日本の人口問題:50年前の人口爆発(1) 柳沢哲哉
1 少子化の認識
経済発展にともなって、人口構造が多産多死型から多産少死型、
さらに少産少死型へと移行することはよく知られている。例えばイ
ギリスの場合には、1930年ごろに少産少死型へと移行している。
社会科学者の間には早くから、このような出生率の低下傾向が続
くことで将来的に「過少人口」となることへの懸念が生まれていた。
ドイツ社会政策学会においてウィンクラーが、「人口過少こそ我
々が克服しなければならない禍害である」と指摘したのは1926年
のことである。また、有効需要の理論で知られるJ.M.ケインズは、
1937年にそれまで抱いていた過剰人口観を放棄し、「人口増加から
人口減少への転換が繁栄に与える最初の結果は極めて災
害多きものになる」と警鐘を鳴らした。
わが国について見るならば、1920年(大正9年)から死亡率 と出生率がともに低下傾向を示しはじめており、大正末期には少産 少死型へ移行しつつあるという見解が登場している。しかし、少子 化が社会的な「問題」として広く認識されるようになったのは、合 計特殊出生率が丙午の1966年を下回った1989年−−いわゆ る「1.57ショック」−−からと言っても過言ではない。このよ うに言うと、「人口学者はもっと早い時点から、人口が減少過程に あることを予測していた」とする批判があろう。実際、戦前から人 口減退の予測は存在したし、1957年から1964年にかけて合 計特殊出生率が置換水準を割り込んでいたことからも、人口が停滞 過程に入ったことは明らかであった。事実、厚生省人口問題審議会 は1969年の中間報告の中で、「わが国の出生力も再生産力も世 界最低の部に属し、人口学的基準からみても下がり過ぎている」こ とを指摘し、合計特殊出生率を2.13まで引き上げるべきことを 提言している。しかし、少子化が「問題」として一般的に脚光を浴 びるようになったのは、それよりもずっと遅いと言うことができる のではないだろうか。
それを裏付ける発言として、人口学者である小川直宏氏の講演(1997年) の一部を紹介しておきたい。1970年、当時アメリカ に在住していた小川氏は、日本における高齢化の調査を目的とし て来日した。この時のことを、次のように証言している。「政府の 役人を含めた全員が、私のことを完全にクレージーであると考えて いた。日本人はその当時、高齢化に関心がなかった。公害こそが最 大の問題だった」。つまり、在米人口学者の目には出生率の低下に 起因する高齢化は明らかであったのに、国内では「問題」として認 識されていなかったのである。
ここで、少子化あるいは人口減退といった問題の認識が遅れた理 由を指摘しておきたい。その理由として、(1)戦後の合計特殊出 生率低下の時期、(2)人口学ならびに人口政策の立ち遅れ、(3) 潜在的な「過剰人口観」の影響、これら3点が指摘できるように 思われる。(3)については次節以降で説明する。
(1)について見てみよう。ベビーブームの時期には4を超えて いた合計特殊出生率も急速に低下し、1952年には3を割り込み、 さらに1957年から1966年にかけては置換水準を下回るよ うになる。67年から73年にはやや上昇して、ほぼ置換水準で推 移したが、1974年から再度置換水準を下回り、それ以後は次第 に低下しながら今日まで続いている。ローマ・クラブがレポート「 人類の危機」(邦題『成長の限界』)を発表したのは1970年で あった。その結論は、天然資源や環境汚染の観点から見て、すでに 世界人口は地球の許容しうる「臨界点」に近づきつつある、という ものであった。仮に人口成長率を現状の大きさに抑えこめたとして も、石油資源は2001年には枯渇すると悲観的な予測が語られ、 人口成長を抑えることが緊急の課題として提示されていた。このレ ポートは世界中で広く読まれ、経済成長を志向しつづけてきたわが 国においても大きな反響を呼んだ。こうした状況の中で、将来の人 口減退が問題として共有されなかったのも不思議ではない。出生率 の低下は多くの国民から、「望ましい状態」として認識されていた とさえ言えるであろう。さらに、1973年末に発生した石油ショ ックによって、「人類の危機」は「現実的な問題」であるかのよう に受け止められることになった。
そのうえ、この時期までのマスコミに登場する人口指標を見ると、 出生率が大部分を占めていて、長期の人口動態に関わる合計特殊 出生率があまり登場しなかったという事情も指摘しておく必要があ る。合計特殊出生率がほぼ置換水準前後で推移していた1960年 代から70年代半ばにかけても、出産年齢層が多いという人口構造 のために、普通出生率(対1000人)は17から19へと上昇傾 向さえ示していた(丙午であった1966年のみ13.8)。つま り短期的には、高い水準での自然増の傾向が続いていたことになる。 こうした状況も、一般の人々が長期的な人口減退傾向の認識を遅らせる要因となった。
(2)について見てみよう。日本における本格的な人口研究のき っかけとなったのは、1918年の「米騒動」である。米価の急騰 やそれが引き起こした米屋への襲撃を目の当たりにして、政府は食 料問題の対策を立てる必要を痛感し、1927年に人口食糧問題調 査会が設置された。1929年にはじまった世界恐慌は人口問題へ の関心を再度高めることになり、この調査会の答申を受けて、1933年 に半官半民の財団法人人口問題研究会が誕生する。これが1939年に 厚生省附属の研究機関である人口問題研究所へと整備さ れ−−組織の統廃合による変更が一時期あったものの−−今日にお よんでいる。食料と人口のバランスという観点から人口を抑制する 方向を、人口食糧問題調査会は設立当初うち出していた。しかし、 戦時下になると「産めよ殖やせよ」という軍国主義的風潮が強まっ ていく。1920年ごろから広まりつつあった民間の産児制限運動 は禁止され、人口問題研究所も時局に迎合する方針を打ち出してい く。1941年に政府が出した『戦時人口対策要綱』はナチスの優 生政策をふまえた人口増加政策であるが、そうした政策に研究所は 荷担していくことになる。
このような戦時期の政治と人口研究との結びつきへの反省が、少 子化の認識や対策を遅らせる要因となった。現在の人口問題研究所 の所長である阿藤誠氏は次のように述べている。先進国で出生奨励 策が採用されないのは、それが「国家主義、人種主義とむすびつけ られやすい」からであり、その理由は「第二次大戦の枢軸国(ドイ ツ、イタリア、日本)にとくに強く関わる。この3カ国では、程度 の差こそあれ、戦時中の膨張政策が弾劾される過程で出生奨励を示 唆する政策は政治的にタブー視され、人口研究すらも停滞すること となった」(阿藤誠編『先進諸国の人口問題』35頁)。ここで指 摘されているように、アカデミズムにおける人口研究は敬遠され、 また人口政策、とりわけ人口減退に対する政策の必要を訴えにくい 状況が生まれていたのである。
2 W.S.トムソンの過剰人口論
第二次大戦後に広まった「過剰人口」という観念も、人口減退や
少子化の認識とそれへの対応を遅らせた要因として指摘できる。昭
和20年9月11日付朝日新聞の「天声人語」は、戦時中に「人口
問題の上からしきりに海外進出の必要が叫ばれた」ことを反省して
いる。しかし、その結論は、「狭小なる国土に8千万人の人間を養
わねばならぬ事態となって、海外進出の問題は今後の課題として新
しい意義と重要さを持って来る」。「人口問題解決のためにも...
