「絶対落ちたなと思った」 山中教授をiPS細胞に導いた人生最大の面接
ノーベル賞科学者の赤﨑勇氏と山中伸弥氏が、「若い世代へノーベル賞科学者からの提言〜科学技術で次の時代を切り開け〜」と題した対談に出演。国立研究開発法人 科学技術振興機構主催で2016年1月9日に開催された対談では、最先端の研究を切り開いてきた研究者の視点から、日本の科学技術のあり方や、世界を先導するオリジナリティの高い研究に、挑戦することの面白さを若い世代に向けて発信。このパートでは、それぞれの研究テーマに至った経緯や、研究課程でのエピソードなどが語られました。
- シリーズ
-
若い世代へノーベル賞科学者からの提言 ~科学技術で次の時代を切り開け~ 2016年1月9日のログ
- スピーカー
- 名城大学終身教授/名古屋大学特別教授・名誉教授 赤﨑勇 氏
京都大学iPS細胞研究所所長 山中伸弥 氏
科学ジャーナリスト 辻篤子 氏
松下幸之助の研究所でのプロジェクト
辻篤子氏(以下、辻):先生、研究のお話にだいぶ入ってきてしまったんですけれども。研究者としての歩みと、先ほどのお話にちょっと戻させていただくと。 最初、私、お二人に共通点があると申し上げたその1つは、お二人とも大学の研究室でまっすぐ過ごされたという方ではないんです。 赤﨑先生は企業におられたし、山中先生は臨床医の経験がおありだし、という経験がやはり研究にすごく大きな意味を持ったと思うんですが。それをちょっとひと言ずつ言っていただいて、次に研究のお話に進みたいと思います。 山中伸弥氏(以下、山中):今の松下の研究所に行かれたのは64年ですか。ちょうど私が生まれたのが62年ですので、随分大先輩だなというようなのが良くわかるんですが。でも、その頃って松下だとおそらくまだ松下幸之助さんが。 赤﨑勇氏(以下、赤﨑):ええ、幸之助さんがつくられた研究所です。じかに呼ばれたわけです。 山中:じゃあ、松下幸之助さんとお会いしたこととか、こういう研究も、支援というか、「やりなはれ」という感じだったんですか。 赤﨑:そうです。私は特別なプロジェクトをいただいてました。赤色、緑色とやってるうちに、ふっと気が付いたら次は青だと。青がないっていうことに気が付いたんです。 それで、そのとき青がないというからいろいろ調べたんですけど、やってる人はいたんです。ですけど、確かにもう、さっき言ったP型はできないっていう論文まであって、実際やってみてもなかなかできないもんですから、ほとんどやめちゃった。 私はそのときに、自分が何か将来やりたいと思ってるということは、これだと思ったんです。みんな「そんなものは、とてもじゃない」と言ってたんですけど。 山中:企業だと、リスクの高い研究はあまりお金が出てこないというか。 赤﨑:出てこないです。 山中:当時、松下は? 赤﨑:ここでもそうです。ほかの赤とか緑は、私は世界で一番良く光るのを作ってましたので、幸之助さんのプロジェクトに直接入っていて、そちらのほうで面倒見ていただいてたんですが、青に関してだけは導入されてなかったんです。 それでとうとうしびれを切らせて、会社に内緒で通産省のプロジェクトに自分で応募したんです。
当時他の人がやっていなかった手法に着目した
山中:今、辻さんからもありましたが、その企業の研究所におられたということが先生の研究スタイルなどに、すごい影響を与えたんですね。 赤﨑:もう1つ、一番大きかったのは、もう当時松下は大企業になってましたので全国部長会議っていうのがときどきありまして、基礎研究をやってる人から最先端の営業の人まで、この会場くらいの人数ですかね、ホテルに集まってふた月に1回ぐらい研修があったんです。 我々研究職は10人ぐらいしかいませんので、たまに当てられるぐらいでしたけど。 その営業の方と生産技術の人がやりとりしてるのを聞いてると、「コンシューマープロダクトというのはどんな使われ方をするかわからないので、とにかく安全で絶対に大丈夫だというものじゃないと駄目だ」と、よく言ってたんです。 その研究職の人がどういうことを感じたか、それは一切話したことはないんですけど、私自身はそれが非常に心に残ってまして。 実は青色をやるときに、もっとやりやすい、非常によく光る他の材料はいろいろあったんです。世界中の青色を目指す研究者は、もう98パーセントぐらい全部そちらに長いこと人的な資源を導入してたんです。 ですけど私は、作りやすいものは壊れやすい、と。窒化ガリウムというのは、後でちょっと出てくると思うんですが、非常にタフな材料で厄介でもあります。 でも先ほどの名大時代にゲルマニウム単結晶をやっていたときの経験から、なんとかして結晶を良くすれば、丈夫で安定した素子ができるだろうということで、セレン化亜鉛には一切見向きもしなかったです。これは当時の青色をやってる人たちとしは珍しかったんじゃないでしょうか。
