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異世界転生騒動記 作者:高見 梁川
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第二十一話 誕生狂想曲  書籍化該当部分6 

 まさかの緊急事態にバルドは盛大にうろたえた。
 さすがの雅晴のチート知識にも、出産に関する詳しいデータはない。
 精々が殺菌などの衛生知識程度である。
 怒り心頭であったはずのアルフォードでさえ、混乱のあまり右往左往して全く役に立たなかった。
 「ささささ、産婆さん、産婆さんを呼ばないと!」
 「でででも、住民は疎開させたからここにはいないだろう?」
 「そそ、そうだった! どうしよう!」
 いつの世もお産に関して男が役に立つのは医者としてだけである。
 勝利の美酒に酔う暇もなく、バルドたちは城へと急行した。
 これがまた不幸なことに、同行した軍医にも出産に立ち会った経験のあるものはいなかった。
 なんといっても通常、彼らの職務は負傷した軍人の手当てなのだからやむを得ないところもあるであろう。
 「どうしたらいいんだ? どうしたら……」
 つい先刻までの堂々たる武者ぶりが嘘のように取り乱したバルドを、マゴットは盛大に怒鳴りつけた。
 「目障りだからうろちょろするんじゃないよっ! おい、嫁!」
 「はいっ!」
 咄嗟に返事をしてしまった女性陣のなかに、ちゃっかりシルクも交じっていたのはここだけの秘密である。
 「予行演習だと思って手伝いな! 男どもはとっとと出ていくんだよ! それから湯を沸かして清潔な布も用意しな!」
 「了解っ!」
 まさに神速の名にふさわしい速さで城の外へと飛び出していったバルドを見て、ブルックスは絶対に理解していないな、と思った。
 ――――案の定。
 「フレイムボム」
 井戸めがけて魔法を放ったかと思うと、釣瓶を落として沸騰した水を盥へと汲み上げる。
 そして両手に盥を抱えてバルドはマゴットのもとへ猛スピードで引き返した。
 運の悪いことに、バルドはマゴットが身体をしめつけない分娩服に着換えているところに戻ってきてしまったのである。
 「お湯を持ってきました! 母さん」
 「男は出て行けといったろうが、あほんだらっ!」
 本当に破水して出産間近な女性とは思われぬ早業で、バルドの急所とみぞおち、そして人中の三連撃が見事に決まった。
 「……す、すげえ…………」
 ブルックスが思わず股間を押さえて後ずさるほどの、電光石火の連撃である。
 たとえどんなことがあろうとも、マゴットを怒らせることだけはやめようと心に誓うブルックスであった。
 「この馬鹿を片づけて、お湯をどんどん持ってきな! セイルーン、あんたが窓口になって男どもを勝手に入らせるんじゃないよ!」
 「は、はいいいいっ!」
 嫁さんズは声もなく悶絶したままのバルドを無情にも部屋から追い出し、未来の義母に忠誠を誓ったつわものと化した。
 いつの世も女たちの連帯に、男は立ちいることなどできないのだ(涙)。
 「あんたたちの義弟か義妹になるかもしれないんだ。腹の底から気合いを入れな!」
 「義弟……」
 「義妹……」
 アガサを除いて残る三人は末っ子か一人娘であるため下の弟妹がいない。
 生まれて初めての弟妹が、さらにバルドの弟妹でもあることを想像して、テンションがあがってしまったとて誰が責められよう。
 「がんばりますっ!」

 「い、妹の顔を見るまでは……」
 「もういいっ! お前はよく頑張ったからもう休んでいろ!」
 なぜか妹が生まれることを確信しているバルドと、彼の安否を気遣うブルックスはとりあえず無視されていた。

 マゴットが高齢であるためか、それとも常軌を逸した無茶が祟ったのか、出産は予想以上の難産となった。
 一刻も早く専門家である医師と産婆を連れてこようと、疎開先へ騎士の一隊が馬を飛ばしたがどんなに急いでも優に一日半はかかるであろう。
 素人であるセイルーンたちには、難産の理由がマゴットの身体の問題なのか、それとも逆子など子供の問題なのかが判断つかない。
 「ど、どうしよう……」
 「お、お義母さま! 何かできることがあったら遠慮なくおっしゃってください!」
 女同士にしか理解できない出産という大事業にあって、マゴットと嫁()たちは奇妙な連帯感を共有しつつあった。
 「バルドのときも一晩中かかったもんさ。銀光マゴットともあろうものが、このくらい耐えられないわきゃあない」
 脂汗を流しながらもニヤリと笑うマゴットに、世代を超えた尊敬の念をセイルーンたちは抱くのだった。
 額の汗をセリーナに拭いてもらい、マゴットは目を閉じた。
 正直なところをいえば、バルドの時より遥かに事態は深刻である。
 母親としての直感で、おそらく赤子は双子であろうとマゴットは睨んでいた。
 そのどちらかが逆子か、あるいはへその緒にからまるなどの障害があるのではないか?
 時間の経過とともに衰えの見える自分の体力を考えると、体内の子供の体力がどれほど残されているか、考えただけでマゴットは本当は震えだしたい思いなのである。
 (死なせたくない――――死なせてたまるものか!)
 おそらくは最後の出産であり、何より愛するイグニスとの間の子供である。
 もともと表現の方法は別として、マゴットは人並み外れて母性に厚い性格であった。
 自分の命にかえても必ず子供を助けて見せる。
 誰にも告げることなく、マゴットは自分にしかできない戦いへの覚悟を決めた。

 出産に大量のお湯が必要とされるのは、産まれたての赤ん坊を産湯につかせるためだけではなく、道具や産婆さんの手を清潔に保つためのものである。
 公衆衛生として広まったのは意外と早く、近代には全世界的に広がっていた。
 また各国によって事情は異なるが、女性の会陰部を温めたタオルでマッサージして会陰部の裂傷を防ぐなどの民間治療もあり、お湯はいくらあっても足りるものではなかった。
 まして難産の長期戦となればなおのことである。
 危うく天国の扉を開きそうになっていたバルドだが、意識を取り戻すと再び猛然と湯を沸かす作業に取り掛かった。
 「フレイムボム! フレイムボム! フレイムボム!」
 あまりに大量に作りすぎて、使う前に冷めてしまう有様であったが、バルドは動かずにはいられなかったのである。
 ただ待つしかない身にとって、何か少しでも仕事をしていないと無為に耐えられない気持ちが襲ってくるのだ。
 生まれてくる子が弟妹であるバルドにしてそうなのだから、自身の子供であるイグニスやマゴットの憔悴はいかばかりであろうか。
 ようやくにして親の気持ちが少しわかった気がしたバルドであった。
 「無事に……無事に産まれてきてくれよ!」