海外雄飛可能となる日を待つ必要がある」と結んでいる。このよ
うに国土面積の制約から当時の8千万人という人口でも過剰であり、
それが戦争の原因となったことを示唆しているのである。
このような見方は戦後すぐに生まれたものではなく、海外の人口 研究者が戦前に行っていた議論を踏襲したものである。1931年 の満州事変前から、一つはアメリカのトムソン『世界人口の危険区 域』(1929)が、もう一つはオーストラリアのクロッカー『日 本の人口問題−来るべき危機』(1931)が、日本の過剰人口が 戦争を引き起こすことを予測していた。これらの書物は海外で関心 をよんだばかりでなく、いずれも刊行後2、3年で翻訳が−−『危 険区域』は2種類も−−出版されたことから分かるように、日本国 内でも大きな関心が寄せられた。この点について人口学者吉田忠雄 が興味深い指摘をしている。「諸外国の研究者による日本人口過剰 論は、逆に、日本の政府や軍部に歓迎されたのである。なぜなら、 国際世論が日本の人口過剰を認めるならば、日本の海外侵略が正当 化されるのではないかと考えたからである」(吉田忠雄『明日の人 口問題』119頁)。
トムソンの人口論は、人口と食料の増加率の差から過剰人口を問 題にした19世紀のマルサスをベースにしている。(2) 『危険区域』の基本的な考え方は、資源に対する人口圧力の格差が戦争を引 き起こすというもので、とりわけ太平洋に面したアジア地域が世界 平和にとっての危険地域であると予測していた。その中でも日本の 海外膨張の可能性がもっとも高いと考えていた。日本は家族制度が 強固なために、たとえ国家権力の反対がないとしても産児制限が普 及する展望がないこと、その結果、食料増加以上に人口が増加しつ つあること、また天然資源が不足しているために工業への産業構造 の転換を続けていくことが困難であること、さらに生糸や綿製品の 輸出も相手国の関税政策によって脆弱な基盤に立っていること。こ れらの理由からトムソンは海外膨張が不可避であるとした。「日本 の膨張が今後3、40年間の必然的な運動のひとつであって、そし てこの膨張が西太平洋の広大な手付かずの島々に向けられるのが自 然なことと理解されるならば、これらの島々の一部を自発的に日本 に割譲するのが戦争に代わる方法であることが明らかになるかもし れない」(Danger Spot,p.46)と、領土割譲の必 要さえ主張している。しかし、現実にはそれが不可能で、膨張のた めに日本が軍事力を行使する時期が近づいていると予測した。そし て「将来日本の政治家がたとえそれを望んだとしても、日本人を現 在の領土に押し込めておくことは不可能であろう」(Danger Spot,p.48) と結論づけたのである。第二次大戦の原因を人口増加だけで説明するのはあまりに単純すぎると言わざるをえないであろう。 しかし、実証研究に裏付けられたトムソンの予測は、 戦争の勃発によって権威あるものとして受け入れられるようになるのである。
トムソンは1944年の『膨大な人口』でも、「人口成長のコン トロールを学ぶまで、中国、日本そしてインドはアジアの他の地域 と同様に、最も苦痛に満ちた貧困を経験するにちがいない」 (Plenty of People,p.269) と、悲観的な予測を繰り返した。 しかし、産児制限が実行される可能性については前著 と態度を変えて、早期に普及する可能性を示唆している。その理由 は、「避妊の有効な技術がかなりよく発展し、コミュニケーション の手段も改善された」からである(ibid,p.124)。大戦 末期に著した『太平洋における人口と平和』(刊行は1945年10月) の中で、トムソンは1947-48年に急速な人口増加がお き、その後2、3年で出生率が急速に低下していくと概ね正確な予 測を行っている。注意すべきことに、「政府機関によって、人口増 加に対するかなりの規模のコントロールがなされる可能性がある。 例えば、避妊具を安く簡単に手に入れられるようにするとか、それ らの使用を一般に指導するためのバースコントロール・クリニック を設立することによって、出生率が急速に低下する可能性がある」 と、後に厚生省が実際に実施することになる政策が示唆されている (Population and Peace,p.99)。こう したトムソンの見解がアメリカの占領政策を規定したことを示す直 接的な証拠はまだ見つけ出せていないが、大きな影響力を与えた可 能性が高い。
トムソンは1947から49年にトルーマン大統領の要請でGH Qの人口問題顧問として日本各地を視察し、「日本の人口増加は経 済自立計画の遂行をおびやかしている。1年で150万人の割合で 増加しつつある日本人を養ってゆくことは、生産の増強、貿易の促 進だけでは困難であり、真の解決は受胎調節以外にない」という声 明を発表した(1949年3月)。後に見るようにこの声明が、産 児制限ブームの引き金となる。ここでトムソンの影響力を物語るエ ピソードを紹介しておきたい。1949年に産児制限の奨励に対し てカトリック団体は抗議を行った。この抗議について、GHQによ る正史とも言える『GHQ日本占領史』は次のように記述している。 「人口顧問らが連合国最高司令官に対して行った産児制限を擁護 する公の声明は、宗教家のグループの抗議を呼び起こした。その顧 問たちの著名さと彼らが連合国最高司令官に所属していることのゆ えに、その抗議者は、単に個人的意見として述べてきた顧問たちの 見解を連合国最高司令官の政策を表明したものと誤って判断してし まったのである」(『GHQ日本占領史4人口』113頁)。ここ に登場する「人口顧問」がトムソンである。(3) つまり、トムソンらの方針がGHQの方針であるかのように、国内では広範に流布 していたことになる。