まず手を動かすことが大切
山中:私は企業の研究所で、今共同研究はしておりますが、企業の研究所が主体で働いたっていうことはないんです。やはり最初、臨床医を短い間、特に外科医でしたので、そのときに叩き込まれたことは、考えてばかりいないで、ともかく手を動かしなさいということ。 赤﨑:そうですね。 山中:それはいまだに染みついてます。やっぱり僕も医学部で勉強をよくして、教科書を覚えるという作業で国家試験を通って医者になりましたから、どうしてもまず考えたくなるんですが。「そんなん考えてたら患者さん死んでしまうやろ」と。「血圧がどんどん下がってるんだから、何か行動しろ」というのを、ものすごく叩き込まれて。 残念ながら外科医としては全然駄目だったんですが、研究者になってから、それは本当に役に立ってます。論文を読むのも大切なんですけれども、まずやってみよう、試しに実験してみよう。それでヒントが出てくるから。 赤﨑:それは同じですね。私、実はその松下東京研究所で研究室長になったときに、たくさんの部下がいて、いろんな個性がありますから、じっくり考え込んでる人もいるんですけど。 「とにかく半導体屋は、まず手を動かして」ということをよく言ってました。「まず結晶を作ってみろ」と。もちろんできないかもしれないけど、とにかくやってみろということ。それは2回目に名大に帰ってきてからも同じでした。
型破りな研究をするためには、基本が大事
辻:今のお話を伺っていると、お二人の研究は、大学の研究室だけにいたら出てこないものですね。 赤﨑:私の場合は少なくともそうです。 山中:特に今、高校生の方たくさんおられますが、やはり高校のときってどうしても覚えて、それをそのまま答えると正解、100点、大学に行ける。僕たちもそういうトレーニングをしてきました。だから先生の言ってることは正しい。教科書に書いてあることは正しい。 でも研究を始めると、もちろんちゃんと勉強はしないと駄目なんですが。基本的に、「もしかしたら教科書に書いてあることが間違ってるんじゃないか」「そして、先生の言ってることも、もしかしたら間違ってるんじゃないか」という気持ちを持たないと、新しいことがわからないんです。 赤﨑:同じですね。 山中:だから、勉強は絶対しないと駄目なんですが、2、3年前に坂東玉三郎さんが京都賞を取られて、京都で授賞式に出たときにお話されたのを聞いたんです。 そうするとやっぱり、彼は「型破りなことをやりたい」とおっしゃっていって。僕たちもやっぱり、型破りな研究をしたいんですけれども。 でも、彼がそこで言われていて、僕も本当そうだと思ったのは、「型破りになるためには、まず型をしっかり学びなさい。型をしっかり学んだ上で、それを破る努力をしなさい」と。 おもしろかったのは、「型をしっかり身に付けなかったら、それは型破りじゃなくて、かたなしや」と。でも、本当にそう。 私たち研究者も、やっぱり教科書も読み、論文も読むんですが、そういう知識がないと無駄になるかもしれないですよね、ほかの人がすでにやってることを繰り返しても仕方ないですから。でもやっぱり、その上で疑ってかかるというか。 だから、今日赤﨑先生が言ってることは全部正しいと思いますが、僕が言ってることなんて半分ぐらい間違ってると思って。学生にはいつもそう言ってるんです。 赤﨑:今おっしゃってることを聞いてると、碁を少しやったことがあるんですが、碁もやっぱり同じような感じがします。 山中:そうですね。ちゃんと定石を学んで。 赤﨑:一通り勉強してからね。
途方もない研究を発想できた理由は何か
辻:わかりました。では、いよいよ本当に研究のお話に移っていきたいと思います。
事前に皆さまから、お二人の先生方へのご質問を伺ったんですけれども,
その中で、やはりどうやってこの研究テーマに巡り会われたのかという質問が大変多くありました。そこで、このテーマにどう巡り会われたのかということを伺っていきたいと思います。
