2月3日、今日は節分らしい。
先祖に天邪鬼がいるためか、天邪鬼としての血が騒いでしまい、そういう季節行事に対しては絶対に参加したくないという気持ちがある。大体そういう季節行事をこなして何が嬉しいのだ。年が明けてもおめでたいとも思わないし、ハッピークリスマスと言われてもハッピーな気持ちになるわけがない。何がハッピークリスマスだ。小学生の時、同級生たちがおもちゃやゲームをもらっていたのに、自分は鉛筆1ダースしか貰えなかった。その翌年は鉛筆削りだった。1年またぎのくせに微妙に繋がりがあるのがちょっとムカつくので、サンタの野郎だけは絶対に許してはおけないと子供心に思ったりした。
節分を正しく過ごせば健康が手に入る?
節分も許せないものの一つだ。節分というと豆をまいて、歳の数だけ豆を食べると無病息災でいられるらしい。そんな風習にあやかってこの季節にわざわざ割高な豆を売りつけてくるのだ。何が無病息災だ。保育園児とか小学校低学年くらいの頃までは、毎年毎年ちゃんと節分の日に豆を玄関先にまいて歳の数だけ豆をちゃんと食べていた記憶がある。それが今やどうだ、見事にメンタルのヘルスを崩しては精神科のお世話になっているじゃないか。精神的なやつは無病息災の対象外なのか。どう見ても全焼なのに1本だけ柱が腰の高さくらいまで焼けずに残ってたから「半焼ですね」とか言っちゃう保険屋かよ。なんなんだよその判断基準は。
本当に肉体的にも精神的にも健康でいられるなら、いくらでも豆まいてやるっちゅうねん。借金してでもトン単位で豆を買って朝から晩まで腕がもげるまでまきつづけてやるっちゅうねん。豆を食うくらいで健康でいられるならいくらでも食ってやるっちゅうねん。借金してでも豆を買って歳の数だけ食ってやるっちゅうねん。いや、豆を食べるぶんには借金しなくていいか。まぁとにかくそういう縁起物みたいなのに縁起を感じたことが無いので、絶対に今日は豆をまいてやるものか、豆を食ってもやるものかと思っている。
大体、豆をまいて歳の数だけ食べるなんて行事をやるのはそれこそ小さい子供がいるような家庭くらいだろう。お父さんもお母さんも30~40代くらい、子供も10代入るか入らないかくらい。子供が食べる豆の数なんて10個そこそこだから大したことないけど、もっと爺さん婆さんみたいに最初はただの風邪だったのが致命的になるような健康さが必要な人たちの場合、70個とか80個とかの豆を食べろというのは酷過ぎるだろう。どんな苦行だ、むしろ豆をそんなに食い過ぎたことで病気になりそうだわ。もうシステムとしておかしいじゃないか。子どもや働き盛りの年代の負担は少ないけど、高齢者は負担でかいって生命保険かよ。保険屋かよ。
本当に歳の数だけ、豆を食べてますか?
もうシステムとしてもおかしいし適用基準もよく分からない。ちゃんと豆まいてたし歳の数だけ食べてたのになんで健康でいられないのか。何がダメだったのか。色々考えてみた。豆のまき方が悪かったのか。確かに多少の意味のわからなさと恥ずかしさから、豆をまくときに言う「福は内、鬼は外」という掛け声は心なしか小さかった気がする。でも小さくても一応言ってたんだし、これは適用基準内じゃないのか?何デシベル以上じゃないとダメとかあるのか?炒り大豆じゃないとダメなのか?落花生をまいたら適用基準外なのか?トクホみたいに消費者庁とか厚生労働省の許可マークが出てるタイプの豆じゃないといけないとかそういう感じなのか?でも色々調べてみてもそういう決まりは無いみたいだったからまき方に問題があったのではないだろう。
じゃあ食べた豆の数がいけなかったのか?「歳の数だけ豆を食べる」なんて条件、数さえ間違えなければ絶対にアウトにならないだろうという事を考えると、やっぱりまき方のほうに何か、利用規約の隅っこに超小さい字で書かれた重要事項みたいな感じで、絶対に守らなければならないことがあったのだろうか、と考え直してみたがふと気づいた。そういえば我が家は和食だ。基本的に毎食お米と味噌汁が出てくる。もしかしてこれじゃないのか。味噌汁、っていうか味噌って元は大豆じゃん。これ豆としてカウントされてるんじゃないのか。味噌汁を飲んでしまった分、歳の数という規定値以上の豆を摂取してしまったからアウトになったんじゃないのか。同じ理屈で醤油とかも豆としてカウントされちゃってるんじゃないのか。絶対に間違えようがないだろうというところに見つけにくい落とし穴が配置されている、保険屋のようなやり口。多分これがアウトだったのだ。だから節分にいくら豆をまいても、ちゃんと歳の数だけ豆を食べても、健康になれないのだ。大豆から出来てる製品を口にしない日なんて、和食派じゃない家庭でも難しいのではなかろうか。絶対にこの落とし穴のせいで我ら日本人は豆まき業界に搾取され続けているのだ。
それでも続く悪夢
もう今年は味噌汁を飲んでしまったので失敗した、来年の節分にかけようといっても多分そううまくはいかないだろう。ここ数年の内に節分には豆に加えて恵方巻きまでがセットになってきやがった。多分ちゃんと豆をまいて歳の数だけ豆を食べ、そして大豆製品は一切口にしなかったとしても、「いやいや、実は今はもう豆だけじゃダメで、恵方巻きも食べないと適用外なんですよ」となることは目に見えている。特定の条件をやっとのことで満たして、さぁこれで幸せになれるぞ!と思ったところで、今頃になってまだ条件を追加してくるとか、霊感商法とかマルチ商法みたいなもんなじゃないのか。恵方巻きについては「1本丸ごと」「無言で」「特定の方角を向きながら」と条件が更に多くなっている。今にも健康さが必要な死にかけの老人に対して、1本丸ごと巻き寿司を食え、そうすれば健康になれるぞなんて言うのはそれこそ鬼だ。「鬼は外」とか言ってる癖に、思いっきり鬼に金を巻き上げられているじゃないか。70~80個の豆を食べた上に更に巻き寿司一本をまるごと食べなければならないなんて、老人にとってはお持ちを食べる以上の高難易度ミッションじゃないか。しかも恵方巻きってお寿司だから醤油をつけたくなるじゃないか。またこれで醤油をつけようものなら、規定値以上の豆を摂取したのでアウトですね、となる罠もあるんだろ。
どうせ数年後には恵方巻き同様、どこかの地方で行われているような節分の風習を持ちだしては金を巻き上げて健康になるための条件を更に狭めるんだろう。この鬼どもめ。絶対に節分の風習に従ってなるものか。