でも、行動するように権威を説得するために、他の第三者による助力を用いる場合がある。むしろ、受けた攻撃を喧伝するための抗議集会・リーフフレットを配るキャンペーン・webサイトなど、現代における抗議運動の核心とは、行動するように権威を説得するための十分な助力を公衆から集めることを目的としたものであるように見受けられる。
3・助力を求めるためのキャンペーン
マイクロアグレッションに関するwebページに関して目立つ特徴は、それらのサイトは単一の攻撃についての注目を引こうとしているのではなく、複数の攻撃を一連にまとめることで、単一の事件よりも重大なものであるように表現していることだ。「マイクロ(micro)」という単語が示すように、「マイクロアグレッション」とは、多くの人から些細な攻撃であると見なされたり、全く攻撃的だと見なさない人もいるような軽蔑や侮辱のことである。例えば、オバーリン大学のマイクロアグレッションに関するwebページに書かれているように、「人種差別的、ヘテロセクシュアル的・同性愛差別的、反ユダヤ主義的、階級主義的、障害者差別的、性差別的・LGBT差別的、その他の差別的言説」と呼ばれる行為は「特定の事件や出来事であるのではなく、構造的不平等の一部なのである」ことを示すのが、マイクロアグレッションに関するwebページの目的である。これらのwebページは、観察者が理解するよりも深刻な不正義が起こっていると示すことで、不正義に対する道徳的改革運動の支持を動員して保持することを狙っているのだ。
A・党派精神の構造的論理
社会学者のドナルド・ブラックによる、党派精神(Partisanship)の理論は、第三者からの支持が得やすくなる二つの状況を示している。第一は、抗争の当事者の片方のみと第三者との社会的な位置が近い場合に、第三者は社会的に立場が近い方の当事者の肩を持って徒党として行動する可能性が高くなる、ということだ。…第三者が片方のみの当事者と共有する社会的結びつきや類似性がいかなるものであったとしても、党派精神がもたらされる可能性は高くなる。第二に、抗争の当事者の片方の地位がもう片方よりも高い場合、第三者は社会的に立場が高い方の当事者の肩を持って徒党として行動する可能性が高くなる。…しかし、助力を求めるキャンペーンは、必ずしも社会の最下層から発生するものではないことに留意してほしい。助力を求めるキャンペーンは、財産・社会的な扱い・教育・その他の社会的地位が全く欠乏している人たちが主に行っている訳ではないのだ。むしろ、マイクロアグレッションについての不平や抗議運動は、アメリカの大学における比較的裕福で教育を受けた人たちの間で盛んに行われているのである。社会的な地位の低い人や部外者は、あまりにも立場が弱いので、第三者が彼らのキャンペーンを支持する可能性は低いし、キャンペーンを目にする可能性も低い。
B・党派精神と抗争の激しさ
[党派精神がいかに攻撃を拡大視し、誇張して、存在しない攻撃を作り出しさえもするのか、ということについての長い段落である]
4・逸脱としての支配
マイクロアグレッションの訴えに関する第三の特徴は、不平等と抑圧に注目した訴えであることだ。特に、ジェンダーや民族など、文化的な特性に基づいた不平等と抑圧である。ある行為が攻撃的であるのは、ある個人や集団に対する別の個人や集団による支配を永続させたり増加させたりするから、ということだ。
A・過剰階層性としてのマイクロアグレッション
上述したように、社会学者のブラックによると、階層・親密な関係・多様性が変化することは、抗争を引き起こす。マイクロアグレッションの訴えの大部分は、階層の変化に関するものである。訴えをする人は、ある行為は社会的関係における不平等を増すものである、と主張する。ブラックが「過剰階層性(overstratification)」と呼ぶものである。過剰階層化的な攻撃は、誰かが他人よりも上の地位にいるか下の地位にいる時なら、いつでも起こり得る。…平等を優先して抑圧を非難する道徳は、既に平等が比較的高い度合いで達成されている状況においてこそ、発生する可能性が最も高い。…現代の西洋社会では、実際に政治的平等や経済的平等が発達するのに伴って、平等主義的な倫理も発達してきたのだ。多くの女性が職場へと進出し、教育の機会が増加し、法律や医学などの高収入な専門職にも就けるようになり、地方・州・国における政治にも進出するにつれて、性差別主義はどんどん「逸脱」であると見なされるようになった。タブーはあまりにも強くなり、プライベートの場であっても、人種差別的な意見を言うことは有名人としてのキャリアやビジネスマンの資格を危うくするものとなった。[つまり、より平等で人道的な社会へと向かう進歩が達成されれば達成される程に、より小さな攻撃によって憤慨が引き起こされるようになる、ということだ。基準が変わるので、人々が一定以上の怒りと被害者意識を感じ続けられる。」