赤﨑先生からも、ぜひ伺いたいとおっしゃっておられましたが。
赤﨑:山中先生に前からお伺いしようと思っていたことが1つございます。
私の仕事は窒化ガリウムで青色をやろうとして。品質は非常に良くなく、PN接合でもありませんけども、違うタイプのやつを作った人はいるんです。だから窒化ガリウムで青色をやること自体は、初めてのことではないんです。
山中先生の場合、今までの生命科学の常識では、一遍出来上がった臓器が初期化されるということはないと言われてたように、私は伺っているんです。
それをあえてご提案されたという、私の場合とはちょっと違った、途方もないと言うのはちょっと失礼な言い方なんですが、それを発想されたのはなぜでしょうか。
山中:ちょうど2000年ぐらい、私が37歳のときですけれども、初めて自分の研究室を持つことができたんです。それまでは誰かの下で働いていたんですが、37のときに奈良にある大学で、准教授でしたけれども独立することができて。
そのときに自分の研究室のテーマを決めようと、すごくいろいろ考えました。
半分やけくそで、他の人がやっていない方向を選んだ
山中:先ほど少し言ったように、それまでの10年ぐらいの研究の実験結果に導かれるように、意外な万能細胞であるES細胞、受精卵から作った万能細胞なんですが、それはもう使い出してたんです。 じゃあ、このES細胞の研究をしようと。ES細胞の研究といったら、ほとんどの人はES細胞からどうやって脳の細胞を作るか、心臓の細胞を作るかなんです。先ほど言われた正常の方向と言いますか。ES細胞は受精卵に近い細胞ですから。 そこからどうやって脳や心臓や皮膚の細胞を作って、それを医療に応用しようという研究を、皆さんもう世界中でされていて、すごくたくさんの方がしていました。 僕もES細胞の研究をしたいんだけど、そういう他の人と同じことを今更やってもかなうわけがない。もうはるかに先行されていますし、有名な先生もいっぱいおられますから、勝ち目がない。 じゃあ、どうするか。逆方向やろう、と。みんなはES細胞からいろんな体の細胞を作る研究をしているけれども、逆ができるんじゃないか、と。 体の細胞から直接ES細胞に逆戻ししてES細胞を作ったら、何がいいかと言いますと。ES細胞は受精卵を使う必要がありますので、ねずみの間はいいんですが、人間になった途端、倫理的な観点から反対する方が多いんです。 ヒトの受精卵、人間の受精卵は、赤ちゃんになる細胞ですから、それを実験室で使っていいのかということで。 何か受精卵を使わずに体の細胞の時計を逆戻しするようにして、受精卵に近い状態に戻して、ES細胞のような細胞ができたら本当にいいなと。 赤﨑:その発想がすごいですよね。 山中:他の人の反対をやろうと。理論的には、私と一緒にノーベル賞を受賞されたジョン・ガードン先生が1962年、ちょうど私が生まれた年なんですけれども、その年に「カエルを使ってできるんだ」と言ってるんです。 分化したカエルの細胞から、もう一度受精卵の状態に戻せるという証明を、50年前にされてたんです。だから理論的にはできる。 ただ、そのカエルの実験も成功率は非常に低いですし、人間では全く誰もできたこともないですから、極めて難しいということで、「山中先生、それは夢のある話だけれども、非常にリスクが高いよ」と。まわりからすごく言われて、研究費もなかなかもらえなかったんです。 半分やけくそです。同じことをやってもしかたないので、反対側やっちゃおうと。そのあとは先生に倣って、もう継続こそ力なりで、そうと決まってからはそればっかりずっとやってるんですけれども、そこに行き着くのにずいぶん時間がかかりました。 赤﨑:ああ、そうでしょうね。 山中:はい、かかりました。37歳でしたね。
山中教授が人生で一番緊張した面接
