30過ぎになって発達障害の診断を受けた宇樹による、障害告知→障害受容・自己理解についての8000字程度のエッセイ。診断を受けたちょうど1年ほどあとに、診断時からの1年間を振り返る形で書いている。裏のテーマは、「発達障害の発見の遅れがいかに当事者と周囲を不幸にするか」。
某コンクールに応募してボツになった古い原稿を、数年のタイムラグを経て多少の個人情報面の配慮を中心とした編集を加え公開。発達障害というものを知らない人を読者に設定しているので、発達障害とは何かについての解説も入っています。
私は○歳の女性。けれどその前に、障害者だ。そのなかでも、発達障害者。さらにそのなかの、高機能自閉症者。○年に、○○で確定診断を受けた。30余年を「健常者」として生きてきた私が「死の宣告を受けた」のは、そのときだった。
心療内科を受診したきっかけは震災のPTSD症状だった。しかし、偶然にもそこの医師が発達障害に詳しく、初診でほぼ確定診断となった。
医師はさっそく、エビリファイという薬の服用を勧めてくれた。もともとは抗精神病薬だが、微量で服用すると発達障害の諸症状を抑えてくれるということだった。私はいまの法律では成人の発達障害者に飲める薬はないと思い込んでいたので、大喜びで服用しはじめた。
薬は翌日からてきめんに効いた。夜眠れなくなっていたのが、夜になるとスッと眠くなってパタンと眠り、朝になるとぱっちり目が覚めるようになったのだ。震災関連の情報に触れると動悸や過呼吸が起こり、頭が真っ白になって気がついたら夕方になっている、などという症状も消え去り、たまっていた家事がどんどん片づくようになった。身体の調子もずいぶん良くなった。
とても嬉しかった。小さな錠剤の、しかも半分に切ったような小さな欠片を飲むだけで、私が生活上とても困っていたような症状が抑えられるなんて、画期的なことだった。ひとつのことに集中しすぎてしまったり、くよくよと細かく思い悩む傾向がかなり抑えられたということは、それが自分の性格というよりも障害特性の一つだったらしい、という切り分けもできるようになった。私は現代の医学の恩恵に心底感謝した。
しかし同時に私は、急激に、かつ大きく落ち込んでいった。あまりに急なことだったので、突然ぽろぽろと涙が出てきて初めて、自分が落ち込んでいるということに気づくありさまだった。自分がなぜ落ち込んでいるのかの理由もわからなかった。原因のはっきりしなかったことがはっきり証明され、困ったことはある程度薬で対処できることもわかって、喜ばしいことばかりのはずだった。けれどいま思い返せば、落ち込んだ理由がわかる。薬が効けば効くほど、「お前は薬がなければやっていけない障害者だ」と突きつけられている気がしたのだ。
確定診断を受けて、嬉しかった。とてもすっきりした。小さな頃から今まで、性格や努力の問題として責められてきたことが、自分のせいではなかったことを証明してもらったように感じたのだ。ほら、皆聞いて、私が悪かったんじゃなかったの、これは障害のせいだったんだよ、医学が私を助けてくれるんだよ、と、親や知人にふれて回りたい気分だった。けれど同時に、それがほかでもない事実だということ、自分がその事実を知らずに30余年生きてきてしまったことそれ自体が、私を追い詰めたのだ。
そんななかで、いろいろな支援者とつながったりもした。発達障害者支援センターや障害者就業・生活支援センターなどの人たちだ。ここでも、彼らに助けられた喜びの一方で、私はどんどん落ち込んでいった。
彼らは本当に親切だった。感激した。まったく私を奇異な目で見ることも排除することもなく、至れり尽くせりで助けてくれたのだ。私が今まで、自分の中の恐怖や疲れを押し殺して人と同じようにやってきたこと ーたとえば初めての土地でバスに乗るとか、仕事について調べるとかー は本当は私にはとても無理なことで、それは支援されて良いものだったのだと思ったら力が抜けた。それまでどこに行っても「え、あなたなんでここにいるんですか、通例と異なる人は困るんですけど」といった感じの反応ばかりされてきたのに、彼らは私を最初から当事者どまんなかとして扱ってくれたのだ。
感激して、感激して、ああ、私にも社会の中に居場所があるんだ、と思って、安心して…… でも、それと同時にやはり落ち込むのだった。助けてもらって助かれば助かるほど、「お前は助けられなければ生きていけない人間なのだ」と突きつけられているようだった。
私は、薬を飲み、支援を受けるべき障害者だった。
