※白洲次郎の本は多数あるが、この本が一番面白かった。
数年前から、その存在がブレイクしている白洲次郎。
白洲次郎がなぜそんなにブレイクしているのか、不思議だった。
だから、彼のことを徹底的に調べたというか、白洲次郎関連の本を読み漁ったことがある。そうすれば、知れば知るほど…彼を形容する言葉を俺は持ち得ないことに気付かされる。
彼については、「過大評価だ」との意見も一方にあるのは事実だ。
彼は権力を憎悪したので、権力者にとって都合の悪い存在でしかなかったからだ。次郎をディスっている本も結構あるのも承知している。
しかし、以上を踏まえても、俺はむしろ、白洲次郎はもっと評価されて然るべきだと思っている。
次郎は終戦直後からサンフランシスコ講和条約までの第一期、独立を果たした日本が経済成長する第二期、一定の成長を遂げた日本に、様々な困難が降りかかる第三期において、獅子奮迅の力で(政府内で「白洲三百人力」とまで言われた)、日本のため、日本人の誇りを守るため、盾となって戦った男だ。
そして何の見返りも求めず、あらゆる権力からも自由で、地位や肩書にも恋々とせず、ただただ自分のプリンシプルのみに従って生きてきた。
ここで第一期~第三期を述べていたらキリが無いので、第一期における次郎の活躍についてのみ、簡潔に書く。
戦争に負けて日本は連合国の支配下にあった。GHQはその総本山であり、GHQを束ねるマッカーサーの権力は絶大だった。なんせ日本国憲法を一週間足らずで作成し、日本のありとあらゆるガバナンスを支配し、破壊し、創造し、絶対王者として君臨したのだから。
しかし、白洲次郎は、相手が手ごわければ手ごわい程、実力を発揮するという底知れないスケールを持つ男だった。
有名な逸話だが、天皇がマッカーサー宛、クリスマスプレゼントを贈呈した。そのプレゼントを白洲がマッカーサーに届けた時、マッカーサーはにべもなく、「あぁ、そこらへんに置いてくれ」と応答した。
次郎は烈火の如く怒り、「天皇のプレゼントを『そこらへんに置け』とは何事だ!どういう気持ちで陛下がこのプレゼントを選んだのか、考えたことがあるのか!」とオックスブリッジ訛りの英語で噛み付いた。
次郎のあまりの剣幕にマッカーサーもタジタジとなり、「…そ、それは大変失礼をした…」と直にプレゼントを受け取った位だ。
いわば、絶対権力者であるマッカーサーを、叱り飛ばした地上唯一の人間が次郎だったのだ。
このように書くと、次郎は天皇絶対主義者のような硬直した思考の持ち主であるかのように思われるのかもしれない。しかし、次郎は天皇制は廃止することを、サンフランシスコ講和会議の時、吉田総理に進言する程の合理主義者なのだ。
次郎は天皇への崇拝心、忠誠心からではなく、一人の人間(天皇)が、一人の人間(マッカーサー)の為に、心づくしのプレゼントを贈るという尊い行為が、踏みにじられることを決して許さなかった。
だから、一人の少女が、「マッカーサーへのプレゼント用に」と一生懸命になって選んだ一輪の野菊に対しても、次郎は同じことをしただろう。
次郎にしてみれば、肩書は関係ない。むしろ肩書をかさに着て威張る人間を蛇蝎のように嫌った。権力を背景に威張り散らす人間を徹底的に攻撃した。そして徹頭徹尾、弱い者(即ち、言葉を持てない者)の側に立った。それが彼の主義だったのだ。だから、敵も非常に多かった。
そのような次郎であるが故、GHQをして、あの有名な白洲評である「従順ならざる唯一の日本人」と言わしめたのだ。のみならず、一部のGHQ職員からは「シラスを制御できる人間は地上にはいない」との恨み節すら言わせのだ。
次郎は、ケンブリッジ大学留学時にマスターした流暢なキングスイングリッシュを話した。その英語には、オックスブリッジ(オックスフォード大学とケンブリッジ大学の総称)特有のアクセントがあり、当時、イギリスでオックスブリッジアクセントの英語を話す者は、そのことのみを以て、一流の待遇を受ける。それ位の言語なのだ。
アメリカで「名門大学群」と呼ばれるアイビーリーグですら、オックスブリッジの前では霞んだ。なぜなら、アイビーリーグはオックスブリッジを範として創設されたからだ。だから、次郎が操るその英語力は、アイビーリーグ出身者が牛耳るGHQにおいても絶大だった。
GHQにホイットニーという民生局長がいた。彼もアイビーリーグの大学出身のエリートで、「マッカーサーの分身」と言われた程の実力者だ。日本のあらゆる統治機関を掌握し、財閥の解体、日本軍の解体を行う程の権力者だった。
