私は「割れ」を好まない。
それは社会的、人道的にどうこう以前に、「割れ」をすることで、純粋に作品を購入する過程を飛ばすことが、「もったいない」と私が考えているためである。
だが、ふとしたことで考えることがある。どうして「割れ」はダメで、「購入」は良いのか?と。
※「割れ」とは売買契約を介さず、ウェブから違法にコンテンツ等を入手すること。
「割れ」に厳しいネット世論
未だに、「PCゲーマー=割れ」というレッテル(ないしは事実)は、業界に蔓延っている。
むかし、UBIの社長が「PCゲーマーの9割は盗人」と発言したとかいう、眉唾な噂を耳にしたことがあるが、実際それは否定出来ない話でもあり、
海外なら東欧、南米、アジアなど、とりわけ貧富の差が激しい第三世界では、ほとんどのユーザーが「割れ」によってゲームを手に入れてると考えられているほどだ。
"The easiest way to stop piracy is not by putting antipiracy technology to work. It’s by giving those people a service that’s better than what they’re receiving from the pirates," Newell said in a 2011 interview with GeekWire
(「海賊行為を止めさせる手っ取り早い手段は、DRMを導入することでなく、海賊行為よりも魅力的なサービスを提供することなんだ」とValveのゲイブ氏はGeekWire誌で語った。)
The weird economics behind Steam prices around the world - PC Gamer
先進国たる日本は、比較的裕福な国だと考えられ、実際東南アジアよりも「割れ」による被害は少ないと考えられるが、それでも違法ダウンロードが絶滅したわけではない。
さっきもgoogleで「割れ」と入れてみたら、さも自然に「割れ マイクラ」と検索候補に出てくるほど。
とはいえ、この国ほど違法ダウンロードに厳しい国はないだろう。
一般人、有名人問わず、ネット上で違法ダウンロードが発覚した際には、祭り上げられ、住所や職場まで突き止められる始末だ。(こちらの方が「割れ」よりも遥かに重い罪のように思えるが。)
日本人は、明らかに「割れ」への道徳的、情緒的な嫌悪感が強い。
だが同時に思うことは、「割れ」を否定する上で引用される根拠が、自分自身の理屈や信念ではなく、法による拘束であったりとか、著作権者の利益であったりすることは、実は危険な状態なのではないか、ということだ。
しかも、ネット上で頻繁に発生する迷惑行為、例えば、他人へのハラスメントであるとか、プライバシーの侵害、著作物の盗作は見過ごされている。
年中、ネット上の著作物を無断で転載し、更にアフィリエイトなどで利益を稼いだ「はちま/JIN」のゲハブログや、Naverまとめが、先陣を切って有名人の「割れ」行為を叩いている現状は、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。
なぜ「割れ」がダメなのか?:自分の意思なく遊んでもつまらないから
では改めて、なぜ「割れ」がダメなのか考えてみたい。
もし仮に、あなたの友人が「割れ」をしていたとして、無料でゲームが手に入る環境でありながら、なぜわざわざ金を出してゲームを買うのかと聞いてきたとする。
私は恐らくこう答えるだろう。「自分の意思でゲームを選んでいるからだ」と。
そもそも、ゲームを遊ぶ上で必要になるコストには、金銭、時間、体力的余裕、技術など、いくらでも必要になる。ゲームによっては、友人や教養も必要になるだろう。
そんな中、実はゲームを遊ぶための「金銭」などコストとしては安いものなのだ。むしろ、我々はゲームを遊ぶことで、映画を観るのと比較にならない「時間」、音楽を聴くのと比較にならない「労力」など、大きなコストを支払っていることを、忘れるべきではない。(一本の作品に100時間費やすなど、他のコンテンツでは考えられない。)
だからこそ。我々はそのコストに見合った、経験を得るべきなのだ。それには、「ゲーム」と真摯に向き合う、「自分」が必要になる。
何故、我々はゲームを遊ぶのか。その問いに答えは、間違いなく、「このゲームが遊びたいから」であり、もっと言うなら、「このゲームを通して素晴らしい経験を味わいたい」からなのだろう。
だが、仮にゲームをクリアするまで遊んだとして、本当に時間や体力を費やす価値があったのか、反証することは難しい。
世の中には魅力的な作品はいくらでもあるのに、それら全てを味わうには、人生に残された時間は少なすぎる。その中で、あえてこのゲームを遊んだことは正解だったのかと。
そこで、自分の意思によってゲームを買ったこと、無数の作品の中からあえて1つのゲームを選んだこと、その事実が何より重要な証拠になるのではないか。
契約行為には意思表示が必要になる。厳密には法学における定義とは異なるが、いずれにせよ、自分が必要としている商品は何か、明確に自分の意思を表示し、そのための対価を差し出さねば、商品を購入することはできない。
自分の好きな作品、思わず感謝したくなるような作品、彼らに出会う前提には、無数の作品の中から「選ぶ」行為を取った「自己」が必要であり、これは決してネット上のデータを収集するだけの「割れ」では到達できない境地なのである。
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現代では、SteamやHumbleのおかげで、信じられない程に安価でゲームが購入できるようになった。或いは、ソーシャルゲームの普及など、そもそも一括で作品を購入するケースさえ減っている。
ハッキリ言って、私は他人が「割れ」でゲームを遊んでようと、何とも思わない。それを自慢気に吹聴するならいざ知れず、コッソリする分には好きにしろと。(スケベな動画を動画サイトで観る奴にキレるオタクは少ないだろ?)
むしろ、膨大なコストを支払ってゲームを遊んでいるのに、「ゲームを遊ぶこと」とは何か考えず、むしろ「お金を払う」ことを免罪符にあまりに好き勝手で無思慮な感想をSNSでばら撒く(割れ厨も含めた)人間全員をみる方が、私にはやるせなくなる。
そんな時、私は「割れ」ほど恐ろしい反面教師はいないだろうと考える。作品1つ1つが、あまりに流動的に手に入る現代で、我々と作品の関係は「割れ」と似つつある。
だからこそ、我々は改めてゲームを買う行為について考えるべきだと思う。「何を面倒なことを」と思うかもしれないが、ゲームを遊ぶのにコストを支払うのは、私だけではなく誰もが同じだ。
誰もが貴重な金銭、時間、労力を支払って、ゲームを遊んでいるのだから、コンテンツを受容する人間にとって「割れ」の色んな意味での危うさ」は考察すべき命題のように思う。
自分にとって、本当にそのゲームは「買ってまで」「何時間も放り投げてまで」「飲み会にいく労力を浪費してまで」手に入れるべきゲームだったのか。改めて考えて欲しい。そして、「割れ厨」では手に入れられない価値を、そこから見出して欲しい。