 不眠不休のまま朝を迎えてもなお、マゴットのお産は続いていた。
 さすがに体力の低下を懸念した軍医が治癒魔法の使用を提案したが、マゴットは頑として男たちを寄せ付けなかった。
 魔力による体力の補完はマゴット自身の得意技であったものの、限界を超える戦いで魔力はほぼ底をついていたにもかかわらずである。
 今にして思えば普段から肌の露出が少ない母であった。
 まさか他人に肌をさらすのが嫌、とかそんな乙女な理由があるのでは?
 バルドは怖いものでも想像したかのように、ブルブルと激しく頭を振った。
 今はそんなことよりもマゴットとその子の安否だけが気遣われる。
 事と次第によってはマゴットに殺されようとも軍医に診察してもらう必要があるかもしれなかった。
 そのときである。

 「マゴットオオオオオオオオオオオオオオオオ!」

 聞き慣れたただ一人の番の声を、マゴットが聞き逃すはずもなかった。
 全身を汗に濡らして、背中に気絶した産婆をかついだイグニスが到着したのだ。


 マゴットに意識がなくなるほどボコられたイグニスが回復するまで、実に一昼夜の時間が必要であった。
 しかも治癒師による必死の介護が必要であったというから、マゴットよ。お前は加減というものを知らないのかと突っ込みたくなるところである。
 しかし意識が回復したイグニスはそんなことに頓着しなかった。
 戦況とマゴットの行動について報告を受けたイグニスは、もうコルネリアスの危機は去ったと判断し単身マゴットを追ったのである。
 この際、攻守ところを変えてイグニスを止めようとした部下が数人ベッド送りとなったという。
 マゴットの後を追って全力で北上するイグニスが、産婆を迎えに馬を走らせる騎士の一隊に会ったのは奇跡的な偶然だった。
 「俺が走ったほうがお前らより早い」
 「ええっ? ちょ……あんたは平気でもこっちの身がもたな……ぎゃあああああああ!」
 不幸中の幸いは、イグニスの背中におぶわれた産婆は、早い段階で気絶していたということであろうか。

 「――マゴット!」
 他人ならばいざ知らず、ただ一人イグニスだけはマゴットに近づくことを許されていた。
 戸口の前で仁王立ちしていたセイルーンも当然そのことは承知していた。
 「……ああ……イグニス……きっと来てくれると信じてたわ」
 「全く心配ばかりさせる――もう大丈夫だから可愛い子を産んでくれ」
 汗で湿ったマゴットの銀髪を愛おしそうにイグニスは撫であげた。
 「汚い手で触るんじゃないよ! 母親と子を殺す気かい!」
 つい先ほどまで気絶していたというのに、耳が張り裂けそうなほどの大音声でガウェインでは有名な産婆――サンドラは怒号した。
 「このあたしが来たからにゃ万が一にも子供は死なしゃしないよ! あんたも亭主の前なんだから格好つけなぁ!」
 「あ、ああ…………」
 この迫力にはさすがのマゴットも相槌をうつのが精いっぱいであった。
 「亭主はとっとと出てってまずは身体を洗ってくるんだね! そんな汗臭い身体じゃ子供は抱かせないよ!」
 「わ、わかった!」
 所詮イグニスは素人でマゴットも出産経験は一度だけ。
 サンドラが生涯にとりあげてきた赤ん坊の数は千を超えるのである。
 いかに戦場では鬼神のような二人であっても、この出産という戦いではサンドラの敵ではなかった。
 「あんたらが誰か知らないが、ここはあたしの生きる場所だ。黙って言うことを聞きな! 必ず子供と対面させてやる」

 結果的にサンドラは大言を守った。
 それからおよそ四時間後、マゴットは見事に双子の子を産み落としたのである。
 しかし産まれてきた双子の一人は、首にへその緒が巻きついており、その呼吸は浅く心臓の鼓動は聞き取れないほどに小さかった。
 「――――良かった。最後に私にも母親としてやれることが残っていたね」
 マゴットは愛おしそうに産まれてきてくれた子供を見て微笑むと、残された魔力を根こそぎかき集めた。
 「活性リバイタライズ
 魔力で細胞を活性化させて、全身の生命力を高めるマゴットの魔法をかけられた赤ん坊の呼吸が穏やかで規則正しいものに変わった。
 「ありがとうマゴット。とてもかわいい男の子と女の子だ」
 「イグニス――――ずっと考えていた名前があるんだけどいいかな?」
 遠い昔のつらい記憶を思い出すような瞳を虚空に向けてマゴットは続けた。
 「ナイジェルとマルグリットと名付けたいんだ――――いいかな?」

 何もかもが幻であると知らずにいたころの自分と、二度と会えない人の名前をマゴットは望んだ。
 まだマルグリットと呼ばれていたかつての自分。
 そして家族同然で兄とも慕う存在だったナイジェル。
 もしも違う人生があるのなら、二人が幸福に生きることができたと信じたい。
 イグニスは一言も言葉には出さずに、マゴットが胸に秘めた哀しい記憶を丸ごと呑みこんだ。
 「いい名前だ――必ず幸せにしよう」
 「うん……うん……!」
 嗚咽しながらマゴットはイグニスの胸に額を寄せた。
 「夫婦仲が良いのはいいことだけど、あんたら早く子供も抱いてあげなよ?」
 サンドラに揶揄されると、マゴットは恥ずかしそうに顔を赤らめて、産まれたばかりの子供を受け取った。
 髪の色は男の子がイグニスに似た茶髪で、女の子がマゴット譲りの銀髪をしていた。
 バルドの時にも感じたことだが、子供たちの容姿のなかに自分の遺伝子が確かに受け継がれていることを確認すると胸が締め付けられるような愛しさがこみあげる。
 ギュッと握りこんでいる小さな手に指を差し入れると、まるで母とのスキンシップを喜ぶかのように男の子がキャッキャと笑った。
 「――あなたたちは仲のいい兄妹になるのよ?」
 「きっとなるさ。私と君の子なのだから」
 この子たちは絶対に大人の都合で不幸になることのないように。
 身重でありながらバルドを助けるためマゴットが飛びだした理由もそこにある。
 たとえどんな強い権力の横暴があろうとも、我が子の命だけはただの一槍をふるって必ず救い出す。
 それが若き日いくつもの戦場を渡り歩き、誰にも真似のできない人外の武を身につけた銀光マゴットの誇りであった。
 なぜならそれは、幼い日の自分が叶えられなかった誓いだから。

