喜々として日本生活を楽しむキーンであったが、一つだけキーンを悩ませるものがあった。
お風呂である。その温度が熱いのである。欧米人はシャワーが主流で、日本人のように湯船につかる習慣がないので、なおさらである。
しかしキーンは「オゥゥ…(;´Д`)」と呻きながら、お風呂に入り続けた。
「日本人の心が知りたい。その為には日本人と同じ生活をするんだ」、そう思うキーンにとってはお風呂も例外ではない。
来る日も来る日も「オゥゥ…(;´Д`)」と言いながら、湯船に身を沈めるキーン。
そんなキーンの呻き声がいつしか下宿での名物となり、おかみさん、来客者、学生達と心を通わせ、夢のように楽しい、日本生活を送ったのだ。
日本には四季がある。キーンが居を持つ京都において、その四季はより一層、華やかに街や田園、山々を彩る。
春夏秋冬、それぞれが織りなす風景、風俗、習慣、それら一つ一つは、押し付けるわけでも無く、主張するわけでも無く、ひっそりと存在する。そのような佇まいも、キーンの心を揺り動かした。
とある春の日、庭に咲いていた桜を肴に、キーンの為にと宴会が催された。
日本でよくある「花見」の一風景だ。
彼にとって不思議だった。
「どうして日本人は、桜を愛するのだろう。桜は日本人にとって、特別な花なのか」
疑問に思ったキーンは、おかみさんに訊いた。
「どうして、日本人は桜が好きなんですか。すぐ散る花なのに、どうして桜が特別なのですか?」
おかみさんはちょっと困った顔をしながらも答えた。
「桜ですか…すぐ散るから美しいんですよ。…儚いところが、好きなんです…」
おかみさんのその言葉で、キーンの脳裏に、手りゅう弾で自決した日本兵、彼等が残した日記に記されていた7粒の豆に関する記述…これらが蘇り、その言葉とシンクロした。
「儚い、だから好き」…キーンはおかみさんの言葉を反芻した。日本人をまた一つ、理解できたような気がした。
こうしてキーンにとって夢のような2年間に亘る日本生活は、瞬く間に過ぎたのである。
キーンの名前は、日本では無名ではあるが、アメリカ本国では、「日本文学の権威」として、その名は知られていくようになった。
それはそうだろう。常人ではあり得ないペースで、日本文学を、日本の名作を、次々と翻訳していくキーンに、アメリカの文学界が注目しないワケがない(加えて、1955年からはコロンビア大学の助教授として日本文学の教鞭をとり、教授、そして1992年に名誉教授となり、日本文学を学問としても、発信し続けた)。
相も変わらず、精力的に、何かに憑りつかれたかのように、日本文学を紹介し続けるキーン。ケンブリッジ大学で彼を襲った悪夢を振り払うように、さながらその姿には、同僚学者に壊された「徒然草」を弔うかのような「凄み」すらあった。
そんなキーンに、思いもよらない「問い合わせ」が来た。
アメリカペンクラブを通じてスウェーデン学士院からなされた問い合わせだ。
「日本文学のノーベル賞候補は誰を推すか」
という内容だった。キーンは毅然として答えた。
「才能では三島由紀夫、作品の素晴らしさでは谷崎潤一郎と川端康成です。ただ、日本人は年功を重んじます。だから、一番が谷崎潤一郎、次に川端康成、そして三島由紀夫でしょう」
果たして1968年のノーベル文学賞が、川端康成に授与された。谷崎潤一郎は没した後であり、追贈を行わないノーベル賞の選考基準から外れていたのだ。
しかし、川端康成による一連の文学作品を通して、日本文学が世界に冠たる価値を有するものであることが証明された。
これは他でもないキーンの功績でもあり、キーン自身にとっても非常に嬉しいことだった。コロンビア大学で巣立ったキーンの教え子達が、キーンに連絡を寄越した。
「日本文学がノーベル賞、とったね。先生の言ったとおりになった。嬉しい!」
コロンビア大学のキーンの生徒達も我が事のように喜んでいた。それはそうだろう。生徒たちが学んでいる日本文学が、世界的にも「価値がある」と認められた。それは自分が認められたことを意味するのだから。
