ライトノベル…今日では言わずと知れた角川、電撃を代表に刊行されているファンタジーやSFを多分に取り込んだ小説。表紙にアニメキャラの絵や挿絵を挟むことで文学作品よりも読み手への想像力の負担を軽くし、アニメやゲームとのメディアミックスも盛んに行われている。
そのライトノベルの先駆けといえる作品の一つが「ブギーポップは笑わない」…らしい。
なにせ筆者はライトノベルと呼べるのものは「涼宮ハルヒの憂鬱」しかない。友人に勧められ二日で読み、アニメにも続編にも他のライトノベルにも触れずにフェイドアウトした。
そんなリベンジなわけでもないが、ブギーポップは笑わないを最初に読んだ時、意味深な発言をするブギーポップの語り口や仰々しく表現する物語のノリについていけずに二章あたりで読むをやめ、リベンジのリベンジ?ということになる。
まず初版1998年という古さが示すようにキャラ絵は素朴で胸や太ももを強調するわけでもなく、男性キャラとの恋愛をほのめかすような絵でもない。ちなみに筆者が手にしている本は43版である。どれだけ売れているのかがうかがい知れる。
また、巻末に電撃からの募集がかけられており、名称は「電撃ゲーム小説」となっている。電撃自体、ゲーム誌なわけで、ファンタジーやSF色を現代風に読みやすくアレンジさせて謎を解くやキャラの掛け合いをアドベンチャーゲームのようにいきいきと描ける作家を求めていたのならば合点がいく。
…というわけで作品評だが良く分からない…
ブギーポップがどのような存在で、敵はどのような経緯で登場したかは断片的にしか語られない。そもそもこれはザッピング風の群像劇モノローグなのだ。
奇しくも同年にはチュンソフトサウンドノベルの金字塔である「街~運命の交差点」が発売される。複数のキャラをキャラごとの視点で描き分け、さりげなくキャラ同志の交流を示すという手法は酷似している。キャラによっては物語の本質に全く触れられない者もいれば、思わぬキャラが物語の黒幕と邂逅するため、どっぷりとはまるというものではないが一定の緊張感は持続する。
また緊張感を持続させるために、本作ではベースは恋愛学園モノになっている。学生同士の恋愛禁止というお堅い決まりがある高校を舞台にしながら、だらだらと何の目的もなく同性と付き合い、異性と交わる男女の日常が淡々と語られる。そこから急にマンティコア、エコーズ、ブギーポップというSF要素が交わり、日常と非日常を交差させてマンネリを防いでいる。
いくつかマンネリを防ぐような魅せ方は意識されているが、カタルシスがある物語ではない。敵を倒して生きる目的が生まれたとか、恋愛禁止を破ることでひと波乱起きたという激しい展開が乏しい。
そこにあるのは奇妙な事件を通して結ばれた奇妙な関係であったり、自意識を変えることで変わる人間関係だったりという普遍的な話でもある。
あとがきで作者・上遠野氏は
あとがきは主に学生時代への名残と28歳の自分が高校に通う夢を「告白」している。
後々、ブギーポップは能力バトルの一面を開花させ、SF要素も強くなると聴くが、この時点ではあくまでベースは学園ドラマなのだろう。
そして涼宮ハルヒ同様に日常を刺激するような非日常を望みながらも、他者との接点という日常を求める欲望が我々にあることを指摘するよな話だ。
あるキャラはその非日常性を求めるあまり自分を失い、存在が消滅された。またあるキャラは日常と向き合うことで生き方を変えた。そんな普遍的すぎるヒューマンドラマの話に映った。
学園を舞台とした漫画やアニメでのお決まりといえば
「転校性と実は因縁があった」
「たまたま幼馴染と同じ学校+クラスだった」
まぁ、そんなに友達がとんとんとできるわけじゃない。思えば高校からはたいして新しい人間関係が生まれなかった。
高校や大学になれば知恵の実を食べような恥の観念が生まれ「こいつと俺は釣りあうのだろうか」といちいち天秤にかけてしまう悪癖が生まれる。一ついえることは同じクラスになったから、班に選ばれたからといって自動的・受動的に関係は形成されないということだろう。