もっとも、マッカーサーの意向を受けて編纂された『占領史』の 記述を文字どおりに受けとめて、産児制限肯定論をトムソンの個人 的見解とするのはやや問題がある。産児制限をGHQの方針として 受け取ったのは、後に見るように「宗教家のグループ」だけではな く一般的な受け止め方でもあったし、トムソン以外にも例えば公衆 衛生福祉局長サムスも産児制限必要論を示唆していた。また、19 48年に優生保護法が成立しているが、この時期にGHQの意向を 無視して立法が行われたとは考えにくい。事実、優生保護法案の提 案者の一人である日本医師会元会長谷口彌三郎議員は、GHQ天然 資源局のアッカーマンの発言に言及しながら提案理由を説明してい るのである。(4) それゆえ、産児制限論はGHQ内部でも一般的 な見解であったということができる。
3 過剰人口観の受容
戦後しばらくは食料難の時代が続き、また「領土」を失ったうえ
に、復員による人口増加に直面していた。1946年には食料危機
打開のために食料メーデーが開かれた。こうした状況の中で食料に
対する人口の過剰という考え方はごく自然に広まっていった。それ
では、適正な人口規模はどのぐらいであると考えられていたのであ
ろうか。
日本で英語教師の経験もあるジェームズ・スタイナーというワシ ントン大学教授が、1945年10月に『ニューヨーク・タイムズ』 に投稿している。そこでは「2000万の過剰人口を取り除くま で日本の苦難は続くであろう」と述べられている。つまり6000 万人ぐらいが適正人口であるという見解をとっていたことになる。 興味深いことに、スタイナーは日本の食料自給はそもそも不可能で あり、工業製品輸出、食料輸入という貿易を前提にしたうえで、な おかつ2000万人の過剰という議論を展開しているのである。
1948年元旦から朝日新聞には「昭和100年の夢」という連 載が始まる。その第一回目が「人口編」となっている。そこでは、 1965年前後で人口が約8700万人でピークに達し、それ以後 は減少しつづけると推定されている。そして昭和100年(西暦2025年) には、人口が5000万人になると予想している。記事 では「4つの島に8000万人近い人口がひしめきあっていては夢 も浮かぶまい。...適正人口は5000万とふむのが無理のない ところ、5000万人なら理想の園も作れよう」と人口の減少を歓 迎している。適正人口の根拠は示されてはいないが、それでも当時 の日本人の一般的な考え方を反映した数字と見てよいだろう。
戸田正三京都大学教授は1949年4月5日朝日新聞(大阪)で、 「一夫二児制論」と題して出生率を下げて7千万人の適正人口を 実現せよと主張している。戸田正三は別のところで人口の予測を行 っているので、それを紹介しておきたい(図1参照)。図にあるよ うに、産児制限を実行して適正規模になるケースと、産児制限を実 行しないで人口が増大していくケースとが描かれている。後者には、 人口が多すぎて文化的な生活ができないという意味なのであろう が、「蛮化曲線」という名称が与えられている。この蛮化曲線は、 昭和40年に9500万人でピークになり、それ以後減少するよう に描かれている。ちなみに、昭和37年に日本の人口は9500万 人を超えるから、戸田の「蛮化曲線」以上に人口増加率が高かった ことになる。
スタイナーや戸田の主張などから、幅はあるものの5000万人 から7000万人を適正人口とする考え方が、1945年から49 年にかけては一般的であったと言ってよい。今日の人口と比較する ならば、適正人口規模がかなり低く見積もられていたように思われ るであろう。ポツダム宣言によって産業高度化に制約がかけられて いたため、工業立国として食料や天然資源の大量輸入を行える状況 ではなかったし、仮にそれが可能であったとしても高度成長のよう なその後の急速な経済成長を予想すべくもなかった。1948年に 経済安定本部は「経済復興計画第一次試案」を策定しているが、そ れによると今後5年間に計画どおりに復興が進めば工業生産こそ戦 前を上回るものの、生活水準については戦前の摂取カロリーに遠く およばない状態であった。このような厳しい経済状況の中で、産児 制限による人口の抑制がクローズアップされていくことになる。 (5)
4 産児制限運動
産児制限の必要はGHQサイドだけではなく、国内においても主
張されていた。戦前の産児制限運動を指導した加藤シヅエは、19
45年11月11日『東京新聞』において、「飢餓戦場に立たされ
ている国民の食料事情、失業者の洪水、絶無に近い医療設備など、
そのどれをとっても、絶対的に必要になった」と、まだ合法化され
ていなかった産児制限の必要を訴えている。このような要求に対し
て、厚生大臣であった芦田均はそれを認めない旨の声明を出し、論
争を巻き起こすことになる。しかし、翌年46年8月になると、厚
生大臣河合良成が人口の趨勢を見守ってから判断すると表明し、政
府の姿勢は容認の方向に向かうことになる。
政府の態度が変化した理由のひとつがベビーブームにあることは 間違いないが、もうひとつの理由は1946年2月に公表された公 衆衛生福祉局長サムス大佐へのインタビューにあるように思われる 。人口問題への対応としてサムスは、第一に工業化による食料輸入 国となること、第二に労働者の海外移民によること、第三に産児制 限を主張した。工業化と移民については、まだこの時期には許され ていなかったので、サムスはこれら2点については極東委員会が決 定すべきこととしている。したがって、「日本人自身によって解決 されるべき」産児制限がもっとも現実的な選択肢であると語ってい ることになる。ちなみに、医学博士であったサムスは大学時代にト ムソンの人口学の講義を受けている。以下で見るように、このサム スのインタビューに即したと思われる見解が政党あるいは政府によ って繰り返されることになる。
