釣りかもだけどマジレスしちゃいますね。
こういうのは言いたいことを言うための形式ですから。
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私なら、自分で作った唐揚げを子どもが何度もつまみ食いしてくれただけで「作戦成功」と判断し、トータルとしては満足しちゃうと思います。
ふだんは出来あいで済ませがちな唐揚げを、子どもの依頼を受けて親が一生懸命につくるんです。私なら、これは通常の食事ではなく「イベント」と捉え、唐揚げを揚げている最中に近づくな、火傷するぞ、邪魔したら火事になるぞ等と言いながら作って、それで揚げたてチンチンの唐揚げを次々につまみ食いしてくれたら大成功だと思うんです。
子育て真っ最中の親にとって面倒きわまりない自宅での揚げ物を、揚がるそばから子どもがつまみ食いするってことは、あなたの唐揚げを子どもが食べたがっていて、少なくとも当初はおいしかったのでしょう。素晴らしいことではないでしょうか。出来あいの惣菜にはトータルとしては勝てないとしても、チンチンの唐揚げを、父や母が目の前で揚げてくれて、それを横からつまみ食いするってのは、イオンやセブンイレブンには売っていない「体験」です。あなたは苦労し落胆したかもしれませんが、お子さんは、親からでなければ提供してもらえない体験を、あるいは親子関係の一旦として「親がつくってくれた唐揚げをつまみ食いする」という体験を、獲得なさったのです。
少なくとも私は、子どもに料理を振る舞う時――とりわけ普段はつくらない面倒な料理を振る舞う時――にはこのように考えます。味の優劣は、日常的につくらない料理ほど市販品には勝てません。だからこそ、親子関係のなかで体験を提供することがミッションの目的で、その体験のなかで子どもの目が一瞬でも輝けば、それか台所を盛んにウロチョロしてくれれば、それで戦略的勝利ではないでしょうか。いい経験をお子さんに提供できたと思いますよ、私だったら。
確かに、つまみ食いしているうちにソッポを向くのは落胆するところですし、躾の問題として好ましくないかもしれません。せっかく作ってくれた人にそういう口を利くのも良くないし、つまみ食いの量についてもヤンヤン言い争う余地もあったかもしれません。でも、それは部分的失敗で、これからのコミュニケーションでなんとでも補正できるところだとも思います。毎日の食卓でつまみ食いが横行し、いつも食事の前に腹いっぱいになってしまうような子に育てるべきではありません。
でも、これは子どもからみたら「親が子どもの願いに沿って、普段つくらない唐揚げを揚げるイベント」、つまり非日常なのですから、こんな時ぐらいは躾の問題にさほど拘る必要はないのではないかと、私なら思います。子どもからしてみれば、これはキャンプ地でシャバシャバのカレーライスと焦げかけのご飯を頬張るのに迫る出来事ですよ。こう考える私は、“甘い”のでしょうか?
親が落胆する/しないにかかわらず、子どもは経験を積み、親子関係のなかであったイベントを記憶していきます。「親が唐揚げをつくってくれた」という一事は、どこかで子どもを形成する一要素になっていきます。本件をうけて「もう私は唐揚げを作らない」と宣言する文脈も含めて、この親子関係のなかのイベント自体は、徒労と呼ぶにはあたらない、有意味な出来事だったと私は思います。ご自身で唐揚げをつくる点では心が折れても致し方ありませんが、イベントそのものについては、どうかご自身を労ってやってください。きっと作戦成功です。お子さんは、イオンやセブンイレブンには売ってないものをゲットされたんですよ。
以上、汁物・煮付け・パスタ担当で揚げ物の苦手な私の感想でした。
【追記】:そもそも子どもは思い通りには振る舞ってくれない存在だし、ある程度はそうであるべきだから、思い通りに振る舞ってくれるか否かで成功/失敗を判断すると、心が何本あっても折れると思います。そうでないところで成功/失敗を判断したほうが「ラク」で「楽しい」んじゃないかなと。