<飯舘村比曽から問う>水田も牛も消えて
◎帰還への道なお遠く(2)生業をどうする
<撤去時期見えず>
「標高約600メートルの比曽は冷害常襲地だった。30年前に地区挙げての水田の基盤整備事業をし、土も凍る吹雪の中、トラクターで堆肥をまいた。10アールから11俵(660キロ)も収穫できる優良農地に肥やしたんだ」
農業菅野義人さん(63)ら福島県飯舘村比曽の人々が培った優良農地は一変した。家屋除染に続き昨年6月から、環境省が田畑の表土5センチを剥ぎ取る除染を進める。集落の中央を占める水田に汚染土の仮々置き場(約30ヘクタール)が造成され、黒い袋の山が日々広がる。
比曽行政区が環境省側から、用地として水田の賃借を求められたのは一昨年秋。「復興の妨げになる。山林などに造成を」と菅野さんは仲間と反対したが、やむなしの声が過半だった。
懸念の通り、仮々置き場は政府方針の避難指示解除期限2017年3月を超えて居座る見通しだ。汚染土の搬出先となる中間貯蔵施設(同県双葉町、大熊町)の用地確保が遅れているためだが、住民にはその説明も撤去時期の約束もない。
<名札が残るだけ>
菅野さんは11年3月の福島第1原発事故が起きるまで、稲作と和牛繁殖を営んだ。2.4ヘクタールの水田は仮々置き場の下に埋まり、自宅裏の牛舎には当時いた牛36頭の名札が残るだけ。農協の和牛部会長などを務めた菅野さんは、そこで回想した。「大冷害があった80年の夏だ。稲が壊滅した中でも青々と茂る牧草を食べる牛たちに、われわれ農家が救われた」
そして原発事故と全村避難、牛たちとの別れ。「牛を積んだトラックが連なって家畜市場へ処分に向かった。苦労して築いた産地が音を立てて崩れた日だ」
生後1週間の子牛も抱えて競りに出し、牛飼いとして罪悪を犯したと思ったという。「空っぽの牛舎を見て人生の全てを失ったと感じ、避難するのを忘れて寝込んだ。もう牛を飼ってはいけないのではないか、と自責の念に今も苦しむ」
<畑開墾へ第一歩>
仮々置き場に農業復興を阻まれる状況でも「帰還して生業を取り戻す」と菅野さんは決意している。牛舎の後ろにはなだらかな牧草地があったが、除染で土を剥ぎ取られた。「耕して畑にし、避難指示解除後は当面、野菜を作ろうと思う」
牧草地の跡にまず地下排水管を埋設した。避難先の二本松市から通い、小型重機で延長計160メートルを独力でやり遂げた。「除染作業で土を踏み固められ、雨が浸透しなくなって、水があふれていた。排水不良では作物が育たない」と言い、畑開墾への第一歩だった。
過酷な歴史が比曽にはある。1780年代の天明の飢饉(ききん)の折、91戸あった旧比曽村(長泥、蕨平地区も含む)で残ったのがわずか3戸。そのうち1戸が菅野さんの家だ。自身は15代目になる。「たゆまぬ開拓が比曽の原点。先人の労苦を思えば、乗り越えられぬ困難はないはず」
[メモ]中間貯蔵施設は最大2200万立方メートルになると推計される福島県内での除染後の土、廃棄物を集約し、30年間保管する施設として計画された。環境省は15年1月の搬入開始を計画したが、地元の同意を得る作業が遅れ、着工に至っていない。同省の資料では、地権者(登録総数約2300人)との契約実績は昨年11月末現在で22人にとどまる。
2016年02月05日金曜日