1949年に厚生大臣林譲治は、産児制限については宗教的見地 や倫理的観点から見て多くの意見があること、「産児制限運動など を国民各自の意思を考慮せずに一方的に政府が国家の方針としてと りあげることには疑義があり、現在では政府がこの運動を指導する 段階にはいっていない」としながらも、「現在の人口増加状態がこ のまま放置されていたら日本の将来の復興にとって由々しき問題と なる」としている。林はアメリカ家庭の平均子供数にならって、子 供数を2.5人程度にすべきことを主張している。ちょうど中絶の 適用条件に経済的理由を盛りこむ優生保護法改正を審議中というこ ともあって林は慎重な態度をとっているが、政府は基本的には産児 制限推進の意向を示している。例えば、国立公衆衛生院長古屋芳雄 は、逆淘汰の問題に触れながら、「産児調節の普及を、自然に任せ ずに、国家的指導が必要である」と述べて、政府の積極的な介入が 必要であるとした。この優生保護法改正の時期に、5大政党が産児 制限に関してどのような見解をとっていたか見ておきたい(『別冊 政界ジープ』No.1)。
民主自由党は、人口問題への対応として、「将来の人口を理想的 に調節し、優秀な民族を作ることを目標とする」のに、現時点では 移民が不可能であるので、産児制限が「重大な基礎の方法」である と肯定している。
民主党もほぼ同様に、産児制限は選択の余地ある問題ではなく、 「為さねばならぬ切羽詰った事態」であると肯定した。その理由を 次のように説明している。やや長くなるが紹介しておきたい。「明 治以来、日本が度重なる戦争を為したことには、個人と民族の理想 や野心も手伝ったであろうし、各国の資本主義の衝突その他もあろ うが、狭い国土の天然資源と生産力のみでは養いきれず、然も平和 的交渉による移民と貿易のみにては解決のつかぬ程旺盛なる人口増 加力も与って大なる原因をなしていたとすれば、日本を再び戦争の 出来ぬ国になし、又戦を好まぬ民族に仕立てることに集中して来た 占領政策がこの恐ろしい繁殖力を制限するに非ざれば、世界の平和 は期待し得ないと考えるのは無理のないことであろう」。このよう に戦争の主要因を人口圧に帰すというトムソン流の議論が持ち出さ れており、また産児制限が占領政策であるという認識が示されてい るのである。
優生保護法を提案した社会党は、5大政党の中で産児制限をもっ とも積極的に推進しようとしており、是非を議論する段階ではなく 、「切羽詰った緊要事」と見ていた。アッカーマン報告をふまえて 、出生率の増大がこのまま続けば、「日本の人口すうせいは完全に マルサスの所謂死の法則に従わざるを得なくなる」とした。またト ムソンの名前をあげて、「先般来朝された人口問題の権威ワレン・ トムソン博士も吾国の人口問題解決は受胎調節以外にない、即ち日 本の人口増加は経済の自立計画の遂行をおびやかしている...と 主張されている」とした。社会党も占領政策としての産児制限とい う認識を持っていたと判断できるであろう。この時代の見解として は一般的なものでもあったが、社会党は優生学的な議論も強調し、 「母性保護を強化すると共に優秀でない素質のものの出生をできる だけ抑制して質の逆淘汰を来たさない様に努めて頂きたい」と呼び かけている。
共産党は、現時点での産児制限論は独占資本の政策がもたらした 破綻にたいする、政治的利用であるとして批判し、産児制限の必要 がない社会主義の実現をうたっている。しかし、人民の低賃金を打 開するためには、産児制限もやむなしという議論を行っている。た だし、1952年になると「人口が多すぎるのではない。食べられ ない人口が多いだけである」と、産児制限を人口対策からはずすよ うになる(『自然』1952年11月号)。(6)
国民共同党は最も消極的な態度をとっていたが、産業の高度化と 移民が不可能である以上は、産児制限を「科学的な良識として国民 の間に健全に移植しなければならない」という結論に到っている。 このように1949年段階では5大政党はみな産児制限を肯定して いたのである。
優生保護法改正案が成立する直前の1949年5月に衆議院は、 「人口問題に関する決議案」を議決する。その決議案は、 「現下わが国の人口は著しく過剰である。 このための国民の生活水準の向上は容易に望まれないばかりでなく... さらに婦人解放、母性文化の向上に対しても大きな障害をなしている」として、 「受胎調節思想の普及によって自然増加をある程度抑制し」、 欧米水準の自然増加率にすることが提起されている(『厚生省二十年史』)。 これを受けて1950年から公衆衛生院を中心にして、産児制限運動が展開されていく。 受胎調節法の講習会が各地で開かれたり、生活困窮者には無料で避妊具や薬剤を与え、 助産婦に月額で手当てを支給して受胎調節の指導にあたらせた。 また、受胎調節法の積極的な指導を行う「計画出産モデル村」 が実験的に設けられたりもした。 産児制限の普及運動は公的な機関によるものだけではなく、 普及運動を推進しようとする企業も現れた。 とりわけ熱心であった日本鋼管は少子家庭のメリットを説く マンガを給料袋に入れて配布していた(図2参照)。 49年には『産児制限の知識』という松竹映画も一般映画館で上映されている。