 「うう……良かった……良かったよおお」
 「おめでたいですわ」
 「…………素敵」
 「私にも義弟おとうとと義妹いもうとが!」

 いろいろと邪な思惑が混じっていた気もするが、概ね嫁たちもイグニスとマゴットの愛情の深さを見せつけられて感動に瞳を潤ませていた。
 もちろん二人の夫婦の姿に、自分とバルドの姿を重ね合わせて妄想してのことである。
 (いつか私たちも…………!)
 「うふふふ……」
 「ほほほほほ……」
 「ぐへへ……」
 「………………(ぽっ)」
 ――――ゾクリ
 「なんだかとても背筋が寒いんだが……風邪かな?」
 こめかみからタラリと冷や汗を流すバルドに、呆れたようにブルックスは答える。
 「頼むからこれ以上フラグを立てないでくれ」


 第二次アントリム戦役――後の世に伝説として語り継がれることになる一連の戦闘は、ランドルフ侯爵軍の援軍が到着することでほぼ終了した。
 ハウレリア王国は辺境の一子爵にすぎないアントリム子爵に完敗を喫して敗走。
 全軍の三割以上を失う大敗の責任をとって国王ルイは王都に戻ると同時に退位を宣言し、その王位を和平派であったモンフォール公ジャンに譲位する。
 納得いかないのは国王ルイに賛同した貴族たちであった。
 領地経営に支障をきたすほどの大損害を受けながら報償もなく、国政を牛耳るのはこれまで反主流派であった和平派になるのである。
 これで大人しく納得するほうがどうかしていた。
 「我々はいったい何のために戦ったのだ!」
 もちろんそれは、身内の復讐とマウリシアの肥沃な大地の利権のためであったのだが、彼らの言い分としては国王の命令に従い忠誠を尽くしたということでもある。
 しかし国内最右翼であり、もっとも強大な戦力を保持していたセルヴィー侯爵家が文字通り潰滅していたこともあって、実力を行使しうる貴族の数は激減していた。
 強硬派の盟主となったのはルイの従兄弟にあたるノルマンディー公クロヴィスである。
 ハウレリア王国の軍事力はまだまだマウリシアに優越しており、侵攻することはできなくとも防衛力に不足はないというのが彼の主張であった。
 新たに即位した国王ジャンの和平交渉は、かなりハウレリアに屈辱的な内容となることが予想されていた。
 事実ジャンは国境線の割譲や賠償金の支払いなど、ハウレリア王国の政治的独立を保つためにあらゆる譲歩を考慮するつもりであった。
 長年に及ぶ重税――――そして徴兵された民兵の損害。
 苦しみが長く期待するものも大きかっただけ、裏切られた反動も大きかった。
 ハウレリア王国全土で反政府機運が高まり、これに周辺諸国、特にハウレリア王国の南東に位置するケネストラード王国が食指を伸ばし始めようとしていた。
 後ろ盾を得たと思いこんだ頭の軽い貴族が、武装蜂起を決意しかけたそのときである。
 現国王ジャンの政策に反対した先国王ルイが、隠居先のシュビーズに反国王派勢力を集めて反乱を企てた。
 「私はこのような屈辱的な和平のためにジャンに譲位したのではない」
 敗戦の責任を取り、退位したときには誰も引き止めなかった貴族たちであるが、神輿が現れたとばかりにたちまちシュビーズに参集する。
 国王ジャンに反旗を翻そうとしていた彼らも、正面から国王と戦えば勝ち目は薄いと感じていたのだろう。
 新政府の中枢から排除された貴族を中心にシュビーズに会盟に訪れた貴族の数は、実に二十三家を数えた。
 これはハウレリア王国の上流貴族のおよそ六分の一にあたる。
 まだ政権基盤が安定していないジャンにとって、先国王によるこれらの貴族の反乱があればそれは致命傷となる可能性が高かった。
 集まった貴族たちに、ルイは機嫌よく手ずからワインをついで回ったという。
 否が応にも彼らの士気は高まった。
 「諸君、卿らの献身まことにうれしく思う。これは嘘いつわりのない私の本心だ」
 宴もたけなわになったころ、ルイは涙ながらにそう言った。
 あれほどの無様な敗戦を喫した自分の旗を仰ごうとしてくれる。
 たとえそこに利害関係があろうとも、その事実がルイにとっては慰めとなっていた。
 「私は愚かな王であった。許せとは言わん。だが王であるからこそ王の役割は果たさねばならぬ。すまんが卿らの命、私にくれ!」
 「おおっ! 我が命、我が君に捧げます!」
 その言葉が形式的なものであると判断した貴族たちは口ぐちにルイに対する忠誠を叫んだ。
 しかしルイの言葉は決して比喩的な表現ではなく、文字通りに彼らの命を要求していたのである。
 「ぐほおおっ!」
 喉を熱い物がこみあげてきて、彼らは見栄も外聞もなく嘔吐した。
 そして吐しゃ物に交じって、見間違いようもない真っ赤な鮮血が溢れていることに気づいて愕然とする。
 「い、医師を……早く医師を呼んでくれ!」
 口から血泡をまき散らしながら、すがるような思いで彼らは叫んだ。
 このままでは死を免れない。本能的に彼らは自分を襲う激痛の正体を察していた。
 豪奢を極めた料理の数々が鮮血に染まり、血だまりの中に痙攣して男たちがのたうちまわる様子はまさに地獄絵図である。
 そんななかでただ一人、平然と彼らを睥睨して佇む男がいた。
 静かに涙を流しながら、この地獄絵図を決して忘れまいと睨みつけるその男は、誰あろうルイその人にほかならない。
 ようやくにして貴族たちはこの地獄を演出したものが誰であるかを知った。
 「――――何故だ? 私たちは陛下のために!」
 「あれほど殺しておきながら、まだ足りないのか? この殺戮王め……」
 「いやだ! 死にたくない! 何でもするから助けてくれえええ!」
 「――――あの世についたら余を八つ裂きにでもなんでもするがよい。余は拒まぬ。逆らわぬ。こんな無様な方法しか王国を救う手を見つけられぬ無能な王ゆえな」

