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第三十三話
慶長五年九月十五日辰刻朝五ツ(8時頃)霧が晴れ始めた関ヶ原の山間に、突如怒号が湧きあがり方々から法螺貝が鳴り響いた、いよいよ戦国時代最大と言われる一大野戦の幕が切って落とされたのである。
まずは先鋒を任された東軍の福島正則と、西軍で最も大軍を率いていた豊臣五大老の1人宇喜多秀家の軍が戦闘に入いる予定であった、だがこのとき家康の旗本衆である井伊直政の先発隊三千六百が両軍の間を割って入るように横合いから進入を開始したのだ。
未だ霧は完全に晴れず見通しは悪かったため偶発的ではあろうが福島正則はこれには驚いた、すぐさま井伊直政の先発隊を押し止めると予定通り正則は天満山に陣取った宇喜多隊に向け火縄銃数百丁を射掛けるよう号令を発した。
関ヶ原の谷間に火縄銃の轟音が轟いた、だがこれに負けじと宇喜多隊からも数千丁の火縄が火を噴く、こうして関ヶ原戦場のほぼ中央付近から苛烈なる戦闘が始められたのだ。
戦場の中央付近は硝煙と霧が相まって次第に視界は閉ざされていった、東西両軍は未だ戦場中央の福島・宇喜多の二隊が戦っているのみで、それ以外の隊は東西対峙の緊張の中に有った。
この銃撃戦は暫く続けられたが両軍共に敵の損傷の程は霧と硝煙が立ちこめ見分けが付かず、無駄玉を惜しんだのか銃声は次第に散発的になっていった。
この悠長な戦いに痺れを切らしたのが先程出鼻を挫かれた井伊直政である、直政は先発隊に槍構えを命じると「掛かれぃ!」の号令と共に先頭を切って宇喜多隊の側面を衝いて白兵戦に打って出た。
これを見た福島隊は銃を射掛けることも出来ず、仕方なく火縄銃隊を後方に下がらせた。
「井伊直政め…我が隊が先鋒のはず、それを功名を立てんと抜け駆けにおよぶとは…」
こうなれば致し方なし、放っておけば井伊直政隊三千五百など宇喜多隊一万七千にすぐにも呑み込まれてしまうだろう、正則は槍組二千を先頭立てると抜刀した白兵四千をこれに続かせ、絶叫とも言うべき鬨の声を上げさせると宇喜多隊の正面に突撃させた。
これには宇喜多隊は度胆を抜かされ一旦は天満山の中腹まで引いた、しかし宇喜多秀家はこの状況を見て「引くな!」の大号令をかけた、この命に奮起した宇喜多隊およそ一万の兵は山麓より転身駆けくだり、その勢いのまま 迫り来る福島隊の真正面に突っ込んだのだ。
この勢いは凄まじく次第に福島隊は崩れはじめ、さらに山頂から宇喜多隊の残り七千が蟻の群れの如く駆けくだる様を見つけるや、支えきれぬとばかりに福島隊は撤退を始めた。
これを追って宇喜多隊の殆どが天満山から麓の平原に駆け下りた、しかし宇喜多隊の両隣に控えた藤堂高虎隊・田中吉政隊が喚声を上げ、さらに井伊直政隊が横合いより再び迫ったため宇喜多隊は追撃をあきらめ一旦兵を天満山の山麓まで引いた。
こうして関ヶ原の戦いにおける最大の激戦と言われる東軍・福島隊と西軍の宇喜多隊の戦闘は、その後 双方とも二、三度も押し そして退却という一進一退の激闘となっていった。
そのころ戦場の北側では石田三成の本隊に東軍の黒田長政・細川忠興・加藤嘉明などの部隊が攻撃を開始していた、これら東軍の武将らはみな石田三成暗殺未遂事件の実行者であり、石田三成には積年の恨みを持つものばかりである、ゆえにその勢い凄まじく檻から放たれた虎の如く三成隊に襲い掛かっていったのだ。
だが石田三成本陣の前衛には勇将「島左近」隊が立ち塞がっていた、彼は関ヶ原の前哨戦となった大垣の「杭瀬川の戦い」で家康軍を翻弄した勇将である。