B・過少多様性としてのマイクロアグレッション
マイクロアグレッション的な攻撃には、ブラックが「過少多様性(underdiverstiy)」と呼ぶ要素が含まれていることが多い。「過少多様性」とは、文化の否定のことだ。非多様性の大規模な行為はジェノサイドや政治的抑圧となり、小規模な行為はエスニック・ジョークや侮辱となる。後者が、マイクロアグレッションを喧伝している人が懸念を抱いていることである。彼らは、より微妙で、ただの不注意であるかもしれない文化的な侮辱にも懸念を抱いている。…過剰階層性に関する抗争は階層性と反比例しているように、非多様性に関する抗争は多様性と正比例している。先述した通り、階層性を増そうとする試みは、階層性が少ないところでほど逸脱性を増す。同じように、多様性を減らそうとする試みは、多様性が大きいところでほど逸脱性を増す。現代の西洋社会では、民族的・文化的寛容の倫理(多くの場合は矛盾することになるが、不寛容に対する不寛容も)は、多様性が増すのに伴って発達してきた。マイクロアグレッション的な攻撃には多くの場合は過剰階層性と過少多様性が含まれており、社会的な状況が過剰階層性と過少多様性の深刻さを増加させている場合に、マイクロアグレッション的な攻撃に激しく関心が集まることになる。平等と多様性が最も評価される状況とは、現代のアメリカの大学のように、平等で多様な状況なのだ。この状況でこそ、平等と多様性に対する攻撃と見なされるものが最も逸脱的になる。[またもや、パラドックスだ。平等と多様性について最も進歩が達成されてきた場所でこそ、ある物事を平等や包括性に対する攻撃であると見なす閾値が最も低くなる。一部の大学は閾値をあまりにも下げすぎてしまい、「君はどこから来たの?」のような好奇心にもとづいた罪のない質問ですら、攻撃的な行為という悪名を負わされるようになっているのだ。]
C・徳としての被害者性
被害者たちがマイクロアグレッションを喧伝することは、彼らが加害者による逸脱的な行為であると見なしているものに人々の注意を惹こうとすることだ。同時に、自分たちが被害を受けたということにも注意を惹こうとしている。第三者の共感を得るためにとられる方法の多くは、被害者が弱い立場であることを強調し大げさに言うことだ。力のある人たちに抑圧される存在として、人々は自分自身を描写する。被害者、弱者、貧困者、など。[そのような習慣は古代ローマや古代インドまでにさかのぼる、ということが論じられている。」…しかし、なぜ被害者性を強調するのだろうか?もちろん、加害者と被害者の間の違いは常に道徳的に重要であり、加害者の地位を低くするものである。しかし、マイクロアグレッションが起きるような状況では、加害者は抑圧者でもあり被害者は被抑圧者でもあり、そのことは被害者の道徳的地位を高めることになる。このことは不平を喧伝するインセンティブを増す。そして、被害を受けた集団は、自分たちのアイデンティティとして被害者性を強調し自分たちの苦しみと罪の無さを強調する可能性が特に高くなる。彼らの敵対者は特権を享受しており非難されるべき人だが、彼らの自身は哀れであり非難される謂れのない人なのだ、ということだ。[これは大きな悲劇だ。被害者性の文化は、被害者や弱者であることを自分自身のアイデンティティと見なすことに、報酬を与えてしまうのだ。このことは、学生が大学から卒業して職場に進出する際には、失敗をもたらし、絶え間なく訴訟を引き起こすことになるだろう。]
[改めて注意:ブラケット(角括弧)に入っている文章以外は、すべて、キャンベルとマニングの論文から引用している文章である。]
5・マイクロアグレッションの社会的構造
