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ポジ熊の人生記

ブログ継続の秘訣や記事作り・人生哲学・健康情報などを雑多に書くブログです。北海道民の知識を活かした地方情報も発信しております。

まずは批判から入るそのやり方を考え直したほうが良いんじゃない

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何ごとにおいても批判から入ってしまう人は、まずは相手の良いところを伝えてあげてよ。

 

※この話は僕の幼少期からずっと周りにいた何事においても批判から入る人へのアンチテーゼ的意味合いが含まれていますw

まず批判から入る人

口癖「いや」「でも」のように、何ごとにおいてもまずは批判的になってしまう人が少なからず存在する。何かあればまずは「それはどうなのかな」というふうに、とりもあえずも批判。

そのことについて良い悪いではなく、まずは自分の中で咀嚼して、そこから良くも悪くも抽出したエッセンスについて角を立てずに語るのが賢人であると思う。いくら自分の中で加工しても、結局は相手に「キツイ」と思われればその加工は失敗していると思うんだ。

 

批判優先者の良いところ

「まずは良いところを」なんて掲げながら自分が批判者を「批判」するスタンスだとブーメランなので(笑)僕が考える批判的になることの良い点を挙げてみる。

忌憚のない意見を伝えることができる

これは大きい。

普通、社会生活において人間関係というのは丸い形で構築されていくのがデフォルトである。社交辞令に始まり、気を使って、少しでも自分を良く見せようとしがち。減点方式のお付き合いとなり、結局はうわべだけの付き合いで終わる。こんなことがそこかしこで起きている。こうなると損をするのが、「自分が誤った振る舞いをしている場合の指摘者を失う」ことだろう。別にワッショイワッショイする人がいなくなろうと、そんなことはどうでも良くって、何よりも損失なのはここじゃないかなって考える。

その点、批判者は有り難い。「それはどうなのかな。君の○○な部分は治すべきじゃないの」なんてズバリ言うわよ!状態。毎回、ハッとさせられるし、結果的に感謝することになってる。結果的に、ね。

おべっかを使わないから人間性の把握が容易

前述の理由と地続きなお話ではあるが、別の項目を起こして語りたい。

社交辞令に終始して上っ面の付き合いがそこかしこで横行している。そんな中で相手の腹の中を知るためには、居心地の良い既存の世界をぶっ壊して、相手の懐に踏み入る勇気が必要。相手はそこまで深くこちらを知りたいと思っていないかもしれないし、そんなことをすれば強烈な拒絶が待っているかもしれない。不確かで恐ろしいことにチャレンジしなければならないシチューエーションを形成するのが「うわべだけのお付き合い」なのだ。

その点、批判優先者は凄いよ。最初っから自分をある程度出してくるからね。自分を出さないと他人の粗を見つけて指摘なんてできっこない。つまり、自分の嫌なところも晒して批判してくるものだから、その人に関しては「良い人」という粉飾がなされない。その批判を何度か乗り越えれば、垣根を取っ払った付き合いができるんじゃないかなって思う。

 

 

以上が僕の考える批判優先者の良いところ。

さて、次からはちょっとキツくなるので覚悟してほしい。

 

 

批判から入るから敵を作るんだよ

批判が全ての悪じゃない。けど、余りにも下手すぎて可愛そうにすらなる。それで相手に伝わるなら、それは運がいいだけ。人間ってのは仏ばかりじゃない。あなたの開口一番の批判をネガティブな感情なく受け入れられる人ばかりじゃないし、それはむしろ少数派だよ。以前の僕なら「なんだこいつ、駄目だこりゃ」ってなてったもの。そしてそれはあなたにとって望むべきことなのかもしれない。「これくらいで終わるなら、そいつはそれまでだ」なんてニヒルに考えているのかもしれない。

けど、正直もったいなくねぇ?

伝え方によっては、そういう決定的に袂を分かつようなことにならないかもしれないじゃん。もっと角を削って伝えれば、そこから発展する人間関係や未来だってあったかもしれない。それをその批判優先パッシヴスキルでふいにするとか悲しすぎるでしょ・・・ 

 

まずは良いところを示せば?

批判から入ってしまう人は、まず相手の良いところを示してあげよう。そうしたら、相手はあなたの批判を受け入れる心の準備ができるから。

まずは相手の良いところを探して、示してあげてよ。「君はこういう良いところがある。反面、こういった部分も直さないといけないと思うよ」こんな風に伝えてあげればいいじゃない。こうすれば、相手はあなたの批判を受け入れる余裕が多少はできると思うんだわ。

いきなり批判から入る人間なんて、蛮族にしか見えんよ。僕は繊細で臆病だから、余計にそう感じる。「うわ、こいつおっかねえ、なんて攻撃的な人なんだ」って、接するたびに構えてしまう。できる限り、そういう人との接触は避けるようになる。

何をそんなに尖りまくってるのかわからない。「この人、いったい何と戦っているんだろう」割と本気でそう思う。誰かと戦う前に、自分と戦えばいいのになって。大抵、そういう人はそもそも自分に負けていて、しかも批判するクセに批判に敏感という面倒くさい子供のような人が多いように感じる。

 

考え方を伝えるのもやり方次第でしょ(あとがき)

ブログをやっていて、読者からコメントをもらえることがある。前向きな意見や励ましが多い中、批判的、攻撃的な意見も散見される。それを見るたびに心を痛める自分がいた。特に始めて間もないころは、それはそれは精神的ダメージが大きかったし、これで止めていく人も少なからずいるのだろうと考えさせられた時期もある。今だって、変わらず嫌な気持ちにはなるけど、その度合いは限りなく小さくなってきたよ。「あぁ、この人は言いたいだけなんだな」って割り切れるようになってきた。

まずは批判ありきな人に接した場合に、自分がこうなってしまうかもしれないと考えると、ちょっと怖い。批判的コメント者に対する態度と同じように割り切ってしまい、見えない耳栓を反射的に付けてしまうだとか。それ以上の人間関係を構築するのを止めてしまうかもしれない。

批判をできるだけ受け入れる器を持ちたいなって思う。だけど、正直限界があるよ。自分に嘘はつけない。毎回、批判(攻撃)スタイルで話し始める人に、本当の意味で心を許すことはできない。だって、恐いんだもん。「相手に何かを伝えるなら、やり方ってものがあるでしょう」って。毎回思わされるよ。

 

これって、これ以上分解できない最低限の社会的常識じゃないの?

 

これができない人は、いったいどうしたらこれが身につくのだろうね??

 

 

僕も気を付けるよ。いきなり「それはどうかな」って野蛮なことをしないようにさ。

 

 

終わり