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比で戦死、父の足跡探し続けた79歳娘

天皇、皇后両陛下が到着されるのを待つ本間尚代さん(中央)=フィリピン・ラグナ州カリラヤで2016年1月29日午前10時36分、丸山博撮影

 【カリラヤ(フィリピン)高島博之】天皇、皇后両陛下がフィリピンの日本人戦没者の碑に供花される時を、特別な思いで迎える人がいる。太平洋戦争で軍属だった父を亡くした本間尚代(たかよ)さん(79)=東京都世田谷区。戦地に赴く父からの、最後の言葉に答えられなかったことに悔いを抱き、父が戦死したフィリピンを幾度も訪ねてきた。「両陛下のご慰霊で、気持ちに区切りがつくかもしれない」。カリラヤの現地で、両陛下の供花を見守った。

    72年目の「ありがとう」

     尚代さんの父・吉田正さんは1944年5月、軍属としてフィリピンのルソン島に渡った。その2カ月前、都内で暮らしていた尚代さんは、家族から一人離れて千葉県にある正さんの実家に疎開することになった。

     尚代さんを実家に送った正さんは、尚代さんを残して東京に戻る時、こう話した。「おまえのことは、どこにいてもお父さんが守っているよ」。尚代さんは一言も返せなかった。「口を開くだけで涙があふれそうだった」。そのことをずっと悔やんできた。父と過ごした最後の時だった。

     47年、正さんの「戦死公報」が届いた。そこにはフィリピン・ルソン島の「バギオ東方山地」で戦死したと記録されていた。白木の箱には「吉田正」と書かれた小さな紙一枚が入っていた。

     父はどんな最期を迎えたのか。それを知るために、戦地での正さんを知る人を新聞の尋ね人欄で探した。フィリピンから帰還した元日本兵に手紙を出すこともした。77年、戦地で一緒だった元日本兵から、「吉田さんは2人の日本兵とともに、爆弾を抱えて米軍に突入し、戦死しました」と教えられた。戦死は45年7月20日だったという。ようやくこの足跡にたどり着いたとき、終戦から30年以上が過ぎていた。

     部下だった人からは、正さんが自作の俳句を書き込んだ便箋を譲り受けた。「新香はパパイヤという噛(か)みしめぬ」「マンゴーの花の香れる薄月夜」。句作のひとときが、戦場の正さんを癒やしたのかもしれない。尚代さんの手に戻った唯一の遺品だ。

     父の情報を求めて帰還者らと連絡を取り合うなかで、他の多くの遺族も、肉親の最期を知りたいと思っていることに気づいた。こうした遺族に帰還者を紹介したり、史料収集を手助けしたりする活動を始めた。現在、フィリピンで戦死した元日本兵の遺族らでつくる曙光(しょこう)会の事務局長を務めている。

     両陛下がフィリピンを訪れ、慰霊碑で供花されることを昨年秋に知った。「慰霊の旅を続けてこられた両陛下が、フィリピンを訪ねてくださるのがうれしい」と尚代さんは言う。

     両陛下の拝礼の時、父にこの言葉を送った。

     「お父さん、これまで見守ってくれてありがとう」

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