産児制限を普及させるのに大きな役割を果たしたのは、新聞や雑 誌などのメディアである。ベビー・ブームも終わりつつあった19 49年から、官民あげての産児制限ブームと言ってもよい状況を呈 するようになり、産児制限を省略した「産制」あるいは、Birt h Controlの頭文字である「BC」という言葉がマスコミ をにぎわすようになる。このブームの発生経過を正確にたどること はできないが、戦前から産児制限運動を指導していた医師間島|の 発言がその事情を伝えている。「アメリカの某博士が忠告されたか ら、とばかりに大小新聞が一せいに産制を取り上げてもう是以外に 国策第一号は無いと騒ぎ出した。思えばほんの数ヶ月前まで日本一 の新聞は私の産児調節に関する著述の広告をさえも、新聞の品位に 関するから出せない、と断ったし、凡そ産制なんて事をそれが学問 であろうと、宣伝であろうと、取り上げる時期にはまだ達していな い、とまで極言して用具や、其の薬品等の広告文章を嫌い通して来 た、それが、其の大新聞なるものが忽然と、一旋回して最大の字数 を用いて是に供し、最多の広告面を其れに提出させている」(『政 界ジープ別冊』No.1)。この発言のとおりであるとすれば、1 949年3月のトムソン発言をきっかけにして、新聞を中心とした メディアがブームを短期間で作り出したということになる。大まか な経過としては間島の言うとおり、トムソン発言がブームを引き起 こしたと言ってもよいが、やや正確さを欠くところもあるので、新 聞紙面を紹介しておく。
1949年の朝日新聞の紙面をたどると次のようになる。1月1 5日に「声」欄に早稲田大学教授による、戦後の人口増加は短期間 で収束する経験則があること、また人口はロジスティック曲線にそ って変動する性質があるという理由からの「産児制限反対論」を掲 載している。ところが、3月1日の「天声人語」欄では、「日本の 人口増加を心配しているのは、当の日本人よりもむしろ海外である かの観がある」としながらも、過剰人口の対策としては産児制限が 必要であることを認めている。ただし、「避妊の普及には風紀上の 弊害がつきまとうおそれもある」というように、消極的な肯定論へ と態度を変更している。3月18日に人口問題の「真の解決は妊娠 調節以外にはない」というトムソンの見解を紹介した記事が、4月 3日にはトムソンが正式にマッカーサーに「人口問題解決策として 日本に産児制限を実施するように勧告した」という記事がそれぞれ 掲載される。これがブームの引き金となり、その後関連記事が急速 に増大する。
4月19日、「公認避妊薬が月末にはお目見え」という記事。4 月30日、アッカーマンの報告書。そこでは、日本の指導者が考え ている移民による解決が不可能であり、「日本の人口問題の解決は 日本国内に求めなければならない」。「...日本の人口がますま す食料と原料に圧迫を加え、生活水準を低下させることになる。そ うなれば日本は不満を持った人間で一杯になり、これらの人々はど んなに根拠のないものであっても、社会的、経済的、政治的公約が 社会変革をふくんでいればこれに誘惑されることになる」と述べて いる。5月1日、「子供2−3人が理想的」という見出しの記事。 この記事では「狭い土地、少ない食糧、あふれる人口、これでは日 本の復興はおぼつかない」という一般論に加えて、「多産のため早 老する日本の婦人に対してアメリカ婦人の性格的な若さ、明るさ、 盛んな生活意欲の原因の一つはこの辺にあるのかもしれない。これ によっても産児制限の必要性がうなずかれる」と、女性のための産 児制限という議論が掲載されている。5月6日、「声」欄に2本の 投稿。ひとつは「人口を減らせ」という見出しで、産児制限による 人口減少という危惧は「取越し苦労だ。...人口はいつも増加の 一途をたどっている」という内容。もうひとつは、「家族手当とは 何か」という見出しで、「国家は産児制限などといいながら、子供 をより多く産むものに味方する政策をとっている。家族手当に制限 を」という内容である。5月14日、産児制限に関する世論調査の 結果報告。翌15日、「天声人語」欄に同世論調査についてのコメ ント。5月15日に産児制限の是非を巡る座談会。5月20日、「 社説」欄で「人口問題解決の一方法」として産児制限を肯定。5月 24日、「声」欄に農村での産児制限の必要を訴える投稿。5月3 0日、「声」欄に家族給の改正を求める投稿。ここにあげられたよ うな記事が、4月から5月までの2ヶ月間で登場したのである。も ちろん、これ以後も産児制限関連の記事は数多く掲載されていく。
1949年1月から6月までに朝日新聞に掲載された雑誌広告の うち、避妊に関する啓蒙記事あるいは別冊付録を収録しているもの をあげておく(同一誌で複数の広告を掲載している場合は初出のみ )。3月6日『婦女界』4月号の広告(別冊付録「正しい妊娠調節 読本」)。5月26日『週刊朝日』5月29日号(「避妊薬読本」 )の広告。5月29日『主婦と生活』7月号(別冊付録「絶対に確 実な妊娠調節新書」)。6月1日『主婦の友』7月号(「避妊ごよ み」)。6月5日『婦人朝日』7月号(「産児制限と妊娠中絶の是 非」)。6月12日『婦女界』(臨時増刊「妊娠調節の実際と指導 」)。6月23日『婦人』7月号(「体温でわかる受胎日と不妊日 」)。6月24日号『女性改造』7月号(「妊娠中絶と人口問題」 )。啓蒙的な雑誌記事はこの後も登場するが、このころがピークと 言ってよい。
雑誌と比較すると刊行の時期は少々遅れるが、書籍による啓蒙活 動も盛んになる。書誌情報を収録している『女性・婦人の本全情報 45-94』(日外アソシエーツ)によって、「家族計画・産児調 節」および「避妊」の項目に掲載されている書籍数をカウントする と、1945年から1994年の50年間に全部で134冊の本が この項目にあがっている。そのうちベビーブームがはじまった19 47年から10年間の間に刊行されたものは42冊と3分の1近く を占めている。この134冊の中には国際協力事業団の議事録が含 まれていることや、出版点数が年々増加していることなどを勘案す るならば、産児制限に関連する書籍がこの期間にかなり集中的に刊 行されたといってよいだろう。また、新聞や雑誌には「1姫、2太 郎、3サンシー」のコピーで知られた山之内製薬のサンシーゼリー をはじめとして、各種の避妊薬の宣伝が頻繁に登場した。 「今日の文化人は、...成行きまかせに子供を作る事は無責任 なことだと言うことになって来ました」といった説教がましい宣伝も ブームの一端を担うことになる(図3参照)。