この左近は巷では勇将・名将として誉れ高く、石田三成から「それがしの知行地半分を与えるよって是非にも家臣になってほしい」と破格の申し出を受け、感動して石田三成のために尽くすと約した武将である。
島左近隊は木柵・空堀からなる野戦陣地で黒田軍の猛攻を迎えつつ、鉄砲・大筒などで必死に東軍部隊の進撃を抑えた、しかし黒田隊狙撃兵が放った銃弾が偶然にも敵将・島左近に当たり負傷させてしまった、これを見た島左近隊は総崩れに彼を担ぐと後方の三成本隊へと撤退、三成が最も頼りにしていた武将の島左近が開戦直後にあえなく戦闘不能状態に陥ったは大誤算であっただろう。
その後、石田三成は自身の部隊七千八百でなんとか本陣を維持すべく猛攻を加える黒田・細川隊に大筒・火縄をもって応戦していくことになる。
一方戦場南側ではやや遅れて西軍の大谷隊・平塚隊に東軍の藤堂隊・京極隊が襲い掛かっていた、兵力的には東軍側が圧倒していたが大谷吉継は三倍近い藤堂隊・京極隊を引き受け何度もその猛攻を押し返していた。
また宇喜多隊左翼の小西隊には黒田隊の後詰めである古田隊・織田隊がそれぞれ攻めかかりだした、そしてさらに後方にある家康本隊3万は未だ戦闘には参加していなかったが開戦 間もなく桃配山を降り最前線近くの金森・生駒隊後方に陣を移していた。
三成は開戦から一刻を過ぎたころ、まだ参戦していない武将らに戦いに加わるように促すべく狼煙を上げさせ、さらに島津隊に応援要請の使者を出した。
そのころ西軍は総兵力のうち戦闘を行っているのは僅か三万三千ほどながら、地形的に有利なため戦局をやや優位に進めていた、しかし西軍は宇喜多・石田・小西・大谷とその傘下の部隊がそれぞれの持ち場を守って各個に戦っているだけで部隊間の連携が取れているとは言えなかった。
それに対し部隊数・実際兵力数で上回る東軍は西軍の一部隊に対し複数の軍勢が連携して同時多方面から包囲攻撃を仕掛け、または入れ替わり立ち代り波状攻撃を仕掛けるなどして間断無く攻め立てていた。
さらに遊撃部隊として最前線後方に控えていた寺沢勢・金森勢が増援として加わったため、時間が経つにつれ次第に戦局は東軍優位に傾き始め、特に石田隊は一時は黒田隊を三町も先に押し返したが黒田隊の猛攻は再び勢いを盛り返し、遂には柵の中へと退却せざるを得なかった。
とは言え未だ西軍主力部隊の士気は高くその抵抗力は頑強で、東軍優位と言えど戦局を覆すほどの決定打には成り得なかった。
ここで松尾山の小早川秀秋隊一万五千と南宮山の毛利秀元隊一万五千、その背後にいる栗原山の長宗我部盛親隊六千六百ら、計四万七千が東軍の側面と背後を攻撃すれば西軍の勝利は確定的となるはずであった。
しかし島津は「使者が下馬しなかったため無礼だ」という理由で応援要請を拒否、また南宮山東麓に布陣する毛利秀元・長宗我部盛親・長束正家・安国寺恵瓊らは徳川家と内応済みの吉川広家が南宮山前衛で道を塞いでいるため、形ばかりに味方同士で小競り合いを続けていた。
そしてこの直後に小早川秀秋の裏切りが起こった、これを知るや南宮山・栗原山の西軍三万二千は厭戦化し傍観軍と化していく、これが西軍の敗因となっていくのであるが。
小早川秀秋は松尾山の山奥に布陣し、正午過ぎには東軍に寝返って参戦に及ぶと家康の内応に応えてくれるはずだった、しかしいつまで経っても小早川秀秋隊が動かないことに業を煮やした家康は、松尾山に向かって威嚇射撃を加えるように命じた。
