らうんじ みえ
弟失い大軍で攻める
◇◆信長と長島一向一揆(上)◇◆
(津総局・永井啓吾)織田信長の戦記で影の薄い伊勢(県北中部)だが、長島一向一揆だけは話が別だ。信長は、本拠地・岐阜を脅かす伊勢長島の制圧に足掛け5年を費やし、弟をはじめとする一族や重臣を多く失った。3度にわたって出兵した信長の足跡をたどって歩いた。
近鉄長島駅の南東1キロ、桑名市長島町又木の田園風景の中に、願証(がんしょう)寺が建つ。信長の時代には、駅の北西3キロ余の付近にあり一揆勢の拠点だったが、いまは長良川の底に沈んでいる。当時の長島は川が複雑に入り組み、多くの中州が点在していた。
長島一向一揆は、信長が上洛(じょうらく)を果たした2年後の元亀元(1570)年に始まった。信長は、比叡山に布陣する朝倉義景、浅井長政の両大名の軍勢と「志賀の陣」でにらみ合っていた。石山本願寺、三好三人衆とも敵対し、身動きできない状態だった。本願寺宗主の顕如(けんにょ)は諸国の門徒に信長打倒の決起を促した。
願証寺は檄(げき)に応えて挙兵し、寺主の証意(しょうい)(1537〜71)のもとに北伊勢の門徒が結集した。一揆勢は、本願寺から派遣された坊官・下間(しもつま)頼旦(らいたん)に率いられ、信長の弟・信興(のぶおき)が守る小木江(こきえ)城(愛知県愛西市)を攻め落とし、信興を自害させた。
翌元亀2年5月12日、信長は報復のため5万の大軍を率いて長島を攻める。信長は愛知県津島市に本陣を置き、宿老・佐久間信盛が愛西市から、「鬼柴田」と呼ばれた猛将・柴田勝家が岐阜県海津市から、それぞれ長島へ攻め込んだ。
一揆勢は願証寺と長島城を中心に、中州ごとに城や砦(とりで)を十数カ所に築いて守りを固めていた。「信長公記」に戦果はまったく記されておらず、信長軍の苦戦がうかがえる。5月16日に信長軍は撤兵した。一揆勢の追撃で勝家は負傷し、美濃三人衆の氏家卜全(ぼくぜん)が討ち死にした。
苦杯から2年後の天正元(1573)年、信長は15代将軍・足利義昭を追放して室町幕府を滅亡させ、朝倉、浅井の両大名を攻め滅ぼした。9月に岐阜へ戻ってすぐ、2度目の長島攻めに取りかかる。5万とも6万ともいわれる大軍を率いて、岐阜県大垣市を経由して9月25日に海津市に陣を構えた。
大垣と桑名を結ぶ養老鉄道の下野代(しものしろ)駅から南1キロ、桑名市上深谷の森大明神社や背後の山の辺りが堺城だった。1駅南の下深谷駅の北西300メートル余の山には、北廻(きたはざま)城があった。両城の距離は1・2キロほどだ。
勝家と、北伊勢を任されていた滝川一益(かずます)の織田四天王2将は、一揆勢に味方した豪族・片岡氏の堺城を包囲して降伏させ、10月6日に退城させた。2将はすぐに近藤氏の北廻城を攻め、金山を採掘する金掘(かなほり)衆を動員してトンネルを掘って開城させた。
一方、信盛と羽柴秀吉、丹羽長秀、蜂屋(はちや)頼隆(後に敦賀5万石の大名)の4将は、一揆勢の立てこもる西別所城を落とした。西別所城は、三岐鉄道北勢線・西別所駅の西500メートル、希望ケ丘第1南公園の辺りにあった。一帯は宅地造成されて遺構は残っていない。
信長はさらに桑名周辺へ攻め進むが、またしても一揆勢の強さを思い知らされることになる。
◆次回は3月8日付の予定です。
ここから広告です
津総局への情報提供・ご意見・お問い合わせなどお寄せ下さい。メールはこちらから
ここから広告です
広告終わり
ここから広告です
広告終わり
ここから広告です
広告終わり
別ウインドウで開きます