国民がどのように産児制限を受け止めていたのかを、新聞社の世 論調査から見ておきたい。おそらく産児制限に関する最初の調査と 思われるのが、1949年5月上旬に1500人を対象に実施され た前述の朝日新聞の調査である。人口については、多すぎる80% 、現状でよい8%、少なすぎる1%となっている。過剰人口対策と して支持する方策は、産児制限39%、海外移民35%、食料増産 貿易振興17%となっており、産児制限がもっとも支持されている 。そして、「避妊を国の方針として奨励することに賛成ですか」と いう設問に、賛成49%、反対29%となっている。ただし興味深 いことに、「人口増加を抑えることはわが国の将来に良い影響があ ると思いますか」という設問には、良い影響がある20%、良い影 響も悪い影響もある27%、悪い影響がある26%となっており、 国家レベルでは望ましくないとする回答の方が多い。
この調査からほぼ1年後の1950年4月に、約7000人を対 象に実施された毎日新聞社人口問題調査会の「第1回全国家族計画 調査」も見ておきたい。「避妊がだれにも簡単で自由にできるよう になりましたがどう思いますか?」という設問には、「よいことだ と思う」60.7%、「よくないことだと思う」15.0%という 結果になっている。単純には比較できないが、産児制限を容認する 意見が1年間で増大したといってよいだろう。「今後わが国で産児 制限が普及して人口の殖えかたが少なくなったり人口が減ったりす れば利益になると思いますか、不利益になると思いますか?」とい う設問には、個人レベルでは「利益になる」56.2%、「不利益 になる」13.8%という結果になっている。しかし興味深いこと に、国レベルになると「利益になる」36.0%と低下し、「不利 益になる」30.7%と、その差がかなり縮小している。この結果 から、朝日新聞の調査に見られたのとほぼ同様の意識があること、 すなわち、国家レベルでの産児制限のメリットという議論は受け入 れられておらず、個人の生活の改善という観点から産児制限を肯定 していたことになる。つまり、人口学者が考えたようなマクロ的な 観点に立った産児制限必要論は、必ずしも国民に浸透しなかったことになる。
産児制限については多くの反対論も展開されたので、簡単に紹介 しておこう。戦後すぐに文部大臣を務めた田中耕太郎はその代表で ある。田中は反対論の理由として、人口構成がゆがみ、老齢化して いくこと、また一旦人口の減少がはじまれば減少の一途をたどるで あろうことを指摘している。人口が過剰であるという認識は共有し ていたが、それは移民によって解消されるべきものという立場をと っていた。他に代表的な反対論者としてはプロテスタント系の指導 者賀川豊彦がいた。賀川はさまざまなメディアで反対論を主張し、 また優生保護法改正について参議院の厚生委員会で参考人答弁を行 った(『東京新聞』1949年5月10日)。賀川は山岳農業と称 して、栗や椎を食べれば人口が増えても大丈夫だという極端な主張 まで持ち出して反対論を展開した。しかし、無条件での反対論をと っていたというわけではない。反対理由の中心は産児制限がもたら す逆淘汰の問題にあったからである。産児制限によって優秀な女性 が子供を生まなくなり、「学問のきらいな人が多く子を生むと、次 の時代には馬鹿ばかりになる。...低能児には避妊してもらうこ とが望ましい」という見解を唱えており、さらに「優生学的手段と 方法をできるだけ高度に採用し、人種改良の基礎を開く必要がある 」と、優生学的な観点からの肯定論とも言えるような反対論を展開 していた(『科学知識特別号』第29巻第6号)。
反対論は外国からも寄せられた。代表的なものはカトリックから の反対論であった。『カトリックダイジェスト』(1950年9月号)において P.オコンナーは、「日本の官僚は大部分、占領軍の威を借りた 産制論者の意見に屈服した」と日本政府を批判した。「電車の中、 新聞雑誌等の誌上に恥知らずの広告が氾濫し」ているが、 「産児制限の宣伝は物質主義的であり、問題を極度に単純化し」ている。 しかし、それは問題の解決にはならず、人口問題は移民や産業開発で解決 しなければならない。オコンナーによれば、食料に対する人口過剰論は科 学の進歩を無視した19世紀以来繰り返されてきた謬説ということになる。 事実、アメリカは増加しつつある食料在庫を抱えているし、日本の経済的 自立は十分可能で、工業製品を輸出することで十分な食料が輸入可能であ るとした。
5 ベビーブーム以後
官民挙げての運動の結果、出生率は急速に低下し、ベビーブーム
は終焉していく。また、1950年からの朝鮮戦争特需により日本
経済は好景気に沸くことになる。こうした中、1952年に『自然
』11月号は「人口問題特集」を組んだ。そこでの基調は、産児制
限運動や「過剰人口」という人口観を否定するものであった。巻頭
論文を執筆した田沼肇は過剰人口との戦いを唱える学者を「マルサ
スの亡霊によって、躍らされている」と批判した。同誌には「人口
問題をどう考えるかについて」9人の識者からのコメントが寄せら
れている。編集部がまとめているように、そのほとんどが「過剰人
口という言葉に惑わされるな」という論調である。マルクス経済学
の影響を強く受けていた有沢廣巳は、「貧乏や社会的不幸の堆積と