小早川秀秋はこの家康の銃撃督促にようやく松尾山を駆けくだったのである、ここに小早川隊一万五千の大軍は東軍に寝返り、山を駆け降りると東軍の藤堂・京極隊と激戦を繰り広げていた大谷隊の右翼に突っ込み猛攻を加えた。
大谷吉継はかねてから風聞のあった秀秋の裏切りを予測していたため、温存していた六百の直属兵でこれを迎撃し、小早川隊を松尾山の麓まで押し返した、ところがそれまで傍観していた脇坂安治・小川祐忠・赤座直保・朽木元綱ら計四千二百の西軍諸隊も小早川隊に呼応して東軍に寝返り大谷隊の側面を突いた。
この予測し得なかった四隊の裏切りで戦局は一変、戸田勝成・平塚為広は戦死し敗北を悟った吉継も御輿の上で自刃して果てた。
西軍側の軍勢は小早川秀秋に続く四隊の裏切り行為によってざわめきが起き、陣列は混乱を極め、関ヶ原から東や南に逃亡する部隊や兵が相次いだという。
こうして大谷隊を壊滅させた小早川・脇坂ら寝返り部隊や、藤堂・京極などの東軍部隊は関ヶ原随一と言われる死闘を繰り広げていた宇喜多隊に狙いをつけると、福島隊を応援すべく関ヶ原中央に向け進軍を始めた、ここに関ヶ原の戦いの勝敗はほぼ決定したのである。
小早川隊の寝返りと大谷隊の壊滅により旗本中心の家康本隊もようやく動き出し、東軍はいよいよ西軍に総攻撃をかけた。
宇喜多隊は小早川隊などからの集中攻撃を防いでいたが、やがて三倍以上の東軍勢の前に壊滅、宇喜多秀家は裏切り者の小早川秀秋と刺し違えようとするが家臣に説得され苦渋の思いで敗走したという。
宇喜多隊の総崩れに巻き込まれた小西隊は早々に壊滅し小西行長も敗走した、石田隊も東軍・黒田隊の総攻撃を相手に粘り続けたが島・蒲生・舞などの重臣らが討死し壊滅、三成も伊吹山方面へ逃走した。
黒田隊五千はこの三成を追って伊吹方面に走り出した、これを細川・加藤隊が押し止めようと一時は小競り合いにまで及んだが黒田長政の意志は強く留めることは出来なかった。
北の伊吹山を目指し逃亡する石田三成に付き従う兵の多くは負傷しており、途中で落伍する者や三成に見切りを付け東西に四散し逃亡する者が相次いだ、そして三成を護る兵が僅か三十名足らずとなったとき、遂に黒田の先鋒隊に追いつかれ三成の進退は極まった。
黒田軍は五千、端っから勝負にもならず三成は自刃し果てようと供の者に介錯を頼んだ、そのとき黒田隊は目と鼻の先に佇む石田三成などまるで眼中に無いといった体で急に道を西に転じた、そして三成には目もくれず山道を長浜方面に向け道無き道に分け入ったのである。
過ぐる九月六日、豊前中津の黒田如水は所有の安宅船十二隻に将兵三千と歩兵小銃六千丁・短機関銃二千丁・重機関銃百門・迫撃砲とRPG各五十門、それに各実包・砲弾と兵粮を大量に積み込ませ中津の湊を出発させていた。
この三千の軍を指揮するは第三軍司令官・黒田三左衛門中将と吉田長利少将である、彼らは瀬戸内航路で大坂に着くと、淀川を遡上し摂津湊に着岸すると そのまま大坂・京を走り抜け九月十六日未刻昼八ツごろ琵琶湖西端の「瀬田」に到着した。
予定より一日遅い到着に黒田三左右衛門は焦った、もしや関ヶ原での戦いが予想以上に早く決着が付き、家康の追捕に喘ぎ瀬田まで落ち延びた殿・長政に遅れをとったとなれば腹切りものである、だがここ瀬田から望む琵琶湖は昼凪に揺れ、僅か二十里東の大戦など想像も付かないほどの静けさに満ちていた。
三左右衛門は胸を撫で下ろした、そして隣りに控える二回りも年上の吉田長利少将に「親父殿!何とか間に合いもうしたな、未だ殿も来ておらぬ様子、早々に陣を布き殿を御迎えする用意を調えましょうぞ」と少々慇懃な態度で吉田長利に微笑んだ。