辻:お二人ともそこにある問題で、誰もやろうとしなかった、「こんなの不可能だ」と思っていたことに挑戦されたというのが、1つの似通った点かなと思います。 「多くの人が不可能だと思うとき、不安ではないですか?」「苦労したりはしませんでしたか?」「それを乗り越えるのに、どうしたんでしょうか?」という質問も、いっぱいありました。 赤﨑:「できないんじゃないか」とは考えませんでしたね。大体私は少し楽観的なほうで。こういう研究というのは、楽観的にやったほうがいいんじゃないでしょうかね。私はそう思うんです。「やったらできるんだ」と思って。 山中:私の場合も、自分でもこれは「言うは易し、するは難し」の典型だと。いつできるか、そんなのはわからないと思って。 先ほども言いましたが、なかなか研究費がもらえなかったんですが、唯一JST、今日の主催の(笑)、JSTがされているCRESTという、毎年1億円ぐらいのお金を5年間もらえるという結構大きな研究プロジェクトがありまして。 それも完全にダメ元で応募したんですけれども、僕の応募した分野の領域代表者が岸本忠三先生という阪大の総長された先生で、何か知らんけどちゃんと書類選考が通って面接に残ったんです。 面接に残るということは、2人に1人はもらえるということなんですが、あの面接が僕の一生の面接で、本当に一番緊張した面接でした。新幹線乗って東京まで行きましたけど、新幹線の中で泣きそうになりながら面接行ったのを未だに覚えています。 その面接で、岸本先生がドーンと座っておられて、僕、面接で何言ったか覚えてないんですけども、最後に岸本先生が「あんたの強みは何や?」っておっしゃるから、僕は「はい、柔道とラグビーやってましたから、体力に自信があります」と言ったら、「そんなこと聞いてない」と言われまして。 「最後に言い残すことないか?」とか言われるから、「これは絶対落ちたな」と思ったんですが、なんと通していただきまして、5年間継続して毎年数千万円をいただけて。あれのおかげでiPS細胞ができました。 ただ、毎年岸本先生の前で報告会があるんですよ。これが辛かったですね。最初の年、「まだできてません」。次の年にも「まだできてません」。3年目でも「まだできてません」。 このまま5年続くだろうなあと思ってたんですが、驚いたことに4年目にできまして。4年目に「できました」と言ったら「うそつくな」と。 (会場笑) 「いや、どうやら本当みたいです」と言ったんですが。今から考えたら、すごいプレッシャーもありましたが、研究者として本当に楽しい時期でした。
赤﨑教授と共同受賞した天野教授とは、どんな人か
辻:共通点のもう1つ、お二人とも先生方の下に若い研究者がいて、その人たちが実際にいろいろ実験するという、チームの協力関係が大きな成果に結びついたということがあると思うんです。
赤﨑先生は天野先生と共同受賞なさいましたが、天野先生というのはどういう方でしょうか。
赤﨑:私が2回目に名古屋で教授に呼んでいただいて帰ってきたときなんですが、卒業研究のテーマとして大きく3つ用意してきたんですね。
ですけど設備の関係もありまして、全員が希望するテーマに行けるとは限らないんです。それでちょっとあれがあるでしょうかね。次のあれをちょっと出していただけますでしょうか? 青く光ってるやつが。
赤﨑:これは私が松下時代につくったpn接合ではない、古いタイプのLEDなんですが、これをまず私、見せたんですね。これは窒化ガリウムという結晶でできてる。
ただ、まだこんなに暗いです。もちろんそれまでのものに比べると圧倒的に明るかったんですけど。しかも通産省のプロジェクトはちゃんとクリアしてるものだったんです。
この結晶を、もっととことん良くすると、できないと言われてるP型がきっとできると僕は思っていると。そして、P型ができると、pn接合というのができる。そうすると性能が圧倒的に良くなるはずだ。きっとこれはできるんだ。誰かやる人いないか。そういう説明をしたんですね。
そうして翌週の月曜日からテーマを書いた紙を貼り出して、その下に希望者が名前を書くんですけども、その前の週の週末に天野君が飛び込んできたんですね。
あれ、完全にフライングですね。悪く言うと抜け駆けですか。でも、彼はこれにほれ込んだみたいですね。それで、「あ、これは僕と同じだ。のめり込んでる」と思ったんですね。
それで、ちょっと良かったかどうかわかりませんが、彼は優先的にこのテーマのところに入ってもらった。それが最初のきっかけですね。
もう本人も言ってますが、彼は目立ちたがり屋なので、「先生と一緒にこれをやって、パッとしたものをつくりたい」ということで。
「やり方はこうやるんだ」「こういう方法でやったほうがいいんじゃないか」とか、そういうことは言いましたけども、あんまり細かいことは言いませんでした。
※続きは近日公開