 最初からルイに反乱を起こすつもりなどなかった。
 今ハウレリア王国が内戦に突入すれば、間違いなく諸外国の介入を招く。
 国際的な政治バランスからして一国が独占することは不可能であるから、マウリシア、ケネストラード、モルネア、ケルティアス、ガルトレイク各国に分割占領となる可能性が最も高い。
 マウリシアと敵対する関係上、モルネアやガルトレイクとは友好関係を保ってきたが、隣国だけに甘い蜜を吸わせて指を咥えて黙ってみている国があるとはルイは思えなかった。
 ゆえに――――反乱の目は根絶しなくてはならない。
 そしてその憎悪を向けられるべきはジャンであってはならないのだ。
 「こんなことが許されると思うな……貴様の名は……未来永劫……卑怯ものとして……」
 怨念をこめたクロヴィスの最後の言葉はそれ以上口には出来なかった。
 無念の表情を張りつけたままクロヴィスは絶命する。
 最終的に参集した全ての貴族が死に絶えるまで、半刻近い時間が必要であった。
 「国を滅ぼす汚名に比べたら、卑怯者ぐらい何ほどのこともないさ」

 当然の結果として、当主を殺された反国王派貴族たちは怒り狂った。
 味方してやろうとわざわざ足を運んで出向いたら皆殺しにされたのである。
 これで怒らないほうがどうかしているであろう。
 ところがそのころルイはすでにジャンによって謀反の未遂犯として逮捕されており、彼らが復讐しようにも手をだしようがなかった。

 「私と引き換えに戦争を諦めさせ、国王に忠誠を誓わせろ。少なくとも五年程度は大人しくしているだろう」
 「どうして貴方がそこまでしなくてならないんです!」

 身も蓋もないルイの言葉にジャンは思わず激昂した。
 ルイは一度は忠誠を誓った主君である。
 退位させたのも、残る人生を平穏に送ってほしいと思ったからこそだ。
 こんな自殺紛いのことをさせるつもりでは断じてなかった。

 「――――この国を頼む、ジャン。私を少しでも思ってくれるなら、この私を亡国の王にだけはしないでくれ」

 大陸でも有数の軍事国家であったはずのハウレリア王国は、今や各国にとんだ張子の虎と思われている。
 たかが一子爵に完敗したのだから無理からぬ話であった。
 相手が弱いと見ればかさにかかってくるのが国際政治というものである。
 一刻も早くマウリシア王国との和平をまとめなければ、ハウレリア王国は各国の草刈り場と化すであろう。
 敵ではあるが、老獪なマウリシアの狸ウェルキンがそれを望むはずがないことをルイは確信していた。
 「先んじて私の首を送りつければそれほど無理難題をふっかけてはくるまい。あの男にとってもハウレリアに友好的な政権ができることは歓迎すべきはずだからな」
 サンファン王国との同盟にも見られるように、ウェルキンの視線はトリストヴィーに向いている。
 気質的に統治の難しいハウレリアを占領する気がないのは、ほとんど追撃らしい追撃を受けなかったことでも明らかであった。
 淡々と己の命を捨てる話を語るルイに、ジャンは声をあげて嗚咽した。
 「つらい役目を押しつけるが――すまん」

 三日後、恭順してきた反国王派貴族が見守る中、先国王ルイは王都の中央広場で斬首の刑を執行された。
 密蝋漬にされたルイの首はウェルキンのもとに送り届けられ、ウェルキンは宿敵の変わり果てた姿にしばし言葉もなかったという。
 ルイの王としての覚悟に感じいったかはわからないが、マウリシア王国はいくばくかの領土の割譲と賠償金と引き換えに、ハウレリア王国におけるジャン国王の正当性を認めた。
 要するに、ジャンに対して反乱を起こしたり、侵攻したりしたらマウリシア王国が相手になるぞと宣言したわけである。
 そして最後に、マウリシア国内でのボーフォート公の反乱だけが残された。

 ボーフォート公の反乱がこれほど長期化したのにはわけがある。
 もしもこれが開戦の初期であれば、ラミリーズは多少の損害に構わず攻め落としたであろう。
 しかし今さらボーフォート公が脱落してもアントリムへの援軍は間に合わない。
 というより想定外の損害を被った時点でハウレリアの侵攻作戦は失敗が決定していると言ってよい。
 もっともそこにはバルドが無事に生きのびるか、という問題が含まれてはいたのだが。
 いずれにしろラミリーズは敵味方ともに損害を最小限に食い止めるつもりでいた。
 「わしは、ああはなりたくないものだな…………」
 広大な所領と代々の財物に裏打ちされたボーフォート公軍の戦備は、ラミリーズの目から見てもなかなかのものと言える。
 そもそもボーフォート公アーノルドは、若き日には王国を背負って立つと期待された新進気鋭の行政官であった。
 彼の業績は現在の強固な城や兵備、豊富な物資を見てもわかるであろう。
 伊達に十大貴族の筆頭に君臨していたわけではなく、単体の実力で考えるなら今なお十大貴族の筆頭は間違いなくボーフォート公である。
 またボーフォート公領は税率も低く、治安も良好で領民にとってアーノルドはとても優秀なありがたい領主であった。
 官僚たちの大半はアーノルドが若き日に抜擢した有能な人材が多く、当然ながら忠誠心も厚かった。
 双方にとって不幸なことに、人生が終わるまで必ずしも優秀ではいられないのがこの悪しき世界の時の流れ方である。
 しばしば過去に優秀であった人間ほど、老いてからの衰亡が与える影響は大きい。
 たとえば日本では戦国時代の大友宗麟などが良い例である。
 老いて息子に先立たれてからは豹変し、家臣を殺して妻を寝とるわ、領民を奴隷にして外国に売り飛ばすわ、キリスト教に傾倒し、家臣たちが信仰する古刹を破壊して旧来の宗教勢力まで敵に回してしまった。
 それでも高橋紹雲や立花道雪といった名将が見放さなかったのは、宗麟が若き日の英才ぶりが印象に残っていたからであろう。
 三国志で有名な呉の孫権なども年老いてからは後継者の選定を誤り、無二の宝ともいえる陸遜を憤死させているが、やはり麒麟も老いては駑馬に劣るというのが残酷な時の流れの必然であるのかもしれない。
 ボーフォート公もなまじ若き日有能であったがために、家臣や領民を破滅の巻き添えにしようとしていた。
 ラミリーズはそれを承知していたがために、早期解決を諦めたのである。
 「ええいっ! まだハウレリアは現れんのか? 小僧一人討ちとれんというのか!」
 いらだたしげにアーノルドは足をふみならして、バルコニーから眼下のマウリシア王国軍を睨みつけた。
 形勢は控えめにいってもじり貧である。
 当初はボーフォート家の縁戚筋にあたる貴族や、周辺寄貴族も協力してくれていたものの、勝利の天秤が国王に傾いたかと思うと雪崩をうったかのように手のひらを返していった。
 もしも勝利を奪った暁には、決して許してはおかないとアーノルドは思う。
 それ自体がすでに妄想でしかないということを今のアーノルドはわかっていない。
 「まったく、どいつもこいつも不甲斐ないものばかりじゃ!」