この吉田長利は通称は六郎太夫と称し大殿・黒田如水の1歳年下である。
如水の母“いわ”は生来の病弱で乳の出が悪かったため、長利の母が如水に授乳した経緯もあり如水とは乳兄弟に当たる、また同様の乳兄弟である伊藤弦斎とも親交を結んでいた。
天正十二年の岸和田の戦いが十三歳になった三左衛門の初陣であったが、このころより六郎太夫はまるで父親のように初陣に怯える三左衛門に何くれとなく世話を焼いてくれ、また子の重成が三左衛門と同い年であったため兄弟のように育ち、その後 四国征伐や九州征伐にも出陣し耳川の戦いでは首を2つも討ち取り重成とともに知名度をあげていった。
この度の瀬田への出陣も、突出癖のある三左衛門を気遣った如水が抑え役として六郎太夫とその子・吉田重成を付き従わせたことが分かっているだけに三左衛門は窮屈でもあった。
三左衛門は子供の頃よりこの六郎太夫を「親父殿」と呼び、子の重成を「シゲ」と呼び今もそう呼んでいた、ゆえに公的な場では吉田長利少将・吉田重成大佐とは呼んでいたが、誰もいないところでは未だ以て「親父殿」「シゲ」である。
申刻夕七ツ(15:00)瀬田の唐橋を北に望む瀬田川畔に建つ石山寺に三左衛門以下五百の兵が入った、この寺は承暦二年(1078年)の火災焼失後、永長元年(1096年)に再建されたもので東大門、多宝塔は鎌倉時代初期に源頼朝の寄進により建てられたものと伝わっていた。
石山寺はこの鎌倉初期に現在見るような寺観が整ったと言われる、またこの寺は戦略上の要衝であるにもかかわらず不思議なことにこれまで兵火に一度として遭わなかったとされ建造物、仏像、経典、文書などの貴重な文化財は多数伝存しており、ために三左衛門は兵等に建造物・仏像・経典には一切触れるなとの厳命を発していた。
また五百の兵は石山寺後方の伽藍山に配し、残る二千は瀬田川を西に渡った堂山の北山麓に在る瀬田神領に一千と中山道・草津宿背後の雑木林に一千を潜ませ大方の展開を終えた、
この配置で関ヶ原から中山道を西に進む家康軍を迎え撃つべく戦略上の要衝を押さえたことになり、後は殿・黒田長政の来着を待つばかりであった。
その翌日の巳刻朝四ツ、中山道を疲れ切った体で瀬田の唐橋を渡って黒田長政の本隊が石山寺に入ってきた、彼らは関ヶ原から脱出すると追捕を逃れ中山道を迂回し岩倉山から伊吹山南麓を伝い長浜に入った、そして長浜から進路を南に取り彦根の鳥居本宿を通り過ぎ中山道と平行に山道を丸一日進みようやく草津宿の裏山に至ったとき潜む黒田の兵らと遭遇したのだ。
普通に中山道を辿れば関ヶ原から草津宿までおよそ十八里、関ヶ原合戦の翌日には草津宿に到着するところ、その倍の時間を要しフラフラの体で辿り着いたのである。
彼らは戦場離脱を怪しまれないため馬や兵粮荷駄などはわざと戦場に残してきた、ゆえに二日間も飲まず食わずで昼夜踏破したのだ、よって兵らを見るにその憔悴は尋常でなく三左衛門等は家康来着前までに何とか兵らを復調させるべく食料・水を大量に与え日陰で睡眠を取らせた。
殿・長政を石山寺に迎え三左衛門は大いに喜んだ、昨日この地に到着と同時に斥候数十名を関ヶ原に向け放ったが中山道沿いにはその陰は見えずとの報告が相次ぎ、心配していた最中の来着であったためその喜びは一入であった。
過ぎた話であるが、関ヶ原の合戦が東軍の大勝利に終わろうとしていたとき、勝敗を度外視した戦いを続けていた島津隊は東軍に包囲されるなか、後世にも伝わる敵中突破退却戦いわゆる「島津の退き口(捨て奸)」を開始していった。
