さて、「人と機械」について取材してきたこの連載も最終章がやってきました。
この連載の出発点は「人間が機械化し、機械が人間化しているのではないか?」というそんな素朴な疑問でした。
生物と機械のちがいとは?
人と機械のちがいはそもそもなんだろう?
機械と生命が近づいていくと世界はどのように変わるのだろう?
最初に取材したSR技術では機械に騙される人間の知覚の単純さに驚き、二回目の3Dプリンタでは、「機械の生物化」というまさにテーマの通りの話を聞くことができました。
さらに三回目のアンドロイドの取材では、「そもそも人間には心などない」という石黒先生の思想に触れ、四回目の人工知能ではディープラーニングの学習のようすを見学し、人工知能の最前線を覗きました。人工知能の予測性能が人を上回るのはそう遠くないことでしょう。
それらをふまえ、人を数値化して理解する五回目のヒューマンビッグデータを見たとき、心さえも、ひとつの統計として処理できるのではないかと感じられました。
六回目のBMIの取材でお会いした西村さんは、脳をいじるよりも神経をつなぐというアプローチでしたが、その行為もやはりぼくにはなんだか機械的なものに思えました。
これらの取材を続けるうちに、ぼくは人と機械の明確な違いがわからなくなってきました。
確かに今、機械にできなくて人間にできることは多くあります。ですがその逆もまた然り。
放っておいたらむしろ、機械のほうが人間よりも優れた存在になるのではないか? そんな気さえします。
けれど、ひとつだけ、まちがいないことがあります。
テクノロジーは人の幸せのために作られるということです。
人を幸せにしない。存在理由がわからないテクノロジーというのはこれまでの取材のなかには存在しませんでした。
そこで、最後の取材先としてぼくが選んだのは「幸福学」です。
幸福学は、慶應義塾大学の前野隆司教授が研究されているれっきとした学問です。海外ではマーティン・セリグマンのポジティヴサイコロジーやチクセント・ミハイのフロー理論などがありますが、そうしたものの流れを汲む理論です。
なぜ幸福学なのか
久しぶりに訪れた日吉駅前。慶應義塾大学には、10年前に来たときとにはなかった、大きな新館が整備されていました。
この新館の一室に前野先生の研究室があります。
実はぼくと前野先生は初対面ではありません。10年前、前野さんの著書『脳はなぜ心を作ったのか』を読んで、その一風変わった内容に興味を持って取材させていただいたのです。著書のなかで「意識」を幻想だと言い放つスタンスは非常に仏教的/哲学的であり、人の心に対するドライな視点が非常にロボット研究者っぽいと思った記憶があります。
前野さんがなぜロボットから幸福の研究にうつっていったのか。その理由は、きわめて明確です。
「ロボットは人を幸せにするための研究である。しかし、そもそも人を幸せにしてしまえばロボットはいらないのではないか?」
—— どうもご無沙汰しております。今ぼくは機械と人間の境界を探るルポをやっているんですが、その締めくくりとして前野さんにお話を聞きたいなと。これまで取材してきた技術というのは、すべて「人間の幸せ」というところに集約されている気がするんです。前野さんは、ロボット技術を突きつめて幸せの研究に至ったわけですよね。
前野 そうですね。
── まずはなぜロボットから幸せの研究に移っていったのか、それを教えてもらえますか。
前野 僕はロボット研究のさらに前、カメラのモーターとかを作っていたんです。物をつくれば人々が豊かになると思っていた。でも、物質的に豊かになっても、人間ってそれで精神的に豊かになるわけじゃないんですよね。それは統計データを見てもわかる。