 アーノルドの狂騒を、ボーフォート公爵軍を実質的に指揮しているパトリックは沈痛な思いで見つめた。
 息子たちが戦役で一人残らず亡くなってしまうまで、アーノルドは実に忠誠をつくし甲斐のある主君であった。
 部下を信頼してある程度の裁量を任せるだけの度量があり、さらにより大きな観点から舞台を整えることができる戦略性があった。
 かつて王国の要たる十大貴族の筆頭に君臨したカリスマと力量はパトリックをはじめとする家臣たちの誇りであった。
 「せめてチャールズ様が生きていてくれれば……」
 アーノルドの息子としては凡庸であったが、彼ならば手堅くボーフォート家をまとめたであろうし、アーノルドが精神の均衡を崩すこともなかったはずだ。
 あの戦役においてボーフォート公爵軍は決して負けたわけではなかった。
 アーノルドが鍛え上げた軍は、ほかの貴族たちとは一線を画した本格的な専業軍人の集団であった。
 しかし味方であるはずの貴族たちの無能さが、ボーフォート公爵軍を敵中に孤立させた。
 砂の城のようにあっさりと崩れ去った貴族軍のなかで、ボーフォート公爵軍だけが明確な指揮系統を保っていたのである。
 ボーフォート公爵軍を突き崩さなければ追撃戦に移れないハウレリア軍の攻撃が集中し、偶然の流れ矢がチャールズの喉元を貫いた。
 自分が身を呈して庇うことができれば、今のこの窮状はなかったかもしれない。
 あの日目の前でチャールズを失った瞬間から、パトリックがその悔恨から解放されたことは一度としてなかった。
 アーノルドを裏切ることは自分には決してできない。
 しかしこのまま王国と戦い続けることがアーノルドのためになるのか。
 パトリックは答えのでない疑問を悩み続けるのだった。


 「――――潮時じゃな」
 ラミリーズは王都から届けられたある物を手に深々とため息をついた。
 アーノルドの若き日の英才ぶりを知る人間としては忸怩たる思いがあるが、こうして正面から王国に反抗してしまった以上、引導を渡すのがラミリーズの役割である。
 残念なのは、全てが手遅れになってしまった後だということだ。
 ハウレリアがまだ戦力を保っているうちであれば交渉の余地はあった。
 ラミリーズもソフトランディングさせるための交渉の使者を幾度となく送っている。
 しかしハウレリアの敗北が確定した今、王国がボーフォート公爵に譲歩しなければならない理由は何もない。
 それはすなわち、アーノルドだけでなくその孫と家臣全て、ボーフォート公爵家が断絶することを意味していた。
 建国の功臣にして十大貴族の雄、ボーフォート公爵家が断絶するということは、新たな十大貴族の誕生し政治勢力が塗り替えられるということでもある。
 その残酷な政治力学の中に放り込まれるであろうバルドを思うと、ラミリーズは憂鬱な気分にかられるのであった。
 「だからといって放置しておくには大きすぎるしのう……」
 今後のマウリシア王国において、中央集権を高め貴族の統率を強化するのは既定路線である。
 陰に日向に貴族に反抗され、対ハウレリア王国戦をほとんどアントリムに押しつけてしまった鬱憤でウェルキンは爆発寸前であった。
 封建体制において経済の発展はしばしば貴族の忠誠を衰えさせるものだ。
 基本的に貴族は土地を基盤として収益をあげるものだが、経済と流通の発展は、土地を支配することよりも金がより多くの者を支配する。
 本来国王と貴族を結ぶもっとも強固な絆は、領地所有権の保障と安全保障である。
 金融の発展は土地と密接な関わりを持つ貴族との基盤を揺るがしかねない可能性があった。
 ハウレリアに対抗するため、国力の増強に経済を優先したウェルキンは、それを甘く見過ぎていたと言っていい。
 ウェルキンは旧来とは違う視点を有しているがゆえに、足元をすくわれたのかもしれなかった。
 「――――ボーフォート公に使者を送れ。これが最後通告だ」
 ラミリーズがアーノルドに送りつけた物とは、ハウレリア元国王ルイの首であった。
 かつて十大貴族の筆頭として、ルイと顔を合わせたこともあるアーノルドは、まさにその顔を見て卒倒した。
 一国の国王のあまりにも無惨な姿である。
 同時に国王としての責務を果たした漢の顔でもあるのだが、王となったことのないアーノルドにはそれを理解することはできなかった。
 ただルイの死にザマを見て思いだしてしまったことがある。
 それは――――死は以前からずっと自分の身近に存在する、ということだ。
 どうして忘れていたのだろう。
 死がすぐそこに迫っているからこそ、アーノルドはあえて国に反旗を翻したのではなかったか?
 頼みのハウレリア国王ルイは死んでいた。
 なら自分はどうすればいい?
 自分はあとどれくらい生きられる?
 この現状でもし自分が死んでしまったらボーフォート公爵家は――――。
 死を本当に意識した瞬間、アーノルドを狂わせてきた妄執はアーノルド自身に凶暴な牙を剥いた。
 腰が抜けたようにどさりと尻もちをついたアーノルドは惑乱した。
 不快な痛みが内臓を締め上げてくる。
 小刻みに震える身体にただ心臓の音だけがひどく大きな音を響かせている気がした。
 ラミリーズの思惑は完全に果たされた。
 今こそアーノルドは死にゆく自分を思い出したのである。
 もう引き返すことのできぬ泥沼に首まで浸かってしまった今になって。
 「おおおおおおおおおっ!」
 アーノルドの魂を凍えさせるような慟哭が、何もかもが手遅れであることを雄弁に告げていた。