島津義弘隊一千五百は一斉に鉄砲を撃ち放つと、正面に展開していた福島隊の中央に突撃を敢行したのだ、西軍諸隊がことごとく壊滅・逃亡する中でのまさかの反撃に虚を衝かれた福島隊は混乱し、その混乱を衝いて島津隊は強行突破に成功。
更に東軍に寝返った小早川隊をも突破し、家康旗本の松平・井伊・本多の三隊に迎撃されるがこれも突破した、この時点で島津隊と家康本陣までの間に遮るものは無く、島津隊の勢いを見た家康は、これを迎え撃つべく床几から立ち上がり馬に跨って刀まで抜いたという。
しかし島津隊は直前で転進、家康本陣をかすめるように通り抜けると家康を嘲笑うように正面の伊勢街道を目指して撤退を開始した。
松平・井伊・本多の徳川諸隊は島津隊を執拗に追撃するが、島津隊は捨て奸戦法を用いて戦線離脱を試みた、決死の覚悟を決め死兵と化した島津隊将兵の抵抗は凄まじく、追撃した井伊直政が狙撃されて負傷し後退。
このとき島津方では島津豊久・阿多盛淳が捨て奸となり玉砕した、次に追撃した松平忠吉は申の中刻に狙撃されて後退、負傷した本多忠勝は乗っていた馬が撃たれ落馬した。
徳川諸隊は島津隊の抵抗の凄まじさに加え、指揮官が相次いで撃たれたことや、すでに本戦の勝敗が決していたこと、また家康から追撃中止の命が出たことなどから深追いを避け途中で留まった。
一方の島津隊は島津豊久・阿多盛淳・肝付兼護ら多数の犠牲者を出しながら兵も八十前後に激減、それでも殿軍の後醍院宗重・木脇祐秀・川上忠兄らが奮戦し義弘は辛くも撤退に成功したのだ。
また西軍が壊滅する様を目の当たりにした南宮山の毛利勢は戦わずして撤退を開始、浅野幸長・池田輝政らの追撃を受けるが長宗我部・長束・安国寺隊の援護を受けて無事に戦線を離脱、伊勢街道から大坂方面へ撤退した。
殿軍に当たった長宗我部・長束・安国寺らの軍勢は少なからざる損害を受けたが辛うじて退却に成功、安国寺勢は毛利勢・吉川勢の後を追って大坂方面へ遁走、長宗我部勢と長束勢はそれぞれの領国である土佐と水口を目指して逃亡していった。
大勝したその日の午後、家康は首実検の後に大谷吉継の陣があった山中村へと陣を移し休養を取った、そのとき合戦の功労者であり家康が最も信頼を置いていた黒田長政がいないことにようやく気が付いた。
家康は戦場で長政の左翼を固めていた細川忠興と加藤嘉明の二人を呼び、長政の所在を問い質した、その回答によれば三成軍を総攻撃し 崩れたところをそのまま三成追撃に及び、我々が止めるのも聞かず伊吹山方面に向かったという回答であった。
これを聞き家康は激怒した「おぬしら何で長政を押さえられなかったのじゃ、それに儂が聞かねば報告も無しかよ!既に二刻も経とうというに未だ帰着もしておらんということは何か良からぬ事が起きた証よ、奴め心配させおって、おぬしら早々に長政の後を追え!」と命じた。
そして翌九月十六日、細川忠興と加藤嘉明の探索軍は早朝に家康のもとに帰着した、だが黒田隊五千の所在は伊吹山中から長浜に至るまでの広範囲を探索したが杳としてその所在は知れず、代わりに三成の残党二十名ほどを捕縛し戻ってきた。
ここに至って家康は長政の不可解なる行動は三成追撃に非ず、戦線離脱ではないかとの疑心を抱いた、ではこの期に及んで何故…彼の戦功からすれば破格の論功行賞が待っていると言うに…家康は捻って首を唸るのみであった。