私の診断された「高機能自閉症」とは、IQの高い、比較的軽度な自閉症だ。自閉症者としてイメージしやすいのは、映画「レインマン」に出てくる主人公の兄。彼は、人とうまくコミュニケーションできなかったり(コミュニケーション障害)、環境の変化に適応できずパニックを起こしたりする(こだわり)、五感が過敏で体調を崩しやすい(感覚過敏)などの症状を持っていて、普通の社会生活が送れない。
「レインマン」の兄の場合は小さな頃から障害が明らかだったため普通学級に入れず、早くから専門の期間で療育を受けることができた。しかし私の場合は、軽度だったことが逆に災いした。普通学級に入れたばかりかむしろ学校の成績がよかったので、30を過ぎて就職に関する問題が明らかになってくるまで障害が発覚せず、対応が著しく遅れたのだ。実際にはIQが高いだけの自閉症者で、歴然とした障害を持っているのに、本人も周囲も長いことその障害に気づかないで苦しみ続ける…… こういったことは高機能自閉症者にはよくあることらしい。
こうして自分の障害について調べ、整理してみても、これが他人の話ではなく、まぎれもない自分の人生の話である限り、気分が晴れるわけではなかった。
私の混乱と落ち込みのようすは、突然に余命いくばくもない病を宣告された重病患者のようだった。医学は診断を下し、その人に合った治療や情報を提供してくれる。それはその人を多いに助けてくれる。けれど、病や死を抱えた自分に向き合う心の作業は、最終的には本人が戦っていくしかないのだ。
誤診なんじゃないか? いいやそんなはずはない、これはやっぱり事実なんだ。じゃあどうして私が? なぜよりによって私でなければならなかったの? なにも悪いことをした覚えはないのに、理不尽じゃないか…… 私は混乱しながら、以前にどこかで読んだ、末期がんを宣告された患者がたどる心理的変遷のモデル(否認、怒り、取引、悲嘆、受容の5段階)を思い出し、自分の心がそれをぴったりとなぞっていることを感じていた。
それからは、ぽろぽろと泣くようになった。
自分に起こっている心の動きについてなるべく考えないようにした。考えるとあのモデルのことが頭をよぎり、それは私にとって何かとても大切なものの「死」を予感させたからだ。懸命に淡々と家事をこなし、気分転換のために運動を欠かさず続けていた。私はいたって健康であった。大丈夫なはずだった。
なのに、ひょんなすきにぽろぽろぽろぽろと勝手に涙がこぼれてくる。そのうち、薬でもカバーしきれないケアレスミスで夫に迷惑をかけたり、感情的になってあたってしまったりして、夫婦仲までぎくしゃくするようになった。それが自分の不全感に拍車をかけた。
事実が事実であるということがこんなにも苦しいとは。それは、私の知らなかった苦しみだった。嘆きだった。
私はようやく認めた。私が向かい合わねばならなかったのは、「健常者であったはずの私の死」だった。私が泣いていたのは、それまで30年来つきあってきた私自身とお別れするためだったのだ。
それからは、ただ粛々と泣き続けた。それは、死のときを迎えた古い自分自身を送り出すための、長い長いお葬式だった。走馬灯のようにいろいろな記憶の断片が思い出された。そのたびに泣いた。
小学校当時、体育と算数以外の成績はオールAで、大人たちからは神童と呼ばれた。中学・高校でも両親の期待を一身に受けて育ち、有名私大にストレートで合格した。高校から大学生当時の私は、勉強すればするほどそれが将来の成功に繋がるに違いない、という効力感の中で猛烈に勉強した。両親と私の中の計画では、私はそのまま有名企業に就職して、エリートコースを突き進むはずだった。
しかし、大学新卒で就職活動をしたとき、その夢は敗れた。何10社という企業に応募しても、面接してくれるところはわずか。面接で嫌がらせを受けたり、ようやく受かった会社でも戸惑うことばかりだったりで、心身ボロボロになって辞めざるをえなかった。それからはいろいろなアルバイトに挑戦しては同じようなことになって続かず…… 悔しくて悔しくて、自分のそれまでの努力を社会に裏切られたと思い、社会を憎んだ。
エリートでないどころではない。現実の私はむしろ日本の中で、障害者という極北であり、その中でも極北扱いされている精神障害者の、さらに極北の発達障害者だった。社会の余剰力にすがり、どうかその支援の手が遠い極北の私にまで届きますように、と祈りながら一歩ずつ遅い足を進める人生、それを私は生きなければならないのだった。リーマン・ショックや震災を経てどんどん余剰力を失う日本社会の中で。
いま思えば、周囲から要求されたことをあまりに素直に飲み込み、それを信じこんで猛烈に努力するあたりにも自分の障害特性が表れていたように思う。いままで実家の裕福さの中で覆い隠され、今は夫の扶養下にあることで覆い隠されているけれど、私は弱者中の弱者で、両親や夫の力添えなしには生活保護へ一直線の存在なのだった。以前は無類の楽しみだった情報検索や知識の収集も、だからといって就職にはつながらない、1円にもならない、と思うとすべてが虚しくなってしまった。