 正気を取り戻したアーノルドとラミリーズの間で和平交渉がスタートした。
 しかしアーノルドが主張する、責任をアーノルド一人に留めるというのは事実上不可能である。
 家臣から領民まで組織的に王国に反抗したことが明らかである以上、もはやボーフォート家が存続するという選択肢はない。
 両者の焦点はアーノルドの孫であるジョージの処遇に移った。
 ラミリーズも子供の遣いではないから、ウェルキンの決済を仰ぐ前にある程度の落とし所は見つけておく必要があるのである。
 「正直に申し上げるが私にできるのはジョージ殿の助命を嘆願する程度。王国法に照らせばそもそも三族の処刑なのですゆえ」
 「わしも長いこと貴族社会の中で生きてきた。その程度のことは承知しておるよ。貴族は建前さえ整えれば割りと融通がきくということも」
 どうやらアーノルドは搦め手を考えているらしい。
 問題はそれが妥協に値するかどうかということなのだが……。
 「……ダドリー伯が養子を探していただろう。我が一門に連なる者ではあるが王家に対する忠誠は厚い。日付を遡って縁組させれば言いぬけることも可能なはずだ」
 「ほう……ダドリー伯ですか」
 正直アーノルドのセンスが衰えていないことにラミリーズは驚愕していた。
 「あれに恩を売るのは卿にとっても有益になるのではないか? 彼の伯は対トリストヴィーの最右翼でもあることであるし」
 その言葉に一切の動揺を筋肉に伝えなかったラミリーズは賞賛されてしかるべきであろう。
 「なんのことかわかりかねますな」
 「ふむ、トリストヴィーから理由ありの母娘を連れてやってきた凄腕の傭兵というのが卿に似ていると聞いたが勘違いであったか」
 「同事、流れの傭兵など珍しくもないですからな」
 「ふははは……まあ、そういうことにしておこうか」
 愉快そうに含み笑いを漏らすアーノルドは、まさに十大貴族に君臨した一大の巨人であった。
 彼がその力を正しく王国のために使っていてくれれば、今回の戦争も随分と模様を変えたことだろう。
 「おそらく陛下は断らんと思うが……よしなに頼む」
 「この身命に誓いまして」
 ラミリーズほどの男が背中を冷たい汗が滴り落ちるのを耐えることができなかった。
 この国で、まさか自分の過去に辿りついたものがいるとは思わなかったのだ。
 一介の傭兵にすぎない自分が知られていたということは、つまり……。


 およそ十日の後、ボーフォート公アーノルドは家臣たちに見守られるなか逍遥と冥府に旅立った。
 短く熱い第二次アントリム戦役が終了した瞬間であった。



 「……ところでアントリム子爵殿に伝えなければならないことがあるのだが」
 なし崩し的にマゴットの出産以来嫁認定されているシルクは絶対に渡さない、と前置きしつつアルフォードは不敵に嗤った。
 その笑みにある種のフラグが立ったことを確信したバルドは、必死にアイコンタクトで沈黙を要請するが無駄なあがきである。
 アルフォードはバルドの味方ではなく敵なのだから。
 「サンファン王国横断の補給に際してはマジョルカ王国海軍卿ウラカにね、それはそれはお世話になったのだよ」
 ――――ギクリ
 せめて逃亡を図ろうとするバルドをセイルーンとセリーナが阻んだ。
 このあたりの勘働きにおいて、付き合いの長い二人の右に出る者はいない。
 「早くバルドとの子が欲しいと言っていたよ。サンファンでもマジョルカでもとっとと行ってしまいたまえ、この女誑しめ」
 「どうやら」
 「ゆっくりお話を」
 「聞く必要がありそうですわ」
 「うひいいいいいっっ!」
 ずるずるとバルドを引きずって奥の部屋に入ろうとする娘に向かって、アルフォードはすがるように語りかける。
 「目を覚ませ、シルク! こんな女誑しに関わることはない!」
 「女でも、いえ、女だからこそ売られた喧嘩から逃げるつもりはありませんわ!」
 「シ、シルクウウウウウウウウ!」
 そこに勝者はおらず、二人の男は等しくみじめな敗北者となった。
 ――――その男はベックと呼ばれていた。
 実に身長二メートル三十三センチという巨漢で大力無双の豪傑である。
 温和な丸顔で、愛きょうの良さそうな大きな鼻が特徴だが、眉尻を釣り上げて怒ったときには、まるでオーガのような凶相に変わることもある。
 森の奥深くで樵や炭焼きを営んでいるが、あまりの巨体から薄気味悪がられ、ごく稀に炭や獲物を売りに来る以外は里の誰も彼と接点を持とうとはしなかった。
 親兄妹はベックが十二歳の時に流行病で全滅しており、今年二十八歳を迎えるベックはごく当たり前のようにその孤独を受け入れていた。
 「今日、寒い」
 言葉を交わす相手がいないせいか、接続詞が怪しい独り言を呟きながら、ベックはのっそりとベッドを起き出す。
 朝靄に煙るような森は早朝ということもあって、身が斬られるように寒かった。
 しかしベックは、ひとつあくびをしただけで黙々と着替えると、古びた釣り道具を一式手に取って玄関を出た。
 この時期は産卵で形のいい魚が釣れる。
 冬の食糧の貯蔵のためにも、釣りが貴重な狩猟の時間なのであった。
 通い慣れたけもの道を、ベックはのっしのっしと歩いて行く。
 およそ三十六センチはありそうな巨大な足跡が、少々湿った森の土に刻印され、毎日通ううちに草むらだった道なき道が、踏み固められた一本の道になっていた。
 「…………誰、いる?」
 いつもの澱みに腰を落ち着けようとしたベックは、そこに見慣れぬ人影を見つけた。
 先客だろうか? 
 地元の猟師でも立ちいらない森深くで、一度として他人と出会ったことはないが、ベックはそう考えた。
 ベックの常識ではそれ以外の答えを導くことができなかったのだ。
 しかし燃えるような赤毛に、腹のあたりを血に染めた女性の姿を認めて、ベックはそれがただの先客などでないことを悟った。
 「た、大変!」
 慌ててベックはうつ伏せになって倒れている女性を抱き上げた。
 失血のせいかひどく体温が低く、脈はあるかなしかわからぬほどにか細い。
 まともな人間であれば、背負うことすら困難なほどに見事な体格の女性であったが、ベックの巨体からすれば小人も同然である。
 大慌てで家へと引き返しながらもベックは女性の柔らかでありながら、明らかに鍛え抜かれた無駄のない肉づきに感心していた。
 ベックにとって女性とは、触っただけで折れてしまいそうな、見ているだけで恐ろしいか弱いっ生物であるはずだった。