長政の不可解な行動を慮りながらも、その日のうちに家康は裏切り組である小早川・脇坂・朽木・赤座・小川の諸将らに三成の本拠である佐和山城攻略の先鋒を命じると、これに田中吉政のほか軍監として井伊直政を加わえ、二万を超える大軍を以って近江鳥居本へ進軍させた。
家康は関ヶ原から六里南西の平田山に陣を移すと佐和山城に向け総攻撃を命じた、このとき佐和山城には三成の兄である石田正澄を主将に父・石田正継や三成嫡男・石田重家、大坂からの援兵である長谷川守知ら二千八百の兵が守備しており、六倍以上もの兵力差に加え御家安泰のために軍功を挙げねばならない小早川秀秋らの猛攻を奮戦し第一波は何とか退けた。
石田正澄は第二波は耐えきれぬとみて家康の旧臣だった清幽を使者に降伏交渉を申し出た、家康はこの降伏の申し入れに対し正澄の自刃と開城をひきかえに石田一族や城兵、婦女子は助命するという条件でこれに応じた。
しかし翌九月十七日、大坂から援兵した長谷川守知が突如東軍に寝返り、家康の兵を城内に引き入れてしまった、これにより瞬く間に三ノ丸は陥落し翌十八日の早朝には田中吉政隊が本丸に攻め入りこれを落城させたため、正澄ら石田一族は自刃して果てた。
この挙に降伏交渉に当たった清幽は面目丸つぶれとして家康の違約を激しく詰問した、結果 三成の三男佐吉をはじめとする生き残った者らの助命だけは何とか了承を取り付けた。
一方 関ヶ原本戦直前まで西軍の前線司令部であった大垣城には福原長堯を始め垣見一直・熊谷直盛・木村由信・豊統父子など西軍諸将が守備の任に就いていた。
これに対し東軍は松平康長・堀尾忠氏・中村一忠・水野勝成・津軽為信らが包囲を布き対陣していた、そして関ヶ原本戦が西軍の敗北に終わったと知らされるや大垣城内で守備する兵等に動揺が広まった、このとき逸早く行動に出たのは三の丸を守備していた肥後人吉城主・相良頼房である。
彼は石田三成の檄に従い西軍に加わって伏見城の戦いなどで先登の功をあげた、そして福原長堯の指揮下に入ると同じ九州の大名である秋月種長・高橋元種と共に大垣城三の丸を守備していた。
西軍敗北の報を聞くや頼房は重臣である犬童頼兄の助言もあり、妹婿の種長及びその弟である元種と相談の上かねてより音信を取っていた井伊直政を通じ家康への内応を密かに連絡した。
連絡を受けた直政は家康に報告、家康は直ちに大垣城開城を頼房らに命じるが、長堯ら本丸・二の丸に陣取る大名の戦意は高く、このため頼房・種長・元種の三将は、九月十七日軍議と偽って籠城中の諸将を呼び出し、現れた垣見・熊谷・木村父子を暗殺し二の丸を制圧した。
これを知った福原長堯は本丸で頼房らを迎撃し奮闘したが、包囲軍に属していた西尾光教の説得によって九月二十三日、城を明け渡して伊勢朝熊山へ蟄居した。
また伊勢方面では、西軍の敗報に接し多くの将が退却している、九月十六日には伊勢亀山城が開城し城主であった岡本宗憲が自刃、嫡男・重義も近江水口に送られその地で自刃した。
桑名城も同日開城、当初東軍に加担するつもりが西軍の圧力で止む無く西軍へ加担した氏家行広・行継兄弟は、山岡道阿弥に城を明け渡した。
長島城を包囲していた原長頼は逃走したが捕縛された、また美濃駒野城に籠城していた池田秀氏や伊賀上野城を占拠していた新庄直頼・新庄直定は城を放棄して退却している。
鍋島勝茂は父・鍋島直茂の命で伊勢・美濃国境付近で傍観していたが、西軍敗走の報に接するや直ちに大坂へ退却した、また志摩鳥羽城を巡り嫡男・九鬼守隆と合戦していた九鬼嘉隆も西軍の敗報に聞くや伊勢答志島へ逃走しそこで自刃して果てた。