そんな日常が続けばついつい「もしいつもと違う日常(きっかけ)が起こったら友達ができるかもしれない」と妄想してしまう…もちろんそんなことはほぼ起こらない。自分で非日常を作らなければならない…
…散々自分のコミュ力のなさを自白したところで、この「ブギーポップは笑わない」という作品は今読めば、「あぁあるなぁこんな話」という軽いノリで流してしまうだろう。それに私はこんな形式の話を最近になっていくつも読んでいる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そう朝井リョウだ。
彼も学生の趣味・恋愛観の異なる男女を多角的に描き「えっ?こいつとこいつが結ぶの」という意外性を提示する。そしてそこにはカタルシスもあるため、ブギーポップの精神的続編は朝井リョウが書いているのか?と錯覚してしまうほど酷似していた。
さてさて…いよいよ彼の最新作が3月14日に発売する。
世界地図の下書きは、彼の作品の中では文体は向上しているが、メッセージ性は最低だったと評価している。このスペードの3に関してはアイドル好きやらオーディションで向上心剥き出しにする女性に関心を持つ朝井リョウのある種趣向が盛り込まれている作品だと思われるので、「今の少年・若者に伝えたい小説」という朝から目線ではなく、こうして自身の感情をぶつけるような作品を読めるかと思うと楽しみだ。
…とブギーポップの感想が、ずれにずれて朝井リョウ最新作の宣伝になってしまったわけだ…ここ最近、このブログの骨子であるゲームレビューが沈黙に沈黙を重ねている。×目ぼしいタイトルがないんだよ~○時間がないんだよ~なので3月下旬あたりの新作ラッシュに乗じて一本ぐらいはレビューしたいものだ。
そのライトノベルの先駆けといえる作品の一つが「ブギーポップは笑わない」…らしい。
ブギーポップは笑わない (電撃文庫 (0231))
(1999/06)
上遠野 浩平
商品詳細を見る
なにせ筆者はライトノベルと呼べるのものは「涼宮ハルヒの憂鬱」しかない。友人に勧められ二日で読み、アニメにも続編にも他のライトノベルにも触れずにフェイドアウトした。
そんなリベンジなわけでもないが、ブギーポップは笑わないを最初に読んだ時、意味深な発言をするブギーポップの語り口や仰々しく表現する物語のノリについていけずに二章あたりで読むをやめ、リベンジのリベンジ?ということになる。
まず初版1998年という古さが示すようにキャラ絵は素朴で胸や太ももを強調するわけでもなく、男性キャラとの恋愛をほのめかすような絵でもない。ちなみに筆者が手にしている本は43版である。どれだけ売れているのかがうかがい知れる。
また、巻末に電撃からの募集がかけられており、名称は「電撃ゲーム小説」となっている。電撃自体、ゲーム誌なわけで、ファンタジーやSF色を現代風に読みやすくアレンジさせて謎を解くやキャラの掛け合いをアドベンチャーゲームのようにいきいきと描ける作家を求めていたのならば合点がいく。
…というわけで作品評だが良く分からない…
ブギーポップがどのような存在で、敵はどのような経緯で登場したかは断片的にしか語られない。そもそもこれはザッピング風の群像劇モノローグなのだ。
パルプ・フィクション [DVD]
(2012/02/08)
ジョン・トラボルタ、サミュエル・L・ジャクソン 他
商品詳細を見る
(そういう括りがあるならこの作品は金字塔といえる。ただ最近では一つのメッセージ、話の核を多角的に見せるために用いられており、パルプフィクションのようにアクの強いキャラを連続してみせる娯楽を追求しようとする作品は少ない)
奇しくも同年にはチュンソフトサウンドノベルの金字塔である「街~運命の交差点」が発売される。複数のキャラをキャラごとの視点で描き分け、さりげなくキャラ同志の交流を示すという手法は酷似している。キャラによっては物語の本質に全く触れられない者もいれば、思わぬキャラが物語の黒幕と邂逅するため、どっぷりとはまるというものではないが一定の緊張感は持続する。