昔と比べると一人あたりのGDPはどんどん伸びているのに、人生満足度はずーっと横ばいなんですよ。ってことは、このまま物をつくってても無駄じゃないかと思ったんです。物をつくるのはいいけど、それが無駄にならないようにしたいですよね。そのためには設計変数に「人間の幸せ」っていうのを入れなきゃいけない。これを作ると幸せになるはずと思いながらみんなやっているのに誰も幸せにならないとしたら、人類みんな馬鹿じゃないですか。
—— 確かに(笑)。……2015年になっても書店に自己啓発本や幸福本が溢れているのはおかしいって話ですよね。これまでに出ていた本で啓発されてたり幸福になってたら、もう必要ないわけですから。
前野 そうです。一時的な満足を繰り返しているだけで、いつまで経っても幸せにならない。やっぱり理系として、エンジニアリングとしての幸福学をやらなきゃいけないと思ったんですよね。幸福の工学。エンジニアリング・オブ・ハピネス。エンジニアリングの手法をつかって、幸福を研究する学問をつくるべきだと思ったということが、幸福学を始めた理由の一つですね。
── 前野さんは以前、石黒浩さんとアンドロイドを作られてましたよね? 幸福学にたどりつく前に。
前野 そうですね。笑顔をつくるロボットなんかを作ってました。でも、それはやはりロボットなので、幸せなふりをしているだけなんです。それよりも人の幸せをつくった方がいいんじゃないかと思うようになりました。
—— 心の研究や幸せの研究というと、海外だとポジティヴサイコロジーなんかがありますよね。心のポジティブさが心身に与える影響を研究する心理学の分野です。前野さんの幸福学は、ああいったものに近いんですか?
前野 そうですね、ポジティブサイコロジーには近いですね。そして日本にも似たような研究はいろいろあるんです。ただ、僕の特徴は、「幸せ」自体に着目したってことですね。「自分の専門は幸せです」って宣言している人は日本には今までいなかった。日本の幸せ研究はまだ進んでいないから「やるか」と思ったのがスタートです。
—— マインドフルネスが流行している今の時代に合ってますね。90年代に鶴見済さんが『完全自殺マニュアル』のあとに、『完全人格改造マニュアル』っていうのを出したんですよ。自分の性格は簡単に変えられる。薬物や洗脳、いろいろな方法があると。だけど、そこで書かれていることってちょっとハードルが高そうだったんですよね。
でも今はすごいカジュアルになってる。Googleの社内でマインドフルネス瞑想を取り入れたりしている、とか聞くとなんかオシャレに思えたり(笑)。
前野 そうですね。流れに乗るつもりはなかったんだけど、僕が出した『幸せのメカニズム』も完全にその文脈と一致してますよね。21世紀というのは、世界中の人が、幸せについて考え、幸せを目指すべきと気付いた時代なんじゃないですかね。取材された日立の矢野和男さんがここに至った理由も近いと思います。
ロボットも人間も同じなのか?
—— 前野さんがロボットの研究から幸せの研究に行かれたとき、そこに人間の機械化の視点があったのかなと思って今回取材に来たんです。幸福学というのは、人間をメカニカルにシステマティックに幸せにする発想じゃないですか。
前野 まあそうですね。言われてみると確かに人間を機械として見るような視点が入ってます。僕の原点は受動意識仮説にあるんですよ。心は幻想であると思っている。心なんて、徹底的にない。
ここで「受動意識仮説」についてちょっと説明しておこうと思います。
まず、ここで言う「意識」とはみなさんが言う「私」に近いもので、デカルトの言った「我思うゆえに我あり」のときの「我」という意識のことです。この意識はいったいどこにあるのか? ないのか? 古今東西の学者がこれについてはさまざまな見解を示していますが、いまだに意識そのものを観測することはできません。
しかし、「意識は受動的に出力される結果である」というモデルならば意識の謎を上手く説明できる、というのが受動意識仮説、前野さんの主張です。
受動的に出力される……とはどういうことか?