新しい等身大の自分像は、無理して上ばかり見てきた私にとって、ほんの少しの安心を感じるものではあった。けれどそれは、すぐに受け止めるにはあまりにみじめなものだった。死にたい気持ちさえ頭をよぎるようになった。
これを「悲嘆」というのだと、私は半ばぼんやりしながら悟った。大事な人の死や、それに相当する喪失のショックで、日常生活が送れなくなるほど落ち込み、一見うつのような状態になることをいうらしい。
唯一の希望は、私が自分の「死」の受容のプロセスを着実に進めているらしいということだった。しかし、死期を告知されたがん患者と私が違うのは、私がいままでの自分を送り出すと同時に、残された者として新しく生きなおさなければならないということだった。がん患者は悲嘆を経て、死の準備としての静かな受容に向かうが、自分のようなケースがその後どんなプロセスを辿りうるのか、今のところ私に知る術はなかった。私の悲嘆は、もしかすると一生続くのかもしれなかった。
小学校の頃に亡くなった、大好きな祖父のお葬式のことを思い出していた。家の中はよそよそしく火が消えたようで、何か可笑しいことがあっても笑えなかった。いつでも彼の死という事実が私の前に横たわっていて、笑えるようになるまでずいぶん時間がかかったことを覚えている。最終的には、私が笑って生きていなければ、死んだおじいちゃんも、いま共に生きているお父さんもお母さんも悲しいだろう、と自分を納得させて笑うようになったのだった。
そのうち、深い悲嘆からほんの少し浮かび上がる瞬間があった。それは、生まれて初めて感じた、自分自身と人への信頼だった。
きっかけは結婚式だった。夫は、○○に来てからずっと一緒にいてくれたし、診断を受けてからの私の様子を見ていても、別れようなどとは言わなかった。結婚式はそんな夫の心の証明のように思えた。私は、自分のことしか見えていなかったことを夫に申しわけなく思うとともに、夫の献身的な愛に対して深い感謝と安堵を覚えた。私は生まれて初めて、自分が天涯孤独ではないことに気づいた。
これとほぼ同時に、急にこちらの人と仲良くなった。故郷を離れている心細さからしばらく打ち解けられずにいたのが、ひょんなことから自然と、実家のことや自分の障害のことなどを話すことになったのだ。そうすると、皆とても親身になって理解してくれた。想像もしていなかったことだった。
それまで、親との関係を始め、人との愛情関係でうまくいったことが少なかった。これは今思えば性格というよりも障害特性からくる部分が多かったのだが、とにかく私の実感は、自分は生きているだけで人から疎まれ嫌われる、ということだった。人から愛されない人間なのだ、と思い込んでいた。けれど私はここにきて初めて、こんな不完全な私のあるがままを愛し、あるいは許してくれる人たちに出会うことができたのだ。どうしても自分を許すことのできなかった私が、ほんの欠片ばかりの自己肯定感を手に入れることのできた瞬間だった。
しかし、この瞬間がずっと続くと信じるには、私に下された宣告はあまりに重かった。どれだけ友人ができようが、私が今後、社会生活を送るにあたってどうしても誤解を受けやすい側に立って生きなければいけない事実が変わるわけではなかったのだ。以前は私を鼓舞してくれた、さまざまな歌の歌詞も、もはや私の悲嘆を掬いあげてくれるようには見えなかった。悲嘆はもう、私の中に流れる通奏低音になってしまったようだ。
障害者を含めたさまざまな弱者の自己否定感というのは、いろいろな失敗体験から生じる、「私は愛されない」「私は社会の迷惑だ」「生まれてごめんなさい」という感覚から来ているのではないかと思う。 —いや、全ての自己否定感がそうかもしれない。
発達障害児には特有の育てづらさがあるという。発話もなめらかで知識も豊富なことが多く、一見なんの問題もないように見えるため、周囲が混乱するのだ。このことから、保護者・指導者からの虐待や、いじめなどの辛い体験に遭いやすいと聞く。私もそういう子どものひとりだったのかもしれない。
思えば小さな頃から、周囲との溝を感じて生きてきた。両親や教師などから、期待を受けるいっぽうで、自分にとっては理解できないことや理不尽なことできつく叱られたりして、深く傷ついた。ちょっとした言動が誤解されることも多く、教師からは精神的・肉体的な虐待を受けたし、同級生からは教師公認の執拗ないじめを受け続けた。なにかと疲れやすく、不調を起こすことが多かったが、それはわがままや甘えと言われた。長じてからもそうだった。どこで働こうとしても、いつもいつもうまくいかなかった。