そんな彼が次郎に対して、イヤミ交じりに「あなたは本当に英語がお上手だ」と告げた。ホイットニーからすれば、占領している日本政府の首相である、吉田茂の代理程度の男が、オックスブリッジ英語を自在に駆使するのが鼻持ちならなかったんだろう。
権勢を欲しいままにしていたホイットニーからの、ある意味、忠告ともとれる言葉、普通の人間なら萎縮して、「とんでもございません」とへりくだるところだが、こともあろうに次郎はこう言い放った。
「キミももう少し勉強すれば上手くなる」
次郎はホイットニーに、あたかも「その手には乗らないよ」と言うが如く、涼しい顔で、しかもオックスブリッジの訛りを目いっぱい効かせて、返答したのだ。
そばでそのやり取りを聞いていたホイットニーの部下たちは顔を見合わせたが(「あっ、この勝負はシラスの勝ちだな」と舌を出した)、バツの悪くなったホイットニーは、苦虫を噛み潰したようにその場を去っていったという逸話がある。非常に痛快な話だ。
次郎が、GHQに対して、一貫して主張していた言葉がある。
「なるほど、確かに日本は戦争には負けた。しかし、日本国民は奴隷になったのではない。個人としての揺るぎのない尊厳を、日本人は持っている。それを忘れるな」
そんな次郎の言葉の背景にあったのは、「日本軍はバカなことに、勝てない相手とケンカし、負けた。それだけのことだ。否定されるのは日本軍であり、断じて、日本人ではない。日本人の誇りを軽視することは、絶対に許さないっ!」という熱い想いだ。
だからマッカーサーにも噛み付いた。ホイットニーをやり込めたのだ。
第一期のクライマックスは、サンフランシスコ講和条約、その条約締結によって、日本は独立を果たす。日本は誇りを取り戻す。
そんな条約締結の晴れ舞台で、全権委任された吉田総理が、演説を行うのだが、元外交官の吉田は、英語力を活かして、英語の原稿に基づき、英語で全世界にスピーチしようとした。もちろん、その背景には、アメリカにおもねる意味もあった。
その行為に唯一、かつ断固異議を唱えたのが、他ならぬオックスブリッジ英語を自在に操る次郎だったのだ。
「冗談じゃないっ!かりそめにも日本が独立を回復する晴れの舞台で英語によるスピーチだと?!おい、じいさん、アンタも俺も日本人だぞ。日本人の言葉は何だよ。日本語だよな」と鬼気迫る次郎に、吉田も根負けしたが、
「じ…次郎、判った判った。確かにオマエの言うことは判った。しかし、演説は明日だぞ。今から原稿を用意したのでは…間に合わんぞ」と抗弁した。
次郎は「簡単なことよ。今から、書き直すのさ。みんなで分担して徹夜でな。最後に、一枚の紙に繋ぎ合わせれば、立派な原稿の出来上がりだよ」と言ってのけたのだ。
。。。これが有名な「サンフランシスコ講和条約、吉田総理の演説原稿、トイレットペーパーのように巻かれていた」事件の真相だった。
「独立を果たした日本が、自国の言葉でお礼のスピーチをできないで、何が日本独立だ、何が日本人の誇りだ」。。。次郎は決して譲れない「プリンシプル」を持っていたのだ。それがどんな相手でも、どんな権力者でも、次郎はプリンシプルを掲げて、闘ってきた。
それが次郎の終始一貫した生き様であり、第二期、第三期においても、その生きざまに従ったのだ。
前回の続きを書く。
いよいよ建設作業員、デビューの日だ。
朝6:00に起床して、食堂に向かう。
「食堂」と表記したが、朝食、夕食を摂る所でもあるが、集会室、談話室、テレビを視る場所でもあり、朝一番の役割は、作業員が当日派遣される現場を表示する場所となる。
竹中工務店の下請だったこの会社は、常時5~6現場を持っているが、現場毎にボードがあり、そこに作業員の氏名、出発時間が記載されているのだ。
「今日は浦安のマンション建築現場か、出発は6:30…急いで飯を食べなきゃ」
漬物と味噌汁でご飯を掻き込み、指定された車に乗り込む。
片道は1時間ちょっとだ。
車の中では、カーラジオが流れていて、みんな無言で外を観ている。
「猥談とかするのかと思ったら、みんな結構真面目なんだな」…ちょっとホッとした。
程なく、現場に到着。
元請の現場代理人が指示をし、当該指示に従って下請の職長が仕事の割り振りを行う。
俺の担当する作業は、伊達さんとペアで、床材のコンクリ補強だった。
「おい、ネコ持って来い」と伊達さん。
「??ネコ??」…のっけから混乱した
。「あの…猫、何に使うんですか。いないんですけど」と応答すると、
「バカ!ネコっていうのは一輪車だ。そこにモルタルを半分くらい入れて、持って来い」と伊達さん。
