「(思い出のマーニーに対して)ジブリのきれいな上澄みだけ取ってきて、森や自然はいいですねってやっちゃだめでしょ。
宮崎駿なんて元々どぎついところをねじ込んできた上であれがあるわけだから」、と七房六郎がいっていた。
これは一理あるけど一理以上はない。
苦しみをねじ込んだあげく読者を揺さぶって嫌な気持ちにさせる説教型作家に面白い作品をかくやつはいない、という経験からだ。
もちろんこれ自体が自分の主観で、作家から説教食らいたい、マウントされたいとうっすら願っている人たちも存在する。
マウントする作家が大物であればあるほど効果的だ。いわゆる事大主義なのだろう。
そしてねじ込み型作家の場合、自分のいいたいことが前面に出すぎてしまうケースも多い。
人々の微妙な心理変化を切り取ることを不得手としている人をよく見る。
たとえば『光る風』の山上たつひこに乙女の繊細な心理変化を追う作品を描いてくれ、といわれたら描けるのだろうか。
凄絶さを追い求める藤田和日郎に百合漫画を描いてくれと言われたらできるだろうか。
例えば志村貴子並みの神経の細やかさを見せられるのか。
それは無理だろう。
何しろ藤田和日郎は大げささの中に身を沈めることによって、細やかさを見出すタイプだからだ。
そうした人たちとは別に、あえてねじ込まないし匂わせもしないものに惹かれる人がいてもいいと思う。
ちなみに七房六郎自体は作中で説教するタイプではなく、当人が説教するタイプというポジションであり、ある意味宮崎駿的だ。
「自分の書きたいものを書いて、良い作品ができるわけないでしょう!」
とぶち切れている。
ようするに宮崎駿的にはねじ込み系作家としての自覚が十分にあるのだ。
ちなみに東村アキコはデビュー当時繊細系作家として名を挙げたいと思っていたが、当人に繊細系のセンスがないためねじ込み系へ移行せざる得なかった人だ。