また緊張感を持続させるために、本作ではベースは恋愛学園モノになっている。学生同士の恋愛禁止というお堅い決まりがある高校を舞台にしながら、だらだらと何の目的もなく同性と付き合い、異性と交わる男女の日常が淡々と語られる。そこから急にマンティコア、エコーズ、ブギーポップというSF要素が交わり、日常と非日常を交差させてマンネリを防いでいる。
いくつかマンネリを防ぐような魅せ方は意識されているが、カタルシスがある物語ではない。敵を倒して生きる目的が生まれたとか、恋愛禁止を破ることでひと波乱起きたという激しい展開が乏しい。
そこにあるのは奇妙な事件を通して結ばれた奇妙な関係であったり、自意識を変えることで変わる人間関係だったりという普遍的な話でもある。
あとがきで作者・上遠野氏は
「学校に何しにいってたのか」というのは、けっこう大きなトラウマになっている」
「結局のところ学校は「他人と一緒にいるところである」(p283)
あとがきは主に学生時代への名残と28歳の自分が高校に通う夢を「告白」している。
後々、ブギーポップは能力バトルの一面を開花させ、SF要素も強くなると聴くが、この時点ではあくまでベースは学園ドラマなのだろう。
そして涼宮ハルヒ同様に日常を刺激するような非日常を望みながらも、他者との接点という日常を求める欲望が我々にあることを指摘するよな話だ。
あるキャラはその非日常性を求めるあまり自分を失い、存在が消滅された。またあるキャラは日常と向き合うことで生き方を変えた。そんな普遍的すぎるヒューマンドラマの話に映った。
学園を舞台とした漫画やアニメでのお決まりといえば
「転校性と実は因縁があった」
「たまたま幼馴染と同じ学校+クラスだった」
まぁ、そんなに友達がとんとんとできるわけじゃない。思えば高校からはたいして新しい人間関係が生まれなかった。
高校や大学になれば知恵の実を食べような恥の観念が生まれ「こいつと俺は釣りあうのだろうか」といちいち天秤にかけてしまう悪癖が生まれる。一ついえることは同じクラスになったから、班に選ばれたからといって自動的・受動的に関係は形成されないということだろう。
そんな日常が続けばついつい「もしいつもと違う日常(きっかけ)が起こったら友達ができるかもしれない」と妄想してしまう…もちろんそんなことはほぼ起こらない。自分で非日常を作らなければならない…
…散々自分のコミュ力のなさを自白したところで、この「ブギーポップは笑わない」という作品は今読めば、「あぁあるなぁこんな話」という軽いノリで流してしまうだろう。それに私はこんな形式の話を最近になっていくつも読んでいる。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・そう朝井リョウだ。
彼も学生の趣味・恋愛観の異なる男女を多角的に描き「えっ?こいつとこいつが結ぶの」という意外性を提示する。そしてそこにはカタルシスもあるため、ブギーポップの精神的続編は朝井リョウが書いているのか?と錯覚してしまうほど酷似していた。
さてさて…いよいよ彼の最新作が3月14日に発売する。
スペードの3
(2014/03/14)
朝井 リョウ
商品詳細を見る
世界地図の下書きは、彼の作品の中では文体は向上しているが、メッセージ性は最低だったと評価している。このスペードの3に関してはアイドル好きやらオーディションで向上心剥き出しにする女性に関心を持つ朝井リョウのある種趣向が盛り込まれている作品だと思われるので、「今の少年・若者に伝えたい小説」という朝から目線ではなく、こうして自身の感情をぶつけるような作品を読めるかと思うと楽しみだ。
…とブギーポップの感想が、ずれにずれて朝井リョウ最新作の宣伝になってしまったわけだ…ここ最近、このブログの骨子であるゲームレビューが沈黙に沈黙を重ねている。×目ぼしいタイトルがないんだよ~○時間がないんだよ~なので3月下旬あたりの新作ラッシュに乗じて一本ぐらいはレビューしたいものだ。
コメント