そのような嬉しさの反面、キーンの胸に、無念さも去来した。
「日本文学のノーベル賞はとても嬉しい。むしろ遅い位だ。でも、できれば谷崎潤一郎さんに、受賞してもらいたかった」
谷崎潤一郎は稀有な作家だった。才能においては当然のこと、その生き方自体が奇跡といっても良い作家だった。
1941年の日米開戦、日本の文学者が雪崩を打つように戦争賛美、戦意高揚へとペンを走らせた。戦後、反体制等を高らかにうたいながら文芸評論家としても名高い作家だった伊藤整であっても、例外ではない。伊藤の日米開戦の高揚感に酔いしれた日記は有名だ。
そんな中、文壇の重鎮、谷崎潤一郎だけが、自分の文学を貫き通し、「当局」から「戦局に合わない」と執筆活動を禁止されても、筆を止めなかった。挙句の果てに、自費出版で名作「細雪」を刊行し、無償で知人に配るまでしたのだ。
谷崎は徹底的に戦争を無視した。それはある意味、「反戦」を叫ぶ以上に戦争を否定する生き方だった。谷崎潤一郎の行動をそのようにキーンは捉えた。
「谷崎先生の強い精神力はどこからくるんだろう。どうしてそこまでして、自分の文学を書き続けることができたんだろう」
キーンは、神田の古本屋を隅々まで調べ、ようやく「谷崎潤一郎日記」を手に入れ、貪る様にして読んだ。
すると見事なまでに、戦争期間中において、日記には一切、戦線の描写はなく、「日本の習慣、文化、風習、これらのものを後世に伝えていかなければならない」とする記述、あたかも、日本が敗戦することを見越したような記述があったに過ぎなかった。
「だからこそ、谷崎先生は、戦中も淡々と自分の作品を書き続けたのか…蛍狩り、花見、そういう日本の風俗を作品の中に織り交ぜて、凛として書き続けていったのか…」
キーンは強い感銘を受けるとともに、またしても思うのであった。
「もうちょっと長く生きておられれば、谷崎先生にノーベル賞が授与されたのに」
谷崎潤一郎日記を読むにつけ、その無念さがより一層、キーンの胸を締め付けた。しかし他方では、
「でも谷崎先生なら、『そんな賞は、若い奴にあげたらいい。ワシは本が書ければ、それで充分じゃよ』って思うだろうな」
そう考え、自らを慰めた。
1982年から朝日新聞社の編集委員も務め、自身の連載も持ち、いよいよ日本との絆を深くして、彼は日本に同化していった。
そんなキーンの愛する日本だが、悪夢のような出来事が発生した。2011年3月11日、東日本大震災の発生である。
とりわけ福島第一原発の放射能漏れは、在日欧米人にとって多大なるショックを与えた。むしろ、パニックだと言っても過言では無かった。
「危ない。日本にいては放射能に汚染される」
ある意味、そのようなデマゴーグが増幅したものと言えなくも無いが、多数の在日欧米人が日本を後にして母国に避難した。
そんな中、東日本大震災を契機に、否、大震災が起きたから今だからこそ、「私は日本国籍を取得し、日本に永住する」と発表した素っ頓狂な欧米人が現れた。
他ならぬドナルドキーンである。
来日時に彼は語った。
「家具などを全部処分して、やっと日本に来ることができて嬉しい。飛行機の上から、雲の合間に日本の田畑が見えて美しいと思った」
現在、彼は東京で暮らし、講演活動、執筆活動に精力的に励んでいる。
先日、「所さんの笑ってこらえて」というバラエティ番組で、「電車の中でドナルドキーンと会って、ずっと電車の中で文学の話をした。気さくでステキなおじさんだった」と話す一般女性がVTRで登場した。
番組スタッフが「どうして相手がドナルドキーンだと判ったの?」と訊くと、彼女は、
「彼のバックにマジックで『ドナルドキーン』とカタカナで書いてあったの」とキーンのバックが写った写メを見せながら笑っていた。その映像を視ながら、キーンのお茶目なところに、胸がほっこりしたのを覚えている。
私生活でも、見ず知らずの女学生等と、バスや電車の中で、声を掛けられれば喜んで、熱く日本文学を語り合うに違いない。ホントに日本が好きなんだな。ありがたいことだ。
これからもキーンは、少年のような純粋な心で日本文学を愛し、豊かな人生を送るんだろうな…
最後に疑問であるが、キーンは熱い日本の風呂、克服できたのだろうか?(笑)
(二日に亘り、読んでいただき、ありがとうございました)
前回の続きを書く。
飯場にて、朝一番に食堂に行き、自分が配置される建設現場と出発時間を確認するのが毎朝の日課であること既述の通りだ。
常時5~6つの建設現場が確保されているのだが、その現場の中で、
「この現場は行きたくないな…」
と思っていた現場があった。
千葉市内の高校増築工事現場だ。
現場作業員の立場でその高校に行けば、生徒からどんな目で視られるんだろう…それを考えるとウンザリした。
「アイツ、若いのに建設作業員をやってるぜ。人生終わってるな」、一般の人間に思われるのは構わない。事実、「そう」だからだ。
だけど、高校生にそう思われるのだけは嫌だった。
しかし、とうとうそんな俺が、その高校増築現場に配置されてしまった。
まぁ、俺みたいな「若い衆」は、将棋の駒、調整弁宜しく、色々な現場をたらい回しされるわけであり、そのことは覚悟していたが、いざ自分の名前が高校増築工事現場のボードに記載されているのを見た時、さすがにガッカリした。
朝もイマイチ食欲も落ち、うなだれたままで高校増築現場行の車に乗り込んだ。
作業の内容は、足場の組み立て作業だ。
結構な重労働なので、若い衆が必要だったんだろう。
午前の休憩を終えて、足場板の鉄板洗浄用の水を汲みに行くため、ポリタンクを一輪車に数個乗せ、水飲み場に向かっていった。
すると水飲み場で、女子高生が手を洗ったりしていた。
俺は彼女たちの後ろで、蛇口が空くのを待った。
そんな俺の気配に気付いた一人の女子学生が、肘でその友人を押しながら、何かを囁きながら俺の方をチラチラ視ていた。
話の内容は聞こえなかったが、「多分、ロクなこと言ってないんだろうな」ということは、その様子から容易に伺えた。
あたかも、異星人を視るような、少なくとも自分とは別の人種を視るような、無機質な視線だったからだ。
彼女たちはそそくさと手洗い等をすませ、小走りで玄関に去っていった。
「2か月前までは俺も彼女達と同じような生活をしていたのにな…」
自分の身の置き場が無かった。ひたすら自分が惨めに思えた。「だから嫌だったんだ。この現場」
心の中で舌打ちをしながら、黙々と作業を行った。
お昼の休憩時間中も、詰所の中にいて、外に出なかった。
グラウンドで遊ぶ高校生達の楽しそうなはしゃぎ声が漏れ聞こえてくる。そんな中に自分の身を晒すなんていうことは、俺にとって「罰ゲーム」に他ならなかったからだ。
「なんだ、ゆう、今日は元気がないな」
俺の様子に異変を感じた同僚が、気遣って言ってくれた。
「いや、何でもないさ。ただ、ちょっと世界平和の事を考えてただけです」
正直に言ったところで揶揄され、バカにされるのは目に見えていた。
だから、ふさぎ込みつつも、思いっ切り汗を流し、足場組立作業に熱中した。
作業終了時、同僚が「ふぅ~、汗をかいたなぁ…ちょっとそこの手洗い場で、汗を流していこうぜ」と俺に声を掛けた。
さっきと同じように、女子高生とかから、無機質な視線を受けるのはこりごりだった。
「いや、俺はパス。俺はその間、撤収作業をしますので、行ってきて下さい」
そう答え、荷物を積み、後部座席に乗った。
一日中、その日は浮かない気持ちだった。
未来のあるヒト(今日の見た女子高生)と未来のない建設作業員(つまり俺)、加我の差を考えさせられたことも気持ちを重くさせたが、「女子高生に変な目で視られた」…そんな些細なことで、心のバランスを崩してしまう、そのような自分の弱さに腹が立った。
「お金を貯めたら、辞めようかな…ここ。そして、もっとマシな仕事、探そうかな…」
そう思いながら布団をかぶった。