要するに、マイクロアグレッションの一覧は社会的コントロールの形式の一つである。被害者たちは集合的な攻撃の事例を集めて喧伝し、比較的些細な侮辱の事例をより大きな不正義の一部であると位置付けて、侮辱に苦しむ人は社会的に軽んじられている人たちであり共感されるべき存在だと主張する。[この形式の社会的コントロールを登場させる社会的状況には]文化的に多様であり比較的高い水準で平等が存在しており、法律に関する職員や組織の管理者などの非常に優位な第三者が存在している、という社会的状況が含まれている。…このような状況では、個人は抑圧についての不平を表明する可能性が高まり、被害者たちが第三者の援助に依存する可能性が高まる。被害者たちは広い範囲から自分たちの支持者を探そうと試み、意地悪な加害者ではなく自分たちの方が支持を必要としているのだと強調するキャンペーンを行う。
特にアメリカでは、複数の社会的傾向が、これらの形式の社会的コントロールの登場を促進した。1960年代と1970年代の権利革命以来、人種的・性的・その他の集合的な不平等は減少した。社会はより平等となって、残っている不平等に対しても人々はより敏感になった。また、最近の数十年において、法的・行政的な権威は強くなった。これには、大学行政の規模と範囲の成長、最高管理者の給料の増加、社会的コントロールに特化した機関の設立(例えば、人種的・性的・その他の集合的不平等に対抗して「社会的正義」を増加させることだけを目的とした部局など)が含まれる。社会の原子化は増して、過去には対立的な形式の社会的コントロールを促し堅強な徒党を個人に与えるものであった連帯的なつながりが減少した。同時に、現代のテクノロジーはインターネット上でのマス・コミュニケーションによって脆弱な徒党を登場することをもたらした。この傾向は特に劇的であり、被害者は何百万人もの第三者にアピールすることが可能になった。…ソーシャル・メディアが更に偏在するようになるにつれて、世論による審判をいつでも持ち出せるようになり、加害行為が公に晒される可能性は高くなる。自分が受けた被害を喧伝することは、人々の注意を惹いて支持を得るための確実な手段となっていく。現代の社会状況は、新しい道徳文化の登場さえも導くかもしれないのだ。[要するに、より多くの平等と包括性を実現するための進歩は、言動に関する不平の訴えを聞き入れて裁決を下すのが役目である、大学における管理者やその他の「大人たち」の登場とセットになっているのだ。それに加えて、社会の原子化やソーシャルメディアの力による倍増などが、ここ数年の大学において「マイクロアグレッション」の非難がなぜこれほどまでに急速に出現したのか、ということを説明している。]
6・道徳文化の進化
かなり以前から、社会科学者たちは「名誉の文化」を持つ社会と「尊厳の文化」を持つ社会との区別を認識してきた。…現代の西洋社会で起こった道徳の進化は、名誉の文化からの尊厳の文化への移行だと解釈することができる。
A・名誉の文化
名誉とは、身体的な勇敢さと誰に対しても服従しないという意志に付属している、一種のステータスだ。他人からの評価に依存している地位であり、名誉の社会に住む人たちは、自分を攻撃した人に対して暴力的に報復することで自分の勇敢さを示すことが求められる。そのような復讐を行った人は、多くの場合、他人の評価のために自分には他の選択肢は無かったのだと言う。…名誉の文化では、ある人に名誉があるかどうかを決めるのはその人の評判である。だから、侮辱・攻撃・挑戦に対しては攻撃的に反応しなけばならない。抵抗しないことは道徳的な欠点であり、「名誉の文化では、激しい復讐を行うことではなく復讐に失敗することによって、 人々は仲間はずれにされて批判される」。名誉ある人々は自分たちの評判を守らなければならないので、侮辱に対して非常に敏感であり、部外者が些細な中傷だと見なすようなことにも攻撃的に反応することが多い。…法的権威が脆弱であるか存在しない場所であり、「タフである」という評判だけが他人からの略奪や攻撃を抑止する効率的な手段である場所において、名誉の文化は登場しやすくなる。名誉の文化で育った人は個人の勇敢さや手腕を信頼しているので、法律やその他の権威が存在する場合であっても、それらの権威を信頼しないことが多い。問題の対処を他人に頼ることは自分の地位を下げることだと考えて、拒否するのだ。しかし、歴史的には、国家の権威が拡大し法律への信頼が増加するにつれて、名誉の文化はまた別の文化へと道を譲ることになった。尊厳の文化である。
B・尊厳の文化