家康は西軍の首謀者で敗戦後逃亡し行方不明となっている三成や宇喜多秀家・島津義弘らの捕縛を厳命すると、家康本軍は毛利輝元が籠もる大坂城無血開城を敢行すべく九月十九日、彦根を発って中山道を大坂に向けて進軍を開始した。
途中、北陸方面の東軍総大将であった前田利長がこれに合流し、中山道軍総大将であった徳川秀忠も真田昌幸に上田城で翻弄され本戦には間に合わなかったが近江八幡でようやく家康本軍に追いつき合流した。
こうして七万の軍容に膨れあがった家康軍は酉刻暮六ツ(17:00)中山道・大津八幡の武佐宿に入ると兵を休めた、このとき瀬田・大津方面に出張っていた斥候より瀬田川に掛かる唐橋は黒田軍数千が占拠しており通行かなわずとの報告が寄せられた。
家康はこの報に接するや己の耳を疑った、一体何のために…が本音であったろう、つい先日まで関ヶ原で東軍のために働いた黒田長政が何故我に歯向かおうというのか、先般家康の養女・栄姫を娶り我の側近として可愛がってきた長政であり、またその父・如水とは豊臣時代から懇意にしている間柄…どう考えても歯向かうなどは青天の霹靂であろうか。
ゆえに家康は、長政は歯向かうのではなく西軍落ち武者を追ってこの地まで出張り、家康本軍の先駆露払役としてその前衛に身を置いたと合点した「何と頼もしい奴よ」と家康は喜んだが、本多忠勝や井伊直政ら側近は長政の奇異なる行動を怪しんだ。
翌九月二十日朝、家康軍七万は武佐宿を発つと一路次の宿泊地である大津城を目指した、慶長五年九月二十日は新暦に直せば10月の終わりである、この日は朝方から琵琶湖に掛かる雲は低く垂れ込め、辺りは夕方の如く暗かった、そして家康軍が中山道の野洲川を渡りきった頃より氷雨が一頻り降り、雨が小雨になったとき気温は一気に下がった。
兵等はこの奇妙なる天候を訝しみ、銃や火縄が濡れるのを防ぐため荷駄隊に銃を預け菰を掛けた、そして砲も同様に茣蓙を掛け縄で括り、寒さに凍えながら先を急いだ。
家康軍が守山宿に差し掛かった頃、雨雲は俄に薄れ太陽も顔を出し気温は上がり始めた、だが兵等は大坂に着くまでこの家康軍を襲う者などいるはずも無いと読み、仕舞った銃砲を再び取り出す者はいなかった。
そのころ家康軍7万の軍列は佐竹宿以西に続く中山道の道幅が一気に広がり見せたことから五列縦隊の行軍となった、それでも七万ともなれば荷駄・大筒隊を含めその軍列は四里の長蛇に伸び先頭が守山宿を過ぎたとき殿は未だ佐竹宿を出て一里ほど進んだところという有様であった。
一方、瀬田に陣を布く黒田軍八千は三日間の休養と潤沢なる兵粮により戦の疲れは消え志氣は盛んであった、しかし敵の徳川軍の軍勢が四万弱と読んでいただけに七万の大軍と聞き 及び腰になっていたのも事実であった。
安田誠二郎中将の弁に依れば中山道軍総大将である徳川秀忠は家康本軍に半日遅れて瀬田の唐橋を渡るはずと聞いていただけに、その一日前に近江八幡で合流したと聞き長政や三左衛門らは思い悩んでいた。
敵は黒田軍に対し九倍近い軍勢である、それも戦勝に沸き立ち戦意は上がり、持てる火縄銃も数万丁を数え、大筒も百門近くを牽引しているという、普通であれば端っから戦にもならず攻撃三倍則や戦略・戦術などあったものではない…ただ唯一の勝算は黒田軍が携える武器が二十世紀の新鋭兵器と言うことだけである。
また敵は黒田軍が敵と気付いてもたかが数千、当然踏み散らかして瀬田川を越える挙に出よう、つまり活路は敵の油断につけ込み新鋭兵器で待ち伏せ攪乱し殲滅する、これしか無いと長政は結論した。