例えば生物は外界の刺激に反応して動きます。それと同じように、意識というのは環境や単純な刺激によって、場当たり的に「出力」されているものだということです。動物や昆虫は環境の変化に応じて、意識する前に動いている。人間も実は同じで、ただ、そのあとで意識が出力されるのだ、というのです。
行動のあとに意識が生まれる。
少し考えるとわかるのですが、これは妙な主張です。
なぜなら普段、わたしたちはまず「意識」の上で考えてから、その意識をもとに行動決定をしているはずだからです。「受動意識仮説」に従うなら、行動のあとに意識が発生していることになります。
ところが、実験ではそれが証明されているのです。これはベンジャミン・リベットの実験として今では広く知られており、これによってどうやら意識は行動の0.5秒あとに発生しているようなのです。
この実験から「意識は存在しない」とする主張は、なにも前野さんが初めてというわけではありません。人が意識と思っているものは幻想にすぎず、自由意志も存在していない——これは1991年にデンマークで出版されたトール・ノーレットランダーシュの『Moerk Verden』(邦題『ユーザーイリュージョン』)という本によってかなり広く知られていました。
ですが前野さんはさらにその先を行き、意識の機能は工学的に作れると主張します。
熱い、痛い、というのは、こういう刺激情報がきたら痛いと感じる、と脳にあらかじめプログラムとして書かれている(これは前回、西村幸男さんが脊髄にあらかじめプログラミングされた「走る」という動きを刺激で再現したことをぼくに思い出させました)ならば、それを拾い上げてひとつのモジュールにすればいい。そしてそれをその場に応じた適切な表現でアウトプットすればいい。人間の意識も計算で、幻想。実体はない、だから現象として意識がなくても機能が実現すれば十分に意識であるというわけです。
行動だけ見ると人間だけれど、実は心がない存在を仮定する「哲学的ゾンビ」という思考実験がありますが、前野さんのロボットはこの「哲学的ゾンビ」に近いかも知れません。しかし、そもそも「哲学的ゾンビ」が実在した場合でも本当に心がないのか確かめることは不可能なので、どこまで行っても意識は幻想なのです。
また別の可能性として、心には発達段階というものがあるので、もし心があっても小さすぎてないように見える、という場合も考えられると思います。
実際ぼくは中学生のころ自分には「心」がないと思っていたのです。石黒先生も似たようなことを言っていました。機能としての「心」や「意識」が希薄な人間というのは存在するのです。そうした「心」や「意識」の薄い人間ならば、かなり動物的であるわけで、それを作り出すのはそれほど難しいとは思えません。
—— 受動意識仮説はぼくも正しいと思っているんですが、世間一般の実感と猛烈に反しているのでなかなか受け入れられませんね。
前野 もともと人間って機械なんだから、それを自覚したときにどう生きるべきなのか、というのが受動意識仮説の根底にある問いです。その問いを自覚したうえで、どうせ機械なんだったら、不幸せより幸せのほうがいいじゃんって私は思ったんです。そこで幸せの学に移ってきた。
—— 一般的には「人間」を機械的に理解するという発想は、すごく聞こえが悪いと思うんです。全体主義的に支配して、ロボットのように人間を管理するってイメージが強い。だけど、僕がこれまでいろいろと取材している中で、もうそういう考え方は前時代的なんじゃないかと感じられる瞬間がありました。
人間と機械の差のひとつに「ブラックボックス」がどのくらいあるか、ということが言えると思うんです。人間の神秘性みたいなものですね。「わからないからすごい!」みたいな。だけど、科学が発展して、人間のブラックボックス的な領域は減っている。決してそれは悪いことじゃなくて、わかったからこそ拡張できる機能もある。
前野 そうですね。幸福学もそういうものです。基本的に、人間が感じる幸せの構造というものにはパターンがある。だからそれを自覚して、自分をうまくコントロールしていく生き方のほうが、楽に生きられるよと。それを昔の人は宗教から学んだんだけど、いまは脳科学から学べるようになったんだと思うんですよ。
次回「ロボットを人間だと錯覚できる未来」は2/9公開予定