いう現象の...真の原因を過剰人口の圧力に帰するのは間違いで
ある」として、人口問題は雇用問題であると明言した。同じくコメ
ントを寄せた国民経済研究会の稲葉秀三は、復興のためには「人口
との闘い」が必要であるとした「経済復興計画」(1947)作成
に参加していたが、この時点では「計画」よりもはるかに早く、す
でに「全体としての経済自立をなし遂げた」と述べて、日本経済に
は「奇蹟が生じた」と表現した。特集号におけるほとんどの論者が
絶対的な過剰人口の存在を否定したのである。
このように過 剰人口を否定する見解も生まれていたが、他方、過剰人口の観念は その後も長く続くことになる。厚生省人口問題審議会は1954年 に「人口の量的調整に関する決議」を行っている。そこでは、従来 の運動が母性保護を目標としていた点に限界があるとして、「受胎 調節運動を総合的な人口政策の一環としての家族計画」としなけれ ばならないと、さらにその推進をうたっているのである。1956 年の『厚生白書』は、「多産多死型から少産少死型への転換」を認 めており、人口構造のゆがみや「老齢化」の問題をも指摘している 。しかし過剰人口という立場は維持していた。「わが国における過 剰人口の重圧が国民生活の急速な回復あるいは向上を妨げている」 とか、あるいは「生産年齢人口の増加は、今後数十年にわたって、 総人口増加を上回り、年平均約110万人前後、すなわち戦前水準 の二倍を超え、欧米先進諸国においてこれまでも経験したことのな いような規模と速度を示すものと計算されている。したがって、前 に述べたような過剰人口の重圧は、今後長く持続するばかりでなく 、むしろ激化して行くものと覚悟しなければならない」と述べてい る。この数年後から、日本は高度成長に入っていく。今日の通説に よれば、高度成長の要因、とりわけその前半の要因は豊富な労働供 給と言われている。つまり、『白書』が懸念していた生産年齢人口 の重圧は、実際には経済成長にとっての好条件になったのである。 1957年にはすでに合計特殊出生率は置換水準を下回り2.04 になる。しかし、1960年に発行された『厚生省20年史』では 、過剰人口に対する国民の努力を評価しながらも、1958年に2 .11へとわずかに増加したことをもって、「旺盛な生活向上意欲 が一服しかけてきたと思われるふしがないでもない」と相変わらず 人口増加への懸念を表明していた。
1954年に毎日新聞は 『日本の人口』という一般向けの啓蒙書を発行している。その中で 厚生省人口問題研究所の館稔が日本の人口を分析している。そこで は、ベビー・ブームが1950年に鎮火したこと、さらに結婚年齢 の変化や出産年齢層の変化などから出生率の低下傾向が続き出生減 退が起きることを予測した。館はこの変化を「ベイビー・ブームか らベイビー・デフレへ」と表現した。少子化の問題をこの時点で先 取りしていたと言ってよいだろう。この予測をその後の実勢と比較 すれば、実勢よりも急速な出生率の低下まで予測していたことにな る。この本の共著者である人口学者寺尾琢磨も幼少年人口が減少し ていくことを予想していた。つまり、1954年段階で、人口学者 は早くも出生減退の予測を明言しているのである。ところがおもし ろいことに、おそらく毎日新聞社が執筆したであろう同書の「あと がき」では、「9千万に近い過大な人口を擁している今日のわが国 にとっては、人口問題の処理は、一刻をも争う重大な案件であって ...」と相変わらず過剰人口観が述べられているのである。この ように、人口学者の見解とマスコミの意識の間にはズレがあったの である。
同じ1954年の『婦人朝日』1月号には、産児制限を巡る座談 会が掲載されている。公衆衛生院長古屋芳雄は「母体保護の立場か ら今までやっておりましたが、今度は人口政策の立場からやらなけ ればならない」と人口政策からの産児制限の推進を訴えている。ま た、「腹の減った人間を作ることは、赤化の問題も起こるでしょう 」と、共産主義革命への懸念をも示している。このような見解は、 慶応大学教授林髞も共有していた。「左翼とか共産主義は、生めよ 殖やせよ、というんです。人口が多くなりすぎてドン底にいけば、 自然に共産主義的な考え方になって、自分らの天下になる、という 政策をとってるんですよ」。そして、「今から20年後に日本の人 口は一億になるんです。今のままいったら、大変なことになります よ」という一億人の壁という、戦後すぐの時からあった過剰人口の 懸念が繰り返されるのである。
1950年代になると、世論の焦点は過剰人口一般から、いわゆ る「次男三男問題」として農村の過剰人口問題へと焦点は徐々に移 っていくようになる−−わずかな期間で農村の過疎問題へと一転し ていくことになるが−−。とはいえ、高度成長期においても過剰人 口観が消滅したわけではない。1962年に吉田忠雄は、産児数の 減少という西欧型生活態度の定着により、「日本の人口の外見だけ は、静止状態にたどりついた」ことを、さらには家族計画のゆきす ぎが人口減退をまねく危険性をも認めている。しかし同時に、「幸 か不幸か、生産年齢に達する人口が特に不足し進学率がたかまった ときに、日本経済は好況にめぐまれたのである。しかし、...次 にくるベビーブームの波が、不況にぶつかったなら、日本経済は一 体どうなるかの問題が浮かび上がってくる」と、過剰人口の懸念を 依然として払拭していないのである。
こうして人口は、戦前には海外膨張の要因として焦点が当てられ、 戦後は食料難や経済自立の観点から克服すべき緊急の課題として焦点が当てられた。 人口抑制という戦後の課題は、トムソンらの権威を利用しながら 政府やマスコミにより生み出されたブームによって、 短期間で達成されたと言ってよいだろう。 そこで生み出された「過剰人口観」は、 過剰人口への過度の脅威として長く存在し続けたのである。