しかし三左衛門に付き従った吉田長利少将と吉田重成大佐は一旦豊前中津に引き、九州平定後に参内するであろう兵数万を率い大坂辺りで対決しても遅くは無いと進言に及んだ。
これを聞いた長政は言下に却下し、この場にて八千の兵で徳川軍を迎え撃つと断言した、これにより九月二十日辰刻五ツ半(8:30)石山寺本陣に諸将が招集され将十八名で軍議が重ねられた。
軍議が既決したのは午刻九ツ半(12:30)、そのころ家康軍の先頭は草津宿の一里手前まで迫っていた、諸将は急ぎ兵の所まで走ると作戦通りに兵や武器の展開を始めた。
黒田軍の配置は未刻昼八ツ(13:30)に配置を終えた、その配置は瀬田の唐橋を草津側に渡った中山道に兵一千を配し12mm重機関銃二十門を配備した、また迫撃砲・RPGをそれぞれ十門ずつと兵等には短機関銃で装備させた。
その北側、瀬田川から草津までの二里半続く山麓や林に一間毎に兵を置き自動小銃や短機関銃を携行させその数六千の兵をもって中山道の山側を封鎖したのだ、そして最後陣の草津には12mm重機関銃を二十門・迫撃砲十門・RPG十門を配し、残る砲や重機関銃は二里半に及ぶ山麓や林に潜んだ兵らにそれぞれ配った。
申刻七ツ半(16:30)、家康軍先頭が瀬田川手前二町まで進んだとき、前方に無数の黒田軍の旗が翻り、兵およそ一千が唐橋手前を封鎖しているのが見えた。
これを訝しんだ家康の旗本衆・大番組頭の大須賀弥兵衛が前に進み、唐橋の袂に布陣する黒田軍の三左衛門と対峙した。
大須賀弥兵衛が京の徳川家屋敷に滞在中、長政の御供で京屋敷に訪れていた三左衛門を二度ほど見掛けたことがあり、三左衛門の顔は見知っていた。
「貴殿…関ヶ原に来ておったのか、しかしどうしたことかこの有様は、我が殿の露払いで黒田殿が先行しているとは聞いたが…その露払い役がなぜ徳川の行軍を止めるのか」
「我ら黒田家が徳川の露払いなんぞいつ引き受けたかよ!、儂らはここで徳川軍を殲滅するため家康殿が来るのを首を長ごうして待っておったのさ、通りたくば力ずくで押し通ってみよ!」と三左衛門は声高に叫んだ。
「おぬしら気でも違ったのか、たったこれしきの軍勢で我が七万の兵を押し止めるとな、そんな馬鹿話しには付き合ってはおれぬわ、長政殿をこれへ呼べ、下っ端役人など下がりおろう!」と弥兵衛もこれに応酬した。
この言葉を聞いた刹那、三左衛門は腰の備前長船を抜きざまに弥兵衛の首を真横に薙ぎ払った、この三左衛門の一撃は六尺を超える体躯且つ丸太のような利き腕で振り出された威力は凄まじく、肩近くに掛かった兜の錣ごと首の七割近くを切断し血潮を一間近くも噴き上がらせた。
弥兵衛に付き従った供の武者四人は噴き上がる血と三左衛門の血に濡れた鬼の形相を見るや震え上がり、一目散に後方に逃げ出した。
すぐにもその骸は瀬田川に投げ捨てられると三左衛門は相手の出方を静観し、後方に控える重機関銃隊に射撃の用意を調えるよう命じた。
やがて逃げ帰った兵等は先頭集団に留まり、慌てて悲鳴のような言葉を吐く者、また先頭を通り過ぎ後方へ走る者など、その混乱状況は手に取るように見えていた。
家康は先頭から半里後方を行軍しており旗本衆に囲まれ馬上の人となっていた、だがこの時まだ行軍の先頭で何が起こったのかは知らず、後方に続く本多忠勝と大阪城奪還後の毛利輝元の処遇を談笑しながら西に向かっていた。
このとき四町左手の林から、密かに狙撃兵十名がバレットM82ライフルで馬上の徳川家康と本多忠勝を的にその照準は絞られていたのだ。
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