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Parablog - 俺が叫びたがってるんだ。

もしも今、心が叫び出したなら。新しい人生を紡ぎ出すための、たった3億個の大切なことを贈りたい。

誰かに優しくすることは、本質的には自分への優しさだということ。

考えを伝えたい 生き方の話

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こんにちは、パラベル(@parabell_life)です。

人が誰かに優しさを向けたとき、その本質は自分への優しさだ。

優しさは、巡り巡って返ってくるまでを待つこともなく、すぐさま自分へと返る。

最終修正:2016年02月02日 - 01:20(表現修正と加筆)

優しさは、いつか返ってくる。

誰かに優しくすると、それは返ってくるという。それは優しくした直接の相手からかもしれないし、巡り巡った後で、別の誰かにもたらされるかもしれない、可能性の話だ。

優しくすれば、その相手から同じように優しさが返ってくるかというと、そんな都合のいい話もなければ、誰の保証もない。優しくすれば、しないよりはいい関係に向かう可能性が高まるとはいえ、時には拒絶されたり、偽善者だと罵られることだってある。

ただ、「いつか」ではあるにしても、返ってこないとは言い切れない。問題は、必要としているその時に返ってくるとは限らないことだ。いつでも優しさを振り撒きながら生きているとしたら、持続的に返ってくる可能性はあるかもしれない。それすら仮定の話だ。

優しさは返ってくるといっても、どうにも可能性や仮定の話ばかりで、希望的観測でしかないように思えてしまう。攻撃すれば、その反応は反撃か、逃げられるか、あるいは怯えさせるかで、稀に喜ぶ人がいても、基本的には想定通りの反応で、すぐに返る。

攻撃の対極にある優しさは、悲しいかな、いつ返ってくるのかも、返ってくるかどうかさえもわからない。人の心が持つ、複雑でありながら単純という特性が、そうさせる。

それは痛みにもなる。

誰かに優しくしたとき、されたとき、その優しさがつらいと、そんなことを言われることや思うことがある。まだ経験がない人でも、生きていくうちに、きっとあるはずだ。

傷ついた野生動物のように、優しさを拒絶する人もいる。攻撃は攻撃でしかないのに、優しさは優しさでありながら、時には攻撃にもなってしまうことが確かにある。

心のささくれは、不用意に触れただけでも刺激してしまう。傷を抱えているなら、優しさは容赦なくそこに沁み込んで、より強く、深い痛みを生んでしまうことだってある。

どう触れるか、どこから触れるか…優しさで人を癒すのは、意外と難しい。

例えば、動物たちが何かを察したかのように寄り添ってくれて、心をほどいてくれることがある。そこには言葉があるはずもなく、ただ触れている温かさがあるだけだ。堰を切ったように感情と涙があふれて、何かを乗り越えたような、そんな時間を与えてくれる。

そうして、優しさは痛みを与えるものでもあることを学び、成長していく。

優しさの本質は、きっと、ただ寄り添ってくれることにこそあるんだろうと思う。そこに言葉が介在することで、おかしな方向に転がって、望まない結果になることもある。

それは形のない何かで…。

人の優しさがすべてを癒したり、包み込むとは限らない。拒絶されることもあるし、逆効果に終わってしまうことだって少なくない。時には、縁が切れてしまうこともある。

そもそも、優しさとは何だろう?愛や情のようなものか、それとも純粋な善意か、言語化できない、もっと別の何かかもしれないし、俺にもはっきりとはわからない。

わかることといえば、形のないそれはいつの時代も人の心を大きく揺さぶって、傷つけたかと思えば癒しもする、とても不思議で偉大な、そして大切なものだということだ。

誰かに優しくすることも、誰かから優しくされることも、すんなりできる人もいれば、どうしても苦手な人もいる。ただ、生きていく限り、優しさがあった方がいい。

それは人生に窮した誰かを救う力になって、自分を救う可能性でもあって、かけがえのないものを手に入れて、それを守っていくための力としても、必ず必要になるからだ。

本当は、すぐに返ってくるものだ。

誰かに優しくするのが苦手なら、自分のためだと思ってそうすれば、やりやすい。

優しさは見返りを求めるものじゃない、そんな意見もあると思うし、それは正しい。何ら見返りを求めることもない優しさは、きっと、とても美しいものなんだろう。

それでも、俺は伝えたい。優しさには見返りを求めてもいいし、むしろ求めてほしい。なぜなら、見返りを求める対象は、優しさを向けたその相手じゃない。そして、誰かに優しくすることは、自分へのそれとして返ってくるからだ。それも、優しくしたと同時に。

誰かに優しくしたとき、その誰かへの助けになれたことを嬉しく思うなら、そこに何かしらの満足感があるなら、それが相手に向けた純粋な優しさとは違ってもいい。

優しさを受け入れてもらえると嬉しくなり、温かくなれる。誰かに向けたそれは、ごく自然に自分を癒してくれる。それには善も偽善もなく、ただ温かいものが残るだけだ。

そこに自分の存在理由を見出せるなら、これからの人生を生きる力になるなら、そのために誰かに優しさを向けようとしてもかまわない。その動機は、何だっていい。

自分が癒されるために、誰かに優しくする。偽善でも何でも、それでもいいんだ。

そう開き直ったら、優しくなることへの一歩を、踏み出しやすくなるから。

それは、必ずしも人が相手じゃなくてもいい。動物でもいいし、植物でもいい、命を持たない何かだっていい。優しさを向けたそのときの、心の動きこそ大切にしてほしい。

誰かに向けた優しさを拒絶されて、悲しい気持ちになることや、憤慨してしまうこともあるかもしれない。でもそれは、相手には優しさを受け入れる余裕すらなかったからだ。気に病むことはないし、そういうこともあると思えたら、じきに本物にもなれる。

誰だって、優しくしたいし、優しくされたくて、でも、どうにも上手くいかない。

それならまずは、自分のために優しくするところから、始めよう。

そこには、優しくなることの本質が隠れている。

それでは、また次の記事で!