現代の西洋社会の文化では、名誉の文化とはほとんど正反対の道徳コードが普及している。人々は尊厳を持っているとされているのだ。尊厳とは、世間の意見に基づいた地位である名誉とは違い、他人に奪われることのない内在的・本質的(inherent)な価値である。尊厳は他人がどう考えるかということに関係なく存在しているのであり、尊厳の文化では世間の意見の重要性は低い。侮辱は加害を引き起こすかもしれないが、勇敢であるという評判を築いたり傷付けられたりすることは、それほど重大なことではなくなっている。中傷や深刻な侮辱すらも気にせずに無視できる「厚い面の皮」を持っていることは、褒められることでさえある。尊厳に基づいた社会では、親たちは子供に「棒や石は私の骨を折るかもしれないが、言葉が私を傷付けることはない」ということを教えるだろう。名誉の文化では想像できないような考え方だ。人々は、意図的であるか否かにかかわらず他人を侮辱することも控えるようになる。そして、自己抑制の倫理が普及する。
耐え難い抗争が起こった時には、交渉の末の妥協など直接的だが非暴力的な行為によって問題解決を目指すことが、尊厳の文化では求められる。それに失敗したり、攻撃が充分以上に深刻である場合は、人々は警察に行くか法廷で訴えたりする。名誉の文化とは違って、尊厳の文化では第三者へ訴えることが良いとされており、「法を自分の手で執行する」人は非難される。窃盗・殺人・契約違反などの攻撃に対しては、尊厳の文化の人々は恥じることなく法律を使用する。しかし、自己抑制と寛容の倫理のために、裁判は必ずしも最初に実行される手段ではない。権威への訴えを多用することは軽薄として非難される可能性もある。深刻であるが事故である人体損傷についても、寛容に扱うことが期待される場合もあるのだ。…尊厳の文化の理想では、裁判は可能な限り行わない方がいいし、行うときにも手短で静かに行うべきである。現代社会における法律・秩序・商業の発達は、尊厳の文化の登場を促進した。大部分において、西洋の中産または上流階級の間で名誉の文化は尊厳の文化に取って代わられた。…しかし、マイクロアグレッションの訴えの登場は、道徳文化が新しい方向へと進化していることを示唆している。
C・被害者性の文化
マイクロアグレッションの訴えは、名誉の文化とも尊厳の文化とも相反する特徴を持っている。名誉の文化の人々は侮辱に敏感であるから、意図されていないものであったとしてもマイクロアグレッションは深刻な攻撃であり真剣な反応が要求される、ということには同意するだろう。しかし、名誉の文化では片務的な攻撃なら評価されるが、他人に助けを求めることは軽蔑される。自分自身の被害を喧伝して誇張さえして、他人からの共感を求めために公然と訴えることは、名誉の文化では嫌悪される。自分には名誉が全く無いことを訴えているのに等しいからだ。一方で、尊厳の文化に暮らす人々は、第三者に訴えること自体が恥であるとは全く思わない。だが、言葉による些細な攻撃について大げさに訴えることが褒められる訳でもない。尊厳の文化の人々なら、問題について直接話し合うために加害者と向かい合うことを勧めるか、より良い方策として、問題となっている言葉を無視してしまうことを促すだろう。
被害者性の文化の特徴とは、地位についての懸念と侮辱に対する敏感さと、第三者を当てにしている度合いの大きさだ。意図されていないものであったとしても人々は侮辱に耐えられず、権威や社会一般を問題に注目させることによって対抗する。支配こそが逸脱の主要な形式であり、被害者になることは共感を得る方法でもある。被害者は、自分自身の強さや価値を強調するのではなく、自分の受けた抑圧や自分が社会的に疎外されていることを強調するのだ。…このような状況のもとで、第三者への訴えが寛容・堪忍(toleration)や交渉に取って代わった。人々は他人からの助けを求めるようになり続けて、自分が尊重と助力に値することの証拠として自分が受けた抑圧を喧伝する。このような道徳文化は「被害者性の文化」と呼ぶことができるだろう。犠牲者の道徳的地位は、名誉の文化では底辺に位置していたが、いまや頂点へと登りつめたのだ。