「なんだよ。そんな『業界用語』判るわけないじゃん。このラクダ!!」…心の中で毒づきながら、言われたように一輪車にモルタルを入れてきた。
「じゃあ、そこに乗れ」とラクダは顎でしゃくって、建設用リフトを指した。
俺は建設用リフトに乗って、モルタルを積んだ一輪車と共に上がっていった。リフトを操作するのは無論、ラクダだ。
リフトは高層階で停まり、足場板を伝って、一輪車を運んだ。
「いや、これは緊張するな。こんな幅の狭い板の上、一輪車でモルタルを運ぶなんて…倒したらエライことになるぞ」
ビビりながら、どうにか目的の部屋に運んだ。
「いいか、こうするんだ」と言いながらラクダは、ひとつかみのモルタルをゴム手袋ですくって、床に打ってある支保材を補強するように、わきから抑え込んだ。
俺はラクダのやるようにモルタルを掴み、同じように支保材の側面から重ねるように差し入れた。
「違うっ!こうやるんだ」とラクダは再び同じ動作をしたが、俺の動作とどこが違うのか、サッパリ判らなかった。
「こ、こうですか?」と再びやってみると、ラクダは「そうだ」と…
何だ、全然変わらないぞ。面倒くさいオヤジだな…
そんなこんなで午前中は一輪車にモルタルを入れて部屋に運び入れて…の作業をずっと行っていた。10時の休憩は10分間、ラクダが缶コーヒーをおごってくれた。
ラクダなんていってゴメンナサイ。伊達さん。いただきます(笑)。
ようやく昼になった。昼の休憩は12時から13時までの一時間だ。
弁当が配布された。そして、嬉しいことに、おかずも支給された。おかずというのは、タケノコ、イワシ、ゴボウ、昆布を甘露煮にした缶詰だ。
結構おいしい。
同僚が缶詰を開けながら「こんなモン、栄養価なんて全然無いんだろうな。クソになって終わりだよな」と言っていたのが印象的だった。
「こんなに美味しいのに、文句を言ったらバチがあたる」と思いながら、久しぶりのおかずで食べるご飯は、格別だった。
満腹になったら、あとは作業員詰所で寝たり、テレビを視たり、将棋を指したりとめいめいに過ごす。
俺は詰所に備え付けられていた文春とか新潮とかの雑誌を読みながら時間を潰した。
「あぁ、一週間前なら、カジ君やマリコちゃんとかとダベったり、バレーボールしたりして、過ごしてたのにな…」
タメイキを着きながらの昼休みだった。
午後もラクダ…もとい、伊達さんとペアで他の階の支保材補強作業を行い、15時に再び伊達さんから缶コーヒーを恵んでもらい、雑談しながら休憩、そして17時に作業が終了した。
初めての肉体労働、「疲れなかった」と言えばウソになるが、覚悟していたよりはマシだった。これも、陸上部で鍛えていたからなのかもしれない。
作業の終わり際、伊達さんが「どうだ、初日、疲れただろう」と気遣ってくれたが、へそ曲がりの俺は、「全然、楽勝っすよ」と応答したが、「今のうちだよ」と伊達さんは意味深な笑みを浮かべた。
作業が終わり、片道1時間ちょっとかけて、飯場に戻る。
「疲れたな。食事の前に、ちょっと横になりたいな」と思いながら、部屋に向かってドアを開けようとした時、既に一足先に部屋に戻っていた伊達さんの叫び声が聞こえた。
「あの野郎!やりやがった」
俺は「(゚Д゚;)なんだ?!」と思い、ドアを開けた。
そう言えば、蛾次郎が居ない。布団はもぬけのカラだ。
伊達さんは、「いるんだよな。働く気が無いのに入社してドロンするヤツが」と苦々しく言った。
確かに業界には、色々な人種がいる。
蛾次郎の場合は、「入社早々に仮病を使い、床に伏して、みんなが油断した頃に、同室の人間の金銭や金目の物を持って、ドロンする」という生業をしていたのだ。
俺は、思わずハンガーに掛けてあった上着の胸ポケットを探った。。。案の定盗られてた。虎の子の3000円…
「フリカケでも買おうと思ってたのに、給料日まで漬物と味噌汁生活かよ(;´Д`)」
それにしても、俺が食事を持って行った時の、弱弱しい口調も全て、あれも全てが次郎の演技だったというワケか…
もっとも、俺の被害はまだ軽い方で、同室のヒトでは、少なからぬ金銭、ラジカセ、電気コンロ、ポータブルテレビを盗まれたヒトもいた。
林さんや伊達さんは、経験上、蛾次郎にただならぬものを感じ取ったのだろう。だから、布団に伏している蛾次郎に同情をしなかった。よって、食事を持って行かなかったし、殆ど無視するような態度をとっていたのだろう。
建設業、しかも底辺の人間が集まるであろうこの飯場の世界、非常に勉強になった。「安易に他人を信じるな!そして違和感を感じたら考えて、自分で判断しろ!もっと冷淡になれ!」…そういう教訓を教えてくれた。