30を過ぎても状況は変わらなかった。募る不全感の中でやっとのことで発達障害を自覚し、それを両親に相談したときも、特に父はそれをまっすぐに受け止めてくれなかった。
父は、自慢の成績優秀な娘が実は障害者かもしれない、普通の人と同じような人生はたどれないかもしれない、という話を、どうしても現実のものとして受け止められないようだった。父は私の障害のことを、気のせいなのではないか、大袈裟に騒ぎ立てている、努力でカバーできるだろう、というようなことを言い続け、父と私は対立した。彼に悪気はないことは、頭ではわかっていた。父を不憫にさえ思った。しかしどうしようもなかった。私たちの関係はどんどん悪化し、母と私の関係にまでヒビが入った。追い詰められた私は夜逃げのような形で家を出ることになって、最終的に私たち親子は断絶してしまった。
父の言葉にはとても傷ついた。赤の他人に言われるならまだしも、実の父親が自分のことを理解してくれないのはとても苦しいことだった。けれど、本人でさえ受け止めに苦労しているこのあまりに重たい話を、彼女を愛し、心配する父親が正面から受け止めることは、並々ならぬ苦しみであったろう。反射的に反発してしまったとしても自然なことだと思う。
私は困り感を抱えて生きてきた。しかし、困り感を抱えているのは、当事者本人だけではなく、周囲もなのだ。私は「どうして皆わかってくれないんだろう」と困り続けてきた。けれど、私に接してきた周囲の人たちは、「どうしてこの子はわかってくれないんだろう」と困り続けていたのだ。私は、自己受容できずに苦しんでいた。しかし、自己受容できていなかったのはきっと、周囲の皆もなのだ。
生まれてから30余年、発達障害が発覚しなかったことは、私自身を含め、周囲のあまりに多くの人を傷つけた。問題が起こるたびに、互いが互いに、相手のせいだ、いや私のせいだ、と犯人探しをするしかなかったからだ。このことで、私の家族は壊れてしまった。私が子どもだった時代、現在のようには発達障害の概念が普及していなかったことは、とても不幸なことだったと思う。ほんとうは、私たちが苦しかったことは誰のせいでもなかったのに、私たちはずっと互いを傷つけあってきたのだ。
診断が遅れた間に、私はいろいろな二次障害を抱えた。早期に診断を受け、療育の機会にまみえていたら、今ごろ私はニコニコしながらアルバイトぐらいできていたかもしれない。しかし、障害特性からくる生きづらさを自分の性格や努力の問題だと思い込み、自分を無理やり叱咤激励して無理をするうちに、人の輪に入ることがすっかり怖くなってしまった。だから私はいまだに、就労支援施設にも足を運べていない。
人は、知識や経験ならいつからでも身につけることができる。私がこうして、初めて自分について、その背景について学びなおしているように。けれど人は、時間を二度生きることはできない。いまの私がどれだけ、自分の子ども時代について知っていても、私の中を過ぎていった子ども時代に、私は手を触れることができないのだ。
そして今や私は、実の父親に、このような感慨を伝える術も持たない。家族の中で唯一連絡のとれる母によれば、手紙も開けずに捨ててしまうそうだから。父曰く、家族の誰かが死んでも連絡はしないそうだ。だから、彼らが死んでしまっても、私にそれを知る術はない。
過去の私も、過去の私と共にあった人たちも、みな死んでしまった。私はそう思うことにした。いずれにしろ思い出せば悲しくてぽろぽろ涙が出てくるのだし、私は二度と彼らに触れられないのだから同じことだ。私は心のなかに、幾人もの大事な人たちの死を抱えて生きることにした。父、母、兄、祖母たち、そしていつかの私自身。
過去の自分とお別れすると同時にすべての肉親とお別れしなければいけないのは、ひとりの人間にとって大きすぎる重荷なような気がする。けれどそれは既に降りかかってしまった運命なのだから、泣きながらでも受け取るよりほかない。それに、それは結局のところ誰のせいでもないのだ。もし悪かったとすれば、そう、運が悪かったのだ。
私はこれから、新しく生まれ直した障害者として、与えられた生を生ききろうと思う。たとえこれから一生、心底からは笑えないのだとしても。今はもういない人たちのためにも、今、私の周囲に生きていて、私に触れてくれる、新しい大切な人たちのためにも。
↓数年後の自分の目から見た分析
「私のお葬式」のその後 ―数年経ての分析
http://decinormal.com/2016/02/02/funeral_after_story/