現状では、被害者性の文化は大学において最も定着している。マイクロアグレッションの訴えが最も普及している場所も大学だ。抗議デモや、ヘイトクライムによる被害を捏造するなど、第三者による助力を得るためのキャンペーンの他の方法も、大学では普及している。被害者意識の文化が学生活動家の間で共有されていることは余りにも明らかなので、読者たちは、この現象が政治的左派の全体に起こっている現象だと思われるかもしれない。たしかに、抑圧や被害を強調する言説は左派の世界観と特に相性が良い。だが、社会的な環境を共有している以上、被害者たちが相手に対して使用する戦略は、相手も同じ戦略を使用することを促すのだ。たとえば、ヘイトクライムを捏造する人たちの全てが左派であるわけではない。[具体例が示される]…被害者性(または名誉など)が地位を授けるというのなら、当然のことだが、あらゆる人がそれを主張したがる。臨床心理士のデイビッド・J・リーが記しているように、抑圧者というラベルを貼られた人も、しばしば「自分も同様に被害者である、と主張する」。たとえば、「ラディカル・フェミニズムに異議を唱えたために性差別主義者として批判された男性たちは、自分たちは裏返しの性差別主義の被害者であると主張することで自分たちを擁護する。被害者に対して共感的ではないとして批判された人たちは、自分たちが受けてきた被害を示そうとする」。[このように、被害者性の文化では、被害者性が競われて縮小均衡が起こることになる。左派の若者と右派の若者は、不平の渦巻きに巻き込まれるのだ。被害者性の文化が広まるにつれて、今後数十年間において政治的分極化が着実に進行していくことが予想される。]
7・結論
被害者性の文化は、軽蔑が危険であるという点を[尊厳の文化と]共有しているようだ。しかし、被害者性の文化では、[名誉の文化と同様に]自分自身への注目を惹こうとすることも認められている。その人が、自分自身の苦境についての注目を惹こうとしている限りにおいてだが…強さではなく弱さに、自分の行った偉業(exploit)ではなく自分が受けた搾取(exploitation)に注目させるのだ。たとえば、大学や大学院に出願する学生が書く志望理由書には、彼らが達成した学業的成果ではなく、親の失職や中古品店で買い物しなければいけなかったことなどの逆境を克服した経験について書かれていることが多い(大学も、そのように奨励している)。また、人々が不寛容になり続けて、公的な手段が実施されることを世間の雰囲気が強いる状況では、個人的な不快感が公的な政策に大きく影響することになる。たとえば、近年の「トリガー警告」の要求について考えてみよう。トリガー警告とは、大学の授業やシラバスにおいて、学生に苦痛を引き起こすかもしれないトピックを取り上げる前に、前もって学生にトピックについて通告することである。…[これは、マイクロアグレッションとトリガー警告の繋がりを明白に示している。どちらも、被害者性の文化においては妥当なものとされるのだ。]
これらの論争が示しているのは、過去に起こった名誉と尊厳との衝突と同様である、尊厳と被害者性との衝突だ。…尊厳と被害者性との衝突は、現代のアメリカと西洋諸国における大学やその他の環境において、同じ種類の道徳的混乱をもたらしている。ある人の基準は他人の不平を引き起こし、社会的コントロールそのものが支配と見なされて、意図的ではない攻撃に満ち溢れる。そして、抗争は続く。両方の側が主張をして、支持者を惹きつけて、様々な論争に勝ったり負けたりする。しかし、どちらの側の道徳的概念も、束縛の無い自由な概念ではないことを忘れてはいけない。どちらも、社会組織を反映しているのだ。マイクロアグレッションの訴えやその他の被害者意識の事例は、原子化されていて多様な状況であり、強固で安定した権威が存在しているという点を除けば充分に平等主義的な社会において起こる。このような状況では、平等を揺るがしたりマイノリティ文化を貶めるような行動は珍しくなり、行動が存在したとしてもその大半は些細なものとなる。しかし、この状況であるからこそ、些細な攻撃や主観的な認識上の攻撃であっても、大きな苦痛が引き起こされる。そして、他人や権威は共感的になるかもしれないとはいえ、彼らからの助力が自動的にもたらされる訳ではない。また、現代のコミュニケーション・テクノロジーは、不平を喧伝することを簡単にしてくれる。結果として、我々が見てきたように、被害者性の文化が登場することになったのだ。
- 作者: リチャード・E.ニスベット,ドヴコーエン,Richard E. Nisbett,Dov Cohen,石井敬子,結城雅樹
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*1:"Victimhood"という単語には「被害者意識」や「被害者である状態」という意味がある。
*2:
グレッグ・ルキアノフ, ジョナサン・ハイト 「アメリカン・マインドの甘やかし:トリガー警告はいかにキャンパスの精神的健康を傷付けているか」 - 道徳的動物日記
*3:「deviance」は「逸脱」の他に「異常」とも訳される。