注
(1)2000年10月26日に行われた公開講座(「日本の人口問題」)の前半は ここに記したものをベースにしている。 ただし、ここには記していない人口学の用語説明を付加し、 逆に時間の関係で資料の説明は簡略に済ませた。 また、講座の後半は少子化を巡る諸問題を解説したが、 それはここでは触れていない。 それゆえ、講座の正確な記録ではないことをお断りしておきたい。
今日の高齢化問題の起源として、あるいは出生率の低下を 現在の課題としている国にとっての貴重な経験として、 わが国の戦後の急速な出生率の低下がしばしば引き合いに出されてきた。 しかしながら、人口学の観点からの研究は数多くあるものの、 人口や産児制限を巡る言説分析はこれまでほとんど行われてこなかった。 そこで、あえてこのような形で公表することにした次第である。 とはいえ、第一に資料収集がきわめて不充分であり、第二に家族形態、 セクシュアリティー、優生学、農村問題、政治史等々の錯綜する パースペクティブを整理したうえでの分析ではない。 したがって、言説分析というよりも資料の紹介にとどまっている。 こうした課題については他日を期したい。
(2)トムソン(Thompson, Warren Simpson, 1887-1973)は 人口転換理論の確立に貢献し、 1936年から1938年にアメリカ人口学会会長を務めた人口学の 重鎮である。主著『人口問題』は人口学のテキストとして長い間使 用された。『危険区域』は『人口:マルサス主義研究』(1915) で行った家畜から雑穀まで含めた各国の食料生産の詳細な実証研 究に裏付けられたものであった。
(3)マッカーサーは自らの大統領選出馬に不利になるという事情 もあって、GHQが人口政策に中立的であることを明言せざるをえ なくなる。マッカーサーの声明は次のとおり。「最高司令官は、自 らが日本の人口制限問題のいかなる研究、あるいは考慮にもたずさ わっていないということを理解されるよう願っている。このような 事柄は占領政策の指令領域に含まれるものではなく、そして決定は すべて日本人自身にかかっている」(『GHQ日本占領史4人口』 114頁)。従来、この声明を根拠にして、GHQは産児制限につ いて中立的であったと説明されることが多かったが、再検討の必要 があるように思われる。
(4)谷口の発言は「参議院厚生委員会会議録第13号」(194 8年6月)にある。アッカーマン(Ackerman, Edward Augustus, 1911-1973)は、Japan's Natural Resources and Their Economic Future(1953)の中で、戦後の人 口抑制策が正しかったと肯定的評価を与えている。この書物は人口 抑制策をとっていた時期の中国で翻訳が行われている(『日本的自 然資源』1959)。GHQで人口統計などを主に担当していたの は公衆衛生福祉局であるが、農地改革を担当したことで知られてい る天然資源局も人口問題に関与していた。トムソンは天然資源局顧 問という立場であった。
(5)国内での産児制限運動の背景には、世界レベルでの「過剰人 口」論が広まりつつあったことにも注意すべきである。すでに述べ たように、戦前はヨーロッパを中心として過少人口への懸念が広ま りつつあった。ところが、戦後はアメリカを中心として、過剰人口 論が流行する。例えば、レスター・ウォーカーは「世界の人口を2 0億まで縮小させる」べきことを説いている(Reader's Digest, 1948,Jun.)。さらには、世界人口を9 億にすべきという主張さえ生まれていた。
(6)1944年に ソ連が中絶を禁止したことをもって、「ソ連では公的扶養制度があ るために、子供をいくらでも生めるので産児制限の必要がなくなっ た」という幻想が流布していた。共産党にならって日本の労働組合 の間には、「産児制限は民主人民政府の樹立までの過渡的な措置で ある」という考え方が公然と唱えられていた。新マルサス主義はブ ルジョア思想というのが、マルクス主義における公式的な見方であ る。しかし、ドイツ社会民主党指導者カウツキが産児制限の是非に ついて立場を変えていることからも分かるように、そう単純なもの ではない。
【参考文献】
Thompson, W.S., Danger Spots in World Population, Knopf, 1929,
(石丸藤太訳『亜細亜の人口問題』文明協会,1931;森田敏訳『人口過剰の対策』改造社,1931).
----, Plenty of People, Ronald Press, 1944,revised.1948.
----, Population and Peace in the Pacific, University of Chicago Press, 1945.
『GHQ日本占領史1GHQ日本占領史序説』,竹前栄治解説,日本図書センター,1996.
『GHQ日本占領史4人口』,黒田俊夫他訳,日本図書センター,1996.
『厚生省二十年史』,厚生問題研究会,1960.
阿藤誠編『先進諸国の人口問題』,東京大学出版会,1996.
古屋芳雄編『人口問題の公衆衛生学的研究:特にモデル村の研究』,日本学術振興会,1952.
中山伊知郎・南亮進『適度人口』,勁草書房,1959.
毎日新聞社人口問題調査会編『日本の人口』,毎日新聞社,1954.
毎日新聞社人口問題調査会編『日本の人口革命』,毎日新聞社,1970.
D.L.メドウズ他『成長の限界』,ダイヤモンド社,1972.
吉田忠雄『明日の人口問題』,現代教養文庫,1962.
柳沢哲哉「市場と家族」(星野富一他編『資本主義の原理』昭和堂、2000年収所).