 女性をベッドに寝かせ、暖炉に火を起こすとベックは困った。
 孤独な一人暮らしを送っているベックにはまともな医学知識がない。
 かといって里まで降りて医者を呼ぶ金もないし、何より危篤に近い女性を放っていけなかった。
 「身体、温める」
 まずは女性の凍るように冷たい身体を温めよう、とベックは思った。
 暖炉が部屋を暖めるまで、もうしばしの時間が必要であろう。
 そういえば丁度飼っている山羊のミルクを温めて飲ませるというのはどうだろう?
 「うん、いい」
 ベックは早速準備に取り掛かった。
 家の庭に囲っている数頭の山羊からミルクを絞り取ると、ベックはコップ一杯ほどのミルクを温めて女性に差し出した。
 「…………飲む」
 そう声をかけても、当たり前だが意識のない女性がミルクを飲むはずがない。
 これは困った、と頭を抱えたベックは幼いころ、母が妹に口うつしで粥を飲ませていたのを思い出した。
 なるほど、あれなら眠っていても飲みこめる。
 はた、と膝を打ったベックはおもむろにミルクを口に含むと、静かに女性の唇をこじあけた。
 無意識ながら、コクリと音を鳴らして女性が喉にミルクを流し込んだのを確認すると、ベックはうれしそうに次のミルクを呷るのであった。
 コップ二杯ほども飲ませただろうか。
 ようやく部屋も暖まり、女性の頬の血色もだいぶ良くなってきたように感じられる。
 これなら大丈夫と部屋を離れようとしたベックの耳に、女性のまるで幼子のようなうわ言が届いた。
 「置いてかないで……」
 気の強そうな容貌から、透明な涙の滴が流れて落ちた瞬間、ベックはその場に石化した。
 流行病で死んだ妹が、死ぬ間際、同じようにベックが離れるのを嫌がった記憶が脳裏で再生され、縁起でもないことながらその場を離れることができなくなったのである。
 案の定というべきか、その晩から女性は高熱を発して生死の境を彷徨うことになった。

 「おい、お前らどこに行くんだ? 敵は向こうだぞ?」
 ゾロゾロと後退していく仲間たちの姿に、女は慌てて声をかけた。
 ただでさえ劣勢の最前線で、勝手に退却などされては自分の命にかかわる。
 「ノリス! ノリスじゃないか! お前まで何してるんだよ!」
 そのなかに古いなじみを見つけた女は、裏切りにも似た感情を爆発させた。
 ノリスと呼ばれた男は、有名な盾持ちであり、前線で仲間を庇う守備力にかけては傭兵団でも右に出るものがいなかった男である。
 その彼が逃亡したとなれば、味方の士気に与える影響は計り知れない。
 「カッパー? ロック、デニスまで、お前らいったいどうしたって言うんだよ!」
 さらにゆっくりと後退していく人波のなかに、見知った男たちを見つけて女は叫んだ。
 ――――おかしい。
 彼らは仲間を見捨てて見境なしに逃げるような男じゃない。
 それにこれだけ大声で呼んでいるのに一言の返事もないのは明らかに異様だ。
 そもそも彼らはどこに向かって退却しているというのだろう? 自分が戦っていた戦場はいったいどこのなんだったか、記憶が途切れ途切れで明確な像を結ばない歯がゆさに女は焦った。
 「――――ジルコ」
 聞き慣れた声で呼ばれて女はホッと胸を撫で下ろした。
 そう、自分の名はジルコ。
 ちょっと腕におぼえのある傭兵で、今は姐御マゴットの息子、バルドに仕える身である。
 それにしても、彼らはいったいどこへ……。
 振り返ったジルコはゾクリと背筋を震わせた。
 大きく口をあけた暗黒の空洞が、次から次へとその闇のなかに人々を呑みこんでいく。
 その闇の向こうに何があるのか、少なくともろくでもないことになるのをジルコは直感した。
 「駄目じゃないか。こんなところにいたら、君も闇に連れて行かれるぞ」
 「あの闇はなんなんだい? ミストル」
 間違いなく幼なじみの戦友ミストルの声だというのに、ミストルの顔はまるで墨で塗りつぶしたようにまっ黒である。
 そんなに暗いというわけではないはずなのに。
 ジルコが首をかしげていると、ミストルは困ったように肩をすくめて苦笑した。
 「――――あの世さ。だからあの闇の向こうへ行けるのは死人だけなんだ。俺のようにね」
 パキリ、と心がひび割れる音がした。
 そうだ。あのハウレリア軍との戦闘でミストルは死に、自分も死んだのではなかったか?
 するとこれから自分もあの世へ…………。
 「大丈夫、ジルコは生きてる。俺も死んだ甲斐があるってもんだね」
 「あっ…………」
 やっぱりミストルは死んでいたのか。
 幼なじみの死を実感してジルコは落胆のため息をもらした。
 「死んだ俺達の分まで長生きして土産話を聞かせてくれ。なんか面白いことになっているようだし」
 「たぶんこれは夢なんだろうけど、もう一度会えてうれしいよミストル。最後に顔を見せてくれないか?」
 「死人と縁を深くすれば引きこまれる。俺の顔なんて思い出さなくていいから、早く目を覚ますんだな。あと、最低三十年はこっちに来るなよ」
 「……ああ、努力するさ。それにしても、面白いことって何が………………」
 そこでジルコの意識は白い光のなかに呑みこまれていった。
 「さようならジルコ。君が幸せとともにあることをあの世から祈っているよ」

 ジルコの意識は曖昧なまどろみの海をたゆたっていた。
 暖かなふわふわしたぬくもりに包まれて何ともいえず心地よい気分である。
 喉の奥に温かいミルクが流し込まれ、そのあまりの美味しさにジルコはごくごくと喉を鳴らして嚥下する。
 ザラリとした牛とは異なる喉ごしから察するに、おそらくは山羊の乳であろう。
 ただ呆然とそんなことを考えていたジルコだが、時間が経つにつれて頭がはっきりとしてくると現在の状況を認識し始めた。
 ――――誰かに口うつしでミルクを飲ませてもらっているということに。
 「むがああっ!?」
 「気、ついた!」
 唇の先がまだ触れ合わんばかりに間近に男の顔があった。
 口うつしをしていたのだからそれも当然である。
 まともな女性であれば、ベックの巨大な顔が目の前にあっただけで悲鳴をあげるだろうが、長年の傭兵稼業に鍛え上げられたジルコは冷静に状況を観察した。
 少々堅いベッドに横たえられ、部屋は薄着でも平気なほどに暖められている。
 そしてベックが手にしている山羊のミルクを見れば推測されることはひとつだ。
 どうやら自分はこの巨大な男に助けられたらしい。
 「あんたが助けてくれたのかい? あたしはジルコ、あんたは?」
 久しぶりに他人の声を聞いて、それが思いのほか元気な声であったことも手伝って、ベックは莞爾と笑った。
 「ベック、言う」
 ジルコは知らないが、すでに三日三晩ジルコは生死の境をたゆたっていて、水分と栄養をベックの口うつしに頼っていたのである。
 ジルコが死の淵を脱したことを確信して、ベックは思わず無意識にジルコの頭を撫でていた。
 「こ、こっ恥ずかしいことすんなよ! こんな男勝りの女になんて……」
 「ジルコ、小さい、可愛い」
 「うええええええっ!」
 全く予想もしなかったベックの言葉に、ジルコは顔面を真っ赤に染めて茹であがった。
 身長百八十センチの長身に、傭兵で鍛え上げられた腕は丸太のように太く、女性らしい華奢さなど微塵も感じられないジルコである。
 それでもやはり男とは違った肌の潤いや柔らかさはあるのだが、少なくとも可愛いと表現されるものではないことはわかっていた。
 下手をするとそんなことを言われるのは、五歳のころに親戚に言われたのが最後であるかもしれなかった。
 しかしベックにとっては偽りのない本音である。
 身長二メートル三十三センチの男にとって、ジルコの身長百八十センチは小学生のように小さく感じられる身長差だ。
 何より、触れてしまえば壊れてしまいそうな小さすぎる一般人と違い、ジルコは気軽に触れても無事であろうという安心感がある。
 ベックは子供のころ以来、忘れかけていた女性の感触を楽しんでいた。
 (くっ……なんだかわからんが恥ずかしすぎる!)
 不本意ではあるが、まだ体力が戻っていないジルコはベックの手を大人しく受け入れることしか許されなかった。
 それでも決して不快な気分ではなかった。


 死の淵からは遠ざかったとはいえ、ジルコの病状はそれほど良いものともいえなかった。
 何より腹部の傷の化膿はまだ治りきっていなかったし、身体を動かすためには血と栄養が全く足りていなかった。
 「鹿肉、ジルコ食べる」
 「すまないねえ、あたしとしたことが情けない限りさ」
 身体に力が入らず、上半身を起こすだけでも全身の力を振りしぼらなければならない。
 これほど身体がいうことを聞かなくなったのは、ジルコにとっても初めてのことであった。
 「顔色、いい。すぐ、動ける」
 ベックの邪気のない笑みにジルコはつられて笑った。
 朴訥で純粋なベックの好意が、なんともいえずうれしかった。
 「今日は天気がいい。少し外、出る」
 「ふわあっ!」
 それだけではなかった。
 ベッドに寝ているだけでは退屈だろうと、ベックはジルコを横抱きに抱きあげたのである。
 俗にいうお姫様だっこというやつだ。
 これにはジルコも咄嗟に言葉がなかった。
 担架に乗せられたことはあっても、男に抱きあげられるなど父親以外では初めての経験である。
 「なっ、なっ、なっ……」
 焦りのあまり言葉にならない言葉を発してジルコは慌てた。
 なんだかまるで自分が年端のいかない娘のころに戻ってしまったようであった。
 (やばい……やばいよこれは……)
 何から何まで女性として優しく世話をされてうれしくないはずがない。
 そもそもがジルコは内面は乙女な性格である。
 ただ巨体と生来の負けず嫌いで傭兵などという荒くれたちと生活していたために、それが表面に出る機会がなかっただけなのだ。
 「そ、その……ベック、お願いがあるんだけど、怪我が治ったらあたしの大将のところまで連れて行ってくれるかな?」
 これに対するベックの返事は簡潔であった。
 「いつでも、ジルコの傍、いる」
 傍にいたい女ができたら絶対に離れるな。
 それが死んだ父の教えだった。
 もっともベックは、その感情について正確に知っていたというわけではなかったけれど、本能的に悟っていたといっていい。
 (――――やられた)
 ベックの言葉が胸に突き刺さって、せつなさが心臓から溢れそうである。
 献身的に介護されたくらいで堕ちる安い女ではなかったはずなのだが、やはり女性としては標準を大きく超える身体を気にしなくていいのがポイントか。

 しかし根本的な部分で男女交際についての知識と経験が決定的に不足している二人が結ばれるには、ジルコたちがアントリムに帰還してさらに二年ほどの月日と、バルドやセイルーンたちの協力が必要であった。
+注意+
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