【山田隆道コラム「プロ野球人物研究 対岸のヤジ」】
清原和博(48)の逮捕については驚いたが、ショックではなかった。そもそも彼は数年前から薬物疑惑が報じられており、知人のマスコミ関係者の多くも黒だと断言していたため、私はすっかり諦観していたのである。
だが、一方でそういう清原をバラエティー番組に起用し続けるテレビ界には辟易していた。彼の危うすぎる状況は十分わかっていたはずなのに、それでも各番組で彼を美化したVTRを作ったり共演者が彼を持ち上げるコメントを連発したり、まるで清原のイメージアップ戦略に加担しているかのようなありさまだった。
これは清原のバックに大手芸能事務所がついていたことや、中居正広らの大物タレントが清原の起用を進言したことなど、すなわち芸能界の判断にテレビがしたがった結果だろう。私は放送作家時代、そんな光景を山ほど見てきた。
ここで問題になってくるのは、この芸能界の判断という部分である。
タレントとは良くも悪くも浮世離れした価値観の持ち主が多く、破天荒であることさえ芸のうちという側面がある。したがって、清原と共演したタレント連中が、「(清原は)根は優しくて純粋だ」「誤解されている」「見た目は怖いけど、人は見かけによらない」などといった擁護を繰り返したのも当然だ。彼らは奇抜な価値観によって成功した希少種なのだから、その感覚で清原を評すると、どうしたって寛容になってしまう。
特に「人は見かけによらない」なんて説は、極めてレアケースを持ち出した芸能界特有のものにすぎない。一般的な統計を考えると、人間はまだまだ高確率で見かけによる部分がある。もちろん例外はあるにせよ、その例外を一般化して語るのは危険だ。
かつて故・ナンシー関はそういう芸能界のことを動物園にたとえた。確かにテレビという檻の中にタレントという非日常的で希少な生き物を住まわせ、それを大衆に公開するから見せ物として成立するわけだ。
ただし、それならば動物園の飼育員が猛獣の暴走を制御するように、テレビ局員も一般良識とのバランスをとりながら要所でタレントの手綱を締め、最低限の秩序を保つ役割を担うべきである。だからこそ、テレビ局員は高学歴かつ豊かな教養を求められるのだ。
しかし、実際のテレビ局員はタレントの奇抜な価値観に理解を示し、彼らと仲良くなることで、ミーハー的な特権意識を満たすようになった。だから清原の番組出演を容認する芸能界独特の感覚を止められなかったのだろう。動物園の飼育員が猛獣に媚を売っているようなものだ。こんなに怖い動物園はない。
先ごろのSMAP解散騒動における偏向報道の件もしかり、地上波テレビはどこまで醜態を晒し続けるのだろうか。地上波テレビは実質的に新規参入のない国の免許事業なのだから、視聴率欲しさという過剰な商業主義は、無節操の言い訳にはならない。